10話 迷い家へようこそ

 路地裏、というのは最も身近な異界ではないかと思う。

一歩踏み込めば、人の活気も、街の光も、車の喧騒けんそうも遠のいてしまう。

普段はそう通ることもない、という点もまた異界を感じさせる所以ゆえんだろう。

だから、この一見普通の路地裏に宝殿ほうでんへの入り口が存在する事は何ら不思議ではない。


「駅前から北に、四番目の角を曲がってから次に六番目の角を曲がる。

 そのまま二階建ての物だけを数えながら進んで五番目の建物……

 ってここですよね?」


「うん、合ってる」


 びついた裏口のドア。

青いポリエチレン製のゴミ箱。読めない壁の落書き。

窓の向こうに明かりは無く、中からは音も聞こえない。

そもそも何の建物かも分からない。

本当にこれが異界に通じる扉なのかと首をかしげたくなるが、間違いは無いはずだ。


「まず、私が」


 そう言って浅江が前に出て、ドアノブを握る。

そして静かにひねるその手の動きに合わせて、浅江の体が渦を巻いていく。

体がねじれて、ぐるぐると回転し、消えた。

握っていた手が消えた事で、ドアノブがガチャンと元の位置に戻る。

扉は開いていない。

扉はただの装置であって、これを開けようとする動作が必要なのだ。


 続いてトウカもドアノブを握る。

瞬間、体の内側から湧き上がってくる何かぞわぞわするような嫌な感覚。

ハッキリ言って気色が悪いその感じに、思わず眉を顰める。

ノブをゆっくり回していくと、その感覚はどんどん強くなっていく。

今、自分の体が渦を巻いてこの世から消えていく正にその途中なのだと思えば、より気持ちが悪く感じられた。

そしてその感覚に、思わず目を瞑る。


 まぶたの裏。あるいは消えた先の世界。

閉じた筈の眼に、見える物がある。


 真っ白いだけの空間。

上も下も、果ても変化も何も分からない世界。

そこにふわふわと浮かぶ自分。

透明な泡のような物が漂い、横を通過していく。

横を――?

