ひみつ
大抵の女の子はみんな、芸能人だけに限らず、ゴシップや噂話が大好きだ。
「みんな自分の人生に退屈してるからよ」というのはどこかで聞いた話だけれど、確かに言い得て妙なのかもしれない。
「えぇーっ、かなてぃーリーマンと付き合ってんの!? マジ!?」
嬌声みたいな一際高くて大きな声は、ざわざわした昼休みの教室中にめいっぱい響く。一層華やいだその輪の真ん中では、まるで芸能人の記者会見みたいに周囲をぐるりと取り囲まれた本日の主役が僅かに顔を赤らめながらも、まんざらでもなさげににっこりと微笑む。
「カッコいい? お金持ってるの? 車は? おごってくれる? 何か買ってもらった?」
「べっつにー、そんな言うけどさぁ、普通のオジサンだよ? 車だってそんなオシャレなのじゃないしね。中古で親が買ってくれたヤツだって言うし」
弾丸みたいに矢継ぎ早に繰り出される質問を前に、当の主役はと言えば余裕たっぷりの勝ち誇ったような笑みを浮かべたまますらすらと答える。気づけば、クラス中に聞こえるような大声で繰り広げられる質疑応答を聞き逃さないようにと、ついさっきまでマンガ雑誌のグラビアの女の子に夢中だったはずの男子までが必死に聞き耳を立てているのに気づき、私は思わず苦笑いを噛み殺すのに必死になる。
永峰さん、可愛いし目立ってて人気あったもんね。そりゃあショックだよね。同じ歳ならともかく、サラリーマンじゃそりゃあかないっこないよ。
「でさー、やっぱ年上ってことはー」
これはいよいよ、お昼休みにはうんと相応しくない話題が来るはずだぞ。
iPodのボリュームをいつもよりも少し上げてやり過ごすのにもいい加減うんざりしてきた私がその場を立ち上がろうとしたその瞬間、絶妙なタイミングで間を読んだみたいに、午後の授業の準備のために、と自分の席に戻ったはずのマキちゃんがふらりと目の前に現れる。
「桐緒、ちょっといい」
「はぁい」
答えながら、白いイヤホンをそっと外す。
「午後の地理の授業の資料取りに行かなきゃいけないんだけど、付き合ってくれる? 日野くん、今日休みみたいで」
「あぁ、うん」
「えぇー! それほんとー!!」
返事のつもりの言葉は、一際大きくて高い悲鳴みたいな叫び声にあっさりかき消されてしまう。
「なんでみんな、あんな大勢に聞こえるように彼氏の話なんてしたがるんだろうね」
「自慢したいからでしょ、そりゃ」
廊下を歩きながら、こともなげにマキちゃんはそう答える。
「あの子たちにしたら、彼氏なんてブランド物の財布やアクセサリーと一緒なんでしょ。自分をよりよく見せる為の飾りなんだから、自慢出来る要素があればあるほどいいってとこじゃない?」
「それにしたって、あんなにおっきな声で噂されてヤじゃないのかなぁ」
「おあいこでしょ、そこは。どうせ相手の方だってあっちこちで言いふらしてるんだから」
「そうなのかな……」
「ほら、そうやってまたすぐ余計な心配する」
こちらを見透かしたかのように、強気な笑顔を見せながらマキちゃんは答える。
「そういう人じゃないってことくらい、桐緒が一番分かってるでしょ。信じてあげなくてどうするわけ」
「まぁその通りですが」
「大体あんたって自慢なんてしたことないもんね。のろけなら幾らでもあるけど」
「だってそんな……人に言いふらすようなことじゃないじゃない。大事なことなんだし、やっぱり……」
「へー、のろけてるの自体は認めるわけだ」
「別にそんな、世間話の一貫っていうか……マキちゃんさ、そんなことよりもうすぐ職員室着くよ。リボン、付けておいた方がいいでしょ」
「ああ、そっかぁ。ごっめん、カバンの中だわ。今から取りに行くの面倒だしなー、見逃してくんないかなー。とりあえずボタン閉めとけばマシだよね」
答えながら、いつも上から二番目まで開けているシャツのボタンを慌てて閉じる。
「じゃあ桐緒のリボン借りていい? あたし、ひとりで行くから。出たらすぐ」
途端に慌てて身だしなみチェックをするマキちゃんの向こうで、ガラガラと無機質な音を立てるようにしながら職員室の扉が開く。
「失礼しましたー」
