臆病な私

藍雨

臆病な私


––––––––小さい頃はこんなに弱くなかった。


そう思う。


もっと色々なことを好きなように楽しんでいたように思うし、何かをする前にあれこれ悩まずまずは行動していた、そんな風に思う。


少し成長して、少しだけ知っていることが増えて。


私は色々なことを考えるようになった。


また少し成長して、少しだけ自分の世界が広くなって。


今度は考えた結果、行動しなくなることが増えた。


そして行動することが怖くなり、傷つくことを避けるようになった。


私は成長過程のどこかに、勇気を置き忘れてきてしまったようだった。





朝は早く起きる。てきぱきと準備をして、余裕を持って家を出る。

理由は単純、遅刻をしたくないからだ。


余計なことで目立ちたくない。そこに発生するさまざまなリスクのことを考えると、私はどうしたって慎重になる。



歩きながら、私は少しだけ周りを見渡す。

人と目を合わせるのは怖いから、本当に少しだけ。


テトリスのような模様のスカートを履いた中年女性が忙しくなく横を通って行く。

前を歩く、少し若作りしたお姉さんが、ヒールを気にしながら誰かと電話している。きっと彼氏さんだろう。


私はまだ少し冷えた空気を感じながら、自分のペースで歩く。

たまに傘を持ち替えたりしながら歩くこと15分、見えてきた校門前に立つ先生の姿。


挨拶は苦手だ。けれど、しなかったらしなかったで何か悪い印象を与える。

その方が嫌だ。


挨拶をして、校門を通過。


私は何も起きないことを願っている。

急な変化なんて望んでいない。


慣れるにはあまりにも厳しすぎるこの世界で、私は出来るだけ慣れないことを増やさないように、慎重に生きている。



「おはよー。昨日のドラマ見たー?」

「おはよっ。見た見たっ」


見た。

けれど、話の内容はあまり覚えていない。

小説を片手に上の空で音だけを聞き流していたからだ。


でもそんなことがバレたら私の居場所はきっとなくなる。


あまり目立ちたくない。

変化なんていらない。

だから私は、聞き流していた音を必死に思い出しながら、話を合わせる。


このクラスに、活字中毒はいない。

クラス替えが行われてから2日でそのことに気づき、私はテレビの電源を入れた。

これだと思うドラマを次々と予約し、誰も見ていないらしいドラマの予約を取り消す。


そうやって、このクラスに溶け込んだ。息苦しさなんて感じない。

4月はまだ始まったばかりだ。



私は活字中毒だ。どうしたって本は手放せない。

だから、合間を見て図書室に通う。


借りていた本を返すために訪れた図書室。この学校は昼休みが短すぎる。人はほとんどいなかった。


返却処理を済ませて、棚を見て回る。いつもいつも新しい本が置いてあるというわけではないけれど、何かしらの興味を惹く小説が隠れている。


「あっ……」


好きな作家の小説は、既読でも未読でも、見つけるとやっぱり嬉しい。特にその本は、私のお気に入りだったから、既読だったけれど、手が伸びていた。


「あー、先越された」


と、その時、横からも手が伸びていることに気づく。思わず本から手を離してしまった。


「おっとっと」

「あっ、ナイスキャッチ……」


落ちる寸前のところで、その男子が見事にキャッチした。


「はい、どうぞ」

「あ、ありがとう……」


手渡された本を見て、少し考える。

私は本を返した。その時ちらりと校章を確認する。同じ2年生だ。


「へ?」

「あ、これ、私もう読んだから……」

「あ、そうなの?この作家、好きだから良かったわ。ありがとさんっ」

「ううん、私もその人、好き」

「おぉ~。なかなか気が合うねぇ」


にひひ、という表現が合いそうな笑顔を見せた彼。この時初めて、私はこの人の顔をしっかり見たように思う。


人と目を合わせるのは苦手だ。

私は、ずっと俯いていたことに気づいて、さすがに失礼だったかなと反省する。


「ね、何組?」

「C組だよ」

「まじか、俺E組。ギリギリ階が違うじゃん」


2年生はA組からC組が3階、D組からF組が4階なのだ。6階建ての校舎を、学年に2階ずつ割り振った形になる。


「どの作品が好き?」


訊かれ、私は答える。

それから昼休み終了のチャイムが鳴るまで、私たちは好きな作家についての話で盛り上がった。



次の日。

また図書室で彼と出会う。

私の日常に訪れた、小さな変化。

私はこの変化を、楽しんでいるようだった。



そして一週間。

すっかり打ち解け、私たちが図書室で出会うことは日常になっていた。


取り付けたわけではないけれど、見えない約束に導かれるように、私は図書室へ足を運ぶのだ。



「おっ、そのシリーズ読んだの?」


明るい声。振り向くと、いつもの笑顔を浮かべた彼。


「うんっ、面白かったよ」

「そりゃそうだ。俺が薦めたんだしなっ」


得意げに笑う彼。


彼の前では、話を合わせようと努力する必要はない。クラスメートとは大違い。


繕う必要が何もないのだ。


私はこの時、この場所で過ごすひとときに、安心感を与えてもらっている。

その事実に支えられ、感じるようになった息苦しさを忘れられる。



「あれっ?洋介なんでここにいるのー?」


彼と次に借りる本の話をしていたら、突然彼の名前を呼ぶ高い声が響いた。


図書室に似つかわしくないその声に呼ばれた彼は、驚いた表情で声の主を探す。


「奈美じゃん。俺の趣味は読書なんですー」

「えぇー、似合わん似合わんっ」

「うるせーなぁ。そっちこそ、なんでここにいるんだよー」

「課題の資料探し。図書室なんて初めて来たよ」


……私は隙を見てその場を離れようとした。


「んっ?もう行っちゃうの?」

「あっ、うん」


じゃあまたな、と手を振る彼。

私は何の返事も出来ず、そのままその場から走った。



