桜湯スプリング

@mirai182

第1話 日常

1

「お前は、俺の顔に泥を塗る気か!」

 オフィスビルの四十階のフロアに、部長の怒鳴り声が響き渡った。

 業務も終わりに近づき、帰り支度を始めていた桜木旭は、突然の罵声に眉をひそめた。

「役員が相手なんだよ。こんなプレゼンで、なんとかなるとでも思ったのか!」

 顔を紅潮させて怒る部長の前で、うなだれているのは若手社員の佐藤陽奈子だ。こちらに背を向けている佐藤の表情はわからないが、その背中は今にも消え入りそうに縮こまっている。その小さな背中に、フロアの皆の視線が集中していた。

 旭が働いて十年目になるサニー電子は、電機メーカーの中では誰もが知っているほどの大手だ。その中でもここ四十階のフロアは、旭の属する製品開発部門のオフィスが入っていた。

 部長の怒りの原因は、この日に行われた新製品会議の大失敗にあった。新製品のアイデアや顧客の動向などをまとめ、社長や役員相手に発表するこの会議は、この部署の中でも重要な位置を占める行事だ。

 だが、佐藤が部長に頼まれて作り上げたスライドは、決して十分な出来と言える代物ではなかった。おかげで部長のプレゼンは役員たちの失笑を買い、部長の面目は丸つぶれの形となった。

「でも、ひっでえ話だよな。前日に突然押し付けるなんて」

 小声で話しかけてきたのは、旭の隣の席の同期、青木和人だ。青木が言う通り、佐藤の失敗には責めることのできない理由があった。

「佐藤くん、明日の発表原稿、君に頼むよ」

 昨日の夕方、足早に退社する部長がそう佐藤に話しかけたのを旭も聞いていた。もとより仕事に追われていた佐藤は、突然の部長からの命令に唖然としていたが、やがて全てを受け入れたように準備に打ち込み始めたのだった。結局旭たちが退社した夜八時になっても、佐藤のデスクには煌々と明かりが灯っていた。

「あいつ昨日、帰ってないっていってたぞ」

 青木が小声で言った。

「そうだろうな。前日に始めて終わる量じゃないだろう」

 佐藤はか弱い声で返事をしていたが、やがて声はすすり泣きに変わった。他の社員たちも、仕事を続けながら佐藤に同情の目を向けている。オフィスは気まずい沈黙に包まれ、部長のため息と佐藤の泣き声だけが聞こえていた。

「部長!」

 沈黙が支配したオフィスに、張りのある声が飛んだのはその時だった。

立ち上がったのは旭だった。考えるより先に体が動き出していたのだ。その瞬間に後悔したが、後戻りはできない。旭はつかつかと大股で歩くと、佐藤の前に出た。オフィスに、気まずい沈黙が流れた。

「いったい何だね、桜木くん」

部長が、旭の方を睨みつけて言った。

「何だねじゃあありません、部長」

 旭は部長に近づき、言った。

「失敗を佐藤に押し付けるのは止めてください」

「き、君は何を言っているんだね?」

 旭の毅然とした主張に、部長の顔に狼狽の色が浮かぶのが分かった。

「佐藤の作ったスライドが出来がいいとは思いません。ですが、それほど重要なプレゼンを、前日になって佐藤に作らせたあなたもあなたでしょう」

「どんな状況であれ、責任を果たすのが社会人だろう。桜木くん、君はそんなことも……」

 旭は、何か言おうとした部長を遮った。

「佐藤は昨日家にも帰らないで、ずっと準備に打ち込んでいたんですよ、それもあなたの自分勝手のせいで。責任を果たしていないのは、部下に仕事を押し付けたあなたじゃないんですか」

