先輩、わたしの眼を見て言ってください!

狐谷まどか

部活の後輩女子とイチャラブ?!


「堀川先輩、明日の夕方とか予定空いてますか?」


 夏休み中の部活の帰りの事だ。


 空手部の練習場と更衣室の戸締りを終えて職員室に鍵を戻しに行ったところで俺は後輩に呼び留められたのだった。

 振り返れば、そこには声の主である人相の悪い女の子がいた。

 名前は箕面香奈枝(みのおかなえ)、部活の一年生の後輩だった。

 やや毛先に癖のある跳ね上がったセミロングの髪をして、まるで獲物を射抜く様な視線をこちらに向けてきている。

 とってもかわいらしい顔をしているのは間違いないのだが、とても恐ろしい鋭い目つきをしているのがいけない。


 以前から可愛いなあと思ってニヤニヤしながら箕面さんを眺めていたのは事実なのだが、ある時からとても恐ろしい顔で俺を睨み返してくるようになったので、俺は以後視線を合わせるのをやめた。


 ちなみに。

 彼女に従う様に、という訳でもないのだろうが、同じ部活の後輩女子たちもニヤニヤと面白がっている顔でふたりほど香奈枝の後ろに立ってこっちを向いている。ふたりはちょっとギャルっぽい感じの服装をした後輩ちゃんたちだった。


「せ、先輩と言うのは俺の事かな箕面さん?」


 もしかすると俺が以前からニヤニヤしながら視線を向けていた事に付いて、抗議をされるのかもしれないと俺は覚悟した。

 むしろちょっとチャラそうなギャルのお友達を連れているので、このままシめられてしまうのかもしれない。


「他に誰がいるんですか、先輩しかいないじゃないですか。顔を見てお返事してくださいよ」


 他人であります様にと心の中で祈ったけれど、残念ながら相手は俺だったらしい。


「か、顔を見て!? 明日だよね?」

「そうです明日の予定ですねですね」


 その箕面香奈枝がぶすりとした顔で腕組みして、俺の事を見上げているのだった。


「どうなんですか先輩ぃ?」

「どうせ部活以外にやる事もないし、明日も当然暇してるんですよね堀川先輩ぃ?」


 香奈枝の連れた後輩女子たちふたりも、面白がっている様にはやし立てて来る。

 もしかすると俺は明日この後輩たちに処刑されてしまうのかと急に不安になったので、ありもしない予定を咄嗟にでっち上げて、お断りの言葉を口にする事にする。


「あ、明日はちょっと予定があるかな。うん個人的に忙しいんだ」


 けれどもそれが不味かった。


「予定ですか? 本当ですか」


 不機嫌だったその顔が、ますます色濃く不快さを増して睨み付けて来る箕面香奈枝にビビリまくって、俺は二歩も三歩も後ずさりしてしまうのである。


「本当です。明日は妹とお出かけしないといけない日なので、残念ながら予定は開いていません」

「じゃあ明日は家にずっといないって事なんですね」

「そ、そういう事になるかな?」


 もういいだろ、許してくれよという気分になりながら、俺はペコペコと頭を下げて後輩女子たちの間をすり抜ける。

 すれ違いざまにチラリと香奈枝の表情を観察すると、どす黒い顔をして俯いた彼女の唇がわずかに動くのを目撃してしまった。


「そうですか、不在に……」


 とんでもない話だが、まさか空手女子高生の集団が自宅を襲撃してくるのではないかと一瞬だけ恐怖した。

 何しろ俺は子供の頃から空手を続けていたが、一向に昇段審査に受かる気配すらないほど下手くその、万年茶帯男だ。

 喧嘩も争い事も、口論すらも苦手な人間なのである……。

 これ以上関わっていたら、さらに彼女の機嫌を損ねて本当に自宅襲撃されかねないので、逃げる様に俺はその場を立ち去った。


     ♡


 俺は堀川大夢(ほりかわひろむ)という、とても夢が広がりんぐな名前をしている。

 どういうつもりでこんな大仰な名前を両親が付けたのかはわからないが、恐らく空手をやっていた父親が、俺をK-1選手か空手チャンプにでもするつもりでこんな名前にしたのだ。

