第6話「世界は幸せに満ちている」 02

 ドアが開くと、トシロウはヨシュアと目配せをして、それまで銃を突き付けていたフェデリコを解放した。


「ご苦労だったな。もう行っていいぞ」


「へっ?」


 突き飛ばされて間抜けな顔でこちらを振り返るフェデリコに、トシロウは顎でさらに促した。


「どうした、逃げないのか」


「え、い、いえ、逃がしてくれるんですか……?」


「……俺だって逃がしたくはないが、殺すとこいつがうるさいんだ」


 片手でヨシュアを示してみせると、ヨシュアは「当然だろ」と胸を張った。その後頭部を叩きながら、トシロウはもう一度フェデリコを促した。


「そういうわけだ、行け」


「は、はいぃ……」


 転がるように逃げ去っていくフェデリコを横目に、トシロウは宝晶製薬の中に足を踏み入れた。ヨシュアもオウルバニーを抱えてその後を追う。


「トシロウ」


「なんだ」


「……ありがとな」


「自覚があるならまずは足を動かしてくれ」


 二人の後をセシリアもふわふわとついていく。ヨシュアはトシロウの顔を見上げて尋ねた。


「当てはあるのか?」


「ない」


「じゃあどうやって」


「当てがなければ吐かせればいいだろう」


 平然と放たれたトシロウの言葉に、ヨシュアはひゅうと口笛を吹く。


「流石アウトロー」


「ぶん殴るぞ警察官」


 軽口を叩きながらも、二人は歩みを止めない。途中、何度も研究員らしき人物とすれ違ったが、二人があまりにも堂々としているためか、対応に困っているようだった。


 しかし、二人が立ち入り禁止区画にまで入り込んだ辺りで、けたたましい警報が鳴り響き始めた。にわかに辺りが騒がしくなり、トシロウたちは物陰に隠れる。


「流石に見つかるか」


「堂々としてりゃバレねえと思ったんだけどなあ」


「同感だ。だが、ここまで来れただけ上等だろう」


 オウルバニーの言葉に珍しく同意し、トシロウは銃を取り出した。それを見て、ヨシュアも銃を取り出す。


「射撃の腕は?」


「あんまり自信ない」


「だったらとりあえず足元を狙って牽制してくれ」


 安全装置を解除し、怪我をしていない方の手で重い銃を持ち上げる。


「――俺が当てる」


 武装した警備員たちが目の前を通り過ぎていった直後、隙をついてトシロウたちは物陰から走り出した。


 当然、警備員の集団はトシロウたちに気付き、銃を向けてくる。トシロウは曲がり角に飛び込みながら二回、引き金を引いた。


 重い破裂音が響き、銃弾が警備員の肩と、その隣の警備員の胸に当たる。衝撃で後ろに倒れる二人を遠くに見ながら、トシロウは曲がり角に転がり込んだ。


「できるだけ殺すなよ!」


「無茶言うな」


 ヨシュアの苦言にトシロウは軽く笑ってしまう。


「そうね、確実に殺した方がいいんじゃない? 後から反撃されても厄介よ」


「幻覚女、あんたは黙ってろ」


 怯んでいるらしい警備員たちを後ろに置き去りにして、トシロウたちは真っ白な通路を駆けていく。研究員の一人でも鉢合えば、人質にしようと思っていたのだが、どうやら避難は済んだらしく、誰にも行きあわない。


「どっちだ、幻覚女」


「失礼ね。多分あっちよ。どこにいるかは分からないけれど、奥というならあっち」


「そうか」


 そっけなく答え、トシロウは通路を左に曲がった。その瞬間、発砲音が響き、トシロウは咄嗟に元来た道へと飛び退った。


「待ち伏せか!」


 続けざまに発砲音が聞こえ、床が抉れる。トシロウは先行していたセシリアに尋ねた。


「幻覚女、向こうはどうなってる」


「銃口をこちらに向けたままぴくりとも動かないわね。出てきたところを狙い撃ちにするつもりだわ」


 トシロウは壁に背中を預けて思案する。


 どうするか。無理に突破しようとすればおそらく蜂の巣だ。こっちは怪我人に警察官にぬいぐるみ一匹。勝算はどこにもない。せめて盾があれば、もしくはそれこそセシリアのように実体のない存在でもなければ――


