雪の香

涙墨りぜ

雪の香

 季節外れの雪、などという表現はとっくにこの世界から消え失せていた。ちらほらと昼夜を問わず降る雪は、冷たくも熱くもなくただいやなにおいがしている。鼻が曲がりそうと言うほどではないが、そのにおいを嗅ぐとどこか懐かしいような気持ちになり、それでいてその懐かしさはいい思い出を連想させるようなものではなくただ過去の失敗、恥をかいたこと、気まずい記憶がまざまざと蘇るような、非常な居心地の悪さを覚えさせるにおいだった。

 雪は冷たくも熱くもなく、うっすらと黄色い色をしていた。生きているものに触れるとすっと、例のいやなにおいを放って消えていく。人々はフードを被り、マスクをして外を歩くのが当たり前だった。身を守る術のない野良猫が、険しい顔でにゃあと鳴いた。

 その少女に出会ったのは、当たり前の話だがそんな雪の日だった。薄黄色の雪が道の端にたまり、生きている何かに触れられるのを待っている。清掃員の服を着た男が物憂げに雪を履いて、半透明なビニール袋に入れる作業をしていた。人々は雪が素肌に触れないように、それぞれ工夫した服装で歩いていた。そんな中、十五、六に見えるその少女はあまりにも無防備だった。半袖の赤いTシャツにジーンズという出で立ちで、あとからあとから雪が降り注ぐ空を見上げていたのだ。空は濁った黄色の雲に覆われて、『青空』というものを拝んだことのない一番古い世代が今、四十代を迎えている。

 彼女は道に積もった雪を靴の先で舞い散らせながら笑っていた。僕の視線に気づくと小さく手を降ってきたので、思わず振り返したら小走りに寄ってきた。

「みんな雪が好きじゃないんだね」

 おかしそうに笑いながら彼女は言った。そう言って笑う顔に、広げた手に、雪は触れていく。生身の身体の表面に触れた雪はすぐに消える。彼女はいやなにおいに塗れていた。僕の方にまで気まずい空気が漂ってきたので、僕は一歩距離を置いた。

「あなたは好きなの?」

 マスク越しのくぐもった声でそう尋ねると、彼女は「もちろん」と言って、自分の手についたにおいを嗅いだ。

「それ、いやじゃない? 変な気分になる」

「ぜんぜん。いいにおいだもの」

 僕は困ったなと思って頬をかいた。薄手の手袋は、直に雪が触れないようにするためだ。彼女はおかしそうに笑った。

「知らないんだね、あなたも」

「何を?」

 少女は体いっぱいに雪を浴びながら、「みんな努力して忘れていくんだよ」と掴みどころのない回答をした。

「忘れていくって?」

「嗅いだらわかるよ。いや……ううん、みんな、嗅いでもわからないから、忘れてるから、雪が嫌いなんだっけ」

 一瞬悲しげな顔をした彼女の顔には薄くそばかすが散っていた。三つ編みがぴょこんと跳ねた頭にも、薄黄色の雪が触れては消えた。

「いやなにおいじゃないか」

 そう言いながらも、僕は手袋を外していた。一瞬躊躇って、ひらりと舞い降りてきた一片に向かって手の甲を差し出す。それを顔の近くに持ってくる頃には僕の手の甲からふわふわとした雪は消え去り、ただあの嗅ぎたくないにおいがついていた。すん、とひと嗅ぎするだけで僕は穴があったら入りたいような気持ちになった。叱られたような、馬鹿にされたような、何かを間違えたような、気まずく恥ずかしい感覚が僕の背筋を這い上がって、頬にむずがゆさが走るのを感じた。

「いいにおいなんかじゃないよ」

 赤面しているのだろう、顔が熱い。無防備な出で立ちの少女は僕に近づいて、こう囁いた。

「その感覚は捨てて。においに集中するの」

 彼女の肌から、むわっとあのにおいがする。逃げ出そうとしたとき、ふと気づいた。

「これ……あの香水?」

 ずっと昔、父と僕を置いて家を出ていった、あの人がつけていた。せっけんのような香りで、いつも頭を撫でてくれるたびにこの香りがして……

「思い出した?」

「母さんの、におい」

 少女は微笑んでいた。僕は彼女から立ち上る、母の香水のにおいを吸い込んだ。息を吐くと同時に涙がぼろぼろと溢れ出た。

「私にはね、この雪……卵焼きのにおいがするの」

「…………」

「おばあちゃんがよく作ってくれた、甘い卵焼き。ネギも入れてね。……私が十歳のときに、亡くなったけど」

 雪は降り続ける。道行く人々が、僕ら二人を怪訝そうに横目で見ながら通り過ぎていく。僕はそれを感じながら、頭のどこかでは母との思い出の様々なシーンを、まるで映画の予告編のように一瞬ずつ切り取って見ていた。

「みんな、努力して忘れていく。……いい思い出も、気づいたら嫌なことを思い出させる引き金にしちゃうんだ」

 独り言のようにそう言うと、少女は僕にハンカチを差し出した。

「お母さん、好きだったんだね」

 僕はうまく言葉で返答ができなくて、それでも受け取ったハンカチを顔に押し当てながら何度も頷いた。涙を拭こうとマスクを外せば、気が狂いそうなほどに懐かしいにおいが、僕の鼻孔からなだれ込んできた。

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雪の香 涙墨りぜ @dokuraz

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