 事実、妹の瑞希(みずき)にもオメデタイ漢字が充てられていて、兄妹揃って子供の頃から空手の稽古を父親に強要されていたからな。


 ハッキリ言ってこれは強要だった。


 妹はどうやら空手をする事が当たり前の生活の一部になっている節が感じられたけれど、親父や瑞希ほど運動神経がすぐれておらず、どちらかと言えば体も硬い人間だった俺は、子供の試合に出ても必ず一回戦負けをする程度に下手糞だった。


 けれども、高校生になって他にもまともに出来る部活動もないし(特に球技は大の苦手だった)、ついつい何も考えずに入部したのが空手部だったのである。


 今は高校三年で、この夏休みが終われば部活も引退だ。

 夏の終わりに昇段審査があるので最後のチャンスと思って何とか黒帯を、初段をと思っていたけれど、どうやら無理そうだ。

 どうも昇段審査に挑むと緊張からか、ついつい空手の型が頭の中からスッポリと忘れ去られて軽いパニックになってしまうのだ。


 残念ながら俺は高校卒業と同時に、空手も卒業しようと思っている。

 縁が無かった、運が無かったと思って諦めるしかない。しょうがないね!


     ♡


 家に帰ってみれば、同じ高校の同じ部活に通っている瑞希がすでにリビングでくつろいでいる姿があった。

 外ではいつも快活でぶっきらぼうな態度をしている瑞希だが、家では少女漫画を読み漁ったり、着もしないのにポップなティーンズ女子が好きそうなヒラヒラの服を掲載した雑誌をニヤニヤしながら読んでいる。


