23

「ここね」


 水純がそう言うと陽向の運転する車がマンションの横で止まる。


 車での移動中、陽向は水純から誠一の家に行く経緯を聞いた。


 車が完全に止まると水純は、自分の道具を持って車からすぐさま降りた。


 マンションの入り口はオートロックで、水純は部屋の番号を入力し呼び出しと書かれたボタンを押した。


 すぐには反応がなかった。たまたまトイレにでも入っていて遅くなっているだけなのか。それにしても反応がないのが奇妙に思え、水純と陽向は目を合わした。


 三十秒を遠に過ぎた頃、突然、慌ただしい声が聞こえて来た。


「草訳さんですか?」


 誠一の声は、電話で話していたときのように息が荒い。


「はい、そうです。どうかしましたか?」


「佳織が目を覚まして起きたと思ったのですが……うわ―――」


 そこで向こうからの声は聞こえなくなった。しかし、オートロックの扉は開いた。水純と陽向は目を合わせてすぐに扉の中へ急いで入って行った。


 ちょうどエレベーターは一階で止まっている。すぐさま乗り込み、五階のボタンを押した。


 胸騒ぎのやまない二人にとって、静かに上がりゆく箱の中は息苦しかった。五階まで上がるのにそれほど時間を要しないのに、これほどゆっくりに感じることはない。


 腕を組んだ陽向の指はまだかまだかと落ち着かず動いている。それは、道具箱を持った水純も同じだった。


 やっと五階で止まり扉が開いた。扉が開ききる前に水純が飛び出たのは言うまでもない。すぐに誠一の部屋を見つけ、躊躇なく玄関扉を開けた。


「高柳さん! 佳織さん!」


 水純は叫んですぐさま部屋の中へ駆け込んで行った。


 陽向が部屋の中を見ると、光に包まれた佳織がうつぶせになった誠一を羽交い締めにしていた。誠一は身動きがとれずにいた。


「佳織さん、佳織さん。目を覚まして!」


 駆けつけた水純は、誠一から佳織を引き離そうとしたがビクともしない。


 悪夢が夢主の意識を乗っ取ったというの? こんな力を出されたら私では……。


 と、陽向が佳織を後ろから抱きかかえるように誠一から引き離した。暴れる佳織だったが後ろから腕を押さえ込まれているので何も出来ずにいる。


 自由になった誠一の表情は、驚いているというより怯えているように見えた。


「水純さん。今のうちに夢主を落ち着かせるような……」


「そうね。陽向君、そのまま落ち着くまでおさえていて」


「了解」


 水純はすぐに道具箱を広げ、液体の入った試験管を取り出した。そして、小さなアルコールランプの形をしたものにその液体を注ぎ込んだ。白いロープのような芯をその液体に浸し、火をつけた。


 すると芯はパチパチと音を発して火が灯り、ごくわずかに煙が昇る。


「よし! 陽向君、夢主をそのまま寝室へ連れて行って」


「おう」


 陽向は後ろを確認しながら言葉ともつかない声を発して抵抗する佳織を倒さないよう足を引きずらせながら連れて行く。その後を水純が続く。


 怯えた表情を隠せない誠一も心配な気持ちで二人のあとに着いて行く。


 寝室の寝台の前で陽向が止まると、水純は佳織の顔の前でさっき灯した火を近づけた。


「陽向君はできるだけ息しないでね。いっぱい吸うとあなたまで眠ってしまうから」


「お、おう」


 と、陽向は息を止めるために思いっきり空気を吸った。確実に匂いのついた空気を少し吸ったことは間違いない。


 煙は佳織の前でゆっくり立ち昇り、息を止めてもいずれ呼吸をしなければならないので、煙と一緒に空気を吸って行く。佳織はその火を消そうとアルコールランプに向かって息を吹きかけるが全く消えない。