 あるひらめきが浮かび、トシロウはセシリアを見上げた。


「おい」


「何かしら?」


「俺にもラピスラズリと同じことはできるか」


「同じこと?」


「精神を飛ばして奴らをどうにかすることはできるかと聞いたんだ」


 そうだ。ラピスラズリはあの時、精神を飛ばして俺に干渉してきていた。あれと同じことができればあるいは――


「できなくもないわよ。パスが繋がってないから私がやるには演算能力が足りないけれど、あなたにはジェムに侵された脳みそがあるものね」


 ジェムでドーピングでもすればなんとかなるかもね、と他人事のようにセシリアは言う。トシロウは鎮痛用の注射型ジェムを複数個取り出した。


「俺が隙を作る。ヨシュアはその間に奴らをどうにかしてくれ」


「お、おい、トシロウ!」


「時間がない。やるぞ」


 腕に三本の注射を続けざまに打つ。ぐらりと視界が揺れ、トシロウは壁に体重を預けたまま、ずるずると脱力した。


 かくりと落ちた頭とは裏腹にトシロウの意識は、体から飛翔する。振り返り、脱力した自分の体を確認したトシロウは、妙な気分になりながらも向けられる拳銃の射線上に飛び出した。


 数は七人。全員がサイバーサングラスをかけている。どうすれば攻撃できる。重さを感じて見下ろすと、いつの間にか自分の両手には二丁の拳銃が握られていた。おまけにガーネットに撃たれてろくに動かないはずの左腕も自由に動かせる。


 なるほど。こういう仕組みか。


 トシロウは半透明の足で床を蹴り、警備員たちに一気に接近する。両手に構えた拳銃――警備員からしてみれば不可視の二丁拳銃を、直立している敵二人の胸にぴたりと当て、トシロウは引き金を引いた。


 重い銃声と手首への反動を感じる。弾は出ていないようだが、その代わりに警備員二人の体は一瞬ぶれ、床に向かって崩れ落ちた。


 ――いける。


 確信したトシロウは続けざまにしゃがみこんで銃を構える二人の頭に向けて、発砲した。この二人も先ほどの二人と同様に、一瞬姿がぶれ、地面に倒れていく。


 その頃になってようやく奇妙な現象を飲みこめてきた残り三人が、拳銃を両手で構えて辺りを警戒し始める。トシロウは自分に背を向けた警備員二人の背中に発砲した。前のめりに崩れ落ちていく警備員たち。――残り一人。


 偶然にもこちらに銃口を向けている最後の警備員に銃を向ける。――目が合った気がした。


「がっ……」


 引き金を引く直前、警備員の拳が精神だけのはずのトシロウの腹にめり込んだ。瞬間的に息が出来なくなり、トシロウは崩れ落ちて喘ぐ。息を整えながらなんとか警備員の男を見上げると、やはり男はトシロウをまっすぐに見据えていた。


 ――こいつ、ジェムジャンキーか!


 もしそうなら自分を視認できてもおかしくはない。でも何故当たった。精神体には実体はないはずだ。もしかして体に宿っている精神体が衝突すれば、こちらにも攻撃は通るのか?


 蹲るトシロウめがけて繰り出される蹴りを、転がるようにして避ける。


 ――いや、今考えても仕方がない。今はできることをしなければ。


 未だ立ち上がれずにいるトシロウめがけて複数回引き金が引かれる。重い銃声が響き、トシロウが避けた後の地面に大きな傷跡ができる。トシロウはなんとか立ち上がった。しかしその直後振りかぶられた拳が、トシロウの顔の真ん中に命中する。トシロウは後ろに倒れ込んだ。


 トシロウの精神体が激しくぶれる。意識を必死で保とうとするトシロウに男は歩み寄り、その頭に銃口を向けた。そして男はその引き金を引き絞り――


 ――その寸前、乾いた破裂音がして、男の体はかすかによろめいた。曲がり角にはしゃがみこんでこちらに銃を向けるヨシュアの姿。ヨシュアが男の足に銃弾を当てたのだ。


 トシロウは、よろめき、こちらから注意が逸れた男に向かって素早く銃を構えた。


 一発の銃声。


 男の体は崩れ落ち、トシロウは腹を押さえて立ち上がった。トシロウの体は何度も明滅している。体が重い。息をしているはずはないのに、呼吸が荒くなっていく。


 なんとか自分の体に帰ろうと踵を返そうとしたその時、トシロウの視界の端に何かがひらめいた。赤色の細い布きれ。トシロウにはそれに見覚えがあった。……あの日、アンバーに買ってやったあの真っ赤なリボンだ。


