完璧な仕事
つゆり
完璧な仕事
どうやら階段を転がり落ちたらしい。そのせいで記憶のほとんどを失っているのだと医師から告げられても、僕は冷静だった。
自分の名前にすら実感がもてないモヤのかかった頭のなか、実をいうとただひとつ確信がある。
ここにいる僕は、本来の僕じゃない。
魂なんてものが本当にあるのかなんて知らないけれど、そういう僕の核みたいなものがいまは身体から抜け出してしまっている。この僕は、一時的な魂の不在をうめる仮の存在にすぎないのだ。記憶の蓄積がないのも当然のことだった。僕はついさっき起動したばかりなのだから。
医師の話では、落下時に骨折した右足首の療養と脳の検査で二週間ほど入院する見込みだという。
真剣に聞いているふりをしてゆっくりと神妙にうなずいたけれど、頭のなかは病院を抜け出す算段で大忙しだった。どこか遠いところでつながっている魂の存在を確かに感じる。この魂と身体を無事に引き合わせることが僕の使命なのだ。
右足はたしかに痛むものの身動きがとれないほどではなく、脳が正常なのはほかでもない僕がよく知っている。多少の無理と嘘とでやり遂げてみせる自信はあった。
自然と目に映るすべてが脱出に役立つかそうでないかに分かれて見えた。毎日ベッドの上で、病室に出入りするひとびとの行動パターンを観察し、目をつむっていても、いま誰がどんな行動をしているのかおもい描くことができるほどに覚え込んだ。
ほら看護師が声をかけてくる。それに明るい口調でこたえてやる。彼女が部屋を出ていくまで八歩。となりのベッドの老人はいつものように昼寝をしている。寝息がとくに深くなるころで、こうなるとちょっとやそっとでは起きない。それを知っていて見舞いに通う娘は時間をつぶしにロビーへと向かう。ベッドの脇には車椅子を置きっぱなしにしていて、たとえ僕が手を伸ばしたってだれも――。
ふと、なじみのある甘い香りに気がついた。見舞客が持ち込む花の香りに似ているけれど、僕にははっきりと嗅ぎ分けることができる。
まぶたを上げる。そこにはもちろん、僕の恋人の笑顔がある。
シミュレーションはバッチリ。決行さえすれば任務は完了する。だけどそれではまるで子供の使いじゃないか。
記憶を失った状態であっても自分の状況や周辺の人間関係を的確に把握し、中身が入れかわっていたことすら気づかれないままにそっと役目を終える。それが質の高い仕事というものだ。とくに家族よりも多く時間を共有する恋人には、ひとかけらの不信感も抱かせるわけにいかない。
「すこしはおもいだせた? わたしたちのこと」
心苦しいけれど、僕には無言で首を振ることしかできない。だけどたぶん、以前の僕は彼女の笑顔に惹かれていたんだろう。輪郭のまあるい、さくらんぼ色のくちびる。それがほほえみをつくるたび、僕の胸はこんなにも騒ぐ。
かつて僕らが送った日々を彼女はくりかえし語って聞かせる。まるで他人ののろけ話を耳に流し込まれているようだ。そんなにおもいだしてほしいのか。いまの僕では君を満足させられないのだろうか。
どこか遠くで僕の魂がうずく。はやくそこをどけと叫ぶように。
魂を取り戻したとき、いまここにいる僕はどうなるのだろう。始まりとおなじように唐突に魂が入れかわるのだろうか。僕のスイッチはあっけなく切られ、すべての感覚を明け渡す。
もしも魂が溶け合って共存できるのなら。
まさかそんなはずはない。僕はバックアップだ。本体と切り離されていてこそ、いざというときに使命を果たせる。
使命?
僕はなにもかもを捨てるしかないのか。勝手に階段を転げ落ちたこのバカのために。身体の痛みを肩代わりしてやり、周囲に気を配り状況を整えて、あげく、このかわいいひとを奪われる。
日に日に魂のうずきは強くなる。はやくはやくと僕を急かす。けれどそんなことは許さない。
「覚えていないかな。あなたが落ちた瞬間は持っていたはずなの。ねえ……」
彼女がなにをいっているのかさっぱりわからない。僕には記憶の蓄積がないのだ。だけどそれでもいいじゃないか。僕たちにはこれから続く未来がある。
このまま、このまっさらな僕と、あたらしい人生を、どうか。
「おなじ刺激を与えたら……、なんていうよね」
現実はそんなにうまくいきっこないさ。そう答えたのに。
僕はちゃんとおもいだすべきだったんだ。こんなにも魂が警告する理由を。どうして階段から落ちてしまったのかを。
スローモーションで回転する視界。あのときもきっとこんな風におもわず腕を伸ばして、その先にはきっと、いま目に映るのとおなじほほえみの彼女がいただろうから。
完璧な仕事 つゆり @nuit
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