 次第に佳織の強い光、ドリームストリームが弱まって行くのが目に見えて分かる。そして、子供が睡魔と格闘している時のように佳織の瞼がゆっくり閉じて行く。


「もう少し……」


 水純は佳織の様子を見ながら言った。


「おっ!」


 佳織の瞼が完全に閉じると、佳織の身体が急に重くなった。陽向は佳織を落とさないようしっかり力を入れ直した。


「静かに佳織さんを寝かせて」


「わかった」


 陽向は、ゆっくり佳織を寝台に寝かせて布団をかけた。水純がそれを確認すると火に蓋をし、火を消した。


「さぁ、二人は先に向こうの部屋へ戻ってて。彼女の様子を見てから私も行くから」


「わかった」


 陽向はそう言って寝室を出て行った。


「佳織は……」


 寝台で眠る佳織の様子を伺う水純に声をかけた誠一。


「大丈夫です。今は普通に眠っています。まだこの部屋にはさっきの煙が残っているので出た方がいいですよ。私もすぐに行きます」


「……はい」


 数分前に誠一を襲っていたあの恐ろしい表情は、今の佳織にはない。ただただ静かに寝ているだけ。佳織のその顔を確認して誠一は部屋を出て行った。


 居間に戻ると、陽向が広げてあった水純の道具を食い入るように見ていた。


「あの、あなたも夢見カウンセラーなんですか?」


 誠一は水純と言う女性のことしか情報を得ていなかったので、突然両耳にイヤリングをした男が入って来た時は驚いたが、あの時はそれどころではなかった。


「カウンセラーかぁ。そう言う名前でも格好いいな。これからはそう名乗ろうかな」


 と、冗談のように言った陽向であるがたぶん冗談ではないだろう。


「え、ちがうんですか?」


「決して怪しい者ではありません。誠一さん」


 寝室から出て来た水純が言った。


「えっと、あなたが夢見カウンセラーの草訳さんですか?」


 誠一がテーブル卓に置いておいた名刺を手に取って言った。


「はい。そういえば、自己紹介がまだでしたね。私が畑岡氏から依頼を受けまして佳織さんの夢見をさせてもらっている草訳水純です」


 軽く会釈をした。


「いえ、こちらこそ。佳織から聞いているとは思いますが、お付き合いさせてもらっている高柳誠一です」


 まだスーツから着替えていない誠一は懐から名刺だそうとしたが、見当たらず。すぐさま自分の鞄から名刺を出して水純と陽向に渡した。


「で、こちらが今日臨時で手伝ってもらっている陽向……」


「陽向照です」


 誠一はいわゆる普通の職種に就いていると、佳織は言っていたが、住んでいる場所や部屋の様子を見る限りは畑岡氏が印象を悪くするほどではないと陽向は思った。


「今、ここを片付けますので座って下さい」


 と、誠一は散らかった佳織の荷物を鞄の中にしまって洋卓の周囲を整えた。そして、三人はやっと落ち着くことが出来た。


「あの、さっき火をつけて煙を佳織に吸わせていたのは何だったんですか?」


 説明のない処方ほど怖い物はない。誠一が訪ねた。陽向もそれには興味があった。


「あれはですね、安眠をもたらす薬草を使ったものです。催眠性のある薬草から抽出したものを液体や固形物にしたものを使っているんですが、簡単に言えばアロマや香の一種だと思って下さい。今回使用したのは、タツナミソウと言う薬草で非常に優れた鎮静作用があるものなんです。中枢神経に作用して、神経疲労には良く効くものです。安眠を誘発させるにはもってこいですね」


「そうですか」


 誠一は特に毒になる物ではないのかと安心することが出来たが……。


「なぜ、佳織はあんなことになってしまったのですか?」


「一概にこれだと言えることはできませんが、少なからず誠一さんと佳織さんのお父さんに関係があるとは思います」


 誠一の顔が曇った。


「もし、そこに何らかの問題があったとしても、どうしてそれが……夢に関係していると」


「夢は自分を映し出す世界です。嬉しいこと悲しいこと、感情が睡眠時に具現化されます。それは決して悪いことではなく、日々起きたことを寝ている間に整理しているだけなんです。しかし、極端に心配事があったりすると、そこを癒そうと夢が働きかけるのです。現実から引き離そうと……」