 佐藤が、呆然と旭を見つめている。

「黙りなさい! 君は、何様のつもりだ!」

 色を失った部長はそれだけ言い残し、鞄と上着を掴み取ると、逃げるようにしてオフィスから消えていった。


「お前、上に反抗するのもほどほどにしとけよ」

 帰り道、冗談半分に後ろから話しかけてきたのは青木だ。

「言ってしかるべきだろ、あいつが悪いんだから」

「お前の言ってることは正しいよ。正しいけど」

 言葉に詰まった青木は、夜の大手町のビル群を見上げ、一つため息をついた。その中に立つサニー本社ビルの窓には、まだ煌々と明かりが灯っている。

「なあ旭。うちのテレビ事業が大赤字だって話、お前も聞いてるか?」

「大赤字? 何の話だ、それ」

 旭の声が驚きに上ずった。

「うちの目玉にしてた液晶テレビの売り上げが、海外で急落してるらしいんだ。そのせいで、前の四半期だけで数百億単位の赤字が出てるらしい」

「そんなの初耳だぞ。でも、テレビの赤字はうちの部署には関係ないだろう?」

 旭は他人事のように聞いた。

「それが問題なんだよ。噂によれば、今までにない規模でクビを切るって話らしいんだ」

「何だと?」

 クビ、という言葉に旭は思わず反応した。

「でも、リストラされるならもっと上のやつらだろう」

 旭は今年で三十二歳になる。働き盛りともいえる世代の人員整理を行うことはないと、そう信じている自分がいた。

「わからんぜ。お前みたいにいつも上に楯突いてると、上は扱いにくいだろう」

 青木が旭を肩で小突き、笑いながら言った。

「楯突いてるっていうか、当たり前のことを言ってるだけだって」

 旭は納得がいかなかったが、確かに青木の言っていることも正しかった。

「まあそうなったら、俺は別の会社に行くよ。こんな会社に未練はない」

「本当か?」

 強がったものの、今の旭にその未来は描けそうになかった。妻や子供はどうなってしまうのだろうか。

「また明日」駅前で青木と別れると、旭は再び一人になった。

「会社を辞めたらどうなるんだろう」

 そんな不穏な想像を掻き消すようにして、旭は一人、地下鉄の階段を、小走りで下っていった。


「助けてくれ!」

 地下鉄の押上駅を出た旭の耳に、聞き覚えのある太い叫び声が飛び込んできた。

振り向くと、車道の向こうから自転車が向かってくる。夜道を行き交う車の明かりが、自転車を漕ぐ人影を照らし出した。

 自転車を漕いでいる体格のいい男に見覚えがあった。見覚えがあるどころか、毎日のように見知った顔だ。遠くからでもわかる髭面は、旭の近所の庭師、松倉健一に違いない。

 ペダルが軋む勢いで自転車を漕ぎ続けながら、松倉は西の方へと走り去っていった。漕ぎ方の必死さを見るに、事態は一刻を争うようだ。

「松倉さん?」

 自転車は駅前のロータリーを抜けると、大通りへと曲がった。一体何に追われているのか、疑問に思う前に体が動き出していた。

 スーツを着ていた旭だったが、走りには自信があった。夜の涼しい空気を一息に吸い込み、旭は走りはじめた。革靴を履いた足で地面を蹴り、スピードを上げる。過ぎ去る景色が視界の横を流れ、あっという間に松倉の背中が近づいてきた。

「いったい何してるんですか」

旭は、自転車と並走しながら話しかけた。松倉が驚いた様子で振り向き、答えた。

「”ニワ”が!」

 松倉は庭師だ。緊急の仕事でも入ったのだろうかと思い、旭は聞いた。

「庭がどうしたんですか?」

「ニワが逃げた!」

「ああ、犬のことか!」

 そう言われて前を見ると、数十メートル先に柴犬が走っている。それを見て、松倉が最近捨て犬を拾ったという話を思い出した。その犬が、リードを付けたまま逃走しているのだった。

 人通りも多い路上で繰り広げられる逃走劇に、道行く人たちは驚きの声を上げた。向かってきたニワを 捕まえようとする人もいるが、ニワはその腕の間をすり抜けて逃げていく。二人も行き交う人々とぶつかりそうになりながら、その後ろ姿を追った。

「あっちだ」

 ニワが通りを左に折れると、二人もそれを追いかけて左に曲がった。自転車と平然と並走し続けている旭を見て、松倉はにわかに信じられないという顔をしている。

 そんな二人を引き離し、疾走するニワは車が通れないような狭い路地へと突進していった。坂道を悠々と登り、二人の視界から消えてしまったニワを前に、松倉は息を切らし、ついに自転車を漕ぐ足を止めた。

