逃げ込んだ先は

 その日の夜、そろそろ休もうかと寝支度を済ませたわたしはベッドに腰掛ける。枕の隣には、エルザが既に横たわっている。そういう約束を交わしたわけではないが、夜の間も椅子に座り続ける彼女の姿がなんとなく寂しそうに見えたので、一緒のベッドで眠ることにしているのだ。幸いにも今の所エルザは人間の姿になって文句を言ったりというようなことはない。

 もしかすると本当に寂しいのはわたしのほうなのかもしれないけれど。


「ロロ」


 黒い仔猫の名を呼ぶと、いつもだったらわたしの眠る気配を察して、一目散にベッドに走り寄ってくる――はずなのだが……

 何故か今日のロロはわたしに背中を向けるような姿勢で、なにやら部屋の隅をじっとみつめている。かと思ったら、突然何かにじゃれ付くような動きを見せ、部屋の隅を行ったり来たりしている。

 なんだろう。何かあるのかな?

 不思議に思い近づくと、目に飛び込んできたのは、黒光りする長い体と無数の脚を持つ節足動物。どこから入り込んだのか、大きなムカデが部屋の隅を動き回っている。


「ひっ!?」


 わたしは思わず引きつったような悲鳴を漏らすと、慌ててロロを抱き上げてその場から距離を取る。


「ロロ、そんなのに近づいちゃだめ!」


 わたしはこういう脚のたくさんある虫が大の苦手だ。

 こんな悪魔のような見た目の恐ろしい生き物がこの世に存在しているという事実さえ受け入れ難い。


 は、はやく部屋から追い出さなければ……何か武器になりそうなものは……。

 部屋を見回し役立ちそうなものを探すわたしだったが、ロロの猛攻から解放されたムカデは素早くその大量の足をうねうねと動かし、部屋を横切ったかと思うと、あろうことかわたしのベッドの脚に取り付き、そのまま上へと這い上がり――



 ◆ ◆ ◆ ◆



「ア、アルベリヒさん、助けてください……!」


 わたしはアルベリヒさんの寝室のドアを叩く。

 暫くするとドアが開き、アルベリヒさんが顔を覗かせる。

 その瞬間を見逃さず、わたしはドアの隙間から無理やり部屋の中へと押し入る。


「お、おい、一体なんなんだ。こんな時間にどうしたっていうんだ」

「聞いてください! ムカデが、ムカデが、わたしのベッドの中に……!」


 わたしは思わずその場にへたり込む。

 あの後、ムカデはベッドの中に侵入したまま行方不明になってしまった。だからといってそのままそこで眠れるほどの神経を持ち合わせていないわたしは、ロロとエルザを抱えてこうして二階にあるアルベリヒさんの元へと逃げてきたのだ。


「そういう訳なのでお願いします。今夜一晩この部屋で寝かせてください。寝る場所は床で構わないので。この通り、予備のきれいな毛布も持ってきたし……あ、でも、ロロとエルザはベッドで寝かせてあげてください」

「はあ? 空いてる部屋なら他にもある。そっちを使えば良いじゃないか。なんで俺の部屋なんだ」

「だ、だって、他の部屋にもムカデがいるかもしれないし。ほら、よく言うでしょう? 『1匹見たら30匹はいると思え』って。その点、ここなら万が一ムカデが出てもアルベリヒさんがなんとかしてくれると思って。お願いします。明日シーツと毛布をお洗濯して、徹底的にお掃除してムカデを追い出すので、今日はここに置いてください……!」


 わたしが必死に頼み込むも、アルベリヒさんは呆れたように溜息をつく。初めて見たけどアルベリヒさんて寝巻きも黒い。


「駄目だ。他の部屋で寝ろ」

「ええー、そんなこと言わずに……まさか! わたしに見られたらまずいものでもあるんですか!? ベッドの下とかに!」

「そんなわけないだろ。おかしな想像はやめろ」

「それならいいじゃないですか!」


 食い下がるも、アルベリヒさんは不機嫌そうに首を横に振るばかりだ。

 うう、冷たい。

 わたしはがくりと肩を落とす。


「……わかりました。こうなったらフユトさんに頼んでみます」

「なっ」

「フユトさん、まだ起きてるかな……?」

「ちょっと待て!」


 立ち上がり部屋を出ようとしたわたしの腕をアルベリヒさんが掴む。


「フユトはだめだ! あいつこそムカデなんて目じゃない。まるで毒蜘蛛のように罠を張って、狙った獲物もそうでないものも片っ端から絡め取るような恐ろしくて狡猾な奴なんだ!」

「まさか。アルベリヒさん、弟さんのことそんな風に言うのは良くないですよ。いったい何の恨みがあるんですか?」

「恨みじゃない。これは忠告だ。とにかくあいつのところに行くのは駄目だ!」

「そんなこと言ったって、それじゃあ、わたし、どうしたら良いんですか? 屋根裏部屋でムカデの脅威に怯えながら一人で夜を明かすなんて絶対嫌です。ここで寝かせて貰えないなら、やっぱりフユトさんのところに行きます」