「アンバー……?」


 思わずトシロウはそちらに一歩踏み出そうとし――、背中を思い切り引っ張られる感覚がして、後方へと引きずり戻された。


「トシロウ、おい、トシロウ!」


 ヨシュアの焦り声が真上から響き、トシロウは億劫そうに目を開ける。目の前でヨシュアは泣きそうな顔をしているし、左腕はろくに動かない。どうやら戻ってきたようだ。


「お前一瞬呼吸が止まってたんだぞ!」


 助け起こされながらそう言われ、トシロウはどういうことかとセシリアを見上げる。


「精神体が傷つくと、脳が誤作動を起こして体の方にも影響が出るのよ。……言ってなかったかしら?」


 平然とそう言ってのけるセシリアを、ヨシュアは立ち上がって睨みつけた。


「てめえに体があるならぶん殴ってたところだぞ」


 唸るようにしてそう言うヨシュアに、セシリアは背を向けた。


「そうそう、飛翔した精神体が死ぬと体も死ぬわ。気を付けてね」


 さ、急ぎましょ。


 セシリアは急かして先に行こうとしてしまう。ヨシュアは座り込むトシロウに肩を貸そうとしたが、トシロウはそれを無視してよろめきながらも一人で立ち上がった。


「アンバーのリボンが見えた」


 トシロウの視界には、あの赤いリボンがまだあった。リボンはトシロウを手招きするようにゆらめいている。


「多分、この先にアンバーはいる」


 リボンを辿って歩き出したトシロウを、ヨシュアは慌てて追いかける。振り返っても、ヨシュアの目にはどこにもリボンは見えなかった。


 ヨシュアはトシロウたちに追いつき、トシロウが倒した男たちをまたごうとする。


 ――その時、男の内の一人が体を持ち上げ、ヨシュアに銃口を向けてきた。ヨシュアは咄嗟に銃口を向け返したが、こちらを睨みつけてくる男の目に怯み、引き金を引く寸前で手が止まってしまった。


 銃を向けあったまま硬直する二人に歩み寄ってきたトシロウは、何の躊躇いもなく引き金を引き、ヨシュアの目の前の男の頭を撃ち抜いた。


「俺が殺す。お前は後からついてこい」


 何も言い返せずにヨシュアはトシロウの顔を見上げた。拳銃を握ったヨシュアの手は細かく震えている。


 そんなヨシュアを気にせず、トシロウは前へと走り出す。ヨシュアはきつく銃を握りなおすと、その背中を追いかけた。






 


「多分、あと少しだ」


 奥に進むにつれて、赤いリボンは徐々にはっきり見えるようになっていった。最初は半透明で消えてしまいそうだったリボンも、今では直接つかむことができそうなほどはっきりとトシロウの視界に映っている。


「後方から奴らがやってきたわよ。数は……かなり多いわね」


 セシリアの警告から数秒も経たず、トシロウたちめがけて発砲音が数発響いた。トシロウは咄嗟にヨシュアの腕を掴んでリボンの向かっている方の曲がり角に連れ込んだ。


 断続的に銃声が響く。床に倒れ込んだトシロウは、すぐに体勢を立て直すと、敵のいる曲がり角の向こう側に向かって数度発砲した。当たっているのかは確認できない。だが、銃声が鳴りやまないということは、相手はかなり多いのだろう。


 セシリアに確認しようとふと振り返って、トシロウは顔を青ざめさせた。


「ヨシュア……!」


「平気だ、かすっただけだよ」


 ヨシュアの右足からは血が流れ出ていたのだ。トシロウはそれを気にしつつも、角から腕だけを出して、発砲する。何かが倒れるような音が数度響いたので、当たってはいるはずだ。


 素早くリロードをして、再び角の向こう側めがけて発砲する。セシリアは射線に出て、敵を数えていた。


「三、二……あと一人よ」


 やけになったのか、こちらに駆けてくる足音が聞こえる。トシロウは射線上に出て、その男の腹を撃ち抜いた。派手な音を立てて男は倒れ伏す。トシロウは張りつめていた緊張をほどき、息を吐いた。


 しかしその時、床に倒れながらも男は銃口をトシロウに向けた。トシロウは慌てて引き金を引くが、弾が出ない。


「しまっ……!」


 早くリロードしなければ。背後に飛び退ろうとするも、相手の銃口はこちらをぴたりと狙っている。


 ――撃たれる!


