猫になりたい
このところ、目覚ましをセットした時間よりも早く目覚めるようになった。
体内時計や生活のサイクルが変わったのかだとか、そういった問題ではなく、ただ単純に、毎朝律儀に起こしてくれる同居人と暮らすようになったからだ。
とん、とん、とん。上掛けを少しめくって、リズミカルにパジャマ越しに胸のあたりでステップを踏んだあとは、高くてよく澄んだ「にゃあ」の声。
ふにふにした感触とほど良い重み(ずっしり、と表現したいところではあるけれど、いかんせん相手はレディなのでそこは配慮させてもらう)ねぼけまなこを擦るこちらの視界に飛び込んでくるのは、少しきょとんとした様子で小首を傾げたおすまし顔。
「……おはよう」
すこし掠れた声で答えると、短い「にゃあ」のあと、少し間延びした「なぁー」の声。
「ちょっと待ってね、すぐご飯にします」
起きあがりながら、人間族に比べればずいぶんと小柄な体を抱き抱える。年中ふさふさの毛皮はやわらかですべすべしてあたたかくて、掌が埋もれるような感触が文句なしに心地いい。
ご機嫌とりとばかりに顎の下あたりを撫でてやると気持ちよさそうに瞳を細めてくれるけれど、すぐさま誤魔化されやしない、とばかりに抗議の声をあげられる。
「先に顔を洗うんで、それからね」
布団を引き剥がし、名残を惜しむかのような心地でベッドから降りれば、洗面所まで律儀に着いてきてくれるので、見守られながら顔を洗い、歯を磨く。
そこまでしてからご飯の支度にとりかかってもなんだかんだできちんと待ってくれているあたり、彼女もまたなんだかんだで忍耐強いというのか、つきあいが良いというのか。
「よく食べますね、よかったよかった」
どうやら食欲は大丈夫らしいと確認して、ひとごこちついたところでクローゼットから取り出したシャツとチノパンツを順に身につける。年中手入れの行き届いたグレーの毛皮のドレスに白い靴下まで身につけておしゃれしている彼女にすればさぞかし滑稽に写るだろうけれど、人間はTPOに対応するように衣服を身につけなければいけないのだ。面倒でもあり、おもしろくもある習慣だ。
身支度を簡単に整えたところで簡単な朝食、目玉焼きとトースト、コーヒー、レタスとプチトマトの簡単なサラダを食卓に用意する。
「いただきます」
人間の構成員はこの家ではひとりとは言え、慣例に従って手を合わせて決まり文句を唱えてから食事を取っていると、いつの間にか足下には食事を終えたはずの彼女が居る。
少しためらいがちにうろうろと右往左往したのち、少し間延びした「なぁ」の声。
「おいで」
案外奥ゆかしいところがあるよね、あなたは。とんとんと膝を叩いて示してやれば、ぴょんと軽々とジャンプをして飛び乗ってくるので、バターを塗る前のトーストのかけらを少しだけわけてやる。
「さっき食べたよね?」
まあ別腹と言うか、他人が食べてるものっていやに魅力的に写るんですよね、わかるわかる。ほんとうに食べたいというよりは、一種のコミュニケーションなんだろうし。
すりすりと顔を掌に擦り付けられると、やわらかな髭の感触がくすぐったくも心地よい。このざらざらした舌の感触も存外好きなので、やめなさいとは言えない。しつけがなってなくてすみません。でも、誰にも迷惑はかけてないでしょ? 優雅な朝のひとときを満喫するうちに、まだ出かけてもいないのに早く帰りたいなぁなどと思ってしまう。まぁ、そういうわけにはいかないのは承知の上で。
壁時計をちらりと見れば、そろそろ出かける準備に取りかかったほうが良い時間だ。
「そろそろ出ますね、お留守番お願いします」
布巾でざっとテーブルを拭き、流しで汚れた食器をすぐさま洗う。足下でちょろちょろ動き回ってくれているのは「がんばれ」のエールなのか、はたまた「おかわり」のつもりなのか。まぁ、都合の良いほうに解釈させては頂きますけれど。
