エピローグ
「準備はこれでよし……と!」
身支度を調えた鏡台の前。わたくしはうんと伸びをして、元気よく立ち上がりました。
衣服よし、化粧よし、髪型よし。これでどこへ出ても恥ずかしくありません。
修道服を着なくなって一週間経ちますが、意外と早く慣れるものです。わたくしは英雄ヴァイスの妻として恥ずかしくないだけのものを見せようと、この一週間あれこれと考えていました。
が、騎士自身がああいう自由な人ですから……結局わたくしも自分の好きにしたほうがよいのだろうと、そういう結論に落ち着いたのです。
そのため、着ているのは質素な平服。代わりに胸にちょこんと小さな白い薔薇を刺しました。
「姉さん、準備できた?」
部屋に入ってきたのはラケシスです。「馬車待ってるよ」
「今行くわ」
わたくしはもう一度鏡を見て髪型を整えたあと、ラケシスを追いました。
*
魔王討伐の出立式は、できるだけ小さい規模で行いたいとのアレス様のご希望で――
王族は出席せず、身内が見送るだけとなりました。
魔王が姿を現したのは北東の山のふもと。彼らは馬を乗り継いで目的地まで行くようです。アレス様、カイ様、クラリス様にヒューイ様。あと一人のお仲間さんの姿が見えませんが、「やつはどこからでも現われる」と騎士は何の心配もしていないようでした。謎すぎる最後の一人……いったいどんな方なのでしょうか。
その場には騎士の家人を代表してウォルダートさん、実家のご家族と、ラケシス、マリアンヌさんにシェーラ……その他カイ様、ヒューイ様のご関係者の皆様が集まっていました。小さな規模とは言え、それなりの人数になっています。
ちなみにクラリス様は誰も呼ばなかったらしいのですが、クラリス様ファンの皆さんが勝手にやってきて「クラリスちゃーん」と男泣きをしています。「……うるさい」とクラリス様がつぶやいたのは内緒です。
ヒューイ様には仕立屋のご家族と、驚いたことに恋人がいらっしゃったとのことで、小さな体の女性がヒューイ様に恥ずかしそうにお守りを渡しておりました。
「けっ。お守りなんざ魔王の前では役に立つかよ」
毒づきながら首にさげるヒューイさん。ふふ、ひょっとしたら口が悪くなるのは親しい人の前だけなのかもしれませんね。わたくし相手には大半が無言でしから。
それにしても大の女嫌いと噂のヒューイ様……馴れそめが非常に気になるところです。
カイ様は王都にご家族がいませんが、宮廷魔術師仲間が来てくださったようです。「お前……魔物に囲まれて発狂するなよ?」真剣に心配されています。「た、たぶん大丈夫……」答えるカイ様。以前の五年間の旅に自信を持っていいんですよ、カイ様。
「ウォルダート、アルテナと家を頼むぞ」
騎士がウォルダートさんに強く言いつけていました。ウォルダートさんはうやうやしくお辞儀をしました。
「旦那様こそ、奥様をたった一週間で未亡人になされませんように。それと、落馬して骨を折ったなんていう面白おかしい出来事は起こされませんように」
「落馬したくらいで俺は骨は折らん!」
……つっこむところはそこでしょうか、ヴァイス様。
「マリアンヌ、アルテナの友人になってやってくれ。頼むぞ」
「あらヴァイス、私とアルテナさんはとっくに友人よ?」
そんなやりとりをしてくれる騎士とマリアンヌさん。感動で胸が熱くなります。
「シェーラ殿、これからもアルテナと仲良くしてやってくれ」
「もちろんですヴァイス様! 私はアルテナの親友ですから!」
シェーラの心強い保証。本当にありがとう、シェーラ。
「ラケシス殿。王宮での生活は窮屈だろうが、頑張ってくれ」
「私まで気にかけてくださって光栄です、ヴァイス様。頑張ります」
ああ、あのラケシスがヴァイス様に敬意を払ってくれるなんて。姉さん嬉しい。
「兄貴ー、向こうで現地妻作ってくるなよー?」
「馬鹿を言うなモラ、俺が五年の旅で女あさりなどしたことがあったか?」
「知らないよ。してたかもしれないじゃん」
「……巫女を裏切ったら私の人形・改でその股間のピーをねじきってやる……」
「恐ろしいことを言うなソラ!」
「うふふヴァイス兄、リリがよく効くお薬を作ってくれたのよ。感謝して受け取ってちょうだいね」
「うふふヴァイス兄、ミミがね、それにそっくりの毒薬も作ったのよ。ぜひ間違って飲んじゃってのたうちまわってね」