「無理だ」

 自転車から降りた松倉は、ゼイゼイと肩で息をしながら膝に手を着き、声を絞り出した。

「あいつ、なんで逃げやがるんだ」

 悔しがる松倉を前に、旭は無言のまま息を整えていたが、顔を上げると、松倉の方へ向き直った。

「行きましょう」

「おい、待てよ」

 旭は唖然として立ち尽くす松倉を残して、再び狭い道の奥へと分け入って行った。民家の間の狭い路地を駆け抜けると、隅田川を跨ぐ明るい大通りに出た。夜空にそびえるスカイツリーが空を照らし、隅田川の水面は街の灯で艶めいている。

 大通りの交通量は多く、車が絶え間なく行き交っていた。その歩道に、ニワがちょこんと座っていた。旭たちの姿を認めると、怖気づいたように縮こまっている。

 ニワは走り疲れたのか荒い呼吸をしていた。しゃがみこんで抱き上げると、スーツ越しに柔らかな生き物のぬくもりが伝わってきた。

「ニワ!」

 名前を呼びながら、遅れてきた松倉が旭の元に走り寄った。旭はふわふわとした毛に覆われたニワの背中を撫でながら、松倉の腕にニワを戻した。

「ダメだろお前。逃げたりしたら……」

 松倉はその髭面に似合わない猫撫で声で話しかけながら、顔を埋めるようにしてニワを抱き締めた。

「こいつはな、家内の知り合いが拾って来たらしいんだが」

 ニワの背中をさすりながら、松倉が話し始めた。

「松倉さんが預かったんですよね」

「そうだ。引き取るあてがなくて、保健所に預ける寸前のところだったんだ」

 松倉が抱き寄せると、ニワはくうんと寂しげな声を漏らした。

「ありがとな」

 急に松倉が振り向いて、旭に握手を求めた。

「このお礼は、何かの時に必ず返す。待っててくれ」

「いえ、構いませんから」

「恩は返さないと、気が済まねえから」

 松倉は意地でも恩を返してやる、といわん顔で旭を見ている。

「何かあった時にでも、お願いします」

 旭はそう言うと、家の方へ向かって歩き始めた。

 一歩裏通りに入ると、この街は静かだ。街灯がぼんやりと光を投げかける夜道を、二人は無言で歩き続けた。静寂の中で、二人の足音と、ニワの息遣いだけが聞こえる。

  歩いているうちに、街灯だけが照らす街の一角に、暖かい光に照らされた建物が現れた。換気扇から流れてくる湯気とともに、せっけんの匂いがふんわりと香った。

その古びた唐破風造りの建物こそ、桜木家が営んできた銭湯「桜湯」だった。

「じゃあ、また後で」

旭が暮らす自宅は道を挟んだその向かいにある。松倉に別れの挨拶をし、道を渡ろうとした時だった。突然、犬の鳴き声が響いた。

ニワがリードを引っ張り、吠えながら桜湯の方へ走りだしたのだ。松倉はたじたじになりながら、なんとかリードを掴んでいる。

「おい、待て! おいニワ!」

 静かな住宅街に、野太い松倉の叫び声だけが響いた。


「パパ、おかえり!」

 家に帰りつくと、リビングから顔を出したのは今年で六歳になった息子の拓海だった。拓海は、今年から小学校に通い始めたばかりだ。

「あら、おかえり」

 キッチンで洗い物をしていたのは、妻の美紀子だ。美紀子はちらりと旭を一瞥し、洗い物を続けながら言った。

「ほら、晩御飯、自分で温めなおして食べて」

 差し出されたのはプラスチックの容器に入った親子丼だった。割引のシールを見るに、閉店前のスーパーで買ってきたのだろう。

「あとは何かないの?」

「忙しかったからなにも作ってない」

旭は不満げにため息をついてソファに腰を下ろした。最近はこんな食事ばかりで、妻が作る夕食を食べたことがない。

「今日は、美容院に行ってたから、時間なかったのよ」

さらりと肩まで伸びた黒髪を撫でながら、悪びれもせず美紀子が言った。

 妻の美紀子とは結婚してもうすぐ十年になる。だが、この頃は会話もすっかり減った。朝早くに出勤し、夜遅く帰宅する旭にとって、家は寝る場所でしかない。妻が自分を空気のように扱うのも、わからなくはない。 