玄関先までお見送りに来てくれる時がある時とない時があるのは……気分なんでしょうねそこは。まぁ、とやかく言うつもりはありません。何割かなんてカウントするつもりも勿論なくて。
ポケットとかばんの中身を念のためさっと確認したのち、いつものように声をかける。
「行ってきまーす」
返事らしきものが返ってくる時とこない時があるのはまぁ、ご愛敬ということで。
猫を飼っている、というのはひとたび誰かに話せば、たちまち波紋のように広がるものらしい。
「山下くん猫飼ってるんだよね?」
「ええまぁ、ちょっと前から」
プラカップのコーヒーにちびちびと口をつけるこちらを前に、好奇を隠すつもりなどさらさらないとでも言いたげに細いセルフレームの奥のまなざしを輝かせながら彼女は尋ねる。
「写真ないの。あと、動画とか」
私も見たぁーい、と傍らの女の子のまた身を乗り出してくるので、カーディガンのポケットから取り出した端末をすぐさまロック解除し、フォルダわけして保存した写真を拡大して映し出す。
椅子の上で器用に体を丸めておだやかに眠る姿、おもちゃにじゃれる姿、ぐんにゃりとおどけたポーズをとる姿。身内のひいきめを差し引いてたとしても中々絵になるし、かわいらしいのではないだろうか。(全世界の飼い猫がそういう生きものだというのは、この際おいておいて)
「かわいいー」
口々にもらされる言葉に、まんざらでもない気分にさせられてしまうのは致し方あるまい。そりゃまぁ、かわいいと思った瞬間にシャッターを切っているので。
「ツイッターとかインスタとかに載せないの、こういうの」
興味深げに投げかけられる言葉を打ち消すように、ゆらりとかぶりを振って答える言葉はこうだ。
「なんかあんまり好きじゃないんですよね、そういうの。別に不特定多数に見てほしくて撮ってるわけじゃないんで」
そういったツールが何かと便利だということも、誰かに見てほしいと思う気持ちも勿論、わからないでもないのだけれど。
「なにがあったのかとかなにを見たとかどんなこと考えてるのかとか、そういうのってちゃんと会って人と話して確かめたいんですよ。情報だけ一人歩きしてるのって、なんか怖くないです?」
「……まじめ」
ぽつり、と返される、おそらく本心から洩らされたであろう一言に思わず苦笑いをかみ殺す。
「融通が利かないんですよ」
暗転した画面をすっと裏返し、ゆっくりと引き寄せるこちらを前に、空気を変えるようにさらりと、横から投げ入れられるのはこんな一言だ。
「ねえねえ、この子の名前ってなんていうの?」
「――」
答えた瞬間、どこかきょとんとした様子で首を傾げられるのはいまや慣れっこで。
「え、なんか普通の名前だよね。猫っぽくないっていうか」
ぺき、と誰かの散らかしたコーヒーフレッシュの入ったカップの殻を指先で潰しながら僕は答える。
「ミーコとかミミとかモモとかチャチャとか、そういういかにもっぽいのがあんまり好きじゃないんですよ。日本で暮らすんだからソフィーとかエレナとかテレーズとか、なんかお姫様みたいな名前にするのも違和感ありますし」
「初恋の人の名前とかそういうの、もしかして」
「まさかそんな。フィーリングですよ」
そんなにネーミングセンスがないのだろうか。いちおう当人は納得してくれてはいるようだけれど。
指先に僅かについたミルクのあと(彼女が居れば舐めさせてあげるのに、だなんて思ったりする程度には同居人の存在はいまや、生活の一部だ)をティッシュで拭いながら、僕は続ける。
「たまにね、うたた寝してる時に呼んでみるんですよ。そしたら寝てるのかなって思ってても僅かにしっぽがゆらゆら揺れて、返事してくれてるみたいに見えて」
