第三部 伝えたいこと――1

 わたくしが目を覚ましたとき、目の前にいたのは治癒師のクラリス様と、心配そうに見守るカイ様のお二人でした。


 騎士のお屋敷のわたくしの部屋です。少し頭痛がしますが大したことはありません。体が重いような気もしましたが、


「時間が経てば治るわ……」


 クラリス様は穏やかにそう言いました。そして、


「……私たちの話を、聞けそう?」


 わたくしは口を開き、真っ先に尋ねました。


「わたくしの中にいた魔物は?」


 わたくしが記憶を保っている。それが分かると同時、クラリス様とカイ様はすべてを包み隠さず話してくださったのです。



 わたくしが真っ先に願ったことは、騎士の容態を見に行くことでした。


 カイ様の反対を押し切って上半身を起こしてみると、体はふらふらでした。クラリス様の治癒術が効いてくるにはまだ時間があるとのこと。しばらくは安静にしていないと、と、カイ様はそう言うのですが。


「お願いです、わたくしにヴァイス様のお姿を見せて!」


 わたくしはカイ様と、ちょうど様子を見に来たアレス様にすがりつきました。

 アレス様は厳しい声で言います。


「あなたも大変な目に遭ったばかりなんです。体は大事にしてもらわないと」


 わたくしは必死で首を振りました。


 騎士の部屋は同じ二階。これだけ近くにいるのに――

 彼が苦しんでいるのに、様子をたしかめることができないなんて。



 魔物に取り憑かれたわたくしが考えたことは、何とかして自力で魔物を倒すことでした。


 と言っても、どうすればいいのか分かりませんでした。必死で魔物の嫌いなものを考えたとき、クラリス様の治癒術をわたくしの体が拒んだことを思い出したのです。


 ということは、魔物は聖なる力を嫌うはず。あの、光のような力をあれほど嫌ったのですから。

 だとしたら、聖なる力が溜まっている場所に行けば――



 そのとき思い出したのは、先日アンナ様とともに見に行ったばかりの禊ぎの間でした。


 あの場所の水は聖なる水です。たしか討伐者ハンターたちに、聖水として魔物退治に使われているのと同じ水のはずです。


 そうだ、あの禊ぎの間に浸かれば。

 魔物を退治できるかもしれない。


 自分の命を賭けた戦いだと、分かっていました。魔物はわたくしとどんどん同化していく。わたくしの意識は今にも消されそうで。


 それでも、血が出るほどに唇を噛み締めて己を保ちました。


 苦しいときはヴァイス様を思いました。そして、アレス様やカイ様や、シェーラやアンナ様を思いました。


 わたくしに生きる意味を思い出させてくれる、大好きな人々を思いました。


 ――希望を捨てない。絶対に捨てない!


