暮らしのきまり

つゆり

暮らしのきまり

 ガスを止められちゃって、といったわたしに対する真千子の返しが「へえ、やるね」で、平日にとつぜんで悪いけれどお風呂を貸してもらえないか、という頼みには「ふとんはあるけど米がないから、ごはんを持ってきてくれるならカレーを一緒に食べられるよ」という返事。この三分に満たない電話のやりとりだけでも、彼女がちょっと変わった子だということはよく理解してもらえるとおもう。

「ふとん、米、ごはん、カレー……」

 通話を切り、探偵よろしくキーワードをぐるりと頭のなかでめぐらせることしばし。

 お風呂だけといわず、泊まっていってよ。夕食はカレーがあるけど、あいにくごはんを炊き忘れたから、もしあればついでに持参してくれない?

 なるほど、これだ。

 今回も無事に暗号を解読したわたしは、冷凍してあるごはんを保存容器ごとふたつビニール袋にいれ、お泊りセットと一緒に通勤用カバンにつめこんだ。


 真千子は大学のサークル活動でできたともだちだ。黒髪ロングのすらっとした美人で、新歓コンパではすぐに男性の先輩たちに囲まれた。けれど口を開けばこんな調子なものだから、先輩たちの笑顔がみるみる困惑顔へと変わっていったのも無理はない。

 はじめはとなりの席でありながらも他人事を決め込んでいたわたしだったけれど、ちいさな誤解の連続ですれちがう会話と冷えてゆく空気にとうとう耐えきれなくなり、割り入って彼女がいわんとしていることを代弁した。なぜかしらわたしには初対面の真千子の発言がすんなり理解できたのだった。もちろん、ついたあだ名は「通訳さん」だ。

 地方から東京へ進学し、大学の近くでひとり暮らしをしていたわたしのワンルームアパートを「別天地!」と独特な言い回しで真千子はほめた。講義のあとにアルバイトがある日は夜ごはんを食べに来て、翌日の一限目が必修科目ならそのまま泊まった。そうするうち、一週間の大半を一緒に過ごすようになっていた。

 いまおもえば奇妙な半共同生活をしていたものだ。けれど県をまたいだ実家から片道一時間四十分かけて通学していた真千子と、初めてのひとり暮らしに少なからず不安を抱いていたわたしにとって、あの日々は自然で必然だった。

 ふたりとも無事に大学を四年間で終え、それぞれ就職したのを機に、真千子が家に来ることはなくなった。それから三年。電話やメールで近況を伝え合ってはいるけれど、実際に顔を合わせるのは四か月に一度というところだ。そんな変化もまた、いまの生活には自然で必然なのだろう。

 いまだおなじアパートにとどまり続け、変わらない生活を重ねているわたしとは違って、真千子は二度の転職をし、つい先月からは念願のひとり暮らしを始めたという。そのうち遊びに行くからといってはいたが、まさか初訪問がこんなかたちになるなんて。ちょっと情けないものがある。


 急行電車に乗って二駅、そこから別の路線に乗り換えて五つ目。はじめて降りる駅だったけれど、改札はひとつしかなく、出るとすぐに真千子を見つけることができた。半袖とスウェット地のサルエルパンツというラフな格好だった。火曜日の二十時過ぎだ。本当なら明日の仕事にそなえ、家でゆっくりくつろいでいる時間だっただろうな、とおもうと申し訳なかった。

「急にごめんね」

「ううん。カレー?」

「え? カレー? ……あ、ごはんね。冷凍してあったのを持ってきたよ」

「じゃあ、ウチに行こうか」

 真千子はさっさと歩きだす。相変わらずだな、と内心ほほえんでわたしもそのあとを追った。

 駅から十五分ほど歩いたところに、真千子の「別天地」はあった。建物は古かったけれど、中に入るとまだ物が少ないこともあってこざっぱりとした印象だった。水回りはリフォーム済で設備が新しい。自動給湯、追い焚き機能付き。さらにバストイレ別で、小さいながら脱衣所まである。

 沸かしてあるからまずはどうぞ、というお言葉に甘えて、さっそくお風呂を借りることにした。

 なみなみとお湯で満たされた浴槽に身を沈める。うはあー……、とおもわず感嘆の声がこぼれた。ぴりぴりと肌に伝わる刺激がなんともここちよい。そういえば、ひとり暮らしを始めて以来、ずっとシャワーで済ませていた。ひさしぶりのお風呂は、感動、のひとこと。

