24

 月影は書庫をぐるりと一回りしながら、手がかりになるような物を探したが結局見つからない。


 おそらく見てない最後の棚の前まで来た時だった。手に持つ燭台の上で灯るろうそくの火が急に小さくなった。


 ろうはまだ少し残っている。


 酸素が薄くなったわけではあるまい。


 月影はじっと消えかかる火を見つめながら考えた。


 ……。


 まずい――。


 入り口に向かって走り出した。


 燭台を元あった場所に戻し、書庫の戸を閉めることなく駆け足で飛び出した。


 トランクを持つ手とは逆の手で、足に掛かる着物をまくりあげ、階段を勢いまかせに上っていく。


 玄関へと導く壁にかかったたいまつの火がどんどん小さくなっていく。


 火が消えるのが先か。


 私が外へ出るのが先か。


 一直線の廊下。


 次々とたいまつを横切っていく月影。


 激しくトランクは揺れる。


 その中身がどうなっているかなんて想像したくない。


 火が消える前に外へ。


 お願いだから私が外に出るまで消えないで。


 もし、外に出る前に火が消えたら……。


 私は外に出れなくなる――。


 次に月が現れるまで――。


 目前に見えるのは、玄関だ。


 これが夢なら覚めて欲しい。


 もう一度、最初からやり直したい。


 夢なら飛ぶことだって出来るだろうに。


 月影を玄関まで導くたいまつは数えるほどしかないのに、その距離は長い。


 息が切れて、苦しい。


 トランクが重くなっていく。


 あとは草履を履いて、戸を引いて飛び出るだけ。


 いや、草履を悠長に履いている暇なんてない。


 月影はいっきに廊下から地へ飛び降りた。


 草履を飛び越えて、戸を引き開け、暗闇の外に出た。


 最後の最後に月影は自分の足で着物を踏んでしまった。


 ――転んだ。


 月影の手から離れたトランクは砂利の上を流れて止まった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 惨めだ――。


