⑲ 限界を超えて
ウルートの発着場でそのままクロロブ行きのシップに乗ったアキとテツオは、クロロブ地区の最北端にある人工脳科学研究所を目指し、貨物バスの出発口に立っていた。時刻は17時40分を過ぎたところだ。最短で荷運びが進んでいたと仮定して、今日の午前中にクロロブ駅に到着した『チップ』は、午後一番の13時に駅を出発した貨物バスに載っているはずで、駅から400キロメートル離れた研究所まで半日、遅くとも20時までには荷物が到着することになる。時間的に4時間半先、平均時速60キロメートルで走るバスは、はるか280キロメートル先を走っている計算だ。タイムリミットは、2時間20分。余裕をもって2時間で追いつくことを考えると、280キロメートルの距離を縮めるためには、
――時速60キロ+時速140キロ=時速200キロメートルをキープして走る必要があるわけだ。
アキは、少し考えて、無理だと悟った。未来へ行く時、未来から戻ってくる時、たしかに最高速度800キロ近くの速度を記録した。でもあれは、全長わずか10キロメートルしかない時空転送装置の中での話だ。今から走らなくてはいけない距離は全部で400キロメートル。40倍だ。それを時速200キロを維持して走り続けるなど、到底ムリな話だ。自分は、
――無理だ。
目の前に無情にも伸びる、クロロブ開発区へ続く、だだっ広い荒野のような道を見据え、アキは走る前から心が折れてしまった。
その時、横からあっけらかんとした声がする。
「さて、いっちょ、ひとっ走りしますか!」
声の主は、何があっても諦めない、その目に灯った光を絶やすことを知らない男、真島テツオであった。
「…あの、テツ先輩…?」
「どうした? アキ? そんな青ざめた顔して」
「いや、だって、先輩…。今からじゃ、追いつけないです…」
「んなもん、走ってみなきゃわかんねーだろ! わざわざここまで来たんだ。限界まで突っ走ってみて、ダメならその時に考えればいい。やってもいないのに諦めるなんて、もったいないじゃねーか! こんな機会なかなかないぞ」
この目だ。テツ先輩のこの目は本当にずるい。先輩は
テツオの目に宿る光を見て、アキは吹っ切れたように、
「ですね! やるだけやってみましょう! アクセル地区最速の運び屋スピードスター便のナンバー1とナンバー2の意地を見せてやりましょう!」
テツオは血の気を取り戻したアキの顔を見て。
「おうよ! ナンバー2!」
テツオの掛け声とともに、二人は果てしない荒野の道へ駆け出した。
勢い良く飛び出した二人は、初速の時点で時速100キロを超え、二人の足は瞬く間に時速200キロまで到達。普段の配達ではキロメートルアベレージ30秒、時速にして120キロほどで走る二人にとって、200キロペースというのは未知の領域で、肉体と精神の限界への挑戦であった。軽口を叩く余裕もなく、二人はまっすぐに前を見据え、目的の貨物バスを追いかけた。
加速し始めて20分、距離にして約80キロメートル地点を過ぎた頃、アキは頭がぼーっとし始めた。その様子に気づいたテツオは、
「アキ! 無理せず糖分とっとけ! お前の場合、倒れたらおしまいだ」
全長400キロメートルのまだ4分の1も過ぎていない。こんなところで、『切り札』を使ってたまるかと、意地を張っていたアキであったが、テツオの言うとおり、意識を失ったら追いつくどころか、命の危機だ。アキは、相馬丸の入っている左のポケットに手を突っ込んだが、相馬丸を取り出すのをやめ、逆の右ポケットから氷砂糖のビンを取り出し、蓋をあけて、中に入っている氷砂糖をすべて口の中に放り込む。口いっぱいにゴツゴツした食感の氷砂糖がなだれ込む。口全体で甘さを感じると、身体が軽くなり、もっと速く走れと脳が要求してくる。その要求―加速衝動―を理性で押さえつけ、時速200キロをキープして走り続ける。
糖分補給をして、まだまだ走れそうだと少し気を持ち直した。120キロメートル地点を過ぎた。糖分とっとけとアドバイスしてくれた尊敬すべき先輩を見ると、体中から汗が吹き出し、息も絶え絶えといった様子だ。速度こそ落ちていないが、何かに取り憑かれて走らされているかのような、そんな様子だ。
「テツ先輩! 大丈夫ですか!」
「へへ…。ハッ…アキ…。俺は…、こん…な…はっ…、とこじゃ…まだまだ…!」
もはや返す言葉もちぐはぐで、ただ自分を奮いたたせるためだけに言葉を発しているテツオ。ただ、その目はまっすぐ前を、目的である『チップ』を載せた貨物バスを見据えている。光はまだ宿っている。
200キロメートル地点を過ぎた。アキは再び糖分が切れ始めたのか、頭がボーっとする感覚に陥る。テツオを見ると…。
