106:明鏡止水 その十

 あの駅の地下街事件以来、少々人の多い場所でも危険が無いという訳ではないのだとわかったので、以前にも増して俺は神経質になっていた。

 入場料を払って駅の構内まで同行して、伊藤さんがシャトルに乗り込むまで見届ける。


「あの、ありがとうございます。木村さんもお気をつけて」


 そんな俺に何か言うでもなく、伊藤さんは自然に礼を言った。


「は、いえ、俺は……」


 大概のことは大丈夫です、と言おうとした俺に、伊藤さんは微笑んで言葉を続ける。


「心配するぐらいいいですよね」

「あ、はい」


 誰かに心配してもらうとかあまり経験のない俺は、どうもそんな伊藤さんの顔が苦手だ。

 思わず反射的に肯定してしまっていた。

 勝てないなあ、まったく。


 伊藤さんを乗せたシャトルが無事に走り出したのを見送って、俺は一人駅前の雑踏から離れた。

 駅周辺では注意して周囲の一人一人に意識を向けていたが、怪しい気配は窺えなかった。

 正直俺は探索や察知という方面はそれほど優れてはいない。

 長年由美子や浩二任せだったということもあるし、そもそも魔力の流れを見るのが苦手という事実があった。


 相手は由美子の探査も受け付けないのだから、俺が多少意識したところで見つかる訳が無いのはわかっている。

 この間の騒ぎは偶々タイミングが重なって発見出来ただけなのだ。

 だが、この都市のどこかで今も誰かが襲われているのではないかと思うと、胃がキリキリと痛む。

 おかげで最近食べる物の味が感じられなくなりつつある。

 討伐が上手くいかない時のハンターにはありがちなことらしいので、病気とかじゃないんだが、とにかく早くこの一件を解決したい。


 現在の自宅であるマンションに向かって歩いていると、段々と人通りが減って行く。

 この周辺はコンビニも無いので閑散としているのだ。

 街灯は明るく、通りは広いので犯罪が多発したりはしないが、夜歩くには寂しい通りだ。

 中央都の高級マンションがある地域は、そもそも昼間から人通りがあまり多くは無い。

 まあ当然の話だろうな。

 普通、高級マンションに住むような人間は歩いて家に帰ったりしない物なのだろうから。

 まぁそれは金持ちじゃない俺の勝手な偏見かもしれないけどな。


「こんばんは、いい夜ね」


 マンションの入り口近くには、明るい街灯に照らされた小さな前庭のようになっている部分がある。

 木製のベンチと、幼い子供が遊ぶような遊具があり、昼間はマンション住人の子供連れのご婦人が友人とおしゃべりをしながら子供を遊ばせている場所だ。

 そこに見覚えのある薄い色合いの金髪の女がいた。

 尤も以前見た時より、その金髪は街灯の光の下のせいか、やたら白っぽく輝いていたのだが、その豪奢な外見は見間違えようもない。


「あ、ジー……じゃなかったアンナさんお久しぶりです」

「別に、覚悟があるのなら本当の名前で呼んでくれてもいいのよ」


 言いながら、彼女は頬に掛かっていた髪を指先で掬い上げると耳に掛けた。

 たったそれだけの動作が恐ろしく美しい。


「え? 何のことかわかりませんけど、お元気そうでよかったです」


 チームを解散した時はバタバタしてたし、彼女は酷い様子だった。

 彼女とピーターのことは少し心配していたんだが、おそらくもう国に帰ったのだろうと思っていた。

 国だって貴重な人材をそんなに長い間外国に出したままで置くはずがないと思っていたのである。

 正直彼女がここに現れたのは意外だった。


「ええ、元気ではあるわ。まだ怒りはあるけれど。それは私の個人的な怒りだから貴方には関係ないこと」


 怒っているというから俺にお怒りなのかと思ったが、そうではなかったらしい。

 それならなんでこんな所にいたんだろう?


「ええっと、今夜はどうされたんですか? もしかしてお食事のお誘いとか?」


 思いっきり軽く尋ねてみる。

 正直、ロシアの秘蔵っ子という立場の彼女だ、姿は見えないが、どうせ監視か何かが付いているに違いないし、どう扱っていいかわからない相手だ。


「そうね、食事もいいわね。でも、もっと大事なことがあるの」

「大事なこと、ですか?」


 怖い。

 なんというか、今まで味わったことのない恐怖だ。

 いったいこの可憐な女性のどこからこのプレッシャーが発せられているのだろう?


