幸せの意味

 そのとき、窓に何かがぶつかるようなばさりという音がした。

 なんだろう。まるで大きな鳥の羽音のような……。


 その音の正体に気づいて目を開けた次の瞬間、凄まじい衝撃音がした。

 驚いて目を向けると、部屋のドアが吹き飛んでいた。ドアは物凄い勢いで正面の壁にぶつかると、破片を散らし大破する。


「なっ、なんだ……!?」


 男達が困惑と驚きの入り混じった声を上げる。

 木っ端微塵のドアを呆気にとられたように眺めたその後で、我に返ったように揃って薄暗い入り口に視線を集中する。

 そこにひとつの影があった。


「おい、そこのお前、コーデリアから離れろ」


 聞き覚えのある声がした。

 暗闇に溶け込むような真っ黒いシルエット。胸元に光る赤い石は、なんだか今はひどく懐かしく思えた。


「アルベリヒさん……」


 わたしの呟きが響く。

 どうしてここに?

 その言葉を飲み込んだ。

 ランプのわずかな灯りに照らされた彼の瞳が、ひどく冷たい色を宿していたように見えたからだ。

 ――怖い。

 そんな言葉が脳裏をかすめた。

 先ほどまでは、目の前の男達が恐怖の対象だった。けれど、アルベリヒさんはその非じゃない。とてつもなく怜悧な空気を纏い、男達を睨んでいる。


「な、なんだお前は!?」


 男がアルベリヒさんに吼える。


「俺はそいつの雇い主だ。許可なくこんなところに連れ込みやがって不愉快なことこの上ない。コーデリアは返してもらうぞ」


 ゆっくりと部屋の中へと歩みを進めながら、アルベリヒさんの手が軽く上がり、男達に向けられる。

 と同時に、わたしの目の前でナイフを構えていた男の服が燃え上がった。


「うわっ!? な、なんだ!?」


 男は尻餅をつき、火を消そうと焦ったように服を叩く。その拍子に手からナイフが零れ落ち、床を滑った。

 次の瞬間、わたしと男達を隔てるように激しい炎の柱が床から何本も吹き上がった。部屋が一気にオレンジ色に染まる。その熱にわたしは目を瞬いた。

 まるで炎の檻に閉じ込めるように、見る間に男達のまわりに灼熱の格子が形成される。それはじりじりとその範囲を狭め、男達を一箇所へと追い詰めていく。


「な、なんだよこれ……!」

「おい、やめろ、やめてくれ! わかった、返す! その女は返すから!」


 熱さに妬かれた男達は弱音を吐くように、あっさりと降参の言葉を口にする。

 だが、アルベリヒさんの炎は勢いの弱まる様子はない。


「二度とコーデリアに手を出すな。もしもまた彼女に何かあれば俺が許さない。その時は火傷程度で済むと思うなよ。他のゴロツキ仲間にも会うような事があればそう伝えておけ」


 冷たく吐き捨てるようなアルベリヒさんの言葉に、男達は観念したように手を上げる。


「わ、わかった、わかったから……!」

「早くなんとかしてくれ! このままじゃ焼けちまう……!」


 あまりの熱さに、男たちの服や髪からは煙が立ち上り始める。


「熱いか。それなら冷ましてやる」


 アルベリヒさんが冷たい声でそう言った途端、炎の壁はふっと消滅した。

 続いてきぃんという澄んだ音がした。すると男達の足元に霜のようなものが発生した。それはみるみる氷の塊となって床から男達の足首、膝へと覆いながら這い上って行く。氷の魔法だ。


