8話 追跡されてる
カレーの匂いには魔力があると思う。
それは
一度それをお見舞いされてしまえば、
遠きインドの
名も知らぬスパイス達の共演によって
空腹時にそれに
しかも、
そうなったら最後、我々はカレーを食べる事でしか満たされない欲求に脳を支配され、カレーゾンビとなって
「だから山田さん、そのカレー一口くれませんか?」
「?
だから、って?」
「あ、すいません。モノローグから繋いじゃいました」
正に今、山口トウカは突然のカレー欲に襲われていた。
それは『隣でカレーを食される』という初歩的な問題によって発生し、その香りでもってストレートにトウカの鼻孔を
カレーを頼めば良かったと思っても、それはもう後の祭りである。
カレーを欲するためにはカレーが運ばれてくる必要があり、カレーが運ばれカレー欲が芽生えた時には、既にトウカは別の品を頼んでしまっている。
これは最早、
従って、トウカの昼食はカレー欲の無い時に注文したたまごサンドになる。
しかしトウカは、カレーが食べたいのだ。一口でいい。
むしろこの文章にカレーが多すぎてもっと食べたくなってきた。
「よし、こうしましょう。
私のサンドと山田さんのカレー、ちょっとずつ交換しませんか。
レートは山田さんが決めていいですよ」
「ん、じゃあ……」
そう言うと浅江はスプーンでライスとルーを少しづつ
「はい」
「!なっ……」
『あーん』だ。
この娘はあーんをせよと言っている。
予想外の反撃。しかもそれを、浅江自身は意識もしていない。
浅江は小首を傾げすらして待っている。
据え膳食わぬはなんとやら。この場合は文字通り据え膳である。
トウカはスプーン上に現出した小カレーを、
「美味しい?」
「はっ、はい……」
何か負けたような気分になった。
頬の熱いのはカレーの辛さの所為である。
きっとそれだけだ。
―
―――
――――――
「
トウカはスマホをしまいながら言った。
午後が始まり、太陽は天頂にて輝く。
陽光は寒風の隙間を刺して、
昨日の夜雨が嘘のような冬晴れであった。
「鳴子、持った?」
浅江に訊かれ、トウカは鞄の中身を開いて見せる。
そこには、封のされた小さな壺。
それを確認した浅江はかすかに頷く。
「じゃあ、行きましょうか」
二人は自転車に
彼女達が今いるのは、市立図書館の駐輪場。
ここから少し行った所に
そこを鳴子の設置場所にする事にしたのだ。
地元では有名な心霊トンネルである。
図書館の横にある喫茶で少し早めの腹ごなしを済ませ、後はそこへ向かうのみ。
「私のペースに合わせて下さいね」
自転車に跨ると、トウカは冗談めかして言った。
箆科トンネルまでは上りの坂道である。
坂の一番下には小さな
体力雑魚のインドア少女は、山育ち魔剣士ガールとは違う。
もし浅江が全力で自転車を
だが、浅江はちゃんと運動音痴の速度に合わせてくれる。
しばらくのんびり行くと、やがて箆科トンネルが見えてきた。
浅江が一人で行くより少し時間が掛かったが、何、そう焦る事も無いだろう。
箆科トンネルが幽霊トンネル扱いされることに、特に心霊的な
流石に人柱の一つや二つ景気良く埋めるご時世では無い。
国内のトンネルで人柱が確認されたのは北海道の
ただし箆科トンネルは中が薄暗く、割りと急なカーブになっているため、事故の発生件数は比較的多い。
それが
単純な話だ。
トンネルの手前で、二人は一旦自転車を止め、脇に寄せた。
鳴子を
「トンネルの中に良い所ありますかね……?」
トウカは鳴子を取り出した。
軽く振れば壺の中で小さい何かがカラカラと転がるのが分かる。
相変わらず、不気味だ。
一体何が入っているのやら。
「設置って、物陰に隠したり?」
「うーん……どうなんですかねぇ。
会長達からもこれの説明ほとんどありませんでしたから。
そもそもコレ、なんなんでしょう」
とにかくトンネルの中を見てみようと、足を上げた時。
ブルン、と大きくエンジン音が響いた。
すわ通行車か、と思いトンネルの中を覗けど、そこに車影は無い。
そしてまた一つ、ブルン。
「あれ?何処から聞こえるんでしょう?」
トウカの呟いた
「トンネルの中」
ブルン。
そしてもう一度、ブルン。
四度のエンジンを合図にし、
トンネルの闇の中から走り出る影あり。
漆黒のバイク。同じく漆黒のライダースジャケット。
そしてその頭は、何処にも無い。
断頭された首から上には何も無い。
首なしライダー。
都市伝説から生まれた現代の妖怪が、闇を引いて現れた。
頭の無い首をこちらに向けて、
漂う妖気。張り詰める緊張。
沈黙する妖怪は
―
―――
――――――
一方、同時刻。
高原
「やべえってめっちゃ追ってくる!