「ええ、貴方、私に子種を提供しなさい」


 ……あれ? 俺、今起きてるよな? なんか変な悪夢を見ている訳じゃないよな?


「ちょっと! なんで無反応なのよ。こんな美女が寝てあげると言っているのよ? そこは伏し拝んで手を取って口づけぐらいする流れじゃないの?」


 うん、今この場で回れ右して逃走しても問題ないよな?

 マンションの入り口はそこだし、セキュリティは高い。

 あ、でも認証に時間が掛かるからその間に攻撃を受けるかもしれないぞ。

 マンションを燃やされたら俺だけの問題じゃなくなるし、まずいよな。


「日本の守護者の長、その血を得るのが私が祖国から託された使命。貴方にはそれに協力する義務があるはずです」


 いかん、ボケている場合じゃなかった。

 話がどんどん進んでいるっぽい。


「あの、凄く光栄ですが、お断りします」


 翻訳術式は曖昧な表現をある程度その術式の精度で意訳してしまう。

 俺は誤解の無いようにはっきりと断った。


「なんですって!」


 かっ! と、彼女の不思議な光を発する薄青い瞳が見開かれ、周囲にオゾン臭が漂い始める。

 ちょ、まさか街なかで魔法とか使わないよな?


「いや、だって、当たり前だろ? 貴女あんただってわかっているはずだろ! いや、俺だって世間が何もかもロマンチックな考え方で出来ているとは思ってないけどさ、意味がわかんねえよ!」


 段々俺も自分が何を言ってるかわからなくなって来た。

 そもそも俺はなんで誰が来るかもわからないマンションの前なんかでこんな会話を大声でしなきゃならんのだ?

 何かの罰か?


「私だって、貴方のような男は嫌いだけど、これはそんな子どものように好きとか嫌いとか言う話ではないのよ。我が国にとって危急存亡の事態なの。こんな、わが祖国の一捻りで吹き飛ぶような島国の者が救世の血の一滴となることを許されたのよ。光栄に思えばこそ、断るなど出来るはずもないでしょう!」


 アンナ嬢の言葉に、俺の頭は一気に冷えた。

 深く息を吸い込むと、その息と共に言葉を吐き出す。


「おとなしくお国に帰るんだな。ありがたいことに我が国は俺みたいな血統にも人権を保証してくれてんだ。国家の権力は本人の意思に反して何かを強制したりはしない」


 俺の言葉と表情に何を感じたのか、寸前までまるで女王のように輝いていたアンナ嬢は、表情を一変させ、まるで鬼女の面のような顔つきになった。


「他人は私を冷血と呼ぶけれど、貴方こそが真の冷血だわ、人でなし! この国の血統は怪異の血を取り込んだという噂があるけど、あれは真実だったようね。他国のこととは言え、平気で一つの国の民に滅びよと言えるなんて!」


 キイイインと、金属質な音と共に風景が歪む。

 恐ろしい程の魔法力だ。

 これは恐らく彼女の無意識なのだろう。

 普通魔法というのは発せられる前に方向性を決めて力を流し込む物だ。


「人聞きが悪いな! アンタわかってるのか? アンタは全く何も説明しないまま、ただ俺を利用したいと言ってるんだぞ? それが当然だと思えるほうがどうかしてるって言ってるんだ!」


 景観を考えて植えられている木々からバラバラと枯れ葉が舞い落ちる。

 どうやら彼女の周辺から生命力が奪われているらしい。

 危ないどころの騒ぎではないぞ。

 だが、突然、ふっとそれらの騒ぎが納まった。


「なら、説明したら協力をするの?」


 凍てつくような蒼い瞳が俺を射る。

 下手な怪異よりずっと彼女のほうが恐ろしいんだが、どうしたらいいんだこれ?


「いや、ええっと、その……俺は、今好きな女の子がいてだな……」


 いや、何説明してるの? 俺。


「それがどうしたの? 私は別に恋人になれなんて言っていないでしょ? そもそもそんなこと、私のほうがお断りだわ」


 平然と言い捨てるアンナ嬢。


 うわ、くっそ、殴りたい。

 俺は顔の筋肉と、右手の拳がピクピクと震えるのを感じながら、冷然と夜の中に佇むロシア美女を、恐ろしい魔物を見るように眺めていた。

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