耳に馴染んだ、少し高い澄んだ綺麗な声。軽いお辞儀と共に、肩の辺りでさらさらと深い焦げ茶の髪が揺れる。
「あ、丁度良かった」
小さくそう声を上げた後にそっと手を振りながら、マキちゃんはこちらへと近づいてくるその影へと、ごくさりげなく声をかける。
「木崎さーん、悪いんだけど、制服のリボンちょっとだけ貸してくんない? 職員室行かなきゃなんだけど、忘れてきちゃって」
「いいよー。ちょっと待ってね。そっか、日(ひ)生(なせ)さん日直だったもんね」
「そうそう、よりによって午後イチで中岡センセの地理だって日なのに日野くん休みでさぁ。知ってて休んでのかよ、この確信犯め! って感じじゃない? まぁ、結局こやって付きあわせてるんだけど」
促すようにそっと視線をこちらへ向けられるのを感じて、私は居心地が悪そうに曖昧に笑うことくらいしか出来ない。
「ああそっかぁ、久瀬さんと日生さん、仲いーもんね」
するり、と首から外したリボンを手渡しながら、木崎さんは言う。
「優しいね」
どこか大人びて聞こえたその言い方が一瞬自分へと向けられた言葉だと分からなくて、私は戸惑う事くらいしか出来ない。
「サンキュ、助かったー」
「ごめんね、あたし今からちょっと電話しに行かなきゃいけないから付き合えないけど、教室で返して?」
「いいっていいって、そこまで付き合ってもらう義理ないもん。ね、桐緒」
「ああ、まぁ」
「じゃ、行くね。日生さん、久瀬さん、まったね~」
くるり、と身を翻し、上履きを忘れたのか、来客用のえんじ色のスリッパの音をペタペタと響かせながら颯爽と廊下の向こうに去っていくその姿を、私はただ言葉もなくぼんやりと見送る。
「……どしたの桐緒、行くよ?」
「ああ、うん。まぁ」
どこかぼんやりした心地の頭を覚ますみたいな、小気味よいノックの音が耳の奥に響く。
「失礼します、二年の日生です。中岡先生いらっしゃいますかー」
二年生から同じクラスになった木崎さんは、いい意味でどこか教室から浮いている女の子だった。
クラスの女子の中では一際背が高くて(こないだの検診では一六八cmだったらしい)、具体的にどこがというわけでは無いのに、どことなく大人びた空気を身に纏っているように見える。声の高い女子グループに属しているわけでもないのに、ごく自然と目立ってしまっているのは幸なのか不幸なのか。本人自体はその事をさほど気にしていないように見えるので、真相は確かではない。
所謂女子グループには所属していないように見えるけれど、どうやら数人の話相手は男女共に居るようだ。それにしたって、その中にマキちゃんが居たと知ったのは今日が初めてだ。
「マキちゃんてさ、木崎さんと仲いいんだね」
分け合って持った問題集を抱えながらふいに口を付いて出たそんな言葉を前にした、マキちゃんの返事はこうだ。
「いや、別にそうでもないけど」
「さっきリボン借りてたじゃん」
「それはまぁ、たまたま居たから? おんなじクラスなんだしさ、遠慮しなくたっていいでしょ」
「まぁそうだけど」
マキちゃんのこんな性分を、カッコいいなぁといちいち思ってしまう自分がいるのも確かで(本人に言えば『ばかじゃない』の一言で片づけられるんだけど)
「おおー、マキちゃんにきりちゃん、お疲れー! 重そうだね、半分もとっか?」
「やっほ七瀬。持つのはいいからさ、良かったら教室まで行ったらドア開けてくれる?」
前を歩くマキちゃんの影に隠れるみたいにして、私は声をかけてくれた彼女へとぎこちなく愛想笑いを返す。
こういう顔の広さだとか社交性だとか、困った時にごく自然に助けてもらったり、助けを求めたりするスキルだとか。こういうのはきっと、社会に出てからもっとずっと必要になってくる物なはずで。同じ時間だけ生きているはずなのに、いちいちこうも差が出てくるのは何でだろうなんてことを私はぼんやり考える。まぁ、人間力の差と言ってしまえばそれまでだろうけれど。
「マキちゃんときりちゃんってほんっと仲いいよねー。もしかしてさぁ、デキてんの?」
にやにや笑いと共に投げかけられるそんな質問を前に、涼しい顔でマキちゃんは答える。