「あ、アニキ。お帰り」


 今日も普段の例にもれず、いつもの様にだらしなく足を組んでソファに寝そべり、棒アイスをしゃぶりながら雑誌をめくっているところだった。


「何で俺を置いて先に帰るんだよ。どうせ同じ部活に通ってるんだから、一緒でもいいだろ」

「この齢になって何でアニキと一緒に登下校しなきゃいけないんだよ。友達に笑われるじゃん」

「そうかもしれないけど、ちょっとお前に用事があったんだよ」


 瑞希は高校の一年生だ。

 つまり箕面香奈枝とは同じ学園なので、あの人相の悪い後輩女子について少しでも情報収集をしておこうと思ったからである。

 まあ普段から一緒に登下校する様な事は無いので、今日も夏休み中の部活が終わったら、他の女の子たちと一緒にさっさと帰ってしまったんだけどな。


「用事って何さ」

「お前、確か箕面香奈枝さんと同じクラスだろ」

「香奈枝と? うんそうだよ。クラスではあんまり話したことないけど」

「ないのか。部活ではいつも話し込んでるじゃないか」

「てかアニキこそ、香奈枝の事よく部活中に見てるじゃんか」

「み、見てないし、勘違いじゃね!?」


 今日その事で箕面さんに難癖を付けられたと、どう切り出したものかと思ってしまったわけだ。


「あっアニキ、あたしのアイス食べてる?!」


 俺が冷蔵庫から棒アイスを引っ張り出して袋を開けようとしたところで、瑞希がガバリとソファかあ起き上がって抗議して来た。

 すでに自分の棒アイスを食べ終わっていた瑞希は、ファイティングポーズを取りながら俺が手にしたアイスを奪おうと突きと蹴りの連撃をかましてくるではないか。


「ちょ、アニキ、手加減しろよ!」


 馬鹿め、俺は妹を相手に負けた事がないんだ。

 お互いに本気で突きや蹴りを繰り出しす訳ではないけれど、それでもちょっとマジになった兄妹喧嘩だ。

 軽くパンチを払いのけると体を急接近させて立ち位置を入れ替える。

 すぐにもローキックが飛んできたので足を上げてカット、腹いせにローを蹴り返してやった。


「痛でぇよ!」

「はい瑞希の負けー。お兄ちゃんの勝ちー」


 俺は軽くバランスを崩した瑞希のおでこに、ポンと軽く触れる程度の正拳付きを見舞ってやる。

 すると瑞希はあわててヘアバンドで持ち上げいた額をささっと隠して見せる。


「デコはやめろよな」

「だってお前デコ広いから狙いやすいし」

「気にしてるんだから、言うんじゃないよ!」


 そんなやり取りをして勝ち誇った俺が棒アイスを口にくわえたところで、瑞希が俺に質問を投げかけて来る。

「で、香奈枝がどうしたって?」


 顔だけソファから覗き込む様にして俺を見ている瑞希の姿がある。

 何だか妹はニヤニヤしているので、何か妙な勘違いをしているのかも知れない。


「あーそれな。今日、部活の終わりにして戸締りして帰る途中で声をかけられたんだよ……」


 どこから話したもんだろうかと思いながら、俺は重い口を開いた。

 職員室を出たところで、他の部活の後輩女子たちと一緒に、帰り道に立ちふさがれたのである。


「それで明日予定はあるかって聞かれたんだけど、瑞希は何か彼女の行動に心当たりないでしょうかね……」


 いったい明日何があるはずだったんだ。チャラい感じのギャル後輩部員たちのお友達に、もしかしたらガラの悪いお兄さんたちがいたのかも知れない。ケジメを付けさせられるハメになりそうだったと思ったら、俺は心底ぞっとした。

 だって俺は空手そんな強くないしな……。


「ね、ねーな、ンなもん。あたしは知らない」

「何で言葉に詰まってるんだよ。何か知ってるんじゃないのか。ん?」

「詰まってねーし! あたしは兄貴じゃないし。わかんねーな」

「わかんないかーそうかー。あの子いつも俺に対してツンケンしてくるんだよね。顔も怖いし睨み付けてくるし。俺明日、殺されるところだったのかな……」


 これは困った。

 瑞希も俺と兄妹喧嘩まがいの自由組み手をやっている分には俺に勝てないところがあるけれど、部活ではこれでも俺より先に黒帯を取得した有段者だ。

 しかもその瑞希と一緒に地区大会によく出場していたのが箕面香奈枝で、たぶん試合のルールで本気になってやれば俺より恐らく強いんじゃないかと思うんだけどね。


「稽古中にセクハラとかしたんじゃねえの?」

「しないよそんな事!」


 だいたいお恥ずかしながら、箕面さんは俺より強いからセクハラとかしたらボコられるから。

 空手部の練習場所は修練場と呼ばれる体育館わきにある武道専用練習施設だが、まあ男女混合で基礎練や簡単な約束組み手の様な事は合同でやる。


 さすがに大会や大会に出るための本格的な試合をやる時は男女それぞれ同性同士や、夏休み期間に顔を出してくれるOBOGを相手に稽古をする事はあるがね。


「そもそも俺、箕面さんと接点らしい接点とかなかったし。こんなに付け狙われる理由がわからないし!」

「あるじゃんかアニキ、子供の頃の道場からずっと香奈枝と一緒なんだし。ちょっとは考えてみろよ」

「言われてみればそうだけど、それただ部活や道場が同じでしたってだけだからな。それなら瑞希も箕面さんと同じだったじゃん」


 確かに子供の頃から同じ道場には通っていた。

 瑞希は同じ女子だから箕面さんとはまあ一緒のグループだった事もあるだろうが、中学の時は男子は大人の部に混じって練習する事も多々あったので、顔は知っているけれど、それ以上でも以下でもないと言う程度だったぐらいだね。