都庫もっとスピード出せねえのかよ!」
「法定速度ってのがあんの!
これ以上は出せねえんだよ!
なんならもう既にちょいオーバー気味だわ!」
都庫はハンドルを握り、必死の
伏章もまた、後部座席から都庫の肩を叩き、もっと速くと急かし立てる。
「もう法律なんてぶっちぎれよ!
お前そういうトコあるだろ!アウトローの精神とかそういうのが!」
「馬鹿か!お前は馬鹿か!
つーかあれだから、俺育ち良いから。めっちゃルールとか守るし。
それに、んなことしたらアレと一緒にパトカーも追いかけてくるからな!」
アレ。
そう、彼らも今、妖怪と対面していた。
「なあおい伏章、もしかしたら!もしかしたらだけどよ。
あれって妖怪じゃない普通のババァって事ないか!?」
「んなわけあるか!どこのババァが車に追いつく速度で走ってくんだよ!」
そう言って伏章は後ろを振り返る。
ババアが走っている。超高速で、ババアが疾駆している。
「やっべ目ぇ合った。
うわ、笑った。何でだよ」
ターボババァ。
車を追いかけて猛スピードで走る怪老婆。
ジェットババァ、ダッシュババァ、100キロババァ、ターボばあちゃん。
様々な異名を持つ、有名な都市伝説である。
そしてババァは追いかける車を追い抜いて、走り去っていくという。
それは正に景色が溶け、風が叫び出す程の速さ。
どう見ても生身の老婆が、全てを置き去って駆け抜ける。
シンプルで力強い怪異。
「まずいぞ……
もしババァに追いつかれたら……」
都庫はちらりと助手席を見た。
そこに置かれたバッグには、鳴子が収められている。
ババァと妖狩の追いかけっこは、まだ始まったばかりだ。
―
―――
――――――
更に同時刻。
上中崎
「千佳、絶対転んじゃ駄目よ……」
静海が、隣を歩く千佳に囁きかける。
その歩みは遅く、慎重に、丁寧に。
「わかってるわ……」
決して、転んではならない。
転んだが最後、その瞬間に、襲われる。
「まったく、いくら美人二人が
まさか『
慎重に山道を下っていく二人の背後から、無数の気配が付いて来る。
それは獣の気配。
獣の息遣いがする。獣の足音が聞こえる。獣の眼光が
だがそこに、獣そのものの姿は無い。
気配だけが。気配の群れだけが二人をつけてくる。
送り狼。
山道を行く者の後をつけ、その者が転んだ瞬間に襲いかかる狼の妖怪。
だが実際に襲ってくるまでは、鳴き声、気配などでのみ察知する事ができる。
「あーん襲われちゃうー……なんて」
「ふざけてる場合じゃないわ。
本当に襲われるかも知れないのよ。
もしそうなったら……」
例えもし戦闘になっても、この二人なら撃退は可能だろう。
だが今は、鳴子がある。
この状況での戦闘は得策ではない。
「とにかく、転ばないようにしなきゃ。
コイツらも律儀に、それまでは動かないみたいだし……」
妖怪は情報に縛られる存在である。
送り狼は転ぶまで襲ってこない、と設定されている以上、彼らはそう在る。
条件を満たすまでは、実体として近付いても来ない。
だから、転びさえしなければ、なんとかなる筈だ。
「でもちょっと、この状況は厳しいわね……」
千佳はそう言って、恨めしげに地面を眺める。
登り降りをし易くするために山道に埋め込まれた石の
一歩一歩。慎重に歩みを進めていく。
だが、
「きゃっ!?」
千佳が踏み込んだ敷石が、
バランスを崩す千佳。
「やばっ……!」
静海は咄嗟に手を伸ばす。
バチッ、一瞬の火花が弾け、常人を超えた加速。
なんとか千佳の腕をキャッチする。
「ッセーフ……!」
もう一方の手は手近な木の枝を掴み、バランスを取る。
なんとか、踏み止まった。
「ご、ごめんなさい。
……でも、その、ちょっと
「しょうがないでしょ、必要経費よ必要経費。
それはともかく、これぐらいなら転んだ扱いじゃないみたいね」
「ええ、ありがとう……」
ミシッ。
「ん?」
「……ちょっと不味いんじゃないかしら。
その枝、折れ……」
二人分の体重を支えるには、
とはいえ咄嗟のことだ。静海を責める事はできないだろう。
ともかく、静海が掴んでいた枝は、千佳が言い終わらない内に音を立てて折れた。
投げ出される二人の体。
そして訪れる結果はもちろん、転ぶしかない。
「
あーあ……もう、やるしかないみたいね」
静海は体を払って立ち上がる。
視線の向こうでは、狼が次々と形を取り、牙を剥いている。
「千佳、鳴子持って逃げなさい。