「まぁそこはご想像にお任せしますとしか。ねー桐緒?」
「あっ、うん。まぁ……? そこはその、トップシークレット、みたいな?」
「あー、きりちゃんなんかモゴモゴしてる。あーやしぃー」
底抜けに明るいその口ぶりに、当てられるみたいに自然に顔が綻んでしまうのを私は隠し切れない。
午後の授業の間、黒板を見るフリをしたまま、眠気を必死に抑えながら自然に視界の端で追いかけていたのは何列か前の席に座る木崎さんの姿だ。
鼻筋が綺麗だから、斜め後ろから見る横顔はなんだか少し大人っぽい。時々手を挙げてする質問も、授業の内容をよく聞いて分かっているからこそ聞けるものばかりなので、素直に凄いなぁと、付いていくので精一杯の私は思う。
一年の冬から産休の為にお休みしている文香先生に変わって赴任してきた宮入先生は教え方が分かりやすい上、ちょっとした冗談や言い回しのセンスが良く飽きさせない授業に定評があり、なかなかの評判だ。そして何より、俳優を目指していたと言われても納得出来るくらいのキリリとした顔立ちの二枚目な事もあって、女子からの人気はかなり高い。
そういえば彼女には一時期、宮入先生と付き合っているだなんて三流ゴシップ雑誌みたいな噂がまことしやかに囁かれていた事を今更みたいにぼんやりと思い返す。恐らくはありがちな思春期の女の子たちの嫉妬からくるやっかみだろうと思ってはいるけれど、少しだけ本当のことならいいなぁなんて思っているのだから、私も中々たちが悪いのかもしれない。
「よーし、じゃあ教科書四十八頁右下、この問題は……」
しまった、当てられるかもしれない。慌てて目線を教科書へと戻し、思わず身構えるようにするが、どうやら少しでも愛しの先生にいい所を見せたい女の子たち・そんな彼女たちにいいところを見せたい男の子たちが率先して手を挙げてくれるおかげで、ここはどうにか切り抜けられそうだ。
「なるほど。いつの時代もいるんだね、そういう子って」
一部始終を聞いた荘平さんは、ミルクを多めに入れたカフェオレ(ブラックは胃に悪いので控えてもらっている)にゆっくりと口をつけるようにしながら、どこか懐かしげにそう話す。
「そういうのってドラマとかマンガの中の話だけだと思ってたし、私もちゃんと確かめたわけじゃないから噂するのも失礼なんだけど……」
「まぁ、それだけ魅力的な子ってことじゃ無い。桐緒さんだってさ、ちょっとだけ、本当だったら良いのにって思ってない?」
「まぁその通りではありますね」
どこか気まずい思いを胸に抱えたまま、ロイヤルミルクティーのカップにそっと口をつける。
あのどこか、同い年とは思えない穏やかさを秘めた女の子が胸の内に秘密の恋を抱えているのだとしたら―なんだか、それだけでより一層きらきら輝いて見えるんじゃないかなんてそんなこと。勝手な思い込みにも、程があるのかもしれないけれど。
俯いたまま思わず口を噤む私を前に、荘平さんは続ける。
「でもさー、うちの地元にもそういう人、いたよ? 俺らの世代じゃなくて、もう二個上とかだったけど」
「先生と付き合ってた人??」
「しかも結婚したそうで。なんかね、学生時代から内緒で付き合ってたんだってさ」
「あるんだ、本当に……」
ドラマみたい、なんて簡単に言ってしまうけれど、寧ろ現実にもごく稀に起こる事だからドラマになるのかしら。そんな感慨に思わずふける私に、穏やかに微笑みかけるようにしながら荘平さんは答える。
「おめでたいことに、もうすぐ赤ちゃんも生まれるそうで」
「大変だね、お母さんになるなんて」
「まぁ、先生の事だからきっと優しいお母さんになるんだろうけどね」
「えっ、そっちなの!?」
思わず声を荒げてそう答えた私を前に、ニヤリ、といつもどおりのあの笑みを浮かべながら、荘平さんは答える。
「……だよね?」
時に偶然というものは、思わぬいたずらを仕掛けてくれることがあったりする。そう、たとえばこんな風に。
「久瀬さん、捻挫大丈夫なの?」
「ああ、もうそんなに痛くは無いんだけど大事を取って激しい運動は控えるようにって言われちゃって……なんか恥ずかしいんだけどね」