「佳織は、その現実から逃げようとしているってことですか? 俺から離れようとしているっていうんですか?」


「落ち着いて下さい、誠一さん。そうは言ってません」


「……」


 誠一はゆっくり肩をなでおろした。


「佳織さんを近くで見守ってあげられるのは誠一さんです」


 水純の口調が柔らかくなり、そのまま続ける。


「佳織さんの夢の中で、青い鳥が宙を飛んでいました。白黒の世界で色のついた青い鳥が一羽。目立たない訳がありません。青い鳥は幸せの象徴。満ち足りた心境の象徴の投影。宙から地上を見ている青い鳥は誠一さん、あなたです」


「俺?」


「はい。夢は夢を見ている本人への伝言でもあります。佳織さんから離れていても青い鳥のように、こうやって今日も佳織さんのそばにいる。あなたを頼りにしていることが夢にも出ています」


「……そうですか」


 わずかだが誠一の表情に笑顔が戻ったようだ。


「ただ、佳織さんを悩ましている悪夢は、見るからに佳織さんのお父さんが強く出ています。最終的には誠一さんもお父さんと関係性を持たないと本当の意味で佳織さんが悪夢から目覚めることはできないと思います」


 誠一は何も言わない。


「私なんかに言われなくても分かっているとは思うでしょうが……」


 あとは誠一さん、あなたが自ら動いて状況を変えるしかない。本当に佳織さんを求め、目覚めさせたいのならね。


「夢主はお姉さんのことが嫌いなのか?」


 珍しく口を開いたのは陽向だった。


「どうして?」


 水純が逆に聞き返した。


「ほら、お姉さんが夢主を見下したような感じがしてさ。父親と同じ感じがするし、私と同じように生きるべきなのよみたいに……」


「確かにお姉さんは、お父さんの言う通りに人生を進んでそれを自慢しているように思われるかもしれません。でも実際、佳織はそんな姉を目指している気もします」


 誠一が淡々と話した。


「目指す?」


 また水純が聞いた。


「えぇ。お姉さんは既に結婚していて、佳織も結婚したいと口にしていたり……。最近特に顕著になったのは化粧です。ここ最近お姉さんに会ってないのでわかりませんが、少し前のお姉さんに似ているように思えたんです」


 誠一がそういうと水純は内心深く頷いた。


「俺は言ったんですけどね、もっと自然な感じの方がいいって。たぶんお姉さんのようなきりっとした目に憧れみたいなものがあるようで。だから、お姉さんを嫌っていることはないと思います」


「そうか。これでお姉さんともこじれていたら、もっと大変だったな。しっかり誠一さんが見ているから安心したぜ!」


 陽向が笑った。


 水純は、佳織の部屋にあった写真立てを見て思ったことを思い返していた。あれは、そいうことだったのね。


「そうね。さて、そろそろ私たちも引き上げましょう」


「え、朝まで看てなくても大丈夫か?」


 陽向が聞くと、水純が片目を閉じて合図を送って来た。陽向はその真意をくみ取ることはできなかったが、水純のことだ。何かあるのだろうと了解した。


「では、誠一さん。明日は必ず家に帰っていただくよう佳織さんにお伝えください」


「わかりました」


 水純は自分の道具箱を持って玄関に向かった。水純と陽向が玄関の外に出ると、誠一はありがとうございますと言って扉を閉めた。


「良い夢を……」


「本当にいいのか、帰って?」


 陽向が聞いた。


「こういう時こそ、誠一さんが夢主のそばにいることが重要なのよ」


「なるほど、だからさっき……」


「え、もしかして意味分からなかったの?」


 水純は笑いながらため息をついた。そして、これはこれで苦労しているのだろうと月影の心中を察した水純であった。


 外はまるで、そんな月影が涙を流しているかのように雨が降っていた。

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