いや、私が前に向かって流されているのだ。

白い。どこまでも白いだけ。


 そのままただ流されていくのかと思った矢先、音が響いた。

純白の中に、拍子木のような音一つ。

途端、景色は一変する。

一面の黒を背景に突然差す、燃えるような赤。

紅葉もみじだ。横に並んだ紅葉並木が、背後に流れていく。

その向こうに何か――鳥居が見えてきた。

紅葉は両側にけ、視界には鳥居だけ。

すると左右から、いくつも鳥居が現れ、並んでいく。

左右に伸びた鳥居。それがくるりと円になる。

くるくると回る鳥居の輪っか。

私はその中へと飛び込んだ。


――広がる光の向こうに、にゃあと鳴く黒猫一匹。


 トウカは目を開いた。

足元には地面がある。踏みしめれば、砂利だ。


「ふぅ……」


 ため息を吐いた。

ここに来るのは二度目だが、この移動方法は慣れない。

何故わざわざ毎回幻覚のような物を見なければ移動できないのだろうか。

異界への移動にはこれを伴う……という訳では無く、ここ、宝殿が特殊なのだ。


「大丈夫?」


 先に着いていた浅江がトウカを振り返る。

彼女はどんなイメージを見たのだろう。

私が今日見た物は、前に来た時と同じだった。

一方で、見える映像は人によって異なるらしい。

個人向けに誂えられたイメージ、とでも言うつもりなのか。


「ええ、行きましょうか。

 ……余り気乗りはしませんが」


 トウカは砂利を鳴らして歩き出す。

目の前には大きな日本家屋、これが宝殿だ。

この世界には、この建物とこの庭しか存在しない。


 トウカ達がドアノブを回したのは夕方近く日も傾いた頃だった。

だが今この庭には、明るい日差しが満面に降り注いでいる。

ここは別の世界なのだ。空すら同じでは無い。

こういう異界に時たま迷い込んだ者が、そこをまよや竜宮城と名付けるのだろう。


 異界。私達が普段暮らしている物とは別の世界。

確かに妖気とは本来『創造』の性質を持つ物ではあるが、世界を一つ構築するまでするのは並大抵の技では無い。

それも個人がそれを行うとなると、余程の術者でもなければ到底不可能だ。

そしてこの異界『宝殿』も、強力な術者による産物なのである。


「お邪魔しまーす……」


 靴を脱いで縁側に上がり、部屋に入る。

そこは四方をふすまに囲まれた和室で、座布団が三枚敷かれている。

すると目の前の襖が、ひとりでに勢い良く開いた。

こちらに進め、という事らしい。

次の部屋――見た目は前の部屋と同じだ――に入ると、また目の前の襖が開く。

そうやって誘導されるまま何部屋か進むと、不意に背後で襖が閉まった。

目的の部屋に到着したのだ。


「ようこそ。待っていたぞ」


 座布団に胡座あぐらをかいて微笑む人影。

中性的で、男にも女にも見えるその相貌。髪は長く白い。

深月しんげつ。それがこの男の名だ。


 彼が立ち上がると、四方の襖がまた勢い良く開いた。

と、同時にその全てから風が吹き込み、花弁はなびらが舞い踊る。

この部屋の外は外。今まで通ってきた部屋は全て、消えてしまっていた。

右は冬。前は春。左は夏。そして二人の背後は秋。

どれも違う季節の花が、それぞれ開いた襖のその先で咲き乱れている。

四方四季しほうしきにわ


「何やら僕に尋ねたいことがあるそうだな。

 境会とは親しくさせてもらってるし、僕が力になれる事ならなんなりと答えよう。

 とはいえその前に……」


 男の顔に浮かぶ笑みが一層大きくなる。

襖が再び閉まったかと思うと、今度は壁が外側に倒れだす。

箱を展開するように部屋が開かれた。

と、次の瞬間。

三人は最初の庭に立っていた。

今まで居た部屋はどこにも無い。


「思う存分に、僕のコレクションをながめていくが良い」



―――

――――――



「こちらが、かの渡辺綱わたなべのつな一条戻橋いちじょうもどりばしで鬼の腕を切った際に用いたことから

 『鬼切おにきりまる』とも称される名刀、『髭切ひげきり』だ。

 現在は北野天満宮にも髭切とされる刀は所蔵されているが……

 あれは僕がすり替えた模造品レプリカだ。本物は渡さん」


 ニコニコ顔の深月に先導され、トウカと浅江は宝殿の中を進む。

そこにあるのは数々の、武器、道具、絵画、古文書……

そのどれもが妖怪に関する品や不思議な逸話にまつわる品ばかり。

中には妖怪の体の一部――鬼の角や天狗の爪など――すら収められている。


「そしてこちら、鎌鼬かまいたちという妖怪は三匹一組で人を襲うと聞いた事はあるか?

 一匹目は相手を転ばせ、二匹目が鎌で切り付け、三匹目は塗り薬で血を止める……

 この壺に入っているのがその薬そのものだ」


 嬉しそうに『コレクション』を解説していく深月。

そう、ここは彼が、コレクションの収集陳列を目的に作り上げた異界なのである。

謂わば規模のデカい驚異の部屋ヴンダーカンマー

その為だけに世界を一つ作り出し、長くの間ここで暮らしている。

それがこの男、深月だ。


 更に彼は境会と、妖狩の人手が足りない時にはこれらのコレクションから武器等を貸し出すむねの契約を交わしている。

そして、その見返りとして、境会は彼のコレクションに加えるような珍品があれば、ここに送ってやるのだ。

後ついでに、訪れた妖狩に長々しい講釈を垂れる権利も与えているらしい。

実際、境会にとって彼との契約は助かる物なのだろう。

そのため……


「それでこっちの避来矢ひらいし……は今は貸出中か。

 じゃあ魔王の小槌を……これも無いな。

 干将かんしょう莫邪ばくやは……莫耶だけあるのか。じゃあいいや」


 こういう事にもなる。


「あの……そろそろ……」


 恐る恐るトウカが声をかける。


「おっと、すまないな。時間を掛けすぎたか」


 振り返った深月が済まなそうに笑いかける。

それに、トウカは曖昧に笑い返す。

何はともあれ、本題に入れるようだ。


「よし、では次の棟に向かおう。

 そっちには『三枚のお札』のお札、人魚のミイラ、江戸時代の瓦版など

 直接戦闘には向かない貴重な品が収められていてだな……」


「あはは……」


 参った。

この人の話は何時まで続くのだろう。

私は良い。私は良いんだけど……

山田さんが既に寝かかっている。



―――

――――――



「成る程、その紙が例のやつか」


「あ、はい」


 トウカはくだんの白い紙を深月に差し出す。

三人は歩き回った後、最初の部屋と同じような部屋に戻ってきていた。

同じ部屋かどうか、という問いには意味は無い。

ここは深月が自由にできる空間なのだ。


「ふむ……

 この紙から妖怪が出て来るという話なんだな?