「あ、でも思い出した。香奈枝の上段回し蹴りで、アニキぶっ倒れた事があったよな」


 妹にそう言われて、いわゆるハイキックというやつを出会いがしらにぶち喰らって倒れた思い出だ。


「お前よく覚えてるなそんな事……」

「アニキって基本、弱いからな」

「お前お兄ちゃんにさっきも負けておきながら偉そうだぞ」

「妹に対してだけ強くても意味ないだろ!? 何で万年茶帯なんだよ早く昇段しろよ!」

「やりたくてずっと茶帯付けてるわけじゃないんだよ! 言わせんなっ」


 またぞろじゃれ合いみたいな兄妹喧嘩になりかけたところで、玄関に気配を感じたのでピタリと俺たちは争いをやめる事にした。

 たぶん親父を駅まで迎えに行っていたお袋が、夫婦そろってスーパーで買い物をして帰って来たのだ。


 ガサガサと買い物袋の擦れる音と、談笑する両親の声を耳にして、俺たちはそそくさと離れるのだった。

 ようやく落ち着いてアイスが食べられるようになったので、自室に戻る事にする。


     ♡


 結局俺は箕面香奈枝の情報を瑞希から引き出す事は出来なかった。

 彼女の事は確かに顔だけは町道場に通っていた頃から知っていたのだけれど、実際に瑞希に言った通り、ほとんど接点がないも同然だったので、要するに何も知らないのと一緒だった。


 ただひとつわかっているのは、高校に入るか入らないかぐらいになってから、妙にチャラチャラっとした女の子たちと一緒にいる事を目撃したぐらいだろう。

 ちょうど部活帰りに職員室で見かけた、あの連れの女の子たちがそうだ。

 箕面さん自身はむかーしから目つきが悪かったし、言葉もあまり流麗にしゃべるタイプではなくぶっきらぼうな雰囲気があった。

 けれども彼女の普段親しくしているお友達はどうみたってチャラっとした感じの女の子だ。


 不良というわけでもないのかもしれないが、髪の毛を校則に照らし合わせて指導されるギリギリまで茶髪にしている様な感じだし。学校外で見かけた(主に駅前とか)時は、どうやらピアスもしていた気がする。

 うちの妹がそんな事をすれば間違いなく親父が怒りだす程度にはチャラっとしているので、何となく彼女も悪いお友達が出来て、悪い人間になったのではないかと俺は想像して肝を冷やしたのだ。


 もうほとんど溶けてなくなりかけた棒アイスの棒を口にくわえながら、陽の落ちかけた夕方の窓の外を見やった。


「ホント、明日はいったい何の用事で俺に顔を貸せとか言ったんだろうな……」

 べったりと体に張り付く様な空気を混ぜ返す扇風機が、窓のカーテンを揺らす。

 風鈴がチリンチリンと鳴り響いているのが、俺の不安をかきたてるのだった。


     ♡


 翌日の事だ。

 その日は夏休みの部活も予定されていなかったので、俺は朝から自室のベッドに転がって過ごしていた。


 何やら瑞希の昔なじみの同級生が昼過ぎに遊びに来ていたのは覚えているけれど、そのまま「アニキちょっと出かけてくるから!」と階下から聞こえてきたので、きっとショッピングにでも出かけたのだろう。

 水ばかり飲んでいたのでトイレが近くなった俺は、夕方近くになってから一階に降りて来てトイレに向かった。

 すると、出てきたところでピンポンと玄関の呼び鈴が鳴ったのである。


「はいはい、今出ますから待ってくださいね……」


 何の気なしにインターホンの受話器を覗き込むと、玄関口に着けられているカメラモニタに来客の姿が写り込んでいる。

 前から思っていたが、カメラの位置が低すぎてお客さんが覗き込む様にしないと顔が確認できないのがいただけない。

 どれどれと受話器を取るついでにモニタをしっかり確認すると、相手は果たして浴衣姿の女性だった様だ。


 ただし例の問題によって顔が確認できないので、誰だろうと思いながらインターホンの受話器を取る。


「はい、堀川ですけど……」


 すると浴衣を着た女性がかがみこむ様にして、カメラに顔を近づけて来る。


「こんばんは先輩、わたしです」

「げっ箕面香奈枝?!」


 俺はたまらず相手の顔を確認したところで、ついつい思った事を口にしてしまった。

 あわてて受話器の口をふさいで見せるがまったく意味の無い行為で、軽いパニックから挙動不審な態度をリビング内でしてしまったのである。

 よかった、この姿を箕面さんに見られなくて。俺は咳ばらいをひとつして急いでお返事をした。


「や、やあ箕面さんこんばんは……」

「先輩、今げぇって言いませんでした? 言いましたよね」

「いやあたぶん、えっと、気のせいです」

「そうですか、ならよかった。瑞希に確認したら今日は堀川先輩、何の予定も無かったって言うし、しかも部屋で寝ているだけって言うじゃないですか。先輩はとんでもない嘘つきですね」