 今日、帰宅してガスが使えないことに気づいたのは、夕食の準備中だった。食材を切って、さて、とフライパンをガスコンロにのせたものの、なかなか火がつかず。故障か、電池切れか、とあちこちを確認してようやくガスの供給に気がいった。

 もちろん支払いについては心当たりがある。しかたがない、今晩の食事は買ってすませよう、と気を取り直し、顔を洗いに洗面台の前に立ってまた固まった。お湯が出ない。ガスが止まるということは、火が使えないだけでなく、給湯器も使えないということだったのだ。つまり、お風呂にも入れない。これにはあせった。夏場で汗をかきながら働いたあとで、明日も通常どおりの勤務が待っている。

 何十年かぶりに銭湯の存在をおもいだし、インターネットで検索したものの、一番近いスーパー銭湯までは電車で四十分(さらに駅から十分)。どうやら近所にも小さな銭湯はあるらしいけれど、女性ひとりではじめて行くにはちょっと勇気のいる外観だった。

 こうなったら水のまま……いやこれでなんとかならないか……?、と電気ケトルをまえに思案して――真千子がひとり暮らしをはじめていたことにおもい至った。

 ああ、そんな苦心もいまでは遠いむかしのことのよう。こんなにたくさんのお湯が、ひとひねりで出てくるなんて。ガスって、ガスって――。

「ガス、最高だね!」

 脱衣所を仕切るカーテンを開けるなり興奮気味に発したひとことに、台所でカレーを温めなおしていた真千子が声をあげて笑った。

「お風呂なめてました。やっぱりいいなあ。でもうちのお風呂ってトイレと一緒のタイプだから……、あれってお湯を張るの、なんとなくためらわない?」

「シャワーだけっていうのも海外っぽくて良かったけど。シャワーカーテンとか新鮮だったし」

「たしかに、浴槽のとなりにトイレがあるとか映画みたいって最初はおもったよ。でもシャワーで濡らさないように気を使うしさあ、たぶんお湯張ったらトイレットペーパーがふにゃふにゃになるよね。みんなどうしてるんだろう」

「まあ、お湯に入りたくなったら、また来ればいいじゃない」

「えっ、あ……うん」

 意外な言葉に一瞬ぽかんとしてしまい、なにやら妙な間で返してしまった。ぎこちなく笑って脱衣所にひきあげ、ドライヤーのスイッチを入れる。

 そうか、また来てもいいんだ。

 三年前まであたりまえに一緒にいたくせに、なぜだろう、猛烈に、どうしようもなく、気恥ずかしい。

 髪を乾かしているあいだに、すっかり夕食の準備はできあがっていた。白いローテーブルの上には皿に盛りつけられたカレーライスとサラダが並んでいる。

「最高のガスでつくったカレーでございます」

 真千子がスプーンを両手でうやうやしく渡してくれる。それをかしこまって受け取り、ふたり向きあっておごそかに一礼した。

 大学時代にも何度か作ってくれたことのある真千子のカレーは、野菜が几帳面に角切りされていて、肉は牛豚の合挽肉を使う。実家のものは乱切りのごろごろ野菜と豚の薄切り肉で、家で食べるカレーとはこういうものなのだと心ともなく思い込んでいたから、初めてこれを食べたときはちょっとした衝撃だった。

 盛り付けにも独特のこだわりをもっている。ごはんを皿の全面に薄く敷きつめ、上にカレーをまんべんなくかけるというスタイルで、一見カレーしか盛り付けられていないようにみえる。特に大切なのはごはんをよそう工程で、これはきわめて慎重に行われる。皿を覆う面積、厚さ、そして密度において彼女なりの法則があり、決して手を出してはいけないところだった。

 一口ほおばり、うーんとうなる。そうそう、この味。市販のルーを使っているのに、おなじ材料をそろえてつくってもいまだに再現できないでいる独特の風味。

「ひさしぶりだなあ」

 うっとりという。真千子もうなずき、ため息まじりにいった。

「うんひさしぶり……白米」

「えっ、そっち?」

 そういえば、と台所へ目を向けて、その光景を思い浮かべた。冷蔵庫のとなりには可愛らしい棚があって、入ってすぐに目を引いた。そこには電子レンジとトースターが収められていて……。

