アヤカシ・トランキライズ

源 神酒

1話 Nobody's Listening

――この世には、妖怪が存在する。


 夜の空に雲は無く、ただ底冷えする風だけが世界を揺らしていた。

千々に輝く都会まちは、ただ無機質で雑多。

凍り付く程の、現代であった。

星が隠れてしまったから、街はその冷たさを隠す為、作り物の光をまとうのだ。


 その光を仄かに受けながら、少女はビルの屋上に居た。

風に、セーラー服のスカートと、腰にいた一振りの刀がなびく。

その眼前には、一体の妖怪。

黒いもやが凝固したような犬型の妖怪――ナナシが彼女を睨んでいる。


『山田さん、何かありましたか?』


 どこからか響く声。

それは少女の横に浮かぶふだから聞こえていた。


「大丈夫、ナナシが一匹出ただけ。すぐ片付く」


 札に向かってそう言うと、少女――山田浅江やまだあさえは柄に手をかけた。


「刃を抜く必要も無い」


 臨戦。

ナナシが吠え、空気が震える。

浅江はさやに収まったままの刀を静かに構える。

夜の大気を裂く様に、黒犬は跳んだ。


 普通の妖怪なら兎も角、妖怪の“成り損ない”に過ぎないナナシにはまともな知性は存在しない。

更に言えば、固有の能力と言える物も、特有の行動と言える物も一切無い。

故に、ナナシの動きには混じり気がない。

その動きは直線にして直情。しこうして、非常に予測し易い。

前方斜め上から、一直線に襲いかかる凶獣の牙。

その切っ先が少女を捉えんとした瞬間、ナナシは吹き飛んでいた。


 少し時間を巻き戻し、ゆっくりと再生しよう。

先ず、ナナシが迫る直前、少女は手にした刀を鞘に入ったまま地面に垂直に突き立てた。

そして正に衝突せんとするその時、立てた刀を支柱として、回転。

敵の攻撃を回避すると同時に、その横っ面に痛烈な回し蹴りを喰らわせたのだった。


 不意の一撃に、ナナシはその身から黒い靄をこぼしながら吹き飛ぶ。

犬の姿は不可視の器。溢れる黒こそ妖の本質。

黒い靄のような物は『妖気』と呼ばれる、汎ゆる妖怪を形造る素。

名前も逸話も持たない妖怪であるナナシなどは、ほぼ全てが妖気で構成されると言っても過言ではない。


 吹き飛んだナナシは勢い良く壁に激突し、悶える。

その口からは、まるで吐血したかの如く妖気が吐き散らされた。

だがまだ終わりでは無い。

ナナシの後を追う様に、浅江が駆ける。


 妖気の塊である妖怪には、通常の攻撃手段では殆どダメージを与えられない。

そもそも、大多数の人間には妖怪は見えてすらいないのだ。

妖気とは文字通り“気”、オーラの様なモノであり、見えず触れぬケガレである。

それが妖怪という存在に凝固した事で、辛うじて干渉できる様になっているに過ぎない。

幽明境ゆうめいさかいことにする。

人と妖とは、わば存在する層が違うのだ。

故に、先の一撃は見かけとは裏腹に、ナナシに対して然程それほどの威力を発揮していない。


 だが、この世の法則には、常に幾つかの例外が在る。

妖怪に干渉できる物、退治できる武器、触れうる生物。

この場においての例外とは、浅江が手にする刀であった。


 ナナシの下顎を、鞘ごとの刃が穿うがち砕く。

鞘に包まれた刀身はそのままナナシの頭部を貫き、背後の壁にヒビを入れていた。

声にならぬ声、妖怪の断末魔。その身体が数度震え、力を失う。

犬のカタチを取っていた黒い靄状の妖気は、まるで水風船が破裂する様に霧散むさんした。

一体の妖怪の消滅である。


 浅江は手にした刀を軽く振るうと、また元のように腰に佩き直した。

激しい運動の後であるが、その息には一切の乱れも見られない。

これが彼女の仕事で、彼女の役目だった。


「終わったよ」


『どうやら、そうみたいですね』


 またも札から響く声。

ここで一応断っておこう。

これは別に御札そのものが口を利いている訳ではない。

札の向こう側に人が居るのだ。

この札は謂わば通信機のような物である。


『大丈夫でしたか?山田さん、怪我とか無いですか?』


「うん。問題ない」


 札越しの声の主の名は山口やまぐちトウカ。

浅江の友人にして、共に『妖狩あやしがり』をやっている協力者であった。

妖狩とは、端的に言えば妖怪を討伐する、討伐できる人間の事である。