 ……見たところ特におかしな所は無いようだが」


 深月は紙をつまむと、明かりに透かし、ためつすがめつ眺める。


「余り質の良い紙ではないようだな……

 ふむ、これは結構古い代物だぞ。江戸時代ぐらいだろう」


「はあ、分かりますか」


「まあ色々見てきたからな。分かることもある。

 ……さて、紙から妖怪が出ることについてだが」


 深月は手にした紙を畳の上に置く。

その近くに、桜の花弁が一枚落ちていることにトウカは気づいた。


「まず、紙そのものの妖怪としては、『紙舞かみまい』というモノがあるな。

 これは神無月かんなづきにのみ起こる特殊な現象で、名前通り風も無いのに紙が舞う。

 西洋で言うところのポルターガイスト現象に近い物だな。

 次に、紙、または紙製品の付喪神つくもがみというのも妖怪として考えられるだろう」


文車妖妃ふぐるまようび、等ですか」


「その通り。他には唐傘お化けなんかもそうだと言える。

 昔の傘はあれ、紙を張って作っているからな。

 ……しかしまあ、どちらも今回の件とは少し違うモノだ」


 彼の言うとおりだろう。

紙舞は、あくまで現象であって実体では無い。それに今は十二月だ。

また、蟹坊主かにぼうずは蟹坊主、オハチスエはオハチスエであって紙の付喪神ではない。

どちらも今回の事件を説明する事はできなさそうだ。


「さて、ではという点に注目すればどうだろうか。

 ラフカディオ・ハーンは読んだことあるか?

 彼は、衝立ついたて菱川師宣ひしかわもろのぶの美人画から女が現れたという物語を記している。

 また同じくハーンの『怪談』内に、『猫を描いた少年』という話もあったな。

 そのタイトル通り、少年が描いた猫が実体化し、大鼠の妖怪と闘いを繰り広げると

 いう内容だ」


「絵から、妖怪が」


「そう。境会の方ではまだ確認できていないようだが……

 僕はこの紙に元々書かれていたのは、絵ではないか、と考えている」


 確かに、蘭子は『何か書かれていたようだ』とは言ったが、それが絵だとは一言も言わなかったはずだ。

恐らく彼女も、何らかの術式だとかいった物を想定していたのではないだろうか。


「ですが、どういった絵が描かれてたんでしょう?」


「前の二つの例から見れば、出てきた妖怪の絵が描かれていた筈だ。

 そしてもしその絵が確認できたなら、大きなヒントになるだろうな。

 技法にしろ画材にしろ……この宝殿にある絵と照らし合わせることができる」


 しかし、今まで通り妖怪を倒しても、真っ白い紙が出て来るだけだ。


「残された紙が白いのは『絵から妖怪が出た後』という事なんだろう」


「だったら……どうすればいいんですか?

