第14話 ヴェンデッタという女の蜜と毒
ハダシュは曲がらない手首を根気よくひねって、包帯をゆるめにかかった。
にかわで固められたかのように執拗に縛られ固定されている。
ようやく動かせるようになると今度は足。脇の机にあったはさみを取り、包帯を乱雑に切り開いていく。逃げる途中に負った深い傷は、まったく塞がっていなかった。
空気にさらされぬよう、傷をぴたりと覆った油紙が透けて、柘榴のような赤黒い血を滲ませている。最悪の眺めだ。
だが、この油紙を患部に当てて保護する治療法は、変な軟膏を塗りたくってその上からべたりと豚の皮か何かを張るレイスのやり方とよく似ている。
ハダシュは残った包帯を再びきつく巻き直した。見た目はろくでもないが治療方法としてはおそらく適切なのだろう。
あるいは無理にでもそう思い込むために、安静にしていろと言ったラトゥースの忠告に逆らい、ベッドから足を下ろしてみる。
重いばかりで動かない棒をぶらさげているようだった。
膝から下を持ち上げることができない。動かない。
腹立たしさの余り、わざと体重をかけてみる。膝から下に力が全く入らなかった。
底の抜けた身体が前へつんのめる。
とっさに脇のテーブルをつかみ、身体を支える。
がたついたテーブルからはさみが滑り落ちた。鋭い鉄の音。
ハダシュは苦悶のうめきを洩らした。
歯を食いしばり、ベッドへと這い戻る。
心のどこかが闇の助けを請うてじくじくと疼いた。後悔がのしかかってくる。あまりにも無様だった。
どれほどの時間を要したのか。
ふと気付くと、いつの間にか周囲は淡い藍色に変わっていた。
開け放した窓の向こうから、雑然とした街の気配が聞こえてくる。
物売りの間延びした声。通り過ぎる荷車。笑いながら群れて駆け去る子供の声。悪戯に気付いて怒鳴り散らす女。港に鳴り渡る銅鑼の音。
いつもと同じ、それでいて今まで一度もまともに聞き入ったことのない、ごく普通の、当たり前の喧噪。それらが、じわりと耳に染み込んでくる。
ハダシュはくちびるを噛んだ。闇にけだものの眼を走らせる。こんなことをしている場合ではない。
我知らず、眉間に深い皺を刻む。
ラトゥースとかいう、あの女のせいだ。
馴れ馴れしく近づいてきたかと思うと、一気に心の内側にまで踏み込んできた。
あのまっすぐなまばゆさで、暴かれることすら望まぬ事の子細を照らし出そうとした。
腐り果てた汚物など、存在の底辺に投げ棄てて家畜の餌にでもしておけば良いものを。
無意識に腰へ手をやる。
だが、あるはずの手応えはなかった。所在なさに一瞬、身が竦む。
怖気がこみ上げた。無いと知りつつ、腰のベルトを何度もまさぐる。ナイフなしでシャノアを渡り歩くのは、ある意味、裸でいるより心許ないことだった。
殺されるのを侍するようなものだ。
かき立てられた不安が、別の感情の呼び水となって形を変え、暗く迫る。
一瞬、脊髄を針で突かれたかのような痛みが走った。悪寒が忍び寄ってくる。生ぬるい汗がじわりとこめかみに浮かんだ。ハダシュはわずかに身体をふるわせた。
恐怖が近づく。また手先が震えた。止まらない。禁断症状が出始めている。
必死に眼をそらし、身体を現実へ押しつけようとする。嫌な眩暈がのしかかった。生唾を飲み込む。
欲しい。
冷汗で濡れた額に、前髪が貼りついていた。
背筋の底が、ぞくぞくと薄ら寒い熱を帯びる。ひどく喉が渇いた。
あれが欲しい。あれが。
相反する二つの快楽が連想でよみがえってくる。
激痛と恍惚。瞼の裏に黒い薔薇の咲く裸身がうねり、乱れひらめく。忘我の熱い吐息。
野葡萄色のくちびる。冷酷な嬌笑。偽りの微笑。熔け落ちる熱泥に身をゆだね、鞭打たれ、がんじがらめに縛られ支配されて、ようやく与えられる転落と解放。だらだらと無様に精を垂らした姿を嘲られ、罵られ、晒され、踏みにじられ、這いつくばって──
ヴェンデッタという女の蜜と毒に犯され、牙を折られたけものと化して。
壊れきった自虐の感覚が渦を巻く。
しかし、もうひとつの記憶が、ハダシュの夢想に冷水を浴びせかけた。
ジェルドリン夫人を殺した現場に残されたナイフを見れば、それが誰のものなのか、いやでも知れるだろう。
夫人殺害後、仲間を殺し行方をくらましていることも。
それらの噂はヴェンデッタによって裏切りと叛逆の意趣をまぶされ、まことしやかに流布されることとなる。
ゆがみかけた意識を必死で回転させる。
この後、どうやって身を隠すか考えなければならない。
禁断症状が出てからでは遅すぎるのだ。
ハダシュは恐慌状態に陥りかけた。再度、必死に理性で混乱を押さえつける。
黒薔薇の追っ手から逃れるには生半可な隠れ家ではすむまい。まずは通い慣れた阿片窟が思い浮かんだ。
苦い煙。陽の射さぬ洞穴のような、つめたい、黴臭い、剥き出しの壁。
そこならとりあえず安物とはいえ薬も手に入る。
何かと親身になってくれたレイスなら、頼めば薬も手に入れてくれるだろう。
罵倒されるのも分かってはいたが唯一の友を殺した今となっては他に力を貸してくれそうな知り合いはいなかった。うらぶれた陰間部屋の片隅に身をひそめ、春をひさぎつつ、ほとぼりが冷めるのを待てば、あるいは──
だがその幻想はすぐに破れた。下手な知り合いは他人よりたちが悪い。レイスに危険を冒させようと考えるのもまた心底外道な発想に思えた。
結局考えつくのは、ラウールへ訴えることだけだった。
どうにかしてラウールと直接会い、ヴェンデッタの本性を伝え、あの女を排除させる以外に生き延びる方法はない。
絶望的なため息を漏らす。
くだらない結論だった。行きたくない。あの冷たい目の男には会いたくもなかった。
過去の痛みと今の記憶が混濁する。血の匂いしかしない男。薄明の中、冷酷にうそぶくラウールの声がよみがえった。
(わしを裏切るつもりか)
ハダシュはうつろなかぶりを振った。
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