 思わず目を閉じたトシロウの耳に、乾いた発砲音が響いた。しかし、トシロウの体には痛みは訪れない。


 目を開くと、トシロウの前には頭を撃ち抜かれて絶命している男の姿があった。そして、トシロウの隣には、足を引きずりながらも両手で銃を構えて、その銃口を男に向けるヨシュアの姿が。


「ヨシュア、お前……」


 どうして。あれだけ殺したくない、と言っていたのに。


 その疑問を口にしようとした瞬間、ヨシュアはそれを遮って叫んだ。


「うるさい!」


 ヨシュアの声も、手も震えている。だけどヨシュアはその両手に握った拳銃だけは絶対に落とそうとはしなかった。


「お、お前だけに背負わせてたまるか、この馬鹿!」


 その言葉の意味をトシロウが飲みこみ切る前に、新たな銃声が元来た道の方から響いた。


「増援ね。5人はいるわ」


 通路に出ていたセシリアが冷静に言う。ヨシュアはリボルバーに弾を込めなおし、トシロウを見上げた。


「ここは俺が抑える」


「ヨシュア!」


「どうせこの足じゃ足手まといだ。ろくに走れねえよ。……でも奴らを撃つことはできる」


 でも、と食い下がろうとするトシロウに、ヨシュアは舌から食いかかった。


「あの子に続く目印はお前にしか見えないんだろ!」


 ぐ、とトシロウは言葉に詰まる。ヨシュアは通路の向こう側に腕を出して発砲した。


「さっさと行け!」


 トシロウは歯を食いしばり、一度顔を伏せた後、覚悟を決めた目で前方を見据えた。


「絶対に生き残れよ」


「任せろ、生き汚いのだけが俺の取り柄だ」


 落ちていたオウルバニーを引っ掴み、ヨシュアを置き去りにして、トシロウは走り出す。リボンの先はもう目の前にある。


 リボンを追って30メートルほど行った先、突き当たりの扉の中に、赤いリボンは続いているようだった。


 ――ここだ。


 確信を持って扉に手をかけるも、両開きの扉はぴくりとも動かない。電子錠がかかっているようだ。


「セシリア」


「自信はないけどやってみるわ」


 声をかけると、セシリアはするりと扉の向こう側に入っていき、数十秒後に扉は音もなく開いた。


「あら、存外うまくいくものね」


 他人事のようにそう言うセシリアを置いて、トシロウは部屋の中に足を踏み入れる。


 部屋の中は照明が落とされ、薄暗くなっていた。薄暗い部屋の唯一の光源は、部屋の奥、何らかの装置に全裸で繋がれた少女――アンバーの周りのみにあった。


「アンバー……」


 アンバーは両手両足を拘束され、口元には生命維持装置が取り付けられていた。露出した彼女の心臓は赤く脈打ち、内部でジェムが燃やされていることを示している。


 トシロウはアンバーに駆け寄ると、彼女の肩を揺すって目を覚まさせようとした。しかしアンバーは目を開けない。焦りを覚えたトシロウに、それまで沈黙していたオウルバニーは口を開いた。


「問題ねえよ。俺様さえ溶かせばそのうち目を覚ます」


 トシロウは腕の中のオウルバニーを見下ろす。オウルバニーは、「ほら、さっさと心臓の炉を開けろよ」と急かしてきた。


 言われるがままにアンバーの胸に手を伸ばし、炉の蓋を開ける。ほんのり温かいその場所の中では炎のような何かがとくんとくんと燃え盛っていた。トシロウはオウルバニーの背を開いて、その中からジェムの原石を取り出す。――これがオウルバニーの本体だ。


