遠くは近い
「よく女の子がさ、ライブに行った時なんかに『●●さんと目があっちゃった~』って言うじゃない? ああいうのって、実際どうなの?」
「まぁ規模にもよるから何とも言えないけど、そういう事もあるんじゃないの? 人間同士だし、お互い見てる方向が交差してるわけだからね。まぁ、でも……」
どこかすまなそうにくしゃりと苦笑いを浮かべたまま、荘平さんは答える。
「無粋な話だとは思うけど、そういうのって大抵、思い込みだと思った方がいいよね」
「……ですよね」
それ以上でもそれ以下でもないという表情を張り付けてそう答える私を前に、いやにすまなそうな顔をして荘平さんはこう返す。
「つまんない話しちゃってごめんね、夢、壊すっていうか」
「別にいいよ、私が聞いたんだし」
「あー、でも」
考え込むようなそぶりを見せたのち、彼は答える。
「元カノが客席に居るのが見えて、目が合った気がするって言ってた人はいたかなー。すっごい気まずいって言って、打ち上げでもその話ばっかしてんの」
「あー……それはそれは」
ご愁傷様に、としか言えない事態に、私は思わず苦笑いを噛み殺す。
「まぁね、来てくれること自体は嬉しいんだけどね」
「そうなの?」
意外さを隠せないこちらを前に、彼は続ける。
「だってさ、恋愛関係が終わったらそれっきりっていうのもなんか、寂しいじゃない? そこは抜きにしたって、音楽だけでも変わらず好きでいてくれるのは嬉しいなって思うよね」
ごく当たり前だといいたげに答えるその横顔には誇らしさと共に、ほんの僅かな寂しさがにじむかのように見える。もしかしたら今この時も彼は、目の前を通り過ぎていった誰かのことを思い出したりしているのだろうか。
「荘平さん」
呟きながら、ことりと肩を寄せる。ぱりっとのりのきいたシャツ越しに感じる、ゴツゴツした感触が変わらず心地よい。
誰かや何かを嫌いになることは、時として好きになることよりもずっと簡単だといういつか本の中で目にした言葉を、私は不意打ちのようにふと思い出す。
もしかしたら、私もいつか目の前にいるこの人を愛さなくなる時がくるのだろうか。その時には、この人の奏でるあの柔らかくたおやかなピアノの音色すらを受け入れられなくなることがあるのだろうか。
「どしたの、桐緒さん」
「なんでもない……です」
どこかきまずそうにそう答える私を前に、いつもどおりのあの優しい口ぶりで荘平さんは答える。
「人って、何かある時じゃないとそういう言い方はしないよね?」
「じゃあ、ほんのちょっとだけ何かあるけど、私が悪いだけで荘平さんには言いたくないことです」
「ありがとう、話してくれて」
見上げたその先で、形の良い唇がゆるやかにそっと弧を描く。
とびっきり優しくてあたたかなのに何故か胸をきりきりと締め付けるこのぬくもりを手放してしまうだなんて、いまの私には到底考えられない。
「桐緒さんさ、良かったらまたライブ来てよ。俺のこと、顔も見たくないくらい嫌いじゃなきゃ、の話だけど」
お馴染みのあの冗談めかしたような口調でそう話すのだから、思わずさっと顔が赤くなるのを私は感じる。
「行きますよ、荘平さんのこと、嫌いになんてなりたくてもちっともなれませんから。まぁパリだったら行きませんけど」
「大丈夫、日本で東京だから。パスポートとか要らないよ」
「あと、テスト前じゃなかったら」
「それはちょっと保証出来ないけど……来月の十三日だよ。十三日の金曜日」
「なら大丈夫、行けます」
答えた途端、荘平さんは穏やかにそっと頷きながら、瞳を細める。
「でさ、暫くリハだとか、他にも色々と納期間近な仕事が溜まってきてるんであんまり会えなくなっちゃうんだけど、それでもいい?」
「いいとか悪いとかじゃないよ」
「桐緒さんならそう言ってくれると思ったよ」
頼もしさすら感じさせてくれるその言葉を胸に、私はどこか誇らしさのようなものを感じながら微かに微笑んで見せる。
私は変わっていくし、彼もまたきっと変わっていくのだろう。
この日の今のこの気持ちすらも永遠ではなく、この『好き』もまた、遠くない未来にどこか形を変えているのかもしれない。それでも、この魔法のような『好き』を持ちつづけていられたらと私は思う。
永遠などないことくらい、子どもの私にもわかっているから。
「それでね荘平さん。あの時、目が合いましたよね?」
「ああうん、桐緒さん来てるなーって思ったら、うれしくって」
「それはいいっていうか、合っちゃったのはまぁ仕方ないんですけどね」
困ったように力なくそう答える私を前に、得意げににっこりと微笑みかけるようにしながら、彼は答える。
「別にいいじゃない、ウィンクとかしたわけじゃないし」
「そんなことされたらもう絶対行きません、行きたくてもばれないように変装します」
「そんな風に言われたら余計に期待しちゃうけど、それでもいいの?」
くしゃくしゃに笑う笑顔を目の当りにすれば、見る見る内に胸の奥でもつれた感情が緩やかに解けていくのを私は感じる。
私の隣で今こうして笑っているこの人は、遠く隔てられたあの光の向こうへと行き来することを許された、少しだけ特別な人だ。
遠くて近い、近くて遠いその場所からは、時折その距離を飛び越えるように色とりどりの思いが届く。どこか気恥ずかしくて、くすぐったくて、それでいてあたたかくて。こんな類の穏やかな気持ちのやり取りがいつまで続けられるのかなんて、分かる訳もないけれど。
「ごめんね、肝心な事言うの忘れてたや」
「ん、何?」
きょとんとした様子でそう尋ねる彼を前に、私は答える。
「すっごくかっこよかったです」
「桐緒さんならそう言ってくれると思ったよ」
どこか誇らしげに柔らかに微笑むその姿の眩しさを前に、私は気づかれないようにそっと目を逸らした。
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