まぁ他の名前で呼んでもだいたい同じ反応なんですけど。どこか自虐的に答えれば、途端に周囲からはくすくすと笑い声があがる。
「呼ばれてるっていうのはわかるみたいですね。判別がついてるのかはともかく。複数飼ってれば違うんでしょうね、その辺も」
「本妻はひとりで間に合ってるって?」
「そういうのじゃないですよ、別に」
苦笑いの口元を隠すように、少しだけ冷めたコーヒーのカップに口をつける。
何気ないそんな瞬間にも、猫舌という言葉があったことをなんだか唐突に思い出したりするあたり。なんともまぁ。
「ただーいまー」
いつものように決まりきった動作で鍵を差し込み、ドアを開ける。暗がりの向こうから、ててて、と駆け寄る頼りなくも愛らしい足音。
「きょうもお留守番ありがとう。いま帰りましたよ」
ぱちんと玄関の灯りをともせば、マットの上でちょこんとこちらを迎えてくれるその姿が目に入る。その後のご飯が目的だろうとなんだろうと、こうして出迎えてもらえればそりゃあまぁいい気分には違いないわけで。
中々賢いですよね、あなたは。
こてん、と首を傾げてその場でおなかを見せてじゃれるその姿に誘われるままに、その場にしゃがみこみ、ふわふわしたおなかをさする。仕草につれるようにして、ちりん、と微かに首につけた鈴の音が鳴り響くのがなんとも愛くるしい。
「いい子にしてましたか。って、聞かなくてもその通りですよね」
にゃあ、と少し間延びしたような声。こちらに猫語がわかればいいのだけれど、わからないからこそ、こうしてスキンシップで距離をはかりあう。
「ごはん食べるよね、今から支度しますね」
ごはん、という言葉に関してはどうやら明確に理解しているようで、たちまちスイッチでも入ったようにむくりと起きあがるのがおかしいやらなんやら。
世の中の飼い猫には飼い主の気を引くために何かと作業の邪魔をするタイプが居るとはよく聞く話ではあるけれど、こと、我が家の同居人に関してはその点は淡泊なタイプのようで、こちらが何かにかまけているあいだに干渉されることはほとんどない。
メールチェックのあいだ、調べ物のあいだ、持ち帰りの仕事をしているあいだ――彼女はと言えば、特にこちらのことは気にとめない様子で自分の時間を自由に楽しんでくれている。
どうしてこうも適切な距離をわきまえているのだろう、と思わなくもないのだけれど。だってまだ子どものはずなわけで、なんだか老成しているというのか、なんというのか。
「さて、と」
一区切りがついたところでくるりと振り向けば、部屋の隅の定位置でお気に入りのおもちゃを抱えてまどろむその姿がふと目に入る。
「――、起きてる?」
そうっと呼びかけてみると、僅かにぴくぴく、と耳が動く。
「待っててくれてありがとうね。ちょっとだけ遊ぼっか。夜だから、あんまり騒がしくしないでくださいね」
引き出しから取り出したおもちゃを見せた途端、夜になるとまあるくぴかぴかに光る目はますます大きく見開かれる。好奇の色に満ちたこのまなざしを目にするたび、吸い込まれるような心地にさせられてしまうのは出会って間もないころからずうっと変わらない。
なんだかんだでぱたぱたと夜の運動会を繰り広げたその後、一日を終えるために寝床に就くころには毎回決まりきったかのように、彼女もまた、ぴょんと身軽に飛び乗るような形でベッドの上へと姿を現す。
「子守歌でも歌ってくれるつもり?」
さわさわ、と額のあたりを撫でると、いつもよりも少しか細い「にゃあ」の声。
こうして人間代表である僕が眠りに就くころ、彼女はといえば毎回決まりきったように寝床に現れてくれるのはいいのだけれど、寝静まったころを見計らうように姿を消していることを僕は知っている。