「本当にいいんだな?」


 ジェムを片手に持ちながら、迷子のような顔をしてトシロウは尋ねる。


「どこかのサーバーにバックアップを残すこともできるんだぞ」


「馬鹿言え、俺様はそういうの好きじゃねえんだよ」


 オウルバニーの声が脳に響く。


「バックアップを残してどうなる。今ここにいる俺様が消えることに変わりはねえじゃねえか」


 呆れたような声が脳に直接響き、トシロウは途方に暮れる。オウルバニーは言葉を続けた。


「俺様はオウルバニーだ。ただの偶然でこの体に生まれて、この体に宿ったオウルバニーだ」


 トシロウは実体のないオウルバニーにじっと見つめられている気がした。


「哲学的なことを言うのね」


 茶化すセシリアを無視して、トシロウはオウルバニーに一つ頷いてみせた。オウルバニーはかすかに笑ったようだった。


「じゃあな、トシロウ。割と楽しかったぜ」


 トシロウは手の中のジェムを炉にくべる。炎がオウルバニーのジェムを絡め取り、徐々に溶かしていく。


「……ああ。俺も楽しかったよ、オウルバニー」







 真っ白な世界の中、アンバーはゆっくりと目を開く。アンバーの目の前には、フクロウと兎が組み合わさったような奇妙なぬいぐるみの姿があった。


 ぬいぐるみはアンバーにその短い手を差し出す。アンバーも自然と右手を差し出し――その手の平と触れた瞬間、ぬいぐるみはまるで炎にまかれたかのように消えていった。最後の瞬間、オウルバニーが笑った気がして、アンバーは自分の体を抱きしめた。


「オウルバニー……」


 溶け込んでくる。彼が見てきたもの、聞いてきたもの全て。


「ガーネット、ラピスラズリ……!」


 目の端から涙が零れ落ちる。それは、深い悲しみ。

 どうしてこんなことが許される。それは、激しい怒り。


 流れる涙を無理矢理に拭い去り、アンバーは強い眼差しで前を見る。風が、彼女の髪を勢いよく巻き上げた。



『サーバーの管理権限を掌握』

『拡張現実を固定』

『サーバーの外部回線を開放』

『全ユーザーのログアウト権限を剥奪』



 宝晶製薬のシステム全体に宣言する。真っ白だった空間に広大な地平が生まれる。アンバーは隣に立つトシロウの手を取った。


「行こう、トシロウ」


 見下ろしてくるトシロウの目を、力強く見つめ返す。


「ケジメをつけに」








 まるで何かのお祭りのようだ。拡張現実特有のぼんやりとした感覚に包まれながらも、トシロウはアンバーに手を引かれて歩いていく。


 真っ暗な地面にはぽつりぽつりとビルがそびえ立ち、その全てに光り輝く何かがいくつも取りついていた。それらがビルの壁面を次々に食い破ると爆発が起こり、ビルの側面から炎が噴き出る。


 その様子がまるで花火が打ち上がっているように見えて、トシロウは小さく口を開けたまま頭上を見上げていた。


「407号だよ。外部回線を開放したから入ってこられたの」


 アンバーの言葉に、彼女を見下ろす。アンバーは立ち止まり、炎上するビルを――ぼろぼろと崩れ去っていくビルの破片たちを見上げた。


「拡張現実に逃がされた407号のコピー人格たちがあいつらを攻撃してる」


 407号。あの時、ガーネットに殺された実験動物。そうか、だからあの時、あんな会話を。


「ここで死んだ人間は、現実でも死ぬ」


 アンバーの視線の先ではまた大きな爆発が起きたところだった。


「それが407号たちの復讐。407号たちのケジメ」


 それだけ言うとアンバーは、再びトシロウの手を引いて歩き出した。トシロウも今度ははっきりとした意識でその後ろを歩いていく。


 やがて二人が辿りついたのは見覚えのある屋敷だった。街には似つかわしくない、鋭い柵で囲われたヨーロッパ風の邸宅。――ドン・カーネの屋敷だ。


 玄関の前には屈強な門番たちが立っていた。しかし、門番たちがこちらに銃を向けようとする前に、アンバーが手を横に薙ぐと、鋭い光の矢が門番たちを貫いた。アンバーは崩れ落ちる彼らに目もくれず、玄関に歩み寄ると、かかっていた大きな錠前を片手で握りつぶした。