「風呂行ってくる」

 親子丼を掻き込み、プラ食器をゴミ箱に捨てると、旭はサンダルを履いてタオル片手に玄関を飛び出した。

 春の夜はまだ少し肌寒く、見上げた月が丸く美しい。家の向かいのある桜湯で、ひとっ風呂浴びるのが旭のいつもの習慣だった。

 桜湯は、戦前から八十年も続いてきた老舗だ。昭和のはじめ、この地に暖簾を掲げて以来、旭の祖父から父へと受け継がれ、脈々と歴史を重ねてきた。

 荘厳な造りのその銭湯の前には、月の明かりに照らされた桜の木が立っている。満開を迎えたばかりの桜は、枝をいっぱいに広げて夜に映えていた。

「いらっしゃい」

 暖簾をくぐると、カウンターから明るい声が迎えた。赤いセーターを着た、二十歳くらいの女の子が立っている。

「真緒ちゃん、ご苦労様」

 黒髪を首の辺りで切り下ろした彼女は、藤代真緒という。近くの大学に通う大学生で、学業の傍ら桜湯で番台のアルバイトをしている。普通の明るい女の子にしか見えないが、実は弁護士を目指している才女だ。

「今日は授業が早く終わったもので、早い時間から入ってるんです」

「もう、うちの看板娘だね」

そう旭が褒めると、真緒は頬をぽっと染めて照れた。

「いえ、暇なだけですから」

 お疲れ様、とねぎらい、男湯の暖簾をくぐろうとした時、踏み込んだ焦茶色の木の床から、悲鳴のような軋みが聞こえた。

「そこ、床が抜けちゃいそうなんですよ」

「困ったな。親父に言っておかないと」

 ぎょっとした顔の旭が言うと、真緒は肩をすくめて苦笑いしてみせた。

 更衣室で服を脱ぐと、磨りガラスのドアを開けて浴室に入った。タイル張りの浴室に漂う湯気の向こうに、からりと甲高い桶の音がする。先客がいるらしく、湯煙の向こうに人影が見える。