「まぁいいじゃない、たまにはのんびりしなさいってことで」
余裕たっぷりに見える笑みを浮かべるクラスメイトを前に、私はただ曖昧に苦笑いを零すくらいしか出来そうにない。
「はーい、じゃあ出席番号順に二人一組でストレッチ開始―! 人数が足りないところは三人チームを組むようにー!」
視線の先では、体育の七原先生がキビキビと指導する姿が目に眩しく映る。かったるそうに、でも、何だかんだといって楽しそうにめいめいペアを組んでストレッチをするクラスメイトをぼんやりと所在なさげに見守る私の傍に居るのは、つい先日話題に出したばかりの木崎さんその人だ。
「木崎さんは偏頭痛だっけ?」
「薬も貰ってるんだけどこればっかりは持病でどうしようもなくてねー。まぁ、て言うのは表向きってヤツで。ここだけの話、ね」
そっとこちらへと身を寄せ、囁くような小声で木崎さんは言う。
「……できちゃったみたい、なのね」
「……えっ?」
事態がうまく飲み込めず、ぱちぱちと瞬きをする私を前に、くすくすと笑いながら木崎さんは答える。
「うそうそ。ね、まさか信じた? 久瀬さんってば純粋だなー」
「いや、冗談っていうのはその、場所と相手を選ぶものだし……?」
そもそも、私みたいに余り仲が良く無い相手にそういう冗談は良くないんじゃない? 思わず口に出かけたそんな言葉を、幾らなんでも冷たいんじゃないかと私は無理やりに詰め込むみたいに口の中へと押し戻す。
「ごめんごめん、ちょっと反省してるから」
屈託無くくしゃくしゃに笑いながら、木崎さんは言う。
「久瀬さんってさ、日生さんと仲いいじゃない」
「うん」
「あたしね、中三の時、日生さんと同じクラスだったのね」
視線のその先で、幅跳びの列に並ぶマキちゃんの姿をぼんやりと追いかけるようにしながら木崎さんは語り出す。
「中三の、秋頃だったかなー。ちょっと体調があんまり良くなくて、学校で軽い吐き気がして青くなってお手洗いまで駆け込んだ時があってさー。その時、周りのバカ男子が調子に乗って『木崎つわりー? 妊娠何ヶ月ー?』とかなんとかからかってきてさぁ」
「やめなよ男子ー、あやちゃんかわいそうでしょーとかなんとか。まぁそういう風に庇ってくれる子達はいたんだけど。その時さ、ほとんど話した事もない日生さんがすっと出てきて『気持ち悪い妄想で女の子汚すのもいい加減にしたら? この童貞野郎ども』ってたんか切ってくれたのね」
「……なんていうかその、マキちゃんらしいね」
見る見るうちにその様が浮かぶあたり、なんと言うのか。
「でしょ?」
答えながら、うんと誇らしげな笑顔がみるみるうちに広げられていく。
「日生さんってさー、なんかこう、不思議だよね。壁が無いっていうの? 誰に対してもそうやって何でもない顔してパッて乗り越えてくれるでしょ」
「そのくせ、自分のことはあんまり話さないけどね」
「いいじゃん、そういう所もカッコいいし」
視線の先では、助走を付けて軽やかに砂場に向かってジャンプするクラスメートたちの姿がいやに眩しい。
「高畑さん、3m93cmー。前回から新記録樹立成功―!」
ぱちぱちぱち。まばらに聞こえる拍手の音に合わせて、私と木崎さんもまた、同じようにささやかな拍手を送る。
「日生さんもだけどさ、あたし、久瀬さんのことも気になってたんだよね」
ぱちぱちぱち。拍手の手を止めないまま、じいっとこちらを見つめるようにしながら木崎さんは呟く。
「えっ」
面食らったままのこちらを前に、木崎さんは続ける。
「なんかこう、落ち着いてるっていうの? 適度に冷めてるんだけど冷たいってわけじゃないっていうか。キャーキャーはしゃいでるお喋りな子たちとはさ、なんかちょっと違うよね」
「話すことが無いだけじゃないかなぁ」
「またまたぁ~」
ふわりと穏やかな愛想笑いを浮かべて見せる横顔を、私は盗み見るように横目にそっと覗き見る。
やっぱり大人っぽい。どこがっていうわけでは無いし、派手なグループの子たちみたいにとりわけメイクが上手いわけでもないように見えるのにそう見えるのは、どこか余裕があるようなこの口ぶりや所作のひとつひとつに秘密があるのだろうか。それに比べたら私なんて、ちっとも落ち着いてなんていないのに。