 潰された鍵はアンバーの手の中でぼろぼろと崩れていく。そのまま扉を引き開けて邸宅の中に入っていくアンバーの後ろにトシロウはついていく。


 こんなに堂々とこの場所を歩くのは初めてだ。時折、構成員らしき男たちがトシロウたちの前に立ちふさがるが、アンバーが手を一振りすれば、その全てが光の矢に貫かれて消滅していった。


 入り組んだ通路を奥へ奥へと進み、トシロウたちはある扉の前に辿りついた。大仰な鍵のかけられた部屋。ドン・カーネの居室だ。


 アンバーが触れただけで鍵は簡単に砕け散る。アンバーは一歩引いて、トシロウに道を譲った。トシロウはごくりと唾を飲み下すと、扉に手をかけ、一気に引き開けた。


「来たかトシロウ」


「……ドン・カーネ」


 唸るように仇の名前を呼び、銃口を向ける。


 裏切られた。奪われた。奪われ続けてきた。俺はこいつに、復讐する理由がある。


「君には私を殺せないよ」


 引き金を引き絞ろうとした刹那、そんな言葉のせいでトシロウの手は止まる。


「私を殺すには、君は少し賢すぎる」


 目の前に死が迫っているというのに、ドン・カーネは落ち着きはらっていた。何だ、こいつは。何を企んでいる。トシロウは拳銃を握りこむ力をぐっと強める。ドンはまるで幼子に言うかのようにトシロウに語りかけた。


「君は本当にこれで幸せになれると思っているのかね?」


「……何?」


「トシロウ、君はヤクザを頼ったね?」


 言葉を失う。どうしてこいつはそれを知っている。ドンは笑みを深めた。


「図星か。そうじゃないかとは思っていたのだがね」


 ドンは背もたれに体を預けると、片手をひらりと持ち上げてみせた。


「さて、君はヤクザを頼った。だがそのヤクザがこれから先、君を守ってくれる保証がどこにある」


 トシロウの目が動揺に揺れる。考えなかったわけじゃない。それは、その可能性は。


「マフィアを裏切るような奴を、いつ自分たちを裏切るとも分からない奴を、本当にヤクザどもが仲間に迎え入れるとでも思っているのかね?」


 呼吸が浅くなる。動揺が体中に広がっていく。


「それだったらいっそ――、一度自分を裏切った我々の下についていた方が、まだ賢いのではないかね?」


 歯を食いしばる。足が震えそうになるのを必死でこらえる。ドンは悠然とした様子で問うた。


「さあ、どうかなトシロウ。これでも私を殺せるかな?」


 銃を握った右手が震える。寒くもないのに奥歯がガチガチと鳴る。動揺で照準が合わない。握りしめていたはずの手が緩み、拳銃を取り落しそうになる。トシロウはきつく目をつぶった。


 ――銃声。


 驚いた様子のドン・カーネの額に穴が開く。数瞬遅れて、ドンの体はぼろぼろと崩れ去っていく。トシロウの指は引き金にかかっていなかった。――ドンを撃ったのは、アンバーの持つ小さな銃だった。


「アンバー……」


 銃を下ろすこともできず、泣きそうな顔でトシロウはアンバーを見る。アンバーは銃を下ろしながらトシロウを見上げた。


「トシロウ」


 名前を呼ばれて、トシロウはようやく銃を下ろす。アンバーはそんなトシロウの手を包み込んだ。


「わたしの銃口はわたしのもの。……これはわたしの都合。トシロウが手を汚す必要はない」


 迷いない口調でそう言い切り、アンバーはトシロウに微笑みかけた。


「そうでしょ?」


 トシロウは今度こそこらえきれず、全身を脱力させて座り込んだ。手から離れた銃もまた、床に落ちてごとりと音を立てる。


「……そうだな、アンバー。その通りだ」


 うなだれて囁くようにそう言った後、トシロウは膝を抱えて肩を震わせ始めた。


「ごめんな、ちょっと疲れた」


 まるで風に吹かれた砂絵のように、マフィアの屋敷が、空が、世界が崩れ始める。アンバーはトシロウの隣に座り込み、そっと寄り添った。


 真っ黒に塗りつぶされていた空が、ぼろぼろと崩れていく。屋敷が、扉が、床が、世界に溶けていく。アンバーは床に置かれたトシロウの手に、手を重ねる。徐々に明けに染まりゆく世界に、トシロウのすすり泣く声だけが響いていた。

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