その一人一人が、浅江における刀のような妖怪に対抗する手段を所持している。


『なら結構です。私達の本命は別にありますからね。

 今怪我でもされたら困ります』


 文字面で見ると淡々とした台詞に思えるが、その口調は優しい。

彼女なりの気遣いが言葉の裏に横たわっている。


『強い妖気は、未だ北東にあります。

 八卦はっけで言えばごん所謂いわゆる、鬼門ですね』


「鬼門……鬼が出るか、蛇が出るか」


『さて、或いは仏が出るかも分かりませんよ。

 つい先程、妖気の正確な位置が特定できました。

 そこから北東へ大体600メートル行った所に、廃寺があります』


 それを聞いて、浅江は目の上に手をかざして北東を見やる。

だがすぐに眼を細め、顔をしかめた。


「……見えない」


『……見える訳ないでしょう、ビルの向こうなんだから』




―――

――――――



『寺号は藪庵寺そうあんじ。宗派は曹洞宗そうとうしゅう、つまり禅寺ですね』


 禅寺……?と明らかに分かっていなさそうな声を上げる浅江を無視して、トウカは続ける。


『昔は境内に池があることから御池さんと呼ばれて親しまれたそうですが……

 明治の廃仏毀釈はいぶつきしゃくの煽りを受けて打ち捨てられたとか』


「……寺の説明はもういい」


『おや左様で。まあ、もう着きますからね』


 そこを右です、とトウカに言われ、路地に入る。

建物の壁と壁の隙間を縫うようにしばらく行くと、不意に開けた場所に出た。

ビル群の狭間に、唐突に現れたそこは、都会の中の異界。

世界を満たす発展進歩の騒がしさの中において、ある種異常なまでの静謐せいひつ

その特異な静寂の中に、廃寺――藪庵寺は建っていた。


 浅江は刀の柄に手をかけつつ、境内へと足を踏み入れる。

星の無い夜、足元を照らすのはビルの灯りと月だけか。

長い放置の末に木々は無節操に茂り、石畳の隙間からは雑草が顔を出している。

奥には話にあった池であろう物がちらりと見え、その隣には柳の木が雰囲気たっぷりに立っていた。

全身に、妖気を感じる。

妖気とは文字通り、“妖しい気配”だ。

この場所は、妖しい。


『おっと、気をつけて下さい。

 あんまり乱暴にすると、床が抜けるかも知れません。

 或いは天井が落ちてくるかも……』


 それを聞き、きざはしを上ろうとしていた足を心持ち優しく下ろしながら、浅江は呟く。


「ボロボロ……」


『そりゃまあ、何分百年余りの放置物件ですからねぇ。

 山田さんが久方ぶりの来客でしょう。

 まあ昨今は廃墟マニアなる人たちも居るそうなので何とも言いかねますが』


 戸の障子紙は全て失われ、木の枠だけとなっている。

枠の向こうには寺の内が覗き込めるが、中は暗く今一つ判然としない。

月明かりが作った影が、床に格子状の升目ますめを描いている。

浅江は戸を引き開けると、警戒を張り詰めながら一歩踏み込んだ。


 畳は全て外され、木の床が剥き出されている。

仏壇こそ残っているものの、そこに収まるべき像や仏具は既に無かった。

廃仏毀釈で失われたか、出て行く際に僧侶が持ちだしたのか……

何れにせよ廃墟と言って良く、妖怪はおろか人の影すら見えない。

だが、より周囲を確認しようと浅江が更に内へ入ろうとした時、不意に音が響いた。


 シャリン、という澄んだ金属質の高音。

鈴のようなその音が発されたのは、浅江の正にすぐ後ろであった。


「!!」


 咄嗟に飛び退き、中央の辺りまで下がる。

そして音のした方を見やれば、背の高い男が一人、月を背に立っていた。


 その男は、僧侶装束をしていた。

墨染の法衣に輪袈裟わげさ、背に網代笠あじろがさを背負い、手には錫杖しゃくじょう

男は静かに口を開く。


「問おう」


 言葉を言い終えると同時に、錫杖で床を突く。

シャリン。

澄んだ金属質の高音が、夜の静寂しじまを裂くように鳴り、

そして、男の問いが、荒れ寺に響き渡った。


四手八足ししゅはっそく横行自在おうこうじざいにして両眼天りょうがんてんに指すは如何いかに?」


 妖気が、膨れ上がった。

男はその顔に薄っすらと笑いを浮かべている。


「お答え頂こうか」


