幻獣使いの召喚術師

moai

プロローグ

プロローグ

「お前だけでも、逃げろ」

 炎が燃え盛る戦場で静かに男はそう告げた。男の言葉の意味を少女は即座に理解することができなかった。

「お前だけでも逃げてくれ」

 もう一度、男は少女にそう告げるこんな戦場の中でも男の声はただひたすらに優しかった。その男の身体は深い傷を負っている。見ているだけで痛々しかった。

 意味が分からなかった。少女も同様に傷を負っているが、それでも男と比べて傷は深くない。自分より深い傷を負っているこの男を置いて逃げる――そんなこと、できるはずがなかった。

 答えを出せず立ち尽くす少女を男は見やる。その目には闘志が垣間見えた。勝つことを諦めていない。まだ戦う意志があるのだ。ならば、なぜこの男は逃げろと言うのか。少女は解せないでいた。

「……座ろうか」

 ふっと、戦場の中で強張っていた男の顔が笑みを浮かべ緩んだ。

 戦場の中での束の休息。男も少女も手近に転がっていた建物の瓦礫の上に腰をかけた。

 沈黙が流れた。この男とふたりきりになった経験は過去の一度も少女にはない。いつも家族と一緒でこの男がひとりでいるところは一度も見たことがなかった。

 あの日、この男に拾われてから長い月日が経つ。改めてとなると、なかなか話すことが思い浮かばなかったのだ。

 そんなふたりの間を繋ぐように乾いた風がふたりの頬を撫でた。

「……変わったな」

 唐突に男がそんなことを口にした。郷愁にも似た思いを巡らせているのか、男はどこか遠くを見る目をしていた。

 変わった――というのであれば、この街の様相は見るも無惨に変わり果ててしまった。

 建物は全てが無価値な瓦礫の山と化し、地は抉れ、あちこちになにかも分からない破片が無数に散乱している。およそ人の住める地ではすでになく、乾いた風が焦土と化したこの街を当てもなく彷徨っているだけしかない。希望もなにもないこの地になにか残っているものがあるとすれば、それはかつての繁栄を思わせる文明の欠片ぐらいだろう。

 そう少女が耽っていると、男が見透かしたようにふふっと笑ってみせた。

「そういうことじゃなくて、お前自身が、だよ」

 少女が男と出会ったのは今からもう五年も前のことだ。男と出会った日のことを少女は今もよく覚えている。

 いったいどういうことかと少女が不思議に思っていると、男が少女の頭を撫でて、じっと目を見つめながら言った。

「お前だけでも逃げてくれ」

 またか、そう言わんばかりに少女は不機嫌な顔をする。その反応を見てまたも男はふふっと笑った。

「お前、本当に変わったな」

 さっきから逃げろだの変わっただの、『アタシが変わったように見えるなら、それはきっとアンタが変わらなさすぎるのよ』と少女は言ってやりたい気分だった。元から変わり者というか、どこか独特の考えを持っている男だったとは思っていたが、それはこの戦場においても健在のようだ。

「昔は仲間なんて必要ないって感じだったのにな」

 一瞬、我が子の成長を見守る父のようなものと、同時にどこか寂しげなソレを瞳に覗かせると、男はおもむろに立ち上がり少女に背を向ける。

「……この戦い、勝てるどうか分からん。いや、はっきり言って勝ちを望む方がこの場合、妄言に近い」

 男にしては珍しく弱気な発言だった。あの日以来、少女が見てきた男の背中はまるで本当の父親のように豪傑さと優しさに溢れたものだった。弱さなど微塵も感じさせない。それは少女にとって、とても心安らぐものであり、同時に目標とするものでもあった。

 そんな情けない男の背中を見て、少女は腹立った。叱咤し怒りをあらわにする。

「ああもちろん、諦めたわけじゃない。だがそれは――」

 少女の身体が衝撃を感じ取る前に少女は大きく吹き飛ばされていた。少女が止まると同時に陣のようなものが少女の真下に現れる。見覚えがあった。それは召喚術師が使う付与魔術の中でも幻獣を守護することに特化した付与魔術だ。その陣の中にいる間はあらゆる攻撃を無効化するが、代わりに魔術をかけられた幻獣はその中から出ることができない。

 少女が激しく叫ぶ。いったいなんのつもりなのだろうか。こんな状況で相棒(パートナー)である守護獣(ガーディアン)をそばから離すなど自殺行為にも近しい行動だ。

――ふと、周囲に気配を感じる。ヤツだ。先ほどまで激戦を繰り広げていたので気配だけで分かる。大打撃を与えたつもりだったが、ヤツにしてみれば蚊に刺されたようなものだったのかもしれない。

 それと同時に感じる身体の異変。本能的に左手の甲を見る。

 名が消えていた。男と少女を繋ぐ、唯一無二の絆の証しである男の名が――消えていた。その瞬間、少女は意味を悟った。


 瞳の奥に一瞬だけ男が寂しさを覗かせたこと。

 自分をそばから遠ざけたこと。

 そして――契約を破棄したこと。


 気配はどんどん巨大なものとなっていき、男の前にその姿を現した。闇をそのまま生き物にしたら、あのようなものになるのだろう。度重なるダメージですでに幻獣としての原形をとどめていないが、そのおぞましい気配は悪意そのものだ。この街を崩壊へと陥れた諸悪の根源。

 そんな人間では到底敵うはずのない埒外な化け物に男はたったひとりで対峙していた。

「お前だけでも逃げろ!」

 この期に及んでまだそんなことを言っているのか。あの日からずっと一緒にいたのだ。晴れの日も雨の日も。

――この戦場でだって、ずっとそばで笑っていてくれた。この身滅ぶ時はあの人のために。そう誓ったのに。

 涙が少女の頬を伝った。あの男がなにをしようとしているのか分かる。分かるからこそ止めなければならない。きっと最初からこうするつもりだったのだ。

「聞こえるか。怒ってるか? ……怒ってるよな。けど、俺は後悔していない」

 男の声が聞こえる。だが、なおも必死に訴え続ける少女の声は陣に遮られて男に届くことはない。

「お前が好きになった世界を、好きになってくれた世界を、俺は守りたいんだ。だから生きてくれ。お前だけは――生きていてくれ」

 刹那、化け物が凄まじい金切り声を上げる。同時に莫大なまでの量のマナが男に向けて放たれる。街ひとつを崩壊させるほどの圧倒的破壊力を秘めた一撃だ。

 ただの人間にとって許容量を超えるマナは毒そのもの。まして、こんな高濃度のマナは少女でさえ陣がなければ無事かどうか分からない。

 今にでも意識が吹き飛びそうになるのをもはや気力だけで保たせている状態だ。そんな状態でも男は最後の死力を尽くして付与魔術を展開する。

 それは倒すことさえも困難な状態になった幻獣を封じ込める唯一の方法。だが、それには代償が大きすぎるため、長らく禁術とされてきた付与魔術だった。

 付与魔術の展開に化け物はもがき苦しむ。暴れるたびに襲うダメージと付与魔術を壊されないように保つ行為そのものが男を傷つける。

「――苦しいか、化け物。だがな、俺はこんなのなんともないんだよ! あいつとあいつの愛した世界を守る為ならなぁあああ! 地獄への片道切符、付き合ってもらうぜ!」

 眩い閃光がこの荒れ果てた地をどこまでも包み白んでいく。次に世界が元の色を取り戻した時には化け物も男の姿もなかった。どこまでも続く荒野だけがそこにはあった。

「……バカ」

 大粒の涙を零しながら、少女は男から貰ったおもちゃのペンダントをただただ強く握り締めていた。

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