やきもきする私の心持ちなど知ってか知らずか、涼しい顔をして木崎さんは尋ねる。
「ところで久瀬さんさぁ、いきなりだけどきょうだいって居るの?」
「ひとりっ子だけど。それがどうしたの?」
「ああ、そうなんだ。いや、こないだアトレでお兄さんらしき人といるの見たなーって思って」
従兄とかそういうのだった? もしかして。涼しげにそう答える顔を見た瞬間、裏腹に胸の奥がざわりと落ち着かなくなるのを私は感じる。
「あの、木崎さん……? ごめん、それって……いつ、かなぁ?」
努めて冷静に、穏やかに。そう念じたつもりなのに、意思とは裏腹のうわずった声色に我ながら笑い出したくなる。微かに耳が熱い。顔を上げるのが怖くて、うつむいたままゆっくりと目の前のその人の様子を伺い見るようにすれば、得意げににっこりと満面の笑みを浮かべる得意げな表情が視界に飛び込んでくる。
「そっかぁ、やっぱりそうなんだ」
ゆるやかなその笑顔はまるで、とびっきりのいたずらを成功させた子どものように無邪気だ。
「あのさぁ、もしかして……騙したの?」
「うーん、やっぱり結果的にはそうなっちゃうのかなぁ」
余裕たっぷりのその表情を見ていれば、怒ったり責めたりする気もたちまちになくなってしまう。たじろぐこちらを気にも留めず、ふふふ、と笑いながら木崎さんは続ける。
「ポツポツって噂に聞いたことがあったからさ、本当だったらいいな、って思って」
ごめんね、怒ってるよね? ほんの少しだけすまなそうにそう答える表情に、僅かにちくりと胸が痛むような、不思議な感情がそっと掻き立てられるのを私は感じる。
「別にいいんだけどね。その、みんなに言ったりとかしないでいてくれれば」
「もっちろん。元々そういうつもりで聞いたんじゃないしね」
「じゃあさ、交換条件って言っちゃ悪いけど、木崎さんも……」
どことなくばつが悪い心地のまま、先日からの懸案事項をこの機会に、と問い尋ねてみようかと思ったその時だ。
「あーやちゃん、くーぜさんっ」
無邪気に手を振りながら近づいてくる体育着姿のクラスメートを前に、私は喉元まで出しかけた言葉を慌てて飲み込む。
「さっきから楽しそうだねー、ふたりとも。何話してたの? コイバナ?」
「まぁそんなとこ? それよりしおりん平気なの、まだ授業中でしょ」
「先生が記録帳忘れちゃって取りに行くから寄っただけだもん。あやちゃんと違ってさぼりじゃないですしー」
ポニーテールのすそを揺らしながら屈託なく零れる笑顔につられるようにして無邪気に笑うその表情を見ているうち、隣の女の子がいつしか、年相応の女の子のような軽やかさを身に纏っている事に気づく。もしかしなくても、こんないい意味での奔放さが彼女の、この黒塗りの集団の中でいい意味で異彩を放つような魅力のひとつなのかもしれないと、私はぼんやり思う。
もしそれに気付いているのが、噂通りのあの人なのだとしたら。
我ながら下世話だな、とそう思いながらも興味は尽きず。どこか気まずい心地のまま、私はそっと眩しいその姿から目線を逸らす。
「面白いねえ、その子。一枚どころか二枚も三枚も上手っていうか」
けらけらと心底おかしそうに笑う横顔を前に、どこか不機嫌を隠せないままに私は答える。
「荘平さんは当事者じゃないからそう言えるんですよ。こっちはどれだけ焦ったことか」
「でもさ、俺ってそんなに隠さなきゃダメ? 先生とかとは話が違うじゃん。大体、全然有名人とかでもないし」
「そこはまぁ、悪いと思ってますよ……?」
「まぁ、それだけ大事に思ってくれてるってことだもんね?」
「自信過剰って言うんじゃないですかね、そういうのは」
「いやに冷たいんですね、今日は」
拗ねた子どものようにそう答えながら、しなやかな指先はそっと、はらりと優しく髪をなぞる。
「……わかってるよ、ちゃんと」
優しいその動きを止めないまま、荘平さんはぽつりとそう呟く。
「わかってくれてるってこと、私もわかりますから」