「いや嘘つきというか、瑞希に確認したってどういう……」


 妹の奴め、なぜ俺を箕面さんに売るような真似をしたんだ?! と焦って受話器を持つ手を変える。

 その時に壁にかかっているカレンダーがチラリと見えたので、そこに書かれている文字を俺は目撃した。

 瑞希の描いた文字で金曜日、つまり今日の日付の場所に「納涼祭」と書き込まれていたのである。

 近所の河川敷でやっている花火イベントの事で、屋台も出るしちょっとした催し物モノある。


「先輩が今日予定あるかどうか瑞希に確認したら、先輩は彼女もいないし男同士でお祭りに行くのも馬鹿らしいからその日は家にいるはずだって言ってたんです」

「……」

「ついでに昨日もあのあと瑞希に連絡したんですけど、やっぱり先輩は瑞希と一緒にお祭りに行く予定はないって言ってたじゃないですか」

「…………」

「ちなみに瑞希はアカネたちと一緒に納涼祭へ遊びに行きました。先輩もアカネはご近所だからお名前ご存知ですよね。高槻茜さんです」


 茜というのは昼間に遊びに来ていた近所に住んでいる瑞希の幼馴染、親友だ。茜ちゃんと瑞希が出かけているのが筒抜けになっているとは思いもしなかったぜ。

 いやまあ、クラスメイトだし部活も一緒だから横で繋がっていてもおかしくはないか……

 きっと今流行りのSNSのグループで共有されていたのだろう。

 ちくしょう、クラスではあんま話さないとか言っておきながら、そりゃないぜ!


「先輩、十秒数えるうちに顔を見せてくださいますよね?」

「え、ちょ――」

「ひとつ、ふたつ。みっつ……」


 俺はあわてて受話器を放り出すと、急いでリビングから玄関口に向かって走り出した。

 とりあえず取るものも取らず、靴箱の上に置かれた鏡で髪だけささっと確認して扉に手をかける。


 どういう事だよ、本当に家まで押しかけてきやがった。

 顔を貸せってやっぱり俺シメられちゃうのかな。セクハラ溶かした覚えはないんだけど、部活稽古中に何か起こらせて、ってそれじゃ浴衣の意味が分からない。

 という事は納涼祭に行くって事でいいのか浴衣だし、いやまさかそんな。でもなぜ俺!?