「お前たちの薬は断固として受け取らん」
「えー」とにこにこしながら不満の声を上げる双子。本当にこの双子は……どこでもこの調子です。
「気をつけてゆけよ、ヴァイス」
そんな己の作りたもうた恐怖の双子をよそに、父アレクサンドル様が息子に何かを差し出します。
「私の作った護符だ。全員分ある。役に立てなさい」
「……! アレクサンドル様の作った護符……!」
悲鳴じみた声を上げたのはなぜかカイ様。恐怖に満ちた顔で、「あの伝説の……呪いの護符……! 一度身につけたら解除不能の、永遠にデータを取られ続けるだけの……何にも護ってくれない護符……!」
アレクサンドル様が「ちっ」と舌打ちしました。
……やっぱりこの父にしてこの子ありとしか言いようがありません。
代わりにわたくしが、用意してあったアミュレットを騎士に渡しました。
「全員分あります……あ、ヒューイ様のは不要になりましたけど。良かったら使ってください」
「ああアルテナ、あなたがいると本当に安心します」
「待てアレス! それは俺のセリフだ!」
ヴァイス様とアレス様がつかみ合いの喧嘩を始めました。まったく……仲のよいことです。ちなみにすぐ止むので誰も止めません。
こんな元気な二人を見ることも当分ないのですから、目に焼き付けておきたいのです。
そう、今日この日――
彼らは、魔王討伐のための本格的な旅に出る――
騎士ヴァイスとの婚儀からたった一週間。けれど以前偵察に行ったときの様子から、もうこれ以上は延期できないとの判断でした。むしろ一週間も夫婦としての時間を持たせてもらえたのは、アレス様たちの――そして世界の――ご慈悲だったのです。
一週間の間、わたくしたちはできるだけのことをしました。二人であちこちの場所に出かけ、遊ぶような時間を過ごし、色んなものを食べ、色んな料理を作って騎士に食べてもらい、夜になれば……新婚夫婦らしいことをし(正直毎晩だったのでそろそろわたくしにも疲れが出ているのですが)、本当にひとときも無駄にはしませんでした。
騎士に愛され、騎士を愛し――
そんな毎日も、これでいったんお納めです。
「アルテナ」
騎士はわたくしをぎゅっと抱きしめました。
「すまん。必ず帰ってくるからな」
待っていてくれ――どこか心細そうな騎士の言葉に、わたくしはくすりと笑って、
「辛抱強いのが修道女なのですよ」
そう言って、胸に挿した白い薔薇を騎士に渡しました。
白い薔薇の花言葉。今回の場合は、『約束を守る』……
しかし騎士には通じなかったようです。白い薔薇をくるくる回して見ながら、
「『純潔』? しかしあなたはもう俺のもので、純潔ではな――」
ぺしん! 騎士の頬を殴って最後まで言わせませんでした。
わたくしも強くなったのです。騎士に無神経なままではいさせません。
「……俺は今何かしたか?」
「ええ何かしました。とても失礼な何かをしました。カイ様、あとで白い薔薇の花言葉をヴァイス様に教えておいてください」
「いいですけど理解するかどうか分かりませんよ?」
ひどい言われようですが、いつものことです。
でもわたくし自身で花言葉を教えてしまったら風情がなくなるじゃないですか。ここはカイ様に任せます。
気がつくとヒューイ様が、人目をはばからず恋人の女性と口づけを交わしていました。
それを見た騎士が「俺も俺も」とばかりにわたくしを抱き寄せましたが、わたくしは頑として騎士を押し返しました。
「なぜだ!」
嘆く騎士。そんな彼をとっくり見つめてから――
わたくしは彼に歩み寄り、背伸びをして自分から彼の唇にそっと唇を押し当てました。
……だってこれは出立式です。旅に出る人の無事を祈りながら見送る式――
わたくしの心を贈るのでなくては、意味がありませんから。
しかし騎士は不満げです。
「……足りん」
本当に風情のない人です。夜の行為が当たり前になってから、贅沢にもなったよう。
わたくしはぷいとそっぽを向いて言ってやりました。
「無事に帰ってくることですよ、ヴァイス様」
人前ですから小さな声で。
これだけでも恥ずかしかったのに、ヴァイス様は拳を振り上げて宣言しました。
「おお! 必ず帰ってきてキスの雨を降らせるからな!」
あああもう! シェーラがきゃーきゃー喜んでいます。そこ! 他人事だと思って……!