流石に山を降りたら追ってこない筈だから」
「……分かったわ」
千佳は一瞬、その目に迷いを見せたが、静海の言葉に頷いた。
装着している
「風鬼!」
瞬間、突風が巻き上がり、千佳はその風に乗って走り去る。
静海はそれを背中で見送りながら、狼の群れの前に立ちふさがった。
「あんたら全員
千佳の所には行かせない」
手足から放電が走った。
臨戦態勢。
拳を構える
―
―――
――――――
闇のように黒い
その騎手は同じく漆黒のジャケットに身を包んだ妖怪、首のない怪人。
首なしライダー。
『追いかけてくる妖怪』というカテゴリーの内、
一方、テケテケ、マッハババアそして首なしライダーといった現代の、都市伝説的な妖怪は見た目の情報が強い、視覚的な存在が多いらしい。
成る程、断頭されたライダーが追ってくる様はインパクトのある姿である。
「山田さん!逃げます!走って!」
トウカが叫び、自転車に向かって駆けた。
「何処まで?」
浅江が問いかける。
トンネルの割りと手前で停止していたのは運が良かった。
急いでスタンドを蹴り上げ、自転車に飛び乗る。
「一旦図書館まで戻りましょう。
もしアレに追いつかれたら……」
走り出す自転車の上から後ろを
首なしライダーのバイクは徐々に加速し始めている。
「不味いことになりますよ……!」
下り坂を全力で立ち漕ぐ。
体力の無いトウカには辛いが、四の五の言ってはいられない。
近付いた妖怪に反応して、鞄の中の鳴子がカタカタと揺れだした。
これ動くヤツなの?という疑問はこの際後だ。
このままでは、この道具はあの首なしライダーを捕らえるために消費されてしまう。
敵はそれを狙っているのか?それとも偶然?
あの首なしライダーは『紙』から出てきた妖怪なのだろうか。
静海や都庫のグループの首尾はどうなったのだろう。
トウカの頭に疑問が湧き上がる。
「もう、追いつかれる」
浅江の声が風に紛れて届き、トウカはチラリと背後を伺う。
ライダーはもうすぐそこまで迫ってきていた。
自転車でバイクに勝てる訳が無い。
勿論、そんな事は分かっている。
「『――我に体なし。
右手に、
「『
狐は
不帰の道とて
蛍の光のように
狐の耳。狐の尻尾。
「『
そうして全てを唱え終えた頃には、一人の神子が出来上がっていた。
その間にも、ライダーはどんどん近付いている。
一方で、体力の差から、浅江はトウカより前を走っている。
「もう少し……もう少し……」
トウカの肩を、風が音を立てて過ぎていく。
自転車は加速的に坂道を下り、景色は目まぐるしく背後へ飛んでいく。
流れる景色の中で、トウカは目当ての物を見つけ出した。
八幡宮の石鳥居。
「今っ!」
言いながら、トウカは八幡宮へと進路を変えた。
ライダーもそれを追って方向を変え、自転車は猛然と鳥居へと突入する。
着いて来ている。
やはり鳴子が目当てなのか?それともトウカが遅れた事でロックオンされたのか。
それはともかく、今は背後の敵への対処が優先なのだ。
「
神子の一声で、神の力が
一瞬で鳥居の間に、光の糸が張り巡らされた。
「!!」
驚いたのは、後を付いて来ていたライダーである。
バイクは急に止まれない。
勢いのまま。
まるでかつて首を失った時のように、糸へと突っ込む。
横転するバイク、投げ出されるライダー。
「やった……!」
それを確認したトウカはそのまま
浅江が先に着いて待っている筈だ。
そしてトウカがいなくなった後、首なしライダーはバイクを引き起こしてそれに跨ると、車体を反転させて何処かへと走り去っていった。
―
―――
――――――
図書館の地下駐車場に自転車を停めに来れば、浅江も既にそこに居た。
「ハァ、ハァ……あー、疲れた。
山田さん、なんとか振り切ってきましたよ」
自転車を降りた途端、疲労が一気に吹き出した。
吐く息は白く地下室に溶け、心臓の鼓動は痛いほどに速い。
我ながら今までの人生にないぐらい自転車を漕いだな、とトウカは思う。
浅江は問う。
「倒した?」
「いえ、多分まだ倒せてはないでしょう。
まあある意味、倒しはしましたが。
単純にぶっ転ばしただけです」
「……しょうがない。
トウカは、頑張った」
「そ、それにしてもあの首なしライダー……どういう事でしょう?」
突然浅江に褒められたのが恥ずかしく、トウカは急いで話題を変える。
今日はどうにもこういうのが多い。
「敵が差し向けた……だとしたら、こちらの動きが読まれている……?