 また一度錫杖が床を突き、遊環ゆかんが揺れて音を立てる。

シャリン、という音を。


『山田さん、その問題の答えは……』


「部外者は黙っていて貰おう」


 トウカが手助けを出そうとするが、男に遮られた。

男が浅江の眼を見つめる。

男は浅江より背が高く、必然上から覗き込むような形になる。


「手、手が四つで……?」


 そして当の浅江はというと、混乱していた。

手が四つで、足が四つ。横へ自在に移動して、両の目が空を指している物とは何か。

浅江は取り敢えずそれを人間で思い描こうとしたが、気持ち悪かったので考えるのを止めた。

何だろう。そんな生き物が居るだろうか。

居たとしたらそれは……


「……妖怪?」


 浅江が呟く。

その答えを聞いた男は、ニヤリと笑った。


「成る程、ある意味では、見事な領解である。

 だが、それでは正解とは言えぬな」


 そしてまた、シャリン、と音。


「怪でこそあれ何たるか。

 見よ、拙僧こそが答えである。

 拙僧は四手八足、横行自在にして両眼天に指すモノ。

 覚悟せよ。そのモノが……」


 瞬間、黒い靄のような物が渦を巻き、男を包む。

妖気に包まれて、妖怪が姿を現す。


「貴様を喰らう」


 左右一対のはさみ

片側四つずつ、計八つの足。

その眼は突き出し、天を向いている。

姿を現したそれは……


かに……!」


 そう、4メートルはある、巨大な蟹だった。

その身を覆う真紅の甲殻。

巨大な鋏は人間の頭すら挟み潰せる大きさ。

さらに、その背からは先程までの男の上半身が生えている。

突如現出した巨体に耐えかねて、廃寺の床が軋む。


『山田さん、聞こえますか?』


「一、ニ、三、四……本当だ。八つある」


『……答え合わせでアハ体験してる所申し訳ないですが、その妖怪の名前が分かりました。

 その妖怪は蟹坊主かにぼうずです』


 札の向こうでトウカが言う。

さて、ここで蟹坊主という妖怪について説明せねばならないだろう。


 何時の事かは伝わっていない。

山梨県山梨市万力まんりきに、長源寺という寺がある。

ある時、その長源寺の住職の下に、雲水――諸国を修行して歩く僧――が訪れ、問答を仕掛けたそうである。

曰く、『四手八足、横行自在にして両眼天に指すは如何に』。


 長源寺は曹洞宗の寺、禅寺である。

そのため住職はこれも何らかの禅問答であろうと考えた。

しかし、答が分からない。

言葉に詰まる住職を、雲水は、殴り殺した。


 怪異の始まりである。


 この事件以来、新しく長源寺に来た住職が次々と殺されるようになる。

こうなると、そのような化物寺には誰も来たがらない。

やがて長源寺は、無人の寺となった。


 さて、それからしばらくして、法印ほういんという旅の僧がこの地を訪れた。

法印は村人が制止するのも聞かず、噂の長源寺に一夜の宿を取る事にする。

些か、無謀なたちだったのかも知れない。

まあここは度胸がある、ということにしておこう。


 ともかく法印が長源寺で夜を待つと、案の定、謎の雲水が現れた。

一説によると身長三メートルの怪僧が出たのだと言う。

そんな者が来たら最初の住職も呑気に禅問答と洒落込まないのでは、とも思うが。

それとも、態々わざわざ化物寺に泊まる様な法印を少しでもビビらせようと、今回はちょっとデカ目で行ってみたのだろうか。

だとしたら御苦労な事だが、法印はそのデカさに何のリアクションもしてくれない。


 さて、怪僧が出たからには問答である。

何時もの『四手八足、横行自在にして両眼天に指すは如何に』を法印にも問うた。

今までの住職達はこれに答えられず、殺されてしまったのだ。

だが法印は違った。

その問いを聞くとカッと目を開き、それは蟹だ!、と叫んだ。


 そして独鈷杵とっこしょという仏教用具で怪僧をぶん殴った。

すると怪僧は巨大な蟹の正体を現し、反撃を試みた。

だが敢え無く撃退され、逃げ去ったとも、殺されたとも、逃げたのを追ったら死んでいたとも言われている。

これが蟹坊主という妖怪である。


 問いに答えられないと殺されるのに正解してもバトルなのか、とも思うが、

法印が先にいきなり戦闘開始しているため、実際正解するとどうなるのかは分からなかったりする。