――ダメだ。テツ先輩はもう限界だ。このままじゃ死んじゃう。
「テツ先輩! もういいです! もうやめましょう! これ以上このペースで走ったら、先輩は…!」
テツオからは返事がない。疲労は限界に達し、アキの言葉が耳に届いていないようだ。もはや根性、あるいは執念とも言うべき何かがテツオを突き動かしていた。
「先輩! テツ先輩! もういいです! テツ先輩…!」
アキは迷っていた。一回目の糖分補給の時に相馬丸を口にしなかったのは、それを口にしたら、先輩を置いていってしまうと思ったからだ。先輩はいつだって私の前を走って欲しかった。先輩の心が折れて、あの目から、自分を導いてくれる光が消えるのを見たくなかった。が、もはや背に腹は代えられない。元々は、今回のミッションだって、自分ひとりで引き受けるつもりだった。この世界の未来を、未来の日常を救うために、私が、
――私が
そう決意したアキの目には、テツオが灯していたものと同じ光が宿っていた。
「テツ先輩…ありがとう…。私、先輩のためにも、絶対に…! 絶対に追いついてみせるから…!」
240キロメートル地点を過ぎた時、アキはついに相馬丸を口に含んだ。途端。口に広がる甘さというには暴力的な、脳髄の奥を金属バット、否、鉄球かなにかでど突かれたような衝撃が走る。痛みにも似た、強烈な甘みが、アキの全身を駆け巡り、血の流れが、気の流れが、体液のすべてが、前方を指すベクトルを形成し、前へ、前へ。ただひたすらに速く、速く、速く。全力を超えた全速力で、アキを加速させる。
朦朧とする意識の中でテツオはアキの後ろ姿を見た。朦朧とした意識がそう見せるのか、はたまた、物理的に実際にそうなっているのか、今のテツオには判別がつかなかったが、アキは、消えては現れて、消えては現れてを繰り返し、時間をすっ飛ばして前に進んでいるかのような、それはもはや加速というカテゴリには収まらない〝時間跳躍〟のようなものであった。
気づいたときには、隣にテツオの姿はなかった。その代わりに、隣には、目的の貨物バスが並走していた。いや、並走というのは何か違う気がする。だって、私は今〝走ってない〟。
時速60キロで走るバスが、赤ん坊のハイハイのように、ゆっくりに感じられた。アキはその横を赤子の成長を喜ぶ母親のように、ゆっくり隣で見守っているような、そんな感覚だった。
ゾーンというやつだろうか。とにかく、もうこの貨物バスからは速さを感じないし、乗り込むことだって簡単に感じられた。というか、実際に乗り込めた。
走るバスの扉をノックする少女の姿を見て、運転手は何事かと急ブレーキを踏んだ。目的地のクロロブ地区の開発区を目と鼻の先に据えた、400キロメートル地点。ついにアキは目的を達成した。
そこからのことは記憶がおぼろげだった。バスに積まれている、人工脳科学研究所宛の荷物はたくさんあったが、不思議と目的の『チップ』の積荷がどれなのかが分かった。積荷の一部が光って見えたのである。アキは、光る積荷を解いて、最後の相馬丸とともにポケットにしまいこんでいた、『相馬プログラム』が仕込まれた改変チップと差し替えた。と同時に、意識が遠のいた。
目が覚めた時には、見慣れた天井がそこにあった。そう、ここは量子力学研究所だ。
「アキさん…! 目が覚めたのね!」
聞き覚えのある優しい声がする。と同時に、ぎゅっと抱きしめられる感覚があった。このぬくもりは知ってる。二度目だ。ショーコさんのそれだ。
「お願いした身としてはなんだけど、今回ばかりはちょっと後悔したわ。無茶させてしまって、ごめんね。アキさん…」
徐々に意識がはっきりしてきた。腕には点滴剤がつながれている。ああ、このベッドはあの時のお尻の…。とそこまで思い出したところで、恥ずかしくなってきて、頬が紅潮する。ブンブンと頭を振って、気になっていたことをショーコに問う。
「…あ! あの…! テツ先輩は…! クロロブ開発区までの道の途中ではぐれちゃったんです!」
「安心して。彼なら隣の部屋で高遠くんが看てくれているわ。無事よ。生身の人間のくせに、あの距離を全速力で走って、五体満足で生きてるなんてどうかしてるわね、あなたの先輩は…」
そう言うと、ショーコは、ふふっと笑った。
「とにかく、今は安心してゆっくり休みなさい。アキさんの自宅には、あなたの上司―山下さんだっけ?―が、うまく事情を説明してくれてるわ」
交渉事において右に出る者はいない、あの山下さんなら、お父さんもお母さんもうまく丸め込まれてるに違いないと、おかしさを含んだ安堵を覚え、アキはうとうとし始め、再び深い眠りについた。
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