やっぱり騎士は人前なんてことを気にしてくれません。気にせずに――わたくしへの愛を叫びます。
「アルテナ! あなたと結婚して本当に良かった!」
馬上にまたがりながら。白い薔薇を胸に挿し、彼はわたくしの頭へと手を伸ばしました。
そっと、髪をひと撫で。愛おしそうな手つきで。
――わたくしもですよ、ヴァイス様。
言おうかとも思いましたけれど、やめました。これは彼が無事帰ってきたときのために取っておきましょう。
そう、おかしな話ですけれど、わたくしは彼らがちゃんと帰ってきてくれることを確信しています。
それはまるで、星の神から託宣をたまわったときのような疑いようのない感覚。
――彼らは、帰ってくる。そしてわたくしたちはもう一度、彼らと過ごすことができる――
五人全員が馬にまたがり、出立の瞬間がやってきます。
わたくしたちは精一杯の思いをこめて、笑顔で彼らに手を振りました。
どうか、どうかご武運を――
星の神よ。勇気ある英雄たちに、大いなるご加護を。
――彼らの帰る場所を、わたくしたちは必ず守りますから、どうか。
*
五人の姿が消えてしまってからも、わたくしはしばらく彼らの行き先を見つめていました。
「姉さん、そろそろ帰ろう」
「そうね……」
名残惜しく視線を動かします。
と、離れたところに人影を見ました。
「あ……」
「姉さん?」
――わたくしに向かって頭を下げたあと、あっという間に消えた人影。
(ヨーハン様……)
彼は魔物の知識を一通りアレス様ご一行に伝えたものの、同行するのは拒否したようでした。彼は魔物学者。魔王討伐には向きません。
(……堂々と見送りに来ればいいのに)
まだまだ、前回のできごとの罪悪感が晴れないのでしょう。その気持ちは……分かる気がしました。
「姉さん?」
「ごめんなさい、行きましょう」
「巫女! 一緒に商店街に遊びにいこう、それから帰ろう!」
ソラさんがはしゃいでわたくしの腕にまとわりつきます。
「ソラさん、わたくしはもう巫女ではないので、名前で呼んでくれますか?」
「あ、そうだった。えーと、アルテナ姉様!」
「うふふソラちゃんたら、私たちに『様』なんてつけたことないのに」
「あらあらミミ、嫉妬は醜いわよ?」
「だってアルテナ姉様は私の理想のお姉さんだもん! ね、アルテナ姉様! 今度私の新しい人形を見に来て、うちに来て!」
「ええ、ぜひ見に行かせてください」
ラケシスはモラさんと何かを話していました。
二人は
アレクサンドル様が最後尾でのんびりと言いました。
「にぎやかで悪いねえアルテナさん。いやはや、我が家に入ってくれて嬉しいよ」
「……いえわたくしは騎士の妻になっただけでフォーライク家の家に入ったのとは少し違う気が……」
「嬉しいよ、私は」
「……」
「クラリスちゃーん」とまだ泣いている人々。「カイは本当に大丈夫か」「いやいやまた一皮も二皮もむけて帰ってくるぞ、きっと。そしてますます動くもの嫌いになってる」「それはやばいな。動くものが嫌いになるたびやつは魔術師としては成長するんだ」「俺たちも頑張らないと……」カイ様の心配なんだかそうではないんだかよく分からない話をしている人々。
それから、静かに泣いているヒューイ様の恋人。
実はわたくしも、昨夜は泣いてしまいました。あっという間に騎士に見つかり、わたくしは泣きながら騎士に抱かれました。騎士はしきりにわたくしの目元に口づけを落とし、「大丈夫だから。あなたを一人にはしないから」と囁きました。
わたくしは、それを信じることにしました。
信じることなら得意です。何しろ元修道女。信じることができなければ、何の力も発揮できない女。
それに――
予感がするのです。たぶんわたくしは……もう一人じゃない。
たった一週間の行為でしたが、それだけで十分でした。わたくしは、誰にも気づかれないようにそっと下腹を撫でました。
(ヴァイス様は『世話をするはずだったのに!』と嘆くかしら?)
理想は、それがはっきりと分かる前に騎士たちが帰ってくること。一緒に知って、一緒に喜ぶこと。
でももしもそれが叶わなくとも――
大丈夫。今のわたくしには味方がたくさんいます。心強い味方が、たくさん。
『騎士ヴァイス・フォーライク、巫女アルテナ・リリーフォンスの間に生まれし子は、国の救世主となるだろう』
託宣は成されるでしょう。わたくしたちの子は、順調に成長し、いずれ国を救う救世主となる。
救世主ということは、この国はまた窮地に陥るということなのでしょうか。それを考えると喜んでばかりもいられませんが……
わたくしは空を見上げました。
まだ真昼。星など見えはしません。
けれど……瞼を閉じれば星空はいつでもわたくしのそばに。
――わたくしにお言葉をくださった神は今ごろ、笑顔でいてくださるかしら?
わたくしは神にひとつだけお詫びをしました。申し訳ございません、神よ――
母となるならわたくしは、『救世主』を愛するより前に、まずひとりの子としての子どもを愛したい。
それくらいは、許していただけますよね?
これからわたくしももっともっと忙しくならなくてはなりません。ヴァイス様の妻として、できることはきっといっぱいあるはず。
そう思うと胸がわくわくしました。やっぱりわたくしには、こういう生き方が似合っている――
姉さん、とラケシスの呼ぶ声。
わたくしは元気に応えました。そして、軽やかな足取りで帰る道に足を向けました。
これからも続く、幸せな未来への道行きを。
この己の足で、一歩ずつ――。
(託宣が下りました。完)
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