また長源寺以外にも岩手や石川などに類似の伝承があり、『蟹山伏かにやまぶし』という狂言がその大元とされる。


 さて、視点を現代に戻そう。


「それで……」


 ここは荒れ寺、藪庵寺。

現代に蘇った妖怪・蟹坊主と、妖怪を狩る者――妖狩の少女山田浅江が睨み合う。

浅江の隣には一枚の札が浮かぶ。札の表面にはいねの紋。


「どうすればいい?」


 浅江が札に、その向こうのトウカに問う。

妖怪は物語によって生まれ、物語に縛られる存在だ。

故に、その妖怪について語られる事は、全てがその妖怪の構成要素足りうる。

火を吹くと言うのなら火を吹くし、空を飛ぶと言うのなら空を飛ぶ。

それが身体構造的に見てどんなに不条理な事であろうと、そうなるのだ。


『蟹坊主に、特殊な攻撃手段等は存在しないと思います。

 類話も多い上に戦闘描写がはっきりとしない妖怪なので断言はできませんが……

 鋏などによる物理攻撃が主体でしょう。

 事実、長源寺には今も蟹坊主の爪のあとが付いた岩があるとか』


「なるほど」


 その言葉が終わるか終わらない内に、巨蟹の爪が浅江に向かって振り下ろされた。

岩石に易々やすやすと痕を残す程の威力が、少女に襲いかかる。

浅江は、それを上に跳躍して辛うじて回避。

標的を失った爪は、廃寺の腐った床を容易く貫き穿つ。


「確かに……凄い力」


 浅江は着地後、爪痕を一瞥いちべつし呟く。

そして、腰の刀に手を掛けた。

その一振りこそ、彼女が妖怪を討つ為の手段。


十六代じゅうろくだい山田浅右衛門やまだ あさえもんの名において、その刀身を抜き放つ」


 静かに紡ぐ言の葉は、妖しの刀を抜く資格。

親指で鯉口こいぐちを切り、垣間見える刀身は、凍てつく星のように銀。

少し浮いた柄を握り込む。


「抜刀、『妖刀・千人切せんにんぎり』」


 解き放つ。

鞘から滑り出た白銀の刃が、廃寺の闇の中で冷たい殺気を帯びて輝く。

その様を見て、蟹坊主がほう、と声を上げた。


「その刀にその名……現代の人斬り浅右衛門は妖怪ばけものも斬るのか?」


「違う」


 返すのは、短い否定。

そして、浅江は刀を構えた。


「今は、斬るのは妖怪だけ」


 同時に、千人切の刀身が、切っ先から黒く変色していく。

まるで布が墨で染められていくように、先から漆黒が上ってくる。

千人切が、妖気を吸っている。

集まった妖気の一部は靄となって刀の周りを漂い、闇の中で浅江は黒を纏う。


 そして浅江は、吸い寄せた妖気を一気に開放した。


「ッ!!」


 咄嗟に、右の爪を前に出す。

硬質の物体同士が衝突する音。

纏った妖気の一気放出による高速の突進斬撃。

謂わば、ジェット噴射。

その威力の前に、妖怪の剛爪ごうそうに大きなヒビが入る。


「何たる力……!」


 化生けしょうの男の首筋を、冷たい汗が伝う。

もし咄嗟に防御していなければ、この人身の首が飛んでいただろう。


 人と違う層に住む存在である妖怪に干渉しうる物とは、妖怪と同じ層に存在する物に他ならない。

妖気を色濃く纏った物。けがれに強く浸された物。妖怪と同じ存在にまでおとしめられた物。


 千人切。文字通り、千の命を喰らった刀。

江戸時代の死刑執行人一族、山田浅右衛門やまだあさえもんが愛用したとされる刀である。

積み重なった『死』は何時しか妖気となり、千人切を妖刀へと変えた。

現代の山田浅右衛門は――山田浅江は、妖刀を構える。


「さあ、続けよう」


 今一度、千人切の周りに妖気が集まってくる。

黒の刃が、集まる闇黒の中に紛れていく。

浅江は姿勢を低くし、一路蟹坊主に向かって駆ける。

第二撃が、出る。


「させるものか……ッ!」


 攻撃を妨げようと、蟹坊主が無事な左の爪を振るう。

浅江の脚元をえぐるように、赤いギロチンが床をう。

だが、焦っているのか、その動きは精彩を欠き、

浅江は妖気の噴射で爪の一閃を簡単に跳び越えると、そのまま蟹坊主へと肉薄にくはくした。


「斬る……!」


 そして一太刀。

犀利さいりな黒が中空を滑り、切り裂く大気を震わせうなる。

繰り出す刃は流れる水の如く、化生の首元へと迫る。


 だが、絶体絶命の危機の中で、妖怪は笑った。


「甘いぞ人斬り!