「お、おい、返すって言っただろ!? もう許してくれ!」


 男達の情けない声が響くも、アルベリヒさんは男達に向かって更に手を突き出した。


「落ちろ」


 みし……と床が鳴ったような気がした。

 次の瞬間、床に亀裂が入ったかと思うと、がらがらと音を立てて男達の足元が崩れる。

 そのまま男達の姿は地面の下に吸い込まれるように消えていった。


「コーデリア!」


 アルベリヒさんは、床に転がったわたしを抱き起こすと、近くに転がっていたナイフで手足を縛っていたロープを切ってくれた。

 息ひとつ乱すことのない、いつも通りのアルベリヒさんがそこにいた。これまで何度も目にした、黒曜石のようなその瞳。

 それを見た途端、先ほどまで抑え込んでいた恐怖感が噴出し、わたしはなりふり構わずアルベリヒさんの胸にしがみついてしまった。


「こ、怖かった……!」


 アルベリヒさんがはっとするような気配がする。わたしの声と身体が震えていたせいかもしれない。

 次の瞬間、強く背を抱かれる感触がした。


「もう大丈夫だ。大丈夫だから」


 大きなその手が安心させるかのように優しくわたしの背を上下する。

 わたし、助かったんだ……。

 ようやくそんな実感が湧いてきて、安心感で泣きそうになってしまった。

 そんなわたしの背中をアルベリヒさんは撫で続ける。

 そうしているうちに、わたしが徐々に落ち着きを取り戻していくのを感じたのか、アルベリヒさんがわたしの顔を覗き込む。


「立てるか? こんなところから出てさっさと帰るぞ。ここのことは憲兵隊に連絡してある。あとは彼らがなんとかするだろう」


 差し出されたその手に縋って立ち上がろうと足に力を込める。が……。


「痛っ!」


 立ち上がれずに、床に膝をついてしまった。


「大丈夫か? どこが痛いんだ?」

「縛られた足首が、まだ痺れているみたいで……」

「あいつら……強く縛りすぎだ」


 アルベリヒさんが、ばらばらになって床にのたうつロープの切れ端を憎々しげに睨む。


「今は歩けそうにないみたいだな。仕方ない」


 そう言った直後、片手でわたしの背を抱き、もう片方の手を膝の下に入れたかと思うと、横抱きに持ち上げた。


「え?」


 な、なに?

 身体が浮くような感覚に戸惑う。すぐには自分の状況を理解できなかった。

 え? え? わたし、今、アルベリヒさんに抱っこされてる……?


