117:氷の下に眠る魚 その三

 ずっと……。


 ずっと、思っていた。


 自分は異質なモノだと。

 目前に広がる風景の中に入り込めない異物なのだと。


 だから、こんな風に誰かに求められる時が来るとは本当は考えていなかった。


―― ◇◇◇ ――


 目が覚めると、ほっとするようなコーヒーの香りが部屋の中に漂っていた。


「あ、起こしちゃいました? すごくぐっすり眠っていたから疲れているのかな? と思ってコーヒー淹れて来たんですけど、よく考えたら飲んでもらうには起きてもらわなきゃいけなかったんだって気づいて、どうしようかなって思っていたから正直助かっちゃいましたけど。えへへ、でもコーヒー飲んだらもう一回寝ます?」

「あ、ああ、ありがとう」


 同じ部屋に人がいるのには慣れている。

 実家は三世代同居だし、小さい頃は兄妹同じ部屋で寝起きしていたもんだ。

 むしろ中央に出て来てからは寂しかったぐらいだから、人が近くにいるのは嬉しい。


 だけど、目前で小さなトレーに薄い湯気を上げているコーヒーカップを載せて両手で大事そうに掲げ持っている女性の存在は、俺を落ち着かない気持ちにさせた。

 ふわりと漂うコーヒーの香りの向こうに、石鹸の香りがほんのり感じられて、ああシャワー浴びたんだなと思ったら更に落ち着かない気持ちになる。


「実は憧れていたんです。こういうシチュエーション」


 にこにこと嬉しそうに伊藤さんはそう言うと、コーヒーをベッドサイドのチェストに置いた。


「え! こういうって?」


 俺が焦りながらそう言うと、伊藤さんは顔をちょっと赤くしてトレーを胸に抱きしめる。


「す、好きな人に、朝、コーヒーを淹れてあげたり……とか」


 ものすごく照れながらそう言う伊藤さんを見ながら、俺は自分の心が汚れていることに赤面した。

 ごまかすようにコーヒーに口を付ける。

 少し薄めに淹れられたコーヒーには砂糖もミルクも入っていなかったが、初めて飲む別の何かのように美味しく感じられた。


「あ、砂糖とかミルクとかは大丈夫でしたか? 寝起きに飲む時は何も入れずに飲むほうが疲れを取るにはいいみたいなんですけど、口に合わなかったら意味がないですよね。先に聞いておくべきでした。ごめんなさい」


 俺が一口口を付けて手を止めたのを誤解して、伊藤さんが慌てて謝った。

 さっきまで微笑んでいたその顔がしゅんとしてしまう。


「あ、いや、違うんだ。これうちのコーヒー豆だろ? 安売りで買ったメーカーブレンドの。なんか味が違うな、と思って」


 俺の慌てた説明に、伊藤さんは叱られることを心配する子犬のように俺を見た。


「それは、きっと私がコーヒーメーカーを使わずにドリップしたからだと思います。コーヒーメーカーだと淹れる加減がわからなかったので……本当はうちはプレス式なんです。コーヒーオイルの風味が我が家の味で、でも普通の人はプレス式は苦手だから、ちゃんとペーパードリップで淹れたんですよ。練習したから大丈夫だと思うんですけど」

「そうなんだ。うん、飲みやすくていいな」

「本当ですか? よかった!」


 不安そうな様子から一転、飛び跳ねそうなぐらいに嬉し気な様子になる伊藤さんはとても可愛い。

 なんだか朝から幸せだな、と、思って、ふと、昨夜からの一連の出来事を思い出して酷く恥ずかしい気持ちになった。

 なんか、俺、何もほとんど考えずに行動したような気がする。

 いや、気がするんじゃない、本当に何も考えていなかった。

 いいのかこれで。


「あの、お酒飲んで内蔵が疲れている時に重い朝食は辛いでしょうから、鮭をほぐして炙ったお茶漬けを用意しておきました。もしもう起きられるようなら準備しますけど、どうします?」

「伊藤さん、なんか凄く気が利くね。それに、慣れてる?」

「うちのお父さん、あんまりお酒強くないのにちょくちょくお仲間と飲み会をやるんです。そのたびに翌朝二日酔いで大騒ぎして、でもお母さんのお茶漬けを食べると体が落ち着くって言ってそれだけは食べるんですよ。だから覚えちゃいました」

「あ……」


 そうだ、伊藤さんのお父さん。

 元冒険者のあの人にどうしても会わなければならない。

 今まで疑問に思いながらも追求することはしなかったが、もはや彼女の周囲にある不安をそのままにしておくことは出来ない話だ。


 はっきりと自覚した。

 曖昧だった俺と世界の繋がりを、伊藤さんが明確にしてくれたのだ。

 彼女を守るということは、俺にとって唯一の、自分を世界と繋ぐ証となる。

 でも、こういうのって、男の身勝手なのかもしれないけどな。

 自然体でまっすぐで自分に正直で歪みのない。

 そんな伊藤さんの在り方は、世界そのもののように美しい。

 彼女が俺を好きだと言ってくれるなら、俺はこの世界の中にいていいのだと、不安を感じることなくそう思えた。


 だから無理やり自分に言い聞かせるのではなく、ごく自然に、人として生きる未来を考えられる。


「お茶漬けじゃあっさりしすぎでした? もうちょっと何か食べます? そうですよね。うちのお父さんより木村さんのほうがずっと若いんですから、お茶漬けだけじゃ足りませんよね」