それとも何か罠のような仕掛けになって……
それに、上中崎さんや高原さんの方はどうなったんでしょう。
聞いてみましょうか」
そう言ってスマホを取り出すも、
「あれ?あ、ここ地下でしたね」
残念ながら、電波が上手く入らない。
「トイレの方なら入りますかね。
山田さん、トイレって何処でしたっけ?」
「あっち」
「ありがとうございます。えーと……」
見れば、地下駐車場のトイレは電気が点いていない。
地下なだけあって真っ暗だが、余り使われていないのか、前に使った人が
ブルン。
「スイッチ、スイッチ……」
暗さのせいで、電気のスイッチが見つからない。
闇の中に目を
ブルン。
「と、言うか、ちょっと待って下さい。
なんか聞き覚えのある音がしませんか……?」
ブルン。
三度の空吹かし。
「な、なんか私すごく嫌な予感がするんですが……」
トウカは冷や汗を垂らし、浅江は無言で刀の柄に手をかける。
ブルン。
四度目のエンジン音。
それは怪異の
トイレの闇のその奥の、最暗黒の凝固した無明の塊から。
首なしライダーが現れた。
「嘘でしょ……!?」
トウカは絶句する。
まだ、終わりでは無いのか。
まだ、逃がす気はないのか。
一体どうやってここに現れたのか。
首なしライダーは脇で固まるトウカには目もくれず、浅江の方へと突進する。
浅江の方へ?
違う――浅江の隣、停めた二人の自転車の方だ。
やはり狙いは、鳴子か。
「……!」
白銀の刃は、即座に黒く染まっていく。
「妖刀・千人切……!」
浅江は鳴子を、自転車を
向かってくるバイクに怯むこと無く、構える。
瞬間、妖気を解放。
浅江は刀を携えて飛び掛かる。
背後に
その線は突っ込んでくるバイクと交差する軌道。
敵胸元へ目掛けた斬撃の一直線。
だが、その一閃は交わらない。
首なしライダーは体を傾け、バイクを寝かせる。
体が地に付かんばかりの急角度。それは殆ど真横とすら言える。
地面スレスレにまで傾いた車体は、飛び掛かる浅江の足元をすり抜ける。
ハングオン走法。
「くっ……!」
だが結果的に、軌道を逸らすことには成功した。
ハングオンで曲がったその向かう先には、コンクリートの柱。
このままぶつかれば、鳴子に近づく前にバイクが大破してしまう筈……
まさか、そんな終わり方をする訳が無い。
走り抜けたバイクはそのまま、千人切から尾を引く黒雲に、『突入』した。
「なっ!?」
黒に沈み、消える。
「何処に……!」
消えた。居なくなった。
だがそれも束の間の事。
消えた怪人は、再び姿を現すのだ。
どこからか、音が聞こえる。
ブルン、エンジン音。もう一つ、更にもう一つ。立て続けに三度。
ああ、まただ。
――ブルン。
四度目が鳴り響くと共に、首なしライダーが飛び出した。
駐車されていた車の下の隙間に出来た闇から。
何度でも、闇の中から、都市伝説は甦る。
トウカたちはまだ、追跡されている。
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