 ガチャリとドアを開ける瞬間、俺は死を覚悟した人間が見るとらしい走馬燈の様に色々な想いが駆け巡った。


「や、やあこんばんは。浴衣姿似合ってるね……」

「ありがとうございます。では付いて来て下さいね」


 とても怖い顔をした箕面香奈枝は、俺を睨み付ける様にして見上げていた。

「えっと、ちょっとまってサイフとか何も持ってないから。あんまりお金入ってないけど、すぐ用意します」

「待ってます。急いで」


 キツい口調に感じられる言葉を箕面さんが口にしたところで、俺は転がる様に自分のサイフを取りに行く。

 カネをカツアゲされるのかと思ったけれど、それはない。だったらいつも一緒にいるギャルいチャラっとした感じの後輩女子たちと一緒に来るだろうしな。


 たぶん間違いなく、でもあり得ないと思って想像していなかった納涼祭に、俺は誘われたのだろう。


     ♡


 ドーンドーンと景気よく花火が打ち上がっていく姿を、俺は理由の良くわからない流れでふたり並んで見上げている。

 場所は河川敷の上にある土手で、ここからでも川の対岸から打ち上げられている花火がよく見えるスポットだった。

 この大人数の地元市民の中に、きっと瑞希やその親友も来ている事だろう。


「堀川先輩、どうしてわたしと顔を合わせてくれないんですか?」

「い、いやそんな事は無いよ。いつも見ています」

「嘘ですね。堀川先輩、最近なかなかわたしと顔合わせてくれないじゃないですか。今だってずっと明後日の方向ばかり見ていますし」


 金魚の形をした和風ポーチを両手で持った箕面さんは、とても嫌そうな顔をして俺の顔を睨み付けていた。

 まさかその顔が怖いので、普段は出来るだけ顔を合わせない様、見ない様にしていましたとはとても言えない。


 そりゃそうだよ、納涼会の花火を見に来ているんだから、花火を見るでしょうなんて言ったらすごい勢いで睨み返された。


「何ですか?」

「いや女の子と会話するのとか苦手なもんで俺」

「知ってます」

「それで箕面さんはどうして俺に声をかけたのかな……」


 だって俺たち部活が一緒、むかし通った道場が一緒という意外にまるで接点がないからね。

 多少は組み手や稽古での交流はあったかもしれないが、学年も違うしむしろ瑞希と箕面さんの方が接点が多いくらいである。


「瑞希に相談したんですよ。どうしたら先輩がわたしの事をちゃんと見てくれるかって……」

「ほへ?」

「好きなんですよね、わたしの事。いつもずっとわたしの事を見ていましたもんね。わたし知っています」


 唐突な箕面さんの切り口に、俺はたまらず意味の良くわからない返事を飛ばしてしまった。

 俺が君を好きってどういう事? かわいいとおもってニヤニヤしながら見てたけど、いくらなんでもそこまで妄想が飛躍した事は……


「それにわたしも先輩の事が好きだから、お互いの気持ちをはっきりとさせておこうと思って、前々から思っていたんです」

 突然の言葉に俺が驚いて歩く足を止めてしまったのである。


 すると振り返った箕面さんは、その口元を少しだけモゴモゴさせたあとにこう言ったのである。


「その事を、なかなか言い出せなくて今日になっちゃいました。本当はもっと早くに言えばよかったんですけど……やっぱり迷惑だったでしょうか」


 箕面さんが、俺の事を好きだっただと!?

 いやあ、だって俺普通の顔をているし、別にモテるタイプとかじゃないと思うんだけど。

 そりゃもちろん年頃の高校生だし彼女が欲しいとは日々思ってはいたところだけれど、だからと言って具体的なアクションをこれまでしてきた事も無かったわけで。


「先輩は童貞ですよね」

「どどど、童貞ちゃうわ!」


 完全に取り乱していた俺は、童貞と言う言葉に過剰反応してしまった。

 どうせ俺の私生活は瑞希との連絡を通してほとんどモロバレだったに違いないと言うのに、馬鹿なことを言ってしまったものである。


「嘘です。瑞希から聞きましたけど、誰とも付き合ってないそうですし」

「わたしじゃだめですか? お付き合いする相手、両想いですよねわたしたち」


 気が付けば鋭い猛禽類の様な眼をした箕面さんの押しに負けそうになって、ジリジリと民家の塀に背中を預けて追い詰められてしまった。

 すっと箕面さんの右手が伸びた瞬間に、俺は完全にガードが無謀になっている事に思い至る。

 きっとこれが空手の試合なら、間違いなく一本取られていたのではないか。


「壁ドンですよ先輩、壁ドン」

「かべ、何だって?」


 追い詰められた俺は意味不明な言葉に、ガタガタと震えながら箕面さんの手が壁に押し付けられるのを黙ってみていた。


「先輩、もう逃げられませんよ。はっきりさせてください。わたしも言いますから」

「はっきりって、何を……」

「堀川先輩はずっとわたしの事見てましたよね? それは事実ですよね?」

「かわいいなって、思いながら確かにハイ……」

「わたしも先輩の事は気になってみていました。その、わたしも……」


 そうなの?