「……ああ、もう」 


 アルベリヒさんは不機嫌そうに頭を掻きむしっていたが、やがて大きな溜息をつく。


「……わかった。ここで寝ても良い。ただし一晩だけだからな」

「わあ、やったあ! ありがとうございます! 良かったね、ロロ、エルザ」


 寝床難民にならずに済んで喜ぶわたしの耳に


「お前は気楽で良いな」


 というアルベリヒさんの呟きが聞こえた。

 どういう意味だろう。少なくともムカデが原因とはいえ眠れないというのはわたしにとっては死活問題なのだが。気楽というのは聞き捨てならない。

 かといって、文句を言って追い出されても困るので、不満は我慢して飲み込む。

 早速ベッドの隣の床に毛布を敷いて、即席の寝床を用意しようとすると、アルベリヒさんがやってきて、床から毛布を取り上げた。


「あっ、せっかく敷いたのに……ちょっと、アルベリヒさん、一体どういうつもりですか!」

「どうもこうもない。俺が床で寝るからお前はベッドを使え」

「え?」

「仮にも女を床で寝かせて俺だけベッドってわけにはいかないからな」

「そんな、無理を言ったのはわたしなんですから、わたしが床で寝ます。アルベリヒさんはいつも通りベッドで寝てください」


 そう言っても、アルベリヒさんはさっさと床に寝転がると毛布にくるまってしまう。

 もしかして、それでわたしを部屋に受け入れるのを嫌がっていたのかな。わたしがいたら床で寝なければならないから。


 慌てて毛布を引っ張るも、アルベリヒさんは既に床に横たわったまま動きそうにない。暫くどうしようかと考えた末、申し訳なく思いながらも、わたしはロロとエルザを抱いて彼ベッドへと這い上がる。

 大きなベッド。わたしが普段使っているものの倍以上はある。天蓋までついていて、なんだかお姫様にでもなった気分だ。わたしとエルザが並んで寝ていても、まだたっぷりと余裕がある。


「アルベリヒさん。わたし、ベッドの端っこのほうで寝るので、よかったら反対側を使いませんか? このベッド広いし、アルベリヒさんも一緒に寝ることができそう……」

「……馬鹿なこと言ってないてさっさと寝ろ」


 ……やっぱり寝床を追い出されて機嫌が悪いのかな。確かによく考えればわたしも図々しい。夜遅く押しかけた上に結果的にベッドまで強奪してしまったんだから。

 せめてなにかお礼ができれば良いんだけど。


「あの、アルベリヒさん、明日の朝ごはん、何が良いですか? 」

「急になんだ?」

「ええと、今日のお礼のつもりというか……なので、食べたいものがあれば言ってください」


 しばらく待つもののその返事はない。

 あれ? 寝ちゃったのかな……?

 仕方ない。わたしも寝よう。そう思ってサイドテーブルのランプに手を伸ばしたその時


「……パンケーキ。レモンジュース多めに入ったやつ」


 それを聞いてわたしは思わず安堵の笑みを漏らす。


「わかりました。明日の朝市で新鮮なレモンをたくさん買ってきますね」

「それは良いが、いい加減寝ないと朝市までに起きられなくなるぞ」

「そうですね。そろそろ寝ます。アルベリヒさん、おやすみなさい」

「……おやすみ」


 その声を聞きながら、わたしはランプの灯りを消した。



◆ ◆ ◆ ◆



 その夜、微かな物音に、わたしはうっすらと目を開けた。

 半分覚醒したような曖昧な意識のままで耳を澄ますと、それは部屋の外から聞こえてくるようだった。

 誰かが廊下を歩いている。最初はそう思った。けれど、何故か足音が遠ざかる気配は無い。まるでこの部屋の前だけを行ったり来たりしているようなのだ。

 それに気付いた瞬間、足音はふっと小さくなり、その後は耳を澄ましても聞こえなくなった。まるでわたしが足音に気付いたことに足音の主が気付いたように。


 今の音、なんだろう。夢だったのかな……?

 相変わらずぼんやりとしたままのわたしはそんな事を考えながら、再び訪れた睡魔に抗えずに目を閉じた。



◆ ◆ ◆ ◆



「そういえば、昨日夜中に廊下から足音が聞こえたような気がしたんですが……」


 翌朝、レモンジュースたっぷりパンケーキの朝食を済ませた後で、紅茶を飲みながら夜中の出来事を話すと、アルベリヒさんとフユトさんが顔を見合わせた。


「コーデリアちゃん。それって『嘆きの迷い子』だよ」

「嘆きの迷い子?」


 首を傾げるわたしにフユトさんが続ける。


「そう。二階の一番奥の部屋があるでしょ? あそこに住み着いてる子どもの幽霊のこと」

「ゆ、幽霊……?」

「僕らも詳しくは知らないんだけどね、昔からあの部屋にいるって言われてて」


 フユトさんの話はこうだった。

 ずっと昔、この家に住んでいた男の子が、ちょっとした悪戯のつもりで二階の奥の部屋に隠れた。ところが、生まれつき身体の弱かった男の子は、隠れている最中に持病の発作を起こしてしまい、気の毒なことに誰からも見つけてもらえないままに亡くなってしまう。残された家族は嘆き悲しみ、亡骸を懇ろに弔うが、男の子の魂は浮かばれず、幽霊になった後も自分のことを誰かに見つけてもらうためにこの屋敷を彷徨っているという。