「もしかして……炊飯器持ってないの?」

 おそるおそる尋ねると、真千子がこくりとうなずく。

「えー、信じられない! だって引越してから一か月は経ってるでしょう。そのあいだ主食はどうしてたわけ?」

「パスタとかの麺類と、あとは……パンとか。おかずだけでも意外とへいきだよ。まあ、毎日料理を作るわけでもないし、コンビニのお弁当とか、パックごはんとかでは食べてたんだけど」

「それは……、炭水化物抜きダイエットとかそういうやつなの?」

「いやいや、小麦粉食べてちゃだめでしょう」

 そういわれればそうか。むしろ小麦粉のほうが炭水化物は多かったような気がする。

「ひとり暮らしして驚いたのが、いままであるのがあたりまえっていう感覚だった炊飯器もお米も、けっこう高価なものだったってことなのよね。それでこの際、ひとつひとつのルールを決めなおしてみようとおもって」

 ルール? と首をかしげるわたしを無視して真千子はつづけた。

「無性に食べたくなってカレーを作ったのはいいけど、パンしかなくて。ごはんを買いに行くか迷ってたところだったの。だけどやっぱりカレーには白米。うん、これは絶対的ルールに採用します」

「……まあ、ナンとかもあるけど」

「あれは、カレーの種類が違うし」

「うーん、そうか」

「ねえ、炊飯土鍋ってどうかな。炊飯器より安いし、なんとなくおいしく炊けそうじゃない? 土鍋炊き、とかいうし」

「でもあれ、ガスがないと炊けないよ」

「あるよガスは」真千子は呆れ顔をした。「払いなさいよ、料金を」

 痛いとこを突かれ、言葉につまる。もちろん未払いに気づいて、ここへ来る途中にコンビニで支払いをし、ガス会社に連絡もとった。明日には開栓してもらえるという話だった。

「ガス料金の指定振込口座が信用金庫なのがネックなんだよ。うちから自転車で十分、それもすっごい坂を登ったところにあるの。手数料がちょっと安くなるから引き落としじゃなく毎月ATMまで通ってたんだけど、今月はタイミングが合わなくて、後回しにしてるうちに忘れちゃっただけ」

「わたしはクレジットカード決済にしてるよ」

「そんなことできるの? うちのガス会社は振込一択だったとおもうけど」

「都市ガスだからかな」

「都市ガス!」

 わたしが顔をしかめて「都会か」というと、真千子は「田舎か」と笑った。

 お米を炊く、ガスを使う。そんな些細なことを真剣に議論しているのがおかしかった。

 おもえば、いまの部屋も、家具も、すべて大学進学時に両親が用意してくれたものだ。与えられたまま、特に疑問を感じることなく大学を卒業してからもずっと変えずにいた。

 もしもいま、すべてを自分で決めなおしたなら?

 あの頃は持っていなかったクレジットカードもいまなら使える。場所だって、大学の近くに住む必要はすでにない。数百円の手数料を浮かせるために自転車で振込にいくのも、時間はあってもお金はなかった大学生時代の習慣だ。変えるべきもの、変わらずにつづけるべきもの。いまのわたしに最適なルールで選んだ生活は、はたしてどんなものになるのだろう。


「炊飯器、買うの?」

 おやすみをいったあとの薄暗い天井をぼんやり眺めながらなんとなく聞いてみた。床に敷いてもらったふとんからは、ベッドの真千子の様子はうかがえなくて、もう寝ちゃったかな、と寝返りを打ったころに「買うかもなあ」というつぶやきが聞こえてきた。それが心底残念そうだったので、おもわず盛大に吹き出してしまった。

「せっかくだから、もうちょっと続けてみたら。どうしてもごはんが食べたくなったら、うちに来ればいいんだよ」

 ようやく笑いをおさめてそういうと、なにやら妙な間で、うん、とちいさく真千子がこたえた。

 わたしの新しいルールそのいちは、冷凍ごはん常備するべし。そう決めて、わたしはそっと目を閉じた。

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