「悪いな。俺は治癒魔法は専門外なんだ。しばらくこれで我慢してくれ」


 で、でも、だからってこんなの……は、はずかしい……。

 うろたえるわたしに構うことなく、アルベリヒさんはわたしを抱き上げたまま外へと出る。とっくに日は暮れて、あたりはすっかり夜の闇に包まれていた。

 すると、頭上で羽音がした。かと思うと、どこからともなく大きな影が降りてきた。影はそのままわたしたちのまわりをぐるぐると回る。

 わたしは先ほどあの部屋の中で聞いた鳥の羽音のようなものを思い出した。


「もしかして、ディディモス? さっき来てくれたのも?」

「ああ、お前を探すのを手伝ってもらった」

「そうだったんだ。ありがとうディディモス」


 お礼を言うと、ディディモスは鳴き声を上げて、再び上空へと戻っていった。


 早足で歩きながらも、アルベリヒさんはわたしを抱きかかえたままだった。わたしは歩けないのだからありがたいのだが……でも、やっぱり恥ずかしい……。

 落ち着かない思いで身じろぐと、上からアルベリヒさんの声がした。


「あんまり暴れるなよ。俺だって落としたくないんだ」


 その言葉に、わたしは身体を硬くしたまま、落とされまいと反射的にアルベリヒさん肩にしがみつく。

 ふと見上げると、アルベリヒさんの整った顔がすぐ近くにある。と、目があってしまった。慌てて俯くと、耳元でイヤリングが微かに揺れて音を立てた。

 それで思い出した。先ほどの不可解な現象のこと。


「ねえ、アルベリヒさん」

「なんだ?」

「さっき、わたし、イヤリングを触られそうになったんです。そうしたら雷みたいなものが発生して……」

「ああ、それは俺がやった」

「え?」


 思わぬ言葉に顔を上げる。アルベリヒさんは前を見たまま答える。


「悪意を持ったやつが、お前のそのイヤリングに触れようとすると衝撃を与える。そんな魔法をかけておいたんだ」

「え……」

「それだけじゃない。そのイヤリングに込めた魔法で、おまえがどこにいるか大体の位置がわかるようになっている」

「もしかして、その魔法のおかげで、わたしを探すことができたんですか?」

「ああ、そうだ。念のためにと思って。まさか今日みたいなことが本当に起こるとは思っていなかったが……」


 知らなかった……。アルベリヒさんは、このイヤリングをただプレゼントしてくれただけじゃなくて、わたしの身を案じて、そんな魔法までかけてくれていたんだろうか。


「そうだったんですね。そのおかげで、わたし、あの人たちに酷い事されずに済みました。アルベリヒさん、ありがとう……」


 そう伝えると、アルベリヒさんは何も言わなかったが、わたしを抱くその手に力がこもったような気がした。




 家に着いて、ソファに座らされる。そこでようやくアルベリヒさんの抱っこから解放された。

 部屋には先に戻っていたディディモスが止まり木に止まっていて、わたしを見てその場で軽く羽ばたいた。


「さっきはありがとうディディモス」


 改めてお礼を言うと、ディディモスはそれに応えるように鳴き声を上げた。

 そのとき、足元に何かが触れる感触がして視線を向けると、ロロがその黒い体を擦り付けていた。

 わたしは咄嗟に抱き上げる。


「ロロも心配してくれたの?」

 

 頬ずりすると、ロロはなんだかちょっと迷惑そうににゃあと鳴いた。

 あたりを見回せば、見慣れた調度品に囲まれた暖かな部屋。

 危険な目にあったけど、こうしてまた無事に戻ってこられたんだ。いつも通りの光景にようやく日常が戻ってきたのだと実感して、ロロを抱きしめた。


「コーデリア、手を見せろ」

「手、ですか?」


 何かと思いながらもその通りに手を出すと、彼は「やっぱり……」と顔をしかめた。


「思った通り、お前の手首、擦り傷がついてる。余程強く縛られたんだな」

 

 見ると、アルベリヒさんの言った通り、わたしの手首にはロープの縄目の跡が付いており、軽く血が滲んでいた。


「ほんとだ……でも、これくらい、すぐに治りますよ」


 心配をかけまいと、反射的に引っ込めようとする手をアルベリヒさんが掴む。その途端手首に痛みが走る。


「痛っ……!」

「あ……すまない」


 わたしの声にアルベリヒさんが慌てたように手を離す。

 自分で思っていたよりも、少しだけ傷は深いみたいだ。


「ともかく、大人しく座ってろ。すぐ戻るから」


 アルベリヒさんはそう言って部屋を出ていった。

 手首をさすりながら言われた通りにソファに座って待っていると、暫くしてアルベリヒさんが何かの容器を持って戻ってくる。

 容器の中身は塗り薬だった。手袋を取ったアルベリヒさんは、その白いクリーム状のものを指先に取りながらわたしの隣に腰掛ける。


「ほら、手を出せ」

「い、いえ、塗るくらい自分でできます……!」

「いいから。早く出せ」


 有無を言わせぬ口調におずおずと手を差し出すと、アルベリヒさんはわたしの手をそっと取り、擦り傷に丹念に薬を塗って行く。その塗り方が優しくて、本当なら薬が染みて痛いはずだろうに、なんだかくすぐったい。


「なあ、コーデリア」


 薬を塗りながら、アルベリヒさんが改まったように口を開く。


「お前、ここに来たこと、後悔してないか?」

「後悔?」


 唐突な言葉に、その意味をおうむ返しに問う。

 アルベリヒさんは、わたしと視線を合わさないまま、傷口に薬を塗り続けている。


「思えば、俺が強引にお前をここに連れてきたようなものだし、魔女としての力を使わせたのも俺だ。そのせいで今日みたいな事件にも巻き込まれて、今後また同じような事が起こらないとも限らない……もしも、お前が生まれ育ったあの街に住み続けて、魔女の力のことさえ知らずに生きていれば、今日みたいなことにはならなかったかもしれない……なあ、コーデリア、もし望むのなら、お前はここを出て、生まれ故郷のあの街に戻って、魔法使いじゃない普通の人間として生活することも……」