 勇往邁進ゆうおうまいしんは結構だが、深謀しんぼうを失するは愚昧ぐまいの極みである!」


 男の背後、暗闇の中に、光の線が走る。

描き出すは幾重にも重なる法陣。

法陣の中には、図像化された満開のはすの花が清浄に輝いている。

三昧耶形さんまいやぎょう御仏みほとけの印。


示現じげんせよ、千手観音!」


 男が叫び、法陣が揺らめく。


「……!」


 浅江が、息を呑む。

法陣から生える、数多の腕、腕、腕……

人間の頭なら握り潰せる大きさの掌の群れが、浅江へと迫る。

場所は空中。回避は、不可能。


 千手観音、または千手観世音菩薩。

文字通り千の手を持つ菩薩、仏である。

前述した長源寺の本尊ほんぞんもこの千手観音なのであるが、そこにはとある逸話が存在する。

退治された蟹坊主の死骸から、千手観音の姿が立ち現れたのだそうである。

それに感激した法印が、千手観音を本尊として長源寺に祀ったと言われている。

つまり、


「拙僧の中には、千手観音様が居られるのだ」


 脚を捕まれ宙吊りになった浅江に、蟹坊主が語りかける。


「御姿の残り香に過ぎぬがな」


 その言葉の通り、法陣から伸びる千手の腕は、水面みなもの像の様に揺らいでいる。

だがそれでも、その腕はしかと浅江を掴んで放さない。

宙に吊られた浅江の鼻先に、錫杖が突き付けられる。

シャリン、と澄んだ音。


しまいだ妖狩。

 後は貴様を喰らいて、またこの身に破戒はかいを刻むのみよ」


 目と鼻の先で揺れる遊環。

だが浅江は、錫杖の輪越しに、静かに蟹坊主を見据えていた。

その眼差しに恐れは無く、悲観も無く、諦めも無い。

ただ研ぎ澄まされた刃の如き鋭さだけが、貫く光を帯びていた。


 浅江はまだ、負けては居なかった。


「貴様、何を……ッ!?」


 千人切の刀身から、靄が闇の中に吹き出した。

靄の正体は、妖刀の中で変質した妖気。

瞬く間に、対峙する二人は刀から溶け出た黒に包み込まれる。


 それは、妖刀千人切が内包する、『千を斬る』という概念の顕現けんげん


「『千人切せんにんぎり一居千刃いちいせんじん』」


 始まりは、一閃だった。

浅江の脚を掴んでいた手が一太刀の下に切り捨てられ、霧散した。

そして次にまた一閃が走り、錫杖の先が切り飛ばされた。

また、一閃。一閃。一閃。一閃。一閃……


 空間に広がる墨黒の靄から刃が次々と現れ、一太刀浴びせ、消える。

渦巻く刃の群れは、まるで黒い嵐。

最早千手の手は全て切り落とされ、頑丈な筈の甲殻ですら、続け様に放たれる斬撃の前に脆くも崩れ去っていく。

千人切の内からい出た妖気が、千の刃を形作る。

それは山田浅右衛門という一族が積み重ねてきた死の形であり、代々をかけて振るわれてきた処刑の刃。


「くッ……!これは……!」」


 何とか防ごうと上げた両の鋏が、砕け散っていく。

八の脚を全て壊され、甲羅の彼方此方あちこちにヒビを入れられ。

巨蟹は、最早もはやその体を保つ事も出来ず、崩壊する。


「南……無……」


 そして、蟹の体は消え、ドサリと男が落下した。

空中で回転し着地した浅江が、倒れる蟹坊主に歩み寄る。

千人切は、全ての妖気を放出しきり、再び白銀に戻っている。

そして浅江はそれを男の首元に当てると、黙って振り下ろした。


「勝ったよ」


 刀を一振り、腰に佩く。

札の向こうで息を呑んでいるトウカに、勝利の報告。

途端に、安堵のため息が漏れる。


『それは、何よりです。

 山田さん、怪我してないですか?痛いとこ無いですか?』


「うん。大丈夫」


 報告を終えた浅江は、足元に視線を落とす。

そこに、先程まで倒れていた蟹坊主は影も形も無い。

だが、それと引き換えに何か、白い紙が一枚、床に落ちた。

浅江はそれを拾い上げると、廃寺を後にする。


 夜は長く、まだ終わらない。

誰も知る事の無い夜が続いていく。

妖狩の少女は、静かに夜の街に消えていった。

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