 なんて、惨めなんだ――。


 早く起き上がりたかったが、疲れと惨めさで立ち上がれない。握りしめた砂利は、濡れていた。


 ようやく月影は起き上がり、振り向くと屋敷は消えていた。空は黒い雲に覆われて、月は見えない。静かに雨が降っていた。


 夜の空を気にしなくなっていた自分が悲しい。そして、一歩踏み出せば、足の裏は冷たく痛い。すぐに白い足袋が変色する。


 月影は倒れていたトランクを手に取って、来た道を帰っていく。


 舗装された道路に出た時には、足袋は真っ黒になり、髪も羽織もびしょ濡れだった。



 ×   ×   ×



 カランカランと呼び鈴代わりの鈴が鳴って扉が開いたのは、明け方になるちょっと前のことだ。


 雨しずくが落ちる手で扉を開けたところは、烏丸神社からもそう遠くないこぢんまりとした喫茶店「夢の」だ。まともな時間には開いていないことで少し有名ではある。


 珈琲の香りでいっぱいの店内は、極小の音量で流れる交響曲、夢の世界へ誘う淡い間接照明で心を落ち着かせてくれる。


 カウンターの中で、珈琲片手にさいの目を転がして駒を動かしていたげんが目を見開き、くしゃくしゃの長髪の頭をかいて出て来た。


「いらっしゃ……泪ちゃん、どうしたの?」


 彦は、月影を見るなり奥から大きめのタオルを持って来た。それを広げて、月影の肩にかけた。


 月影は、トランクをその場において、軽く全身をそのタオルで拭いた。濡れた羽織をトランクの上に畳んで置いた。


 彦は洋卓席に座るように促し、湯気の出ているお絞りを月影に手渡した。月影は両手でそのお絞りを握る。


 暖かい――。


 彦は、羽織をカウンターの椅子に掛け、石油暖房機から少し離して置いた。それからカウンターの中に入り、珈琲を入れる準備を始めた。


「こんな時間に散歩でもしてたのかい?」


 彦は聞いた。


 月影は、左右に首を振った。しかし、今日一日ほとんど歩いていたことには違いない。


「今、珈琲入れるから」


 カウンターの中から新しい香りが流れて来る。と、月影の前に珈琲が差し出される。


「どうぞ」


 彦はそう言ってカウンターの中に引き下がった。月影は何も言わずに珈琲を一口飲んだ。


 暖かい――。


 数日前のあの時、私に触れた馨の手と私を見ていてくれる陽向の眼差しを思い出した。サンドウィッチを出かける前に渡してくれた奈都子の笑顔。私に案件を一任する烏丸。


 私は何を一人でムキになっているのか。


 コロコロンとまた彦は、カウンターの中で賽の目を転がし始めた。


「彦さん」


「ん?」


「昔、占い師をしてたんだよね?」


「んー、もう二十年も前のことだ。ちょうど泪ちゃんくらいの頃、もうちょっと後かな。……それが?」


 賽の目を振る手を止めて、月影を見た。今後を占ってくれとでも言うのか。


「マスカラって聞いて、彦さんだったらなんて思う? なにを鍵として施錠を解く?」


 そう言ってから、月影はまた珈琲を飲んだ。


 彦は、あご髭を触りながら天井を見上げて少し考えた。占いの種類によっては意味が多少異なる。月影の場合を考えると夢占いの面から答えてあげた方が良いだろうと判断した。


「マスカラと聞いて、すぐに感じることは目だろうね。ことわざにもあるように目は口ほどにモノを言うくらいで、目は心を映す。本人さんの知性や意思、物事を判断する能力も表し、それ自体に自分では気づいていないことも多い。それを見極め、導いてあげれば本人さんの力を開眼させてあげることもできる。また判断力や直感が強くなっている状態でもあるから、何か判断を下すには良い時期を示している。問題を抱えているなら、解決できるんじゃないのか……それと」


 彦は、口を潤すためか珈琲を一口飲んだ。月影は、彦の続きを待っている。


「マスカラは、まつげに使うもの。目の周囲を縁取るまつげは洞察力の象徴とされている。さっきも言ったが、直感やひらめきに冴えている時期なんだよ。それに女性は、マスカラなどを使って思い思いに変化をつけるだろ。それは自分自身が持っている魅力を表わしていることもある。けっして悪い状況を表しているとは思わないよ」


 と、彦は笑ってみせた。


 月影は理解に苦しんだ。今の対象の状況を考えると良い状況に置かれているようには思えない。複雑な問題ばかりだ。あの家ならあれこれ障害になりそうなことはありそうだし。それでも対象は、そこを打破できる一振りを持っているとでも……。


 やはり、私には理解し難いものだ。


「あと目の延長線の話だが、目が大きくなったりそうしていたりすると、運気が上がっている好暗示。そんな時期に人と知り合うと一生の友人になったり、恋愛でも良い方向に向かいやすい。マスカラなんかは目を印象づけるためのものでしょう」


 彦は難色を示す月影を見て付け加えた。それを聞いても月影の顔は浮かない表情だ。


 一体、対象はどんな状況にいるのか。結局、対象の状況を知らないと駄目なのか。


 月影は珈琲の温かさも忘れ、いっきに飲み干した。


「本人さんは心の中で迷子になっているんだよ。泪ちゃんなら簡単でしょうに。本人さんの夢の中に直接入って行けるんだから。泪ちゃんは感じたままに障害物をどかして道案内してあげたらいいのさ」


 彦は、月影の気持ちを察したかのように言い付け加えた。


「彦さん……。ありがとう」


 ここにも私の気持ちをいっつも察してくれる人もいた。そうか。別に私は他の夢見がやっているようなことをしなくてもいい。私なりにやってみればいい。頑なに意地を張っている必要はない。


 月影は立ち上がった。


「ありがとう。なんとかなりそう」


「そうかい。応援してるよ。本人さんも良くなるといいな」


 月影は微笑んだ。


 椅子に掛かった羽織はまだ濡れていたが、手に持ち、もう片方の手でトランクを持った。


「あ、お勘定……」


「いいよ。今日はその笑顔で十分さ。今度お社のみんなとおいでよ」


 彦はそう言いながらカウンターから出て来て、出入口の扉を開けた。


「彦さん、ありがとう。甘えさせてもらうわ」


 月影がそう言うと、彦は笑顔で頷いた。


 月影は一礼して、その場を去って行った。


 空は明るくなり始め、既に雨はあがっていた。

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