とても仲が良さそうな雰囲気の二人。

彼女さんだろうか。


びっくりして、逃げてしまった。

私はここに居てはいけない、そんな風に思ったから。



そして私は思い出す。


この変化を受け入れて、気付けば私は楽しんでいた。


彼と話すことがとても楽しかった。

彼は私と一緒に笑ってくれた。


とても楽しかった。


–––––––––––––きっと彼のことが好き。


でも、私には普通に何かを楽しむことなんて似合わない。


変わろうと努力して苦しんだりするのなら、私は変わりたくない。変化なんていらない。


そうやって傷つくことから逃げてきた人間に、いまさら変化を望む権利なんてない。


–––––––––––––いつもみたいに、元通りに、普段通りに。


私はおとなしく、息苦しさを誤魔化してフィクションの世界に逃避行すればいい。



渡り廊下まで来たとき、本を借り忘れたことに気づく。


「放課後、かな……」


飛び出した時のまま走るのをやめてくれなかった足を強引に止めて、私は教室へ戻る。


渡り廊下を吹き抜けた風は5月に似合わず、妙に冷え切っていた。



「ねぇなんで逃げたの」


放課後。先生まで席を外した夕陽射し込む図書室で、彼が私に詰め寄ってくる。フィクションみたい、なんて考えてしまって、慌ててそれを振り切る。


「逃げ……?」


訊き返す。けれど、昼休みのことを訊かれていると気づいていたから、自然と私の視線は彼から逃げた。


「奈美が来た途端、帰っちゃって。俺結構びっくりしちゃったんだけど」

「逃げたわけじゃないよ、用事、思い出して」


バレバレの嘘だ。潜めた眉をさらに八の字にして、彼は首を横に振る。


「倉井さんは、それでも、あんな風に走って行っちゃうような人じゃないよ」

「……っ」


鼻がツンとした。


「……白井君は、私のことそんなに知らないよね」


けれど口をついたのは、私の本心とは全く異なるものだった。


彼が目を丸くする。でもきっと、私だって同じように目を見開いていたはずだ。だって、きっと、私が一番驚いている。


「私、そんな、良い人じゃないから」


否定の言葉に首を傾げ、彼はいやいや、と笑う。


「良い人だなんて言ってないよ」

「え?」


今度は私が首を傾げる番だった。


「倉井さんは、臆病だよね」


臆病?


私は、臆病なのだろうか。


「臆病だから、きっと怖くなった。私は白井君と居てもいいのか、って。臆病だから、なんてことないフリしていつも周りに合わせてる」


–––––––––––––それは、私だった。


「私、ずっと目を逸らしてた。私は弱い。だから仕方ないなんて、思ってしまってた」


そのことに気づいてしまった。


––––––––いや、気づかされた。


弱さを盾に取って、私は変わることをやめていた。


でも、その盾に付けるべき名前は「弱さ」ではなかった。


「……ただ私はびくびく怯えて、目を逸らして、やり過ごそうとしてただけなんだね」


それって。


「それって、私、すごく卑怯だ」

「それは違うね」


断言されて、私は固まる。


「言ったじゃん、臆病なだけだって。弱い人にはないものを持ってる。ふりしぼれる勇気は持ってるよ、倉井さんは」

「勇気……」

「その一歩を踏み出せないだけ。倉井さんは、弱くなんかないよ」


きっと私は、弱くない、という言葉を求めていたわけではないけれど。


勇気を持っている、その言葉はなんだか、私の心にゆっくりと沁み渡っていって。


「そっか、そうだったんだね……」


変わる勇気。

そんなものはないと思っていた。


弱いから。

弱いから、恐怖を感じる。


けれど違った。私は「弱さ」に何もかもを任せていただけだった。預けて、きっと私はただ、面倒臭がっていた。


「でもやっぱり、怖いよ」

「それは、俺が居ますから」

「えっ」

「ねぇさっきのさ、俺と居てもいいのか不安になったってあれ、俺の願望なんだけど」

「えっと……?」

「奈美が来たことで、彼女かな、誰かな、って不安がってたりして、とか、ね、あはは……」

「……それは、考えたよ」

「えっ⁉︎」

「白井君、あの子と仲よさそうだったから。彼女さんかなぁ、って」

「おぉ、それはそれは」


彼は笑った。いつもの笑顔。


「それは俺、脈アリと思っていいってこと?」

「えっ」


顔が火照るのを感じた。暑い、暑い。


「まぁその話はこれからゆっくりでいいや。そろそろ出ないと、戸締りの時間になるし」

「あっ、本、借りなきゃ」


彼のそばを離れ、棚の影に身を収める。


あれはどうなんだろう。いや、私の都合のいい解釈だ。

両想いなんてそんなこと。


でも脈アリって……。


「おーい、急げ急げー」

「あ、うんっ」


返事をする。考えるのは後だ。


彼に薦められていた本を手に取る。

それが無意識だったと気づき、さらに顔が火照る。私は深呼吸をした。



変わりたかったんだ。どんなに建前を作っても、私は変化を望んでいた。


「弱さ」に隠した本音に、私は気づいてあげられなかった。


けれど、彼は気づいてくれた。

そのことはきっと、私が変わる勇気を振り絞る理由になる。


「……それで充分」

「えっ?なに?」

「なんでもないよっ」



臆病も、弱いことも、きっと悪いことではない。


きっかけさえあれば。

その欠点も、もしかしたら自分にとってはいい方向に転ぶのかもしれない。


そんな風に思えて、嬉しくなる。


きっと今、私は私のことを少しだけ好きになれた。



fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

臆病な私 藍雨 @haru_unknown

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る