精一杯のそんな返事への答えの代わりのように、視線のその先で、荘平さんは瞳を細めたままやわらかに微笑む。
人にはそれぞれ、大なり小なりの秘密がある。
それを秘密にしておかなければいけない理由もまた、勿論人それぞれだ。
「日生さんはさー、会ったことあるの?」
「まぁ、何度かは」
「いいなー、あたしも見てみたいなぁ」
「……そんなこと言われても、見世物じゃないわけで」
口ごもる私を前に、どこか恐縮したようなそぶりで木崎さんは答える。
「ごめんごめん、そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「まぁそれはいいんだけど。それよりも」
「木崎さーん」
話題を変えようかと話を降ったその途端、絶妙なタイミングで間を読んだみたいに、廊下の向こうから声がかかる。
「今日、クラス委員の集まりでしょ? 悪いんだけど、先生の都合で早めに集まってもらいたいらしくてさ。準備出来次第でいいから臨時教室まで行ってくれる? ごめんね、お話中だったみたいなのに」
隣のクラスの女の子は、そう言ってぺこりと小さなお辞儀をする。その動きに合わせてさらりと耳を覆い隠していた艶やかな黒髪が揺れ、耳元の小さなピアスがキラリと光るのが見える。
「ごめんね、あたし行かなきゃ。良かったら続き、また今度ね」
「うん、まぁ」
「彼にもどうぞ、よろしくね」
「…………!」
すれ違いざま、囁くみたいな微かな甘い声で木崎さんはそっとそう告げる。そんな些細なやり口を前にして、私の心臓はいちいちばかみたいに跳ね上がる。まったくもう。我ながら呆れる程なのに。
「うぃーす、きりちゃん。お疲れー」
ぽんぽん、と肩を叩く人に気づいて振り向けば、そこにあるのはお馴染みのクラスメートの顔だ。
「七瀬。どしたの?」
「いや、さっきまでちょっと隣で話してたんだけど、出てきたら丁度きりちゃんが見えたから。それよりもさぁ」
僅かに声を潜めるようにして、七瀬はそっと私に尋ねる。
「きりちゃんって木崎さんとそんなに仲良かったっけ? なんか最近だよね、ふたり」
「まぁ……?」
どう答えればいいものか。適切な返事の仕方もわからないまま、私はひとまず苦笑いを零す。
ここで、今更のように気づいたことをひとつ。
人は、何か秘密を共有するようになると途端に距離が縮まるのだということ。
そしてもうひとつ。
結局私はまだ、彼女の秘密と睨んでいるもの―それが、果たして真実なのかという事にまた、上手くたどり着けていないのだということ。
まぁ、こればっかりは焦らないでいればいいのかもしれないけれど。
「そんでさ、きりちゃん。ちょっと聞いてほしいことあるんだけどこの後付き合ってもらっていい? マキちゃん、今日先に帰っちゃったしさー」
「いいけどなに。マキちゃんに内緒にしなきゃいけないことってなんかあった?」
首を傾げる私を前に、声を潜めるようにしながら七瀬は答える。
「いやほら、マキちゃんに相談したら絶対バッサリ『そんな男やめときなよ』って言われちゃうから……ね?」
どこか弱々しいその返答を前に、私はただ曖昧に苦笑いを漏らす。
自分の恋(らしきもの)が道に外れてるだとか、後ろめたいものだとか、そんな風に感じたことは私には一度もない。
ただそれでも、私の選んだ、そしてその選択を受け入れてくれたその人が同じ世界、同じ時間の流れで生きている人では無いのだということをひた隠しにするのことに、私はこんなにも無様なまでに必死だ。
理由はただひとつ、それが公にされてしまうことによって、彼が奇異の目に晒されてしまうことが何よりも怖いからに他ならないのだけれども。
「それでまぁね、その子、楢崎君っていうんだけど」
愛おしげに、そして無邪気に恋の相手のこと、彼と築き上げた関係、その進展ぶりを話す友達やクラスメートの話を耳にするその度、どこか羨ましいような気持ちになってしまうことは、これからも秘密のままにしておかなければと私は密に思う。
それも全て、他ならぬ私自身の為に。
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