「今日もいい湯だねえ」

「あれ、老人会のみんなは」旭は聞いた。

「今日は私と牛乳屋だよ」

 湯船に浸かっていたのは、昔からの常連客の中嶋と、牛久だ。この二人は毎日のように湯を借りに来る常連客だった。

「絵、きれいになったじゃないか」

中嶋が、浴室一面に描かれたペンキ画を指差した。七十を回った中嶋の髪は白く、顔には皺が寄っている。

「昨日、塗り替えたんですよ。最近は銭湯が減って、絵師の人も数えるほどしか居ないって、親父が言ってました」

 そう言いながら、旭は体を流し始めた。

 銭湯のシンボルと言えば、浴室に描かれた大きなペンキ絵だ。たいていの銭湯は富士山が描かれていることが多いが、桜湯の富士絵は一味違う。

淡いピンクの花をいっぱいに開いた桜の向こうに、なだらかな山体を横たえた富士が描かれたその絵は、桜好きの父が、絵師に頼んで特別に描かせたものだった。

「絵師もそうだが、実際、お湯屋のほうも経営は苦しいんだろう?」

 思い出したように、湯船につかっていた牛久が口を開いた。

丸顔で少しぽっちゃりとした牛久は、中嶋よりも二回りほど若く、まだ歳は五十代である。牛乳配達の代理店を営んでいる牛久は、桜湯にも飲み物を納入していた。

「悩ましい限りで」

「ここらへんじゃ、やってるのもここだけになってしまった」

旭はその中嶋の言葉を聞き、身体を洗う手を止めた。

「再開発のせいですよ、きっと」

 東京スカイツリーの開業や、その一帯の再開発が進み、この辺りの状況は大きく変わりつつあった。

新しいマンションの開発や商業施設の開業が進み、この下町にも新風が吹きこんだことは確かだ。だが、それがこの桜湯にとって、追い風になったわけではない。

「引っ越してきても、若いもんはわざわざ来ないし、昔の常連もすっかりいなくなった」

 中嶋の言葉は正しかった。

 再開発によって新しいマンションが増え、移り住んでくる若い世代が増えた。だからといって、来客が増えたわけではない。

 通ってくるのは年齢の高い常連客が多く、その数も徐々に減っている。再開発が銭湯に新風を吹き込むのが理想なら、現実、この業界には古くなった空気が淀んでいる。

「ここも、いつまで続けられるかわかりませんからね。父に何かあった時は、それまでです」

 旭は、抑揚のない声でそう言った。

浴場を営んでいる父、智は、今年でもう七六歳になる。何とか今まで元気にやってきているが、いつ動けなくなってもおかしくない歳だ。そんな父が経営を続けていることは、むしろ奇跡に近い。

「それまで、って言われても困るよ。ここはわしら年寄りの、大事な憩いの場なんだ」

 すかさず言う中嶋の口元は冗談じみて笑っていたが、旭にとってそれは、現実味を帯びた話だった。

「掃除、燃料の調達、接客、お金のやりくり。やることは沢山あるし、お客さんは来ない。親父だって、限界を感じているんだと思いますよ」

「最近じゃ、どこの家にも風呂はあるからね。わざわざ入りに来る人なんて、よっぽどの物好きさ」

 中嶋はそう言って立ち上がり、タオルから水を滴らせながら、牛久と一緒に浴室から出て行った。

 誰もいない浴室は、旭だけの貸切になった。体を洗い終えると、旭は熱い白湯の湯船へと入った。 

犬を追いかけて走ったせいか、全身の疲れがどっと押し寄せてくる。

 男湯の湯船は二つに仕切られていて、一つが毎週様々な種類の湯に代わる、週替わり湯である。もう一つはジャグジーのついたシンプルな白湯だ。

「江戸っ子のやせ我慢」と言われることもあるが、東京の銭湯の湯は熱い。

 子供のころ、水を入れようとしてよく怒られたのを、旭はふと思い出した。

最近は熱くないと物足りなくなった気がする。たっぷりの熱い湯に身体を浸すと。全身に血が巡り、凝り固まった筋肉がほぐれていく。

 湯気の向こうの高い天井を見上げ、旭は、ゆっくりと深く息をついた。


「仕事終わりの風呂は最高だな」

 湯上りの火照った体を団扇で仰いで冷やしながら、旭はタオルを首にかけ、休憩所に座った。

休憩所といっても、受付の前に古びたソファとテーブルが置いてあるだけだが、湯上りに休むには十分だ。

旭はソファに身体を任せ、店の冷蔵庫から持ち出してきた牛乳瓶を開け、キンキンに冷えたビン牛乳を一気に飲み干した。冷たい液体が喉を滑り落ち、湯上がりの熱い体に伝わっていく。