 妖怪が出て来る前に紙を回収する、とかですかね?」


「いや、相手もそこを取られたら不味いことは理解していると思う。

 設置する場所の妖気の濃さには最新の注意を払っている筈だ。

 だったら、どうするか」


 そう言うと深月は、懐からビンを取り出し、置いた。


「そこで、これだ」


 ビン自体は、ふたがされたただの透明なビンだ。

ジャムなんかを保存するメイソンジャーに似ているかも知れない。

しかしビンの中には、何やら光る物が数匹飛び交っている。


「蛍……?」


「これは『時蛍ときぼたる』という物だ」


 ビンの中を飛ぶ光は、青白く輝き宙を舞っている。

あんな風に蓋をされて通気性は大丈夫なのかと思ってしまうが、

これはあくまで妖怪と同じような『存在としての存在』であって生物としての昆虫の蛍とは違うのだろう。


「南北朝時代の武士、阿蘇あそ 惟澄これずみは、蛍丸という名刀を所持していた。

 しかしある日、激しい戦の中で蛍丸が刃こぼれしてしまった。

 そしてその日の晩、阿蘇惟澄は不思議な夢を見たという。

 刃こぼれした蛍丸の刀身に蛍が群がり、刀が直っていく、という内容の夢だ。

 そして彼が目を覚ますと、夢の通りに蛍丸の刃こぼれは直っていたと伝えられる」


 深月はビンの上にぽんと手を置いた。

時蛍はそれを意に介さず、悠然と飛び舞っている。


「さて、あたかも霊威を持つのは刀であるかのように、刀は蛍丸と名付けられた。

 しかし、これは阿蘇氏が虎の子を隠すために流した言い伝えだ。

 伝承では夢と誤魔化されているが……本当に修復の力を持つのは蛍の方だろう。

 その刀を直した蛍――つまり時蛍こそが、阿蘇氏の真の秘伝なのだ。

 阿蘇氏は本来阿蘇神社に仕える神職の家だから、そこ由来なのか……

 とにかく、」


 トウカはゴクリと唾を飲んだ。


「この蛍の能力はその名の通り、『物体の時間を巻き戻す』ことにある」


 つまり、


「これを使えば、紙の上に絵を蘇らせることができるだろう」


「なるほど……!」


「ただし、注意として。

 これによって戻せる時間はさして長くはない。

 新鮮な紙を対象にしなければいけない」


 それを調達する必要があるだろうな、と深月は続ける。

つまり、紙が設置されれば直ぐに現場に急行し、でてきた妖怪を速攻で倒さねばならない、ということだ。

直接戦闘を行う浅江もそうだが、妖気を探す役のトウカも奮起せねばなるまい。

トウカは深月からビンを受け取る。


「ありがとうございます。

 会長達にはそのように伝えておきます」


「ああ、それとこの紙に絵が戻ったら、僕の所蔵に加える分も送ってくれるように頼

 んでおいてくれ。

 妖怪が本当に出て来る妖怪画なんてマニア垂涎すいぜんモノだぞ。

 是非ともコレクションに加えたい」


「あ、はい。分かりました。

 それでは……山田さん、起きて下さい。帰りますよ」


 船をぐ浅江の肩を小突き、トウカは立ち上がる。


「お帰りか。

 じゃあ……」


 深月が指を鳴らした。

次の瞬間、視界が歪む。


「気をつけて帰れよ」


 ここに来た時と同じ気持ち悪さに襲われ、トウカは目を瞑る。

体が全方向に引っ張られているような感じ。

何かが裏返ったような、栓が抜けたような感覚と共に、

二人は元の路地裏へと戻っていた。


 途端に、人や車の行き交う音が耳を叩き、排気ガスの臭いが鼻をついた。

それが現世へと戻ってきた実感として、強く印象に残る。

トウカの手には時蛍のビンが握られている。

まるで映画の『なんだ、夢だったのか……ん?ポケットに何か……これがあるって事は……あの世界は本当にあったんだ!』的なシーンのようだ。


 しかし、そんな素敵なシーンにするには路地裏は臭いし、

トウカは微妙な吐き気にも似た胃のむかつきに襲われていたが。


「山田さん、気持ち悪くないんですか?」


「気持ち悪い」


「えっ、あれ?そうなんですか?