 俺の沈黙を誤解して、伊藤さんが慌て出す。

 ほんと、可愛いな、この娘。


「お茶漬けいただくよ。それから、朝食を食べたら一緒に伊藤さんの家に行きたいんだけどいいかな? お父さんは家にいる?」

「え? え?」


 俺の言葉にまた別の混乱に襲われたらしく、伊藤さんは赤くなったり真顔になったり、照れたりしながら「じゃあ、準備しますね!」と言いながら寝室から出て行った。

 廊下辺りで壁かドアにぶつかったらしいドン! という音が聞こえたが、大丈夫か? 伊藤さん。


―― ◇◇◇ ――


 久方ぶりに訪れた伊藤さん宅はあまり変わっていなかった。

 もちろん問題となっていた床下や屋根の守り瓦なども手を入れて問題のない状態にしてあったが、全体の大まかな作りはそのまま古民家風だった。

 怪異を集める仕掛けが解除された今となっては、落ち着いた暖かさが感じられる家となっている。

 純和風の庭を見ていると、この家の主が外国の人間だとは思えない程だ。


 もう昼近くだが、さすがに日曜の昼間だけあって出歩いている人は少ない。

 伊藤さんによるとむしろ早朝のほうが散歩やランニングをする人がいるので人通りは多いのだそうだ。

 早朝に活動する人が多いのは、朝日には浄化の力があるから魔物が出にくいという理由もあるのかもしれない。


「ただいま~」


 伊藤さんが門柱に触れると門扉のロックが外れた。

 冒険者らしいと言えばいいのだろうか、ちょっと変わったセキュリティを組んでいる。

 やっぱりマイホームにはおやじさんの趣味が相当入ってるんだろうな。

 特に変わったこともなく玄関の引き戸を開ける。


「おかえりなさい」


 家の奥から母親らしき声が聞こえた。

 娘が帰っただけだから特に迎えに出ることもないのだろう。

 泊まった翌日ではあるけど、泊まり自体は以前にもあるし。


「お母さん。あの、木村さんがご一緒なの。お父さんいるかな?」


 奥のほうで少し慌ただしい気配がして、スリッパの音と一緒に伊藤さんのお母さんが顔を出した。


「あらまあ」


 相変わらず可愛らしい近所のおばさんといった感じのお母さんだ。

 目尻の皺が優しげに刻まれているが、他は目立った皺はなく、少しぽっちゃり気味だが太っているという程ではない。

 小柄で愛嬌のある顔立ちが他人に警戒心を抱かせない得なタイプと言っていいだろう。


 そのお母さんは、俺のほうを見ると、次に娘を見て、親指を立ててにっこりと笑う。


「やったわね、優香、グッジョブよ」

「やめて、お母さん! それよりお父さんはいるの?」


 伊藤さんが真っ赤になって母親を押し留め、話を逸らした。

 お母さん、ストレートすぎてあれですが、俺は結構やっかいな男ですよ? 自分で言うのもあれだが、客観的に見てあんまり娘さんに相応しいとは思えません。

 まぁ普通に会社の同僚と思っていればOKでもおかしくないのか。

 流のように見るからに女性受けしそうな顔でもないけど、お母さん的には大丈夫なのか。

 今更ながら心臓が激しく脈打ってバクバクして来ていた。

 いや、待て俺、今日は別に娘さんをくださいとか、お付き合いさせてくださいとか言いに来た訳じゃないんだぞ。

 彼女のお父さんに聞きたいことがあるだけだ。

 あ、でもこの状態でそれだけってむしろ失礼なんじゃ?


 急に不安になってきた。

 花束とか手土産とか何も買って来なかったけどよかったんだろうか。

 今更そんなことを思い付いて焦った。


「お父さんいるわよ。でもちょっとごきげんは悪いかもね」


 フフフと、伊藤さんによく似た笑い方をしたお母さんは「お茶を準備するわね~」と言って奥へと戻って行った。

 お父さんのごきげんは悪いんですか、そうですか。

 出なおしたほうがいいかな?


「あの、お父さんあんまり機嫌良くないらしいですけど、今度にします?」


 伊藤さんが不安そうに上目遣いに俺を窺う。

 いや、伊藤さん。

 おそらくきっと、今後も俺が訪問した時に機嫌がよくなることはあるまい。

 色んなことで揺れまくっていた俺の気持ちが、伊藤さんの不安そうな顔を見て定まった。


 先送りにして良いことは何もない。

 俺は伊藤さんに彼女を守る権利を貰ったのだ。

 ならばやるべきことはやらなければならない。


「お邪魔します」


 家の奥にまで届くようにそう宣言すると、俺は玄関に靴を脱いで上がった。

 別に脱いだ靴は乱れてはいなかったのだが、伊藤さんはやたら嬉しそうにその靴を整えて自分の靴と並べて置く。

 俺のでかい靴に触れるほっそりとしたその小さな指先が、なぜだか強く印象に残った。

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