ふと見上げると、ラジオからは試合中継が流れていた。巨人阪神、伝統の一戦だ。

 旭はひと息つこうと、ソファに腰を掛けた。

『抜けました! 高槻が左中間に抜けるヒットで出塁!』

 実況が興奮した声を上げたその時、「おつかれさん」という声とともに男が入ってきた。松倉だ。

「やっと来ましたか」

 犬を追いかけて走ったせいか、紺の法被は汗だくになっていた。そんな松倉は、毎日のようにうちに通ってくる常連客の一人だ。

旭よりも年上だが、体付きは逞しく、背が高い。こうして見ると、だらしなく犬に逃げられていたとは思えない。

『空振り三振! ジャイアンツ、勝利まであとワンアウト!』

いつしか二番のバッターは凡打に打ち取られ、ちょうど、三番打者が三振に倒れたところだった。

「おいおい、負けてるじゃねえか」

 野球中継を聞いた松倉が、不満を漏らした。東京で生まれ育ったはずの松倉はなぜか、タイガースファンだった。

「今日は勝たせていただきますよ、松さん」

『バッターボックスに立ったのはタイガースの四番、芦屋。ホームランが出ればサヨナラの局面で、芦屋は期待に応えることが出来るでしょうか!』

「そんなことより、汗臭くてしかたねえ。とりあえず、先に汗を流させていただくよ」

  熱を帯びた野球実況をよそに、松倉はどかどかと大股で浴室の方へ歩いていった。

「上がってきたころには、きっと試合、終わってますよ」

「わからんさ。野球はツーアウトからって言うだろ?」

 フンと鼻を鳴らしてそう言い残し、松倉は男湯へと入っていった。

 そういった丁度その時、ラジオから鋭い打球音が響いた。スタンドの歓声と共に、興奮した実況者の声が聞こえてきた。タイガースの打者が、ホームランを放ったのだ。

『九回の裏、タイガースがここぞという場面でサヨナラのホームランを放ち、一対二でジャイアンツを下しました!』

「松倉さんの言うとおりになりましたね」

 ぽかんと口を開けた旭を横目に、真緒がそう言って面白そうに笑った。


 旭は、新聞を片手に、父の部屋のある桜湯の二階へ向かった。廊下を歩くと、父の書斎に明かりがついているのが見えた。

「なんだ」

 書斎の前を歩くと、机に向かっていた寝間着姿の智が、顔を上げた。

「父さん、何してるの?」

「何でもいいだろう」

 智はぶっきらぼうな返事をした。

「経営の帳簿か。また赤字?」

 智の返事はない。赤字になるのは珍しいことではなかった。桜湯の収支は、いつも採算ギリギリの所を行き来しているのだ。

 七十代も後半に差し掛かった父の顔には深い皺が刻まれ、この頃急速に老いを感じさせるようになってしまった。

 旭の母は、美紀子と結婚してすぐに他界した。だから、せめて父には親孝行しなければ、と思うものの、自分の仕事で手一杯で、店の仕事は任せっきりだった。

「父さん、歳も歳だし、無理はしなくていいんじゃないかな」

「何を言ってんだ、俺はまだまだ……」

 そう言いかけたところで、智は背中を曲げて咽せ込んだ。

「大丈夫?」

 咽せ込みが収まったところで、智は続けた。

「俺は死ぬまで、店を続ける。それで何が悪い」

「けど、無理は良くないよ。体を壊しちゃ元も子もないんだから」

「お前には関係ないだろう。店を継がないやつに、言われたくはないよ」

 恨みを込めるようにして智が言い返し、旭は閉口した。

 父には父で、店を続けたい理由があるとしても、わざわざ重荷を背負い続ける必要はない。店を続けることを譲らない智の考えに、旭は疑問を感じざるを得なかった。


「どうだ、旭。継いでみないか?」

 まだ髪が黒々とした父が、同じこの書斎で旭に声を掛けたのは、旭が進路に迷っていた、今から十五年前の事だった。

 始まったばかりのような気がした大学生活は、いつしか後半に差し掛かっていた。同級生が就職活動を始める中、旭は自分が何をしたいのか分からず、途方に暮れていた。ただあるのは、大企業に就職して安定な人生を送る――。そんなぼんやりした未来図だけだった。

 だから、智に店を継がないかと訊かれたとき、旭はいら立ちを隠せなかった。父の提案が、自分の考えとあまりに乖離していたからだ。

「本気で言ってるの? 銭湯を継げなんて、時代遅れだよ」旭はぴしゃりと提案を撥ねつけた。

 旭は桜木家の一人息子だ。後を継ぐのだとすれば、自分しかいないことは分かっていた。

 だが、時代の変化で来客数は下がる一方で、建物も手の施しようがないほどさびれていた。それを継ぎたいという若者など、どこを探しても見つからなかっただろう。

 だが、智は頑なにそれを許そうとしなかった。そんな父から、旭も距離を置くようになった。息子が自分の家業を見捨てたことが、よっぽど悔しかったのだろう。

 それからしばらくして、旭は大学を卒業した。幸いにして今の仕事に就いた後は、ただ目の前にある仕事を淡々とこなす日々が続いた。父の営む桜湯のことも、すっかり他人事のようになっていた。