 言われてみれば微妙に嫌そうな顔をしているような……」


 路地裏には夕陽が差し込んでいた。

宝殿の中と現世で時間の流れは同じなのだろうか。

竜宮城りゅうぐうじょうの事を思えば、疑わしいように思える。

あれは日本を代表する異界物語だ。


 何はともあれ、この事を境会に報告しなければ。

トウカはスマホを取り出した。



―――

――――――



「山田さん、ちゃんと歯磨きしましたか?」


「ん」


 時蛍の事を報告すると、境会はすぐに作戦の目処を立てた。

といっても内容は至極単純。

頑張って妖怪を速攻撃破しよう、というだけだ。


「じゃあそろそろ寝ましょうか」


 そう呼びかけると、浅江はコタツからもぞもぞ這い出てきた。

トウカは、スイッチを押してそのコタツの電源を落とす。

こんな夜中にグルメ番組なぞをやって食欲中枢を刺激する危険なテレビも消す。


 境会からのメッセージは全員に送信されていた。

明日からは妖狩全員で妖怪を探すことになるだろう。

それは今まで通りだが、その向こうには意思を持った何者かが居るのだ。


「ふわぁ……」


 浅江が欠伸あくびをした。

そのパジャマ姿の背を、トウカはしばし眺める。

そしてふと思い立ち、その頭に己の顎を置いた。

二人は丁度それぐらいのサイズ差だった。

自分と同じシャンプーの香りが、鼻孔をくすぐる。


「山田さんって、結構小さいですよね」


「む……別に、そんなことない」


「おっと、怒っちゃいましたか?

 でも可愛くていいと思いますよ」


 深月は件の紙を『江戸時代ぐらいの物』と言った。

ただ絵を描くのに、態々そんな物を使うのは何か理由があるのだろう。

もしかすると、妖怪を呼び出す術は、特定の紙を使う必要があるのかもしれない。

だとすれば、妖怪を倒し続けていけばいずれ敵の弾が切れるかも。

楽観的な観測だが、そんな考えがトウカの頭をぎった。


「それじゃあ、電気消しますよ」


 カチリ。

紐を引っ張ると、部屋は闇に包まれた。



―――

――――――



 仄暗い部屋を、筆の音がさらさらとひたしていた。

蝋燭の火が揺れ、机に向かう男の影を壁に投げかける。

長着の上から十徳羽織じっとくばおりをはおった和装姿。

だが何かがおかしい。その影は異形である。

男は、からすの面を被っているのだ。

開け放たれた障子窓の額縁の中には、雲居に隠れる夜半よわの月。


はかどってるかい、先生」


 その時、障子戸を静かに開き一人の少女が部屋へと入ってきた。

麻の葉紋様の着物姿もあでやかな、闇の中咲く一輪の華。

両手で持った丸盆には握り飯二つとお茶。


「おう、お陰様でね。

 ……そこ、踏むんじゃねえぞ」


 男が、少女の足元の床を指さす。

彼女はそこに散らばる紙を危うく避けて、男の側に歩み寄る。


「こりゃまた、随分な量描き散らしたねぇ」


「今のあたしは創作意欲の塊みてえなもんだ。

 妖怪にも成ってみるもんだね」


 男は仮面の奥で笑う。

笑い声は面の中で反響し、くぐもった音が漏れる。


「ふぅん、そんなもんかね」


「『そういう存在』ってのはいい。

 魂から余分なモンが削ぎ落とされてらぁな」


 少女は手に持った丸盆を男の前の机に置いた。

湯呑みの水面がゆらりと揺れる。


御大将おんたいしょうから言伝ことづてだよ。

 いよいよ『計画』を始動させるとさ」


「おっ、ついにか。

 心躍るねぇ。あたしは何をすればいい?」


「先生はまだ絵ぇ描いてればいいって。

 の始動にはもっと妖怪がいるらしいよ」


「なんだい今まで通りか。

 おさでも出せりゃあ、ネズミ算式で話は楽なんだが。

 ……『光秀みつひで』の方はどうだい?」


「まだ動かないとさ。

 しかしまあ、機をうかがいはするだろうよ」


 男は仮面のくちばしを、髭をさするように撫でた。


「楽しいねえ」


「楽しいかい」


「ああ楽しいとも。

 ……あんたの絵も描いてやろうか。

 あたしはまだ描いた事は無かった筈だ」


「いいや、遠慮しとくよ。

 あたいの絵はさんざっぱら描かれてる。

 もうお腹いっぱい、満腹御礼だね。

 ……じゃあ先生、ま、頑張っとくれよ」


 少女は踵を返し、部屋から出ていった。

後に残された男は一人、窓の外の月を見やる。


「いよいよ時が来た。

 御大将もあいつも、実に酔狂すいきょうまことに結構だ。

 どうなるか楽しませて貰おうじゃねえか。

 万歳、凡人の描く浮世ってなもんだな」


 月明かり、浴びて夜闇の画家と筆。


 男は描き終わった絵を放って、散らばる紙の中に加えた。

そしてまた、次の絵に取り掛かろうとする。

だが新しい紙が無い。

彼は空中で手を振ると、虚空から現れた新たな紙を掴んだ。

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