 あの猛禽類が睨みつける様なあれは、俺を気になって向けていた視線だったのか。

 今もその視線を向けられながら、俺は蛇に睨まれた蛙の様になってしまったではないか。


 ドーンパラパラと背後で弾ける花火。

 いたたまれなくなって視線を外したところで、クイと俺はアゴを触られて視線を戻される。


「ちゃんとわたしを見てください。その、好きです……」

「……ありがとう?」


 何と答えていいのかわからなかった俺は、ついそんな間抜けな返事をしてしまった。

 そうすると最後に彼女は潤んだ瞳を浮かべながら俺に顔を近づけて、


「それは了解という意味にとってもいいんですよね。お付き合いできるって事ですよね?」


     ♡


 俺が思うに、箕面香奈枝という後輩女子は思い込みの激しい性格なのだろうと思う。

 いわゆる電波系かも知れない。


 チラチラとかわいいなあと思いながら稽古中に観察していた俺の視線を感じて、てっきり俺が彼女に強い好意を寄せているのだと思い込んでいたらしい。

 まあかわいいと思っていたのは事実だし、向こうからも視線を向けて来ていた(俺からするとただ不機嫌に睨まれていたのではないかと思っていた)のが多少気になってドキドキしていたのも事実だ。


 俺の視線を感じて、ドキドキしている俺の姿を見て、これはもう間違いなく「わたしに気がある間違いない」と確信したらしい。

 その結果、瑞希に相談したりしていたそうなのだが、自分は少女漫画や恋愛小説などが大好きなくせに恋愛とはまるきり縁のない瑞希では、要領を得なかったらしいね。


 てっきり俺がヘタれていつまでも告白してこようとしないものだから、


「思い切って納涼祭の日に俺を拉致して、先輩に告白してもらおうと思ったのです。何か問題がありましたか?」

「いえ、ないです……」


 夏休みも終わりかけにさしかかった八月末。

 風鈴の揺れる自室で俺と箕面さんは向き合っていた。


 簡易の折り畳み机にテキストとノートを広げて、俺と彼女はお勉強中である。

 相変わらず獰猛な捕食獣な視線を俺に向けて来る箕面さんであるけれど、実はこの不機嫌その物の顔にいくつかのパターンがある事をこの夏覚えたぜ。

 例えば居間などは、いかにも怖そうな顔をしているけれど、実のところドキドキしているときの表情だ。


「香奈枝ちゃんが本当は心優しい子で、とても献身的だって俺は知ってるからさ」


 昼間はパートに出ているお袋の代わりに瑞希が昼飯を作ってくれてたのだが、何度か失敗したとSNSで愚痴を言ったところ、ちょこちょことお昼ご飯を作りに顔を出してくれたぐらいだ。

 もちろん例によって突然強引に、ピンポンがなった瞬間には食材の入った買い物袋を引っ提げて登場だ。


 何の予告も無かったから俺はびっくりしたが、ニヤニヤしていた瑞希だけは昼飯当番から解放されたと大喜びだった。


「ほ、本当ですか。迷惑ではないですか?」

「迷惑だなんてそんな……」

「じゃあご褒美をください。夏休みの思い出が欲しいです。さあ、早く」


 ちょっと照れくさそうな顔をして俺がそう返事をしたところ、食い入るように箕面さんが身を乗り出して来たではないか。

 普段はちょっと恥ずかしいので言いよどんでいるのだけれど、最近は箕面さんの事を意識して香奈枝ちゃんと呼ぶことにしている。

 そこが箕面さんの興奮度をアップさせたのかもしれない。


 俺がドギマギとしていると、箕面さんがガシリと俺の顔を両手でつかんだ。

 逃げられないと思った次の瞬間には唇を奪われていたのである。


「ちゅるん、ちゅぱぁ……こうなりたいと思っていたのは、わたしだけじゃないですよね?」


 箕面香奈枝は電波系捕食女子である。

 世の中は弱肉強食だ。俺は彼女に睨まれて、たまらず唇を差し出してしまう獲物そのものだ。

 だが俺も唇を捕食されるのもまんざらでもないと思っている。

 むしろ俺だってたまには一転攻勢、野獣先輩になる事はあるぜ。


「香奈枝ちゃん、俺もうたまりません……」

「ちょ、駄目です先輩。瑞希が隣の部屋にいます。やめ、はあン……いい加減にして!」


 バキッ。

 

                                   おわり

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