 桜湯の玄関を出ると、庭に植えた桜の木が目に入った。桜好きの父が、庭師に頼んで植えさせたものだった。

  満開を迎えていた桜の花びらは、すでに散り始めている。この店もいつまで続くのだろうか、そんなことを考えながら、旭はすでに散り始めた桜に見入っていた。


 三品不動産の社員、岩崎恭弥は、エレベーターの中で額に滲んだ冷や汗を拭った。

 突然上司から呼び出しを受け、ある人物の元へ行けと言われたのが今朝のことだ。その人物の名前は天海涼子。その名を聞いた瞬間、岩崎は自分の身に起きうることを想像して戦慄した。

「あの鬼涼子か」

 日本有数の巨大財閥企業、三品グループにおいても、岩崎の勤める三品不動産はひときわの存在感を示していた。東京をはじめ、大都市の都市開発を一手に引き受ける巨大企業。だがそんな三品不動産においても、天海涼子の名前を知らない者はいなかった。

 「鬼涼子」――。岩崎が聞いた噂では、天海にはそんな異名が付いていた。入社後、持ち前のリーダーシップと事務処理能力で頭角を現した天海は、次々と大型プロジェクトを引き受け、それを成功させた。マンションからオフィスビル開発に至るまで、天海が手がけた事業は数知れず、三十代という異例の速さで部長にまで昇進したと聞く。だが部下への指導は強烈で、泣き寝入りする社員も数多くいる――そんな噂も聞いていた。

 そんな天海に呼び出されたということは、自分に何らかの使命が与えられるのかもしれない。そう岩崎は予想していた。そうでなければ、何かの失敗について厳しく追及されるのだろうと思った。だが岩崎にはそうした心当たりはなかった。

 本社ビルの最上階にある一室が、天海のオフィスだった。岩崎は木目調のドアの前に立ち、ごくりと唾を飲んだ。

扉をノックすると、「入れ」と無機質な声が飛んできた。岩崎は恐る恐る扉を開けた。

「住宅事業部の岩崎恭弥と申します」

「ああ、あなたね」

 天海は書類をめくる手を止め、岩崎の方をちらりと一瞥した。

「今朝、上司の林から連絡を受け、こちらに伺った次第です」

「今日あなたを呼んだのには理由があるの」

 デスクの前に用意されていた席に着いた岩崎は、自分を見据えるまっすぐな天海の視線に身を固くした。

「実は我々三品グループでは、新しい再開発計画が進んでいるの」

天海はそう言うと、てきぱきとデスクの上のラップトップを操作した。天井のプロジェクターから伸びた光の筋が、スクリーンに都心一帯の地図を映し出す。

その地図は次第にズームアップし、皇居から見て北東、隅田川の沿岸地帯を拡大した。

「墨田区本所――。スカイツリーなどの開業で、近年再開発が進んでいる地域よ」

天海が示したそのエリアは、観光スポットとして人気を集めており、岩崎も何度か訪れたことがある場所だ。

天海がラップトップを操作すると、地図から画面が切り替わった。CGでデザインされたマンションらしき建物の予想図面だ。

「これは?」

岩崎は驚いた。

「アマテラス計画。高層タワーマンションを核とした、複合商業施設の建設計画よ」

 精緻に描かれたその完成予想図を目の当たりにして、岩崎は思わず息をのんだ。

 図面には高層部の居住棟と低層部の商業棟が描かれていた。空にそびえる超高層の居住棟は陽光に輝き、テラス状に形成された低層部には、様々な専門店が並んでいる。

 図面に見入り、感心する岩崎を横目に、天海は本題を切り出した。

「とはいえ、すでに住宅の密集したエリアで、これだけの大規模な開発は難しい」

 天海はデスクに両手をつき、身を乗り出して岩崎の方を直視した。

「だからこそ、計画の実現には露払いが必要になる」

  そう言い切った天海の声が、冷たさを含んだ。

「露払い?」

「分かるわよね? 近隣の住民を立ち退かせ、計画実行のための土地を確保するの」

岩崎は全てを察した。自分に割り当てられようとしているのは、計画実現の為に立ち退き交渉を進め、住民達に犠牲を強いる汚れ役だ。だが、岩崎にとってそれは決して不名誉な指名ではなかった。

 住宅事業部で積み上げてきた十年近いキャリアの中で、岩崎が得意としてきたのは周辺住民との折衝だ。立ち退き交渉から日照権の問題まで、マンション建設が生み出す様々な軋轢に関わってきたのだった。

