第26話 『日常』としてのマシン

☆人間社会とマシン

 こんなにもマシンが日常に入り込んできたのは、

 産業革命以来だと言われていますが、

 それに従って「人間」 と 「マシン」 を

 どうつなげていったらいいのか、

 わからなくなるひとが出てきました。

 西洋思想の個人主義とも結びついて、

 人々は、孤立していきました。


☆いま、わたしの周囲には

 わたしの周囲には、ファミコンやら3DSやら

 パソコンやらスマホやら

 テレビやら洗濯機やら冷蔵庫やら

 IHクッキングヒーターやら フードメーカーやら

 ヨーグルトメーカー やら ミキサーやら

 電子レンジやら 掃除機やら オーブントースターやら

 電気炊飯器やら いろんなメカがあります。

 そして、うちのまわりには、ほとんど自然はなく、

 無機質なアスファルトが広がっています。


☆これが普通だとしたら……

 未来において、こういう状況がふつうだとしたら、

 なんという殺伐とした光景だろうと思います。

 そのうえ、アンドロイドとゆーものまで、

 個人に販売される時代になってきました。

 「まるで生きているように 育てられます」

 食事はいらない。

 不定期に泣かない。

 わがままも言わない。

 人間に都合のいい、赤ちゃん。

 それが 自然というものなのか

 生きているということなのか は議論の余地があります。

 自然に対して感動したり

 生活を楽しんだりする 地味 (「ケ」) の良さは、年とともに実感されます。

 アンドロイドのような、マシンが日常になれば、ケはどうなるのでしょう。

 考えて発言するマシン。毎日が 「ハレ」 ……。

 おそろしい。


☆なにが人間にとって大切なのだろう

 忙しい、忙しい。 日々を生活に追われるひとたち。

 仕事で感性をすり減らし、厳しい職場のストレスで刺激を求めるようになる。

 もっと、面白いものを! もっと楽しいものを!

 刹那的になって、レミングみたいに崖から落ちる人生って、やだな。


 立ち止まって、考えてみよう。

 自分という存在が、マシン化されてやしないかと。

 日常の中のマシンと自分をつなげる手段を、

 どこかで なおざりにしてないかと。


 だれかさんに都合良く、感性や思考力を、奪われて、

 くたびれ果てて ボロ雑巾になり、

 やがて使い捨てられる人生よりは、

 自分で自分の人生を歩いて行きたい。

 夫ぐらいしか 理解者がいなくても、

 いてくれるだけで 充分だ。

 だから、お話を書くのをがんばろう。

 大勢の人に読まれなくても、ネットで書くんだから別に構わない。

 わたしは身の程を知ってます。

 いずれは、小説家という職業も、

 アンドロイドに 食われてしまうかもしれないんだからね。

 

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