「ちょ、ちょっと待ってください……!」


 わたしは慌ててアルベリヒさんの言葉を遮る。

 どうしてそんな話になるんだろう。


「戻るとか、勝手に話を展開させないでください! わたしはそんな、後悔なんてしてません!」


 深く考えずに言い切ってしまった。

 だって、アルベリヒさんの顔が、なんだか苦しそうに見えたから。反射的にそんな顔をさせたくないと思ってしまったのだ。

 でも、冷静に考えても答えは同じだっただろう。


「わたしはここが嫌だなんて一度も思ったことありません。ロロも一緒に引き取ってもらって感謝してます。確かに今日は怖い思いをしましたけど、アルベリヒさんだって、今後わたしに何かあれば許さないってあの人たちに言ってくれたじゃないですか。それって、これからもわたしのこと守ってくれるってことですよね? それならわたし、もう怖くないです。アルベリヒさんが絶対に助けてくれるってわかってるから。それとも、舌の根も乾かないうちに、その言葉は反古にして、わたしのこと追い出そうとするんですか?」

「追い出すなんて言ってない。ただ、お前はここにいないほうが幸せに暮らせるんじゃないかと思って……」

「なにが幸せなのかなんて、決めるのはわたしです」

「それじゃあ、お前は今、幸せなのか?」


 問われてはたと考える。「幸せ」という言葉が不思議な意味を持って響いた。

 幸せ? 幸せってなんだろう。

 確かに今は仕事があって、その日の食べ物にも困らない。それって確かに幸せなことだと思う。でも、それって一般的な幸せであって、わたし自身はそれに心からの幸せを感じているのだろうか。

 唐突に、わたしの脳裏に蘇った。お父さんやお母さんと一緒に暮らしていた頃の光景が。

 そこで気付いた。

 もしかして、わたしにとっての幸せは、既に失われてしまったあの頃なんじゃないか。今のわたしにはどう足掻いても手に入れられない、思い出の中にこそわたしの幸せはあったのかもしれない。

 わたしが黙ったままでいると、その意味を違うものと捉えたのかアルベリヒさんが溜息をついた。


「やっぱり、こんなところにいるよりも、どこか別の場所で――」

「ち、違うんです。今が幸せじゃないとか、そういうわけじゃないんです。今のは、その、何故か急にお父さんやお母さんの事を思い出してしまって……」


 言いながら、涙が滲んでしまった。慌てて俯いて目元を手で拭う。


 なんで、なんで、こんな時に思い出してしまったんだろう。お父さんやお母さんの事を。

 それまで忙しい日常で蓋をして、心の深い部分にしまいこんでいたはずのものが、なんの弾みか溢れ出て来て止まらない。

 もう逢えないってわかってるはずなのに。墓地で土をかけられていく両親の柩を見ながら何度も実感したはずなのに。

 それなのにどうして今になってこんなに心をざわめかすんだろう。


「コーデリア……」


 戸惑ったような声と共に、アルベリヒさんがおずおずとこちらに手を伸ばす。その指先がわたしの髪に触れそうになったそのとき


「にゃあ」

 

 という声がして、膝に何かが乗ってくる気配がした。見ればロロが身体をすり寄せてくる。あの日と同じだ。わたしが泣いていたあの日と。

 やっぱりロロは優しい子だ。わたしの感情を読み取って、こうして慰めてくれる。

 わたしはロロの毛並みを撫でる。その温かさに触れていると、昂ぶっていた心が鎮まっていくような気がした。


「……ごめんなさいアルベリヒさん。取り乱してしまって」

「あ、いや……」


 アルベリヒさんが慌てたように手を引っ込めた。


「さっきも言った通り、わたしはここに来た事、後悔してません。本当です。だから、これからもここに置いてください。お願いします」


 そう頼み込むと、アルベリヒさんはしばらくこちらを見つめていたが


「……わかった。俺のほうこそ、変な事言って悪かったな」


 そう言って視線を外した。

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