自由

蛙が鳴いている

自由

 階段をのぼり、地上へ出た。一気に光が飛び込んできて、眩しさに目を細めた。眩しいといっても太陽はもう傾いていて、あと数時間すれば日が暮れる。

 スピード感が勝負だから、戻ったら早速作らないと、と先輩は言った。ですね、と自分も言った。

 クライアントとの打ち合わせの後、先輩はちょっと一服するわ、と言って喫煙所へ行ったので、先に帰りますね、と言って一足先に地下鉄に乗った。うちの会社以外にも検討しているところがあるとのことなので、なるべく早く見積もりをお送りしたい。今日中に作って、明日の早いうちに送付できればと思う。

 どうせ見積もりを作るのは自分で、出来上がったものを見て、先輩は突っ込みを入れるだけ。実際に作らないで横から口を挟むだけで気楽だよな、と思う。さっさと片づけて早いところ家に帰りたい。出来ることなら定時に帰りたい。別に家に帰って何をするわけでもないけれど。

 

 会社の近くには大きな公園がある。最寄駅からこの公園を抜けると近道になる。公園といってもオフィス街の真ん中にあるので、ちびっこを見かけることはあまりない。午前中に通るとたまにどこかの保育園の子供たちだと思われる団体がお散歩をしているところを見かけるくらい。

 公園の真ん中には噴水のある広場があり、ベンチがいくつか並んでいる。座っているのは全員大人。スーツやオフィスカジュアルな服装の人間で、煙草を吸ったり、スマートフォンをいじったりしている。

 空気の中にある微かな煙草のにおいに少し顔をしかめながら広場を横切る。久しぶりの革靴は少し歩きづらい。いつも楽な格好での出勤が多く、往訪などの予定がないかぎりはスーツを着ることがないので、陽が暮れていないのに既にいつもより疲れを感じる。

 広場を過ぎ、まっすぐ伸びた道に入る。道の両脇には気が生い茂っている。

 歩きながらクライアントの話を思い出す。業務内容。納期と納品データについて。人員を何人割こうか。最短でいつから業務を開始できるだろうか。

 

 笑い声が聞こえたので、視線を向けた。芝生が生い茂っている地帯で大学生くらいの青年が三人いて、そのうち一人が大の字に寝そべっていた。寝ころんでいた青年が、あああああーと叫んだ。残りの二人がそれを見て笑っていた。

 どういう状況だろう、と思った。気にはなったが、立ち止まってまじまじと見るのは恥ずかしい気がしたので、歩くスピードを少し落として青年たちを観察することにした。

 突然寝ころんでいた一人が動き出した。伸ばしていた両脚を頭の近くまで曲げ、そしてその脚を一気に振り上げ、全身をバネのようにして起き上がった。プロレスなどで見たことがある動きだった。ネックスプリングというやつだ。

 勢いよく起き上がり、そのまま走り出した。助走をつけるように側転をして、バク転、そしてバク宙。くるくるっと軽々と回った。着地した青年がまた、あああああーと叫んだ。何かに失敗したのか、決まったという感情からくる雄たけびのようなものなのかはわからないが、あああああーと言った。見ていた二人の笑い声が聞こえた。

 青年たちに視線を向けながら、会社への道を進む。今度は笑い声をあげていた青年の一人が走り出した。跳んで、回し蹴りのような動きをして着地をし、ぐるんと回った。手のつかない側転。側宙というのだろうか。うお、と声をあげて着地。バランスを崩したのか、二、三歩ほどよろけた。また笑い声が聞こえた。

 楽しそうでいいな、と思った。昼間から自由だな、と思った。うらやましいな、と思った。落としていた歩くスピードをいつもの速さに戻した。

 もちろん自分にも昼間から自由に遊べるような時間はあったはずだった。大学生のときはとても楽な毎日だった。文系の大学生が全員そうというわけではないけれど、自分の大学生活は毎日が休みのようなものだった。だから跳んだり跳ねたりしている彼らを見て、うらやんでみたけれど、自分にだって自由な時間はたくさん与えられていたのだ。

 今思えば随分無駄に過ごしたよな、と思った。無駄にした自由な時間がたくさんあったなあ、と思った。後ろからまた笑い声が聞こえた。いつか終わるぞ、と心の中で彼らに言った。


 公園を抜けて、コンビニへ入った。会社のすぐ近くにコンビニがあるのは助かる。もちろん大企業だったら会社の中にコンビニやカフェがあるんだろうけれど。

 いらたいまてーと声が聞こえた。レジに行き、アイスコーヒーを注文する。店員さんは女性で、ネームプレートの名前から判断するに中国人だと思われる。

 氷の入ったカップを受け取り、コーヒーマシンにセットし、ボタンを押した。豆を挽いていると思われる音がして、コーヒーが注がれる。カップの中のたくさんの氷を溶かしていく。

 コンビニを出た。ありがとござましたーの声が聞こえた。片手にコーヒー、片手にビジネスバッグ、スーツを着て革靴を履いている。随分とオトナになった。

 

 会社のビルへ戻り、エレベーターを待ちながら、ふと思った。

 今自分が仕事を辞めて、自由な時間が出来たとしたらどうするだろう。そんなことがどこからともなく、ぼんやりと頭に浮かぶ。

 何をするだろうか。何かやりたいことがあるだろうか。

 どこかに旅行へ行くだろうか。海外旅行? いや、言葉が通じないところは嫌だ。じゃあ国内旅行だろうか。温泉? 長くても二、三泊くらいで終わってしまう。他には何をする? ゲームでもするのか? やりたいゲームあっただろうか。

 自由な時間が出来たところで、大学生の時と同じように、また無駄に時間を過ごすのかもしれないなと思った。そして公園で楽しそうにしていた青年たちに向けて、しっかり楽しめよ、と思った。

 エレベーターが来て、扉が開いた。別の部署の人が乗っていて、おつかれさまですと挨拶をした。


 戻りましたーと言って自分の机にコーヒーを置いた。上着を椅子にかけ、椅子に座り、PCを立ち上げる。おかえりーと何人かが言ってくれた。

 同僚が席にやってきて、どうだった? と訊いてきたので、ざっくりとした業務内容と、競合他社がいるので早めに見積もりを作らなければならないことを説明した。同僚はなるほどと適当な相槌を打ったあと、先輩は? と訊いてきたので、煙草吸いに行ったので置いて帰ってきたことを教えた。それを聞いて同僚は少し笑って、結局見積もり作るのお前だもんな、と言った。


 見積書のテンプレートを呼び出して、先方からの話を思い出しつつ、打ち合わせのときに取ったメモを見つつ、情報を入力していく。三〇分ほど経ってからやっと先輩が戻ってきたので、認識を合わせようと業務内容について確認してみたけれど、そうだったっけ? と返答された。


 さっさと終わらせて早く家に帰りたいなと思う。だけどどうせ今日は遅くなるんだろうなと思う。別に早く家に帰ったところで何をするわけではないのだけど、出来ることなら早く帰りたいと思う。


 もうすぐフロア内には、定時を知らせる音楽が鳴る。

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自由 蛙が鳴いている @sapo

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