 まして、鬼涼子から直々で任命を受けたとなれば、その期待の大きさは計り知れないだろう。岩崎は、突然舞い降りようとしている大仕事に心躍った。

「今回の計画で、あなたをその責任者に据えようと思うわ」

「わかりました」

「今日の午後、現地に視察に行くわ。資料を渡すから目を通して」

 天海が岩崎にファイルを手渡した。岩崎はそれを受け取ると、窓の外に広がるオフィス街の景色を見据えた。

――これは俺にとっての試金石だ。

岩崎はそう心の中で意気込むと、ひとつ大きく息をつき、ネクタイを締め直した。





 九

 「ここよ」

 黒塗りのレクサスを路肩に停めた天海は、そう言って運転席からアスファルトの道路に降り立った。岩崎は渡された資料を片手に抱え、言われるがままに助手席から降りた。

 計画の予定地であるその場所は、隅田川をまたぐ吾妻橋を渡ったところにある。見上げると、スカイツリーが真昼の空にそびえていた。大手町の本社から見るよりもはるかに大きく、目の前に迫って見える。

 資料に記された建設予定地は、商店や住宅が混在する大通り沿いの区画だ。ライバル企業が商業施設を展開する駅前とは違い、再開発の進んでいないこの地区は生活感が色濃く残っていた。

「まだ、古い住宅が多いんですね」

 岩崎は緊張した面持ちで天海に話しかけた。 

「そうよ。この一角は、再開発から取り残されてるの」

 木造と思われる民家の軒先には洗濯物が干され、玄関の前には子供用の自転車が置かれている。古い住宅地とはいえ、この街に人の暮らしがあることには疑いようがない。

「我々が計画を進めているのを、ここに住む人たちは知らないんですね」

 そう感傷気味に岩崎が言うと、天海はにこりともせず撥ね付けた。

「何よ? 現場に来て、怖気付いたのかしら」

「とんでもありません。私は慣れっこですから」

 岩崎はこれまで、様々な相手と立ち退き交渉の経験を重ねてきた。始めは立ち退きを拒否していても、高額な謝礼をちらつかせると一変するもの。頑強に抵抗を続け、反対運動を展開するもの。最後まで決着がつかず、半ば強制的に立ち退きを実現させたこともあった。

 「金と権力」。どんなに綺麗事を語っても、最後に結果を決めるのがその二つであると、岩崎は経験的に知っていた。いかなる抵抗を続ける者も、日本最大の財閥企業、三品グループの持つ財力と影響力には敵わなかった。高額な謝礼が通用しなければ、国を代表する大企業の論理を振りかざす。そうして、岩崎は交渉人として実績を重ねてきた。

「天海さん、あれは何でしょう」

 立ち並ぶ民家の間に、目を惹く建物があった。築八十年は経っていると思われるような、古く、だが荘厳な木造建築だ。その門構えの横には、満開を迎えた桜が咲いている。

 二人は道路を渡ると、その建物に近づいた。玄関には、藍色の布地を白く染めいた暖簾が出ている。

「桜湯……なるほど、銭湯か」

 暖簾の向こうでは、白髪の老年男性と若い女性のスタッフが番台に立っている。「ここは江戸時代からの下町。言って見れば、時代に取り残された土地なのよ」

「古き良き街、といった感じですね」

そんな岩崎の言葉を握りつぶすように、天海が鋭い声で言った。

「計画が進めば、ここもいずれ更地になる。我々の『アマテラス』が、この街の景色を塗り替えるのよ」

「その準備が、私の仕事ということですね」

 岩崎はそう言うと小さく身震いした。その仕事の成否を決めるのは、他でもない自分なのだ。

「この仕事に、あなたの余計な私情は不要よ。相手が何と言おうと、ただ立ち退きを実行する。あなたの仕事はそれだけ」

 そう冷たく言い切った天海の言葉には、反論も感情も入り込む余地がない迫力があった。

「任せてください。必ず成功させて見せます」

 そう岩崎が胸を張ると、背広の襟に着けた三品の社章、「三つ巴」の家紋が、陽の光を浴びて輝いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る