「それで、時々部屋の外へ出ては、自分の存在をアピールしてるってわけ。それにしても懐かしいな。嘆きの迷い子の話なんて久々に思い出したよ。昨日出たなんて気付かなかったな。もうとっくにいなくなったものかと思ってたし」


 そこでわたしはふと思い出した。以前にその二階の奥の部屋に入ろうとしてアルベリヒさんに止められたこと。

 あれってもしかして、その嘆きの迷い子と関係あるんだろうか?


「フユトさんとアルベリヒさんはその幽霊、見たことあるんですか?」


 フユトさんは首を振る。


「残念ながら無いんだよね。義父ちちからは肝心の部屋に入ることは禁止されててさ。僕もいまだに入ったこと無いんだ。一度子どもの頃に、廊下に出てきたところを見てやろうと思って夜中待ち構えたことがあったんだけど、足音が聞こえたと同時に廊下を見ても誰もいなくて……恥ずかしがり屋なのかな。兄さんは見たことある?」

「いや、俺もないな」


 二人ともその嘆きの迷い子についてはそれ以上知らないみたいだ。

 自分を見つけて欲しくて彷徨う幽霊の男の子かあ。怖いような悲しいような……。

 それにしても、その話が本当だとしたら、ここには不思議なものがいるんだなあ。それもここが魔法使いの家だからなんだろうか。

 あれこれ考えていると、フユトさんが何かに気付いたように顔をこちらに向けた。


「あれ? でも、コーデリアちゃんの部屋って屋根裏だよね? あそこから二階の足音が聞こえたの?」

「ああ、それは――」


 昨日の出来事を説明しようとしたその時、目の端に映るアルベリヒさんが、手を滑らせたように紅茶のカップを取り落とした。

 はっとした時にはすでに遅く、

 がしゃん!

 陶器がぶつかり合う音がして、倒れたカップから紅茶がテーブルや床に飛び散り零れる。


「だ、大丈夫ですかアルベリヒさん!? 火傷してませんか!?」


 わたしは慌ててナプキンを手にアルベリヒさんに駆け寄るが、それより早くアルベリヒさんが立ち上がる。


「いや、大丈夫だ……すまないが、片付けておいてくれないか。俺はその、着替えてくるから。服が濡れた」


 そう言うと、そそくさと部屋から出て行った。

 わたしは零れた紅茶を慌てて拭き取る。床にもいくらか零れてしまったようだ。染みにならないといいんだけど。


「コーデリアちゃん、慌てなくてもいいよ。食器は僕が片付けておくから」


 そう言ってフユトさんがテーブルの上を片付け始めた。


「す、すみません。お台所に運んでおいて貰えれば、後でわたしが洗いますから」

「わかった。それにしても兄さんもそそっかしいな。もう年なのかな。なんてね」


 フユトさんの冗談に、わたしは絨毯を拭きながら思わず笑みを漏らした。

 そうして和やかな朝食の時間は、突然のアクシデントにより終わりを告げた。



◆ ◆ ◆ ◆



 その後すぐに、この家を訪れた時と同じように、唐突にフユトさんは去っていった。

 朝食の後で突然


「そろそろ出てくよ。兄さんの様子も確認できたしね」


 なんて言いだしたのだ。

 それを聞いたアルベリヒさんは


「なんだ。前回より短い滞在だったな」  


 だとか言って平然としていた。この兄弟にとってはよくある事なのかな。

 見送りのとき、こっそりという様子でフユトさんがわたしに手招きした。


「兄さんの事だけど……あの人はなんていうか、ちょっと拗らせてるところがあって……これからも面倒かけるかもしれないけど、見放さないであげてもらえるかな? 頼むよ」


 これからもお世話して欲しいって事かな? アルベリヒさんが捻くれてるって事はわたしだってそれなりに知っている。でも、それをお世話するのは使用人として当然の仕事だ。

 そう伝えると、何故だかフユトさんは苦笑に似た笑みを浮べた。


「まあいいや。コーデリアちゃん、元気でね。兄さんも。また来るから、その時はよろしく」


 歩き出したフユトさんは、顔だけをこちらに向けてひらひらと手を振る。

 その時、風が吹いた。

 フユトさんがこの家に来たときと同じようにわたしのエプロンをはためかせ、風は通り過ぎていった。

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