現実世界と多数異世界の協奏曲
毒林檎杯
プロローグ -夜-
バート・ジェーンズは初めてこの街に来たとき、ロンドンの夜は美しいと感じた。だからこの街で暮らそうと考え、実際そうしている。
夜の街に光があふれているからではない。薄闇の中ぼんやり光る街灯が街並みを照らして醸し出す、静寂と闇と光の淡い雰囲気が彼の心を打ったのだ。
だが、ロンドンに移り住んで十二年にもなる今となっては、街並みも闇も光もバートの心を打つことはない。心の中でこの街が好きだと想っている部分がかろうじて残っバートいる程度だろうか。
バートはロンドンに来て三年目に靴屋の経営を始めた。最初は好調子だったが、徐々に売り上げが減り始め、靴屋を始めた二年目にとうとう店をたたむ羽目に追い込まれてしまった。バートに残されたのは借金のみだった。
それからというもの、バートは自信を失い、生活のために仕方なく日雇いの肉体労働に従事する日々となった。
七年間も変わらない生活を続けて、年月はバートを三十一歳に仕立て上げていた。
バートには、もはや己の未来に希望を見いだすことなど到底できる心持ではなかった。死んだほうが楽だと考えることも時々あった。
それでも逃げ出さずにこの街に留まる理由は、彼自身にもよくわからなかった。朝から夜までの肉体労働。毎日疲れ果て、物を考える気力は徐々に衰えていった。
給金から借金の返済分を引いて残る金から生活費を引けば、手元にはわずかしか残らない。貯金することはとうに諦めた。残った金は毎日仕事終わりの一杯に使うことが習慣となっていた。
バートは今日もまた疲れていた。仕事が終わって、いつものようにこれから悪酒を一杯引っかけに行こうという段だ。いつの間にか季節は冬に変わっていた。肌寒さはあるが、雪が降るほどでもない寒さだ。霧はほとんどない。
飲みに行かずに家に帰って早めに休むこともできる。だが、バートにはたったの安酒一杯が彼の人生を(わずかばかりか)豊かにできる最後の手段なのだ。
バーへ向かうバートの目には何も映らない。ただ疲れた足を動かし、目的地へ歩くだけ。バーの中から漏れ出る光を見ても、何も感じなかった。
古い看板、古いドア、古い壁。中に入ると、古いがしっかりと磨かれたマホガニー製のテーブルが所狭しと並んでいる。何人かが席について談笑している。誰かが笑うたびに古い椅子は軋む。使い古された食器類。そして古い客たち。古いことは悪いことではない。新しい調度品が並べ立てられた店なんかは落ち着かないからだ。
悪酒を飲むのにこれほど適した店もない。六十を超えたこのバーのマスターはそれを求めて客が来ることを知っているため、特に周りに気に掛けることがないのもここに通う理由の一つだ。
バートは一人用の席につくと、全身の力を抜いて大きくため息を漏らした。また大きく息を吸うと、覚えのない香りが鼻孔を突いた。
「お疲れですか?」
聞き覚えのない声。振り返ると若い女が立っていた。バートは驚いて思わず変な声が出てしまった。
「な、なんでこんなとこに……!?あんた、ここではたらいているのか?」
何せこのバーは最近腰の曲がり始めたマスターが、人を雇うことなんてせずにずっと一人でやってきたのだから、女の子がいるなんて考えもしなかったのだ。するとしわがれたマスターの声が聞こえた。
「そいつは俺の兄きの娘さ。あんたがここに来たころの歳と同じ歳だね。手伝わなくったっていいっつったんだが、なかなか頑固な娘っこで、それなら勝手にやってくれってなったわけよ。さあ、バート、いつものやつだ。ケイ、持ってってくんな。」
マスターはジョッキをケイと呼ばれた女の子に渡し、椅子に腰かけた。
「おいおい、こんな店で女の子一人働かせて大丈夫なのか?あんたも歳なら男でも雇えばいいのに。」
バートが答えると、マスターは呵呵大笑した。
「いやはっは、俺の姪っこに手を出すやつがいりゃあな、こいつの出番よ。」
そう言ってマスターはカウンターの影から黒い棒のようなものを見せびらかした。
「じいちゃんったら、それ肌身離さず持ってるのよ。危ないのに。」
ケイが呆れたように言う。
ケイが置いた安いビールの入ったジョッキを口に運んですすってみる。いつもと変わらない味だがどことなく美味く感じた。
「それって確かカタナって言ったっけ。いままでカウンターの裏にそんなもの置いてあったのかよ。」
バートはこのバーを知り尽くした気分でいたため、裏切られたような気持になった。
「ふんっ。今までは出番がなかっただけさ。」
マスターが鼻を鳴らして応じた。
続々と客が入ってきたため、マスターとケイとの会話は途切れた。一人安ビールを飲み干し、勘定をカウンターの上に置きざま、ふと疑問が浮かんだので聞いてみることにした。
「なあ、マスターに兄さんがいたんだな。ちっとも知らなかった。」
ため息をついて、マスターが答えた。
「ああ、いたんだ。死んじまったのさ。一人娘を残して、中国の山の中でだとよ。まあ、ケイがロンドンに来たのは半年前で、その時に知ったんだがな。」
「そうか……。悪いこと聞いたな。すまなかった。」
バートは本当に申し訳なさそうに言うしかなかった。
「いいんだ。また明日な。」
「ああ、また明日。」
バートはそう言ってそそくさとバーを出た。
さっきまで降っていなかった雪はちらちらと降り始めていた。
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