まぁ、昼間に活動して夜は眠りに就くサイクルで稼働している人間と違って、彼女らは主に夜間が生活時間なのだからあたりまえではあるけれど。
それでもなんだかんだといってこうして、人間の生活習慣に合わせてこちらを見守ってくれているあたり、律儀というかなんというのか。
「案外面倒見がいいよね、あなたは」
すり寄せられたふわふわとやわらかな身体をさわさわと撫でれば、どこか得意げな「にゃあ」の声。そりゃあそうですよね、かないっこないのは知っています。
ちいさくてふわふわしたあたたかな身体、きらきら潤んだまあるい瞳、あまえたように聞こえる声、小首を傾げて身をすり寄せる態度、なにげない仕草のひとつひとつ。
出会ってまもないころからたちまち、あなたの何気ないそんなひとつひとつにどうしようもなく惹かれていて、その気持ちはこうして共に過ごせば過ごすほどに、弾けて消えてしまうことなどないまま膨らんでいくその一方で。
「おやすみ、桐緒」
言葉と共にベッドサイドの灯りを落とせば、頼りない影がふわりと目の前を横切る。
「そんな夢を見まして」
黙っておくのも不義理かと思ったので。いやに真面目な口調で告げられる恋人のそんな言葉を前に、うつむいたままの顔がみるみるうちに赤らんでいくのを抑えきれない。
「ていうかなんで敬語なんですかそこで……」
「え、そこなの?」
カップの中で微かに揺れるアールグレイの水面を見つめながら僅かに震えた指先をぎゅうっと握れば、真正面から返ってくるのはいつものあの、心の奥をたちまちにほどかせるかのような飾り気のない笑い声だ。
「いやその、出演料? ネーミング料? そういうのを無断で使ってしまったので敬意を払おうと思いまして」
「仕方ないじゃないですか夢なんですからそんなの」
一息に答えた勢いでちら、とぎこちなく顔をあげたその時に視界に飛び込んでくるのは、どこか得意げに瞳を細めた笑顔だ。
「やー、報告するか正直ちょっと悩んだんだけどね。だからって他の人には話せないじゃないですか、はずかしくて。でもやっぱり桐緒さんには知ってほしかったわけです。なんとなくわかるでしょ?」
「……まぁ」
誰かの話し声、食器と食器がぶつかりあう音、様々な生活音、いつか見た映画の中でかかっていたような気がする、ゆるやかなアルペジオの音色。日常をすり抜けて通り過ぎていく沢山の音がこんなにも溢れている中でも、やっぱりこの人の声にだけは気持ちをくすぐるかのような淡い魔法がかかっていて、ひとつひとつが淡い色の影を落としていくことには変わりはなくて。
長くてしなやかな指先を、いつもどおりの滑らかさですっとカップの持ち手に絡めながら恋人は答える。
「ちょっといいなぁとは思ったよね、まぁ」
「猫が居ること?」
ゆるやかにかぶりをふる仕草と共に、どこか得意げに返される言葉はこんなひとことで。
「そうじゃなくて、桐緒さんと一緒に居られる生活が」
答えることなんて出来ないままぎゅっと口をつぐめば、さあっと耳が微かに熱く火照らされているのに気づく。
「……わたしだって」
「そっか」
うれしい。独り言のような無防備さで告げられるのと同時に、カップを離した口元にはゆるやかな笑みが広がっていることに気づかされる。
気づいているんですよね、あなたは。言わないでいてくれるのは果たして意地悪のつもりなのか、はたまた優しさなのか、検討もつかない話ではあるけれど。
嫉妬するに決まってるじゃないですか、そんなの。
決して口には出せないそんな言葉を飲み込みながら、少しだけ熱くなった指先をわたしはぎゅうっと握りしめる。
すぐに手を握れないテーブルを隔てたこの距離がこんなにももどかしくて、こんなにもいとおしいだなんて。
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