55:迷宮狂騒曲 その五
台所からいい匂いが漂って来ている。
誰がどう考えても、空腹状態の人間ならそちらが気になるのは当たり前だと思うんだ。
だが、なぜか、俺は現在自分の家の台所を覗くことを禁止されているのである。
なので仕方なく、漏れ聞こえてくる会話を聞くとはなしに聞いているのだが、
「どうして肉や玉葱を先に炒めるのですか?」
「そうね、玉葱は炒めると甘くなるの、玉ねぎの甘さはカレーにコクを出すのよ。長く炒めて、飴色になるぐらいまで炒めるのが一番美味しいって言われているわね。お肉は、先に表面に火を通しておくと美味しさの成分が逃げないの」
実に楽しそうだ。
なんとなく母と子のお料理教室になっているような気がするが、まあ由美子が料理を勉強などしたことが無いのは俺もよく知っている。
あいつは時間があれば呪符や術式の勉強と研究に明け暮れていたからな。
女の子としては少々遅めのような気もするが、こういう家事なんかに興味が出て来たのならいいことには違いない。
「この茶色い泡みたいなのはなに? 食べられるのですか?」
「それはアクだから掬って捨てるの。そのままにしておくとえぐみになっちゃうから」
「アク? 悪者なのか?」
「う~ん、美味しさを邪魔するんだから悪者ではあるかもね」
「ならば滅殺の陣で!」
「こら! ユミ! 小学生かお前は!」
思わず台所に飛び込んだら、伊藤さんがびっくりしたように俺を見た。
由美子の手には何も無く、ニヤリと悪戯っ子のような顔で笑ってみせる。
「冗談に決まっているのに、兄さんは心配性なんだから」
くっ、ひっかけやがった。
由美子は普段は生真面目なのに、時々考えられないようなことをやらかすんだよな。
それもその標的は主に俺だ。
もしかして嫌われているのか? 俺。
しかし、そのやりとりがどうやらツボにハマったらしい伊藤さんは、ターナーを片手に口許を押さえて笑いを堪えていた。
「それに、女同士の会話に聞き耳をたてるなんていやらしい」
追い打ちを掛けるように、由美子が軽蔑したようなまなざしでそんな風に言って来る。
な!
「別に聞き耳たてなくても聞こえて来るだろ! うちは狭いし部屋の仕切りに防音なんかないんだぞ!」
「兄さん、冗談で言ったのにそんなにムキになるなんて、」
「あのな!」
「あはは、ほんとに兄妹仲がいいんですね。いいな」
「いやいや、どう見ても俺が虐げられていますよね?」
「いわれの無い誹謗中傷を兄さんから受けた」
「あはは、あ、いけない、そろそろ火を弱めてルーを入れましょう。木村さんはお部屋で待っていてくださいね」
くっ、追い払われた。
ここの家主は俺のはずなのに……。
しかも、蝶々さんまで由美子の式である蝶につられて台所の中を巡回してるし、前にも疑ったが、あの式神、本当に
ともかく、そんな感じで俺はひとりでぽつんとテレビジョンを観ることとなってしまった。
うう、普段なら当たり前なのに、今日は周囲に誰もいないのが辛いな。
しかもテレビでは今話題沸騰だとかで例の迷宮を特集していて、不愉快この上ないことを思い出させてくれるし。
なんかこう、天国と地獄をいっぺんに味わっているような心地だ。
『鉱物資源や化石燃料の埋蔵量の乏しい我が国としては、この迷宮は正に降って湧いた恩恵ですよ』
『しかし、危険な場所には違いないのでしょう? そんな場所が都内の中心部に存在するというのはやはり問題があるのでは?』
『そこは、政府がきっちりと管理すれば良い話ですよ。中に入るのはハンターや冒険者、軍隊に任せておけばいい』
『そこですよ! 軍隊はともかくそんなゴロツキが街中を闊歩するようになるんですよ! 治安の問題があるでしょう!』
『治安こそ、警察や軍の管轄ではないですか』
『なにもかも軍まかせですか? ならあんたの老後も軍に面倒を見てもらえばいいんじゃないですかね? 後腐れの無いように始末してくれるかもしれませんから』
『なんだと!』
『まあまあ、お二人共落ち着いて』
最近のテレビは過激だな。
コメンテーター同士が取っ組み合いを始めるとか、テレビを観ている子供に、大人は自分の意見が通らないとすぐ暴力に訴えるとか思われたらどうすんだ?
しかしそうだよな、誰が考えてもわかる話だよな。
消滅せずに段階的に攻略出来る迷宮。
フリーのハンターや腕に覚えのある冒険者にとっては垂涎の的となるに違いない。
そういう連中が一稼ぎしようとこぞって集まって来るのは間違いないことだろう。
確かにそうなると治安については頭の痛い問題になるはずだ。
連中は軍の工作部隊程度には武装しているし、個々の戦闘能力は高い。
どう考えても現在の警察では荷が重いだろうな。
そう言えば、酒匂さん、ハンター協会のお偉いさんとやり合ってたが、その辺のことを交渉してたんだろうか?
そういやあの人、迷宮関連の責任者になったっぽいけど、それって出世したということなのかな?
補佐官から長になったんだから出世だよな?
よし、今度お祝いになんか美味い物でも持って行ってやろう。
と、頭の中で物色したのが悪かった。
食い物を思い浮かべたせいで猛烈に腹が減って来たのだ。
飯、……まだなんだろうか?
既にカレー独特の刺激的な匂いと、若い女性独特の炭酸の泡が弾けるような笑い声が、引き戸一枚向こうから漂って来ていて、俺の飢餓状態を煽りまくっている訳なんだが、……もはやこうなると拷問である。
思い余った俺は、キッチンとの間を隔てている薄い引き戸をそっと開けてみた。
「何をしているんですか?」
丁度その戸を開けようとしていたらしい伊藤さんと真正面から向かい合うこととなり、硬直してしまった俺を伊藤さんは不思議そうに見つめる。
「兄さんのムッツリ」
由美子よ、お前、どこでそんな言葉を覚えたんだ!
「あ、頃合いを見て戸を開けてくださったんですね。助かります」
伊藤さんは善意に解釈してくれたようで、納得したように頷くと、両手で鍋を抱え込み、こっちへとやって来た。
慌てて小さく開けていた戸を大きく開く。
カレーと伊藤さん、二種類の異なる香りが俺の傍らを通り過ぎた。
「兄さん手伝って」
ちょっとの間惚けていたのか、気づくと由美子が微妙な笑みを浮かべながら俺を促していた。
なんだその顔は、言いたいことがあるならはっきり言ったらいいだろ?
いや、ごめんなさい、嘘です。
今はっきりナニカを言われたら色々拙い気がする。
俺は大人しく言われるがままにライスの盛られた皿を運ぶ。
しかしなんだな、俺に好きな相手が出来たら由美子はやきもちぐらい焼いてくれるかと思ったが、さすがにそんなことは無かったぜ。
ああいうのはきっと架空の世界のロマンなんだろう。
「お皿は五枚あるのにスプーンは二本しかないね」
「あ!」
しまった! カレースプーンは盲点だった。
コーヒースプーンならカップとセットで付いてたんで五本あるのだが。
「いいよ、俺はフォークで食う」
「これはいかに兄さんに友人が少ないかを如実に現していると思う」
なんだと! その件に関してはお前のほうが酷いだろうが!
由美子は余程俺を同類認定出来たのが嬉しいのか、途端に機嫌がよくなった。
鼻歌らしきものまで聞こえて来たんだが、お前、それ、呪歌じゃなかろうな?
「私が無理矢理お邪魔したんですから、私がフォークでいいですよ。昔は自分の食器ぐらいは持ち歩いていたものですけど、私もすっかり都会に馴染んでしまったみたいで、最近は水筒とナイフぐらいしか携帯してないんです。申し訳ありません」
「駄目ですよ、お客様に不便を掛けるなんてとんでもない話です」
というか、マイ食器を持ち歩かないのは普通のことなので、謝る必要はありません。
伊藤さんって一見大人しそうなのに色々けっこうアグレッシブだよな。
まあ親御さんがハンターだったんだから当たり前か。
しかし、そうか、ナイフを携帯するぐらいはわりと普通の感覚なんだな。
俺も妙な遠慮をせずに今後は持ち歩くことにしておくか、この先、何が起こるかわからんし。
伊藤さん(と、由美子)の手作りカレーは驚く程美味かった。
特に肉が、びっくりするぐらい美味い。
確かスーパーで買ってたのはそんなに高くもない普通のブロック肉だったはずだけど、どうやったらこんな風に化けるのだろう?
「お肉とお野菜が少し余っていたので、明日の朝食とお弁当用のおかずも作って冷蔵庫に入れておきましたから食べてくださいね」
伊藤さんがにっこりと笑ってそう言った。
女神か? この世に女神が降臨したのか!
俺はかつてない戦慄に体が震えるのを止められずに目前の女性をしげしげと見つめ、そうしてすっかり食事の手が止まってしまったのを見咎めた妹に、思い切り腕をつねられるハメになったのだった。
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