 そうして禊ぎの間にたどりついたわたくしは、罪悪感を抱きながらも鍵を破壊し、中に入ったのです――



 ……騎士がわたくしを助けてくれたことは、おぼろげに覚えています。


 聖なる水の中でのたうっていたわたくしを抱きしめた強い腕。そして、わたくしの唇をふさいだ熱い唇。


 わたくしの魔物は口から入ったのだと、考えた末にわたくしは察していました。騎士はそれを、そこから吸い出してくれたようです。


 そして――

 わたくしの代わりに魔物憑きになって――

 今、苦しんでいる、と。



「お願い……」


 とうとうわたくしはすすり泣きました。

 情けない話だと自分で思いながらも、涙が止まりませんでした。


 カイ様とアレス様が顔を見合わせました。


「……分かりました」


 やがてアレス様がため息をつき、「決して無理をしてはなりませんよ」とベッドのわたくしに手を差し伸べます。


「私につかまってください。一人で歩こうとしないように。いいですね?」


 わたくしは大人しくうなずき、彼の手を借りてベッドからおりると、肩をお借りしました。


「ひとつだけ、先に言っておきますが」


 アレス様はわたくしを優しくサポートしながら、ためらいがちに言いました。


「ヴァイスの部屋にはヨーハンがいます」

「……!」


 わたくしのぎくりとした反応に、アレス様が悲しげな顔をしました。


「……覚えておいでですか。ヨーハンのしたことを」

「………」


 わたくしは黙って下を向きました。


 魔物がわたくしの中からいなくなったことで、記憶はすべて鮮明に戻ってきていました。あの人気のない小さな公園に、わざわざ行った理由。


 あの公園で、行われたこと。


「……ヨーハン様に魔物が取り憑いていた。ヨーハン様は、それをわたくしにうつしたのですね」


 わたくしは顔を上げ、アレス様とカイ様を順繰りに見ました。


「それは魔物のさせたこと。ヨーハン様に罪はありません」

「………」


 しかし二人は気まずそうに視線を見交わしました。


「……?」


 わたくしが疑問符を浮かべると、「それについては」とアレス様がなだめるようにわたくしの肩を抱き、


「ヨーハンに、直接聞くのがいいかと……私たちに言えることはありません」


 いったいどういう意味でしょう? そのときのわたくしにはよく分かりませんでした。


「アルテナ様」


 騎士の部屋に入ったとたん、わたくしに声をかけてきたのは当のヨーハン様でした。


 わたくしは思わずびくりと体を跳ねさせました。魔物のせいとは言え、彼に唇を奪われ、彼から魔物をうつされたあの感覚は、忘れようにも忘れられるものではなかったのです。


 ヨーハン様は、頬に青いあざを作っていました。唇も切れているようです。


 誰かに、殴られた痕……?


 視線をめぐらせてベッドを見やると、そこに騎士が眠っていました。胸にタリスマンをかけ、周囲にはふしぎな石が置かれています。まじないの一種でしょうか。


 わたくしはアレス様に頼んで、もっと騎士の近くに行きました。


 騎士は 眠るように目を閉じて、まったく動きません。


 ……いえ。


 体の横に置かれた両手。その指先が、ときどきぴくぴくと動いています。


「……硬化魔物以外の魔物に取り憑かれてこれほど大人しくしていられるのは、ヴァイス様くらいなものでしょうね」


 ヨーハン様が言いました。


「……中で、戦っているのでしょう。自分に取り憑いた魔物と」

「………」


 わたくしは己が魔物に取り憑いていたときの苦しさを思い出し、騎士にすがりつきたくなりました。


 おそらく魔物の憑依は、魔物に完全に身を任せてしまったほうが楽なのです。シェーラのお父様の容態が、さほど深刻ではなかったように。


 ですがわたくしは抗いました。それは体の中で嵐が起こるようなものでした。体内で動き回り、宿主にも構わず牙をつきたてる魔物に、消されてしまわないよう必死に意思を保ちながら、わたくしは禊ぎの間まで行ったのです。


 おまけに聖なる水に入ったために、地獄の炎に焼かれるような思いをしました。


 騎士の中でも今、魔物は同じように荒れ狂い暴れているのでしょうか。

 それとも、騎士の力に圧倒されて、少しは大人しくなっているのでしょうか?


「……いくらヴァイス様が超人でも、過去に宿主の力だけで魔物を消滅できたことはありません」


 わたくしはようやく、ヨーハン様をまともに振り返りました。


 胸がずきずきとしました。けれど、魔物学者の彼の言葉を聞かなくては。


 ヨーハン様は、わたくしに向かって、深々と頭を下げました。


「……すべて、僕のせいです。本当に申し訳ありませんでした」

「そんな。魔物に憑かれたのはヨーハン様のせいでは――」

「取り憑かれたのは僕の力不足。そしてそれをあなたに取り憑かせたのは――僕の欲求です。言い逃れはできません。すみませんでした」


 彼の欲求――?


 信じられない思いでヨーハン様を見ました。


 ヨーハン様は、これ以上なく悲しげな目で、わたくしを見ました。


「そしてこれから、図々しくもあなたにお願いしたいことがある。話を聞いて……いただけますか」


 一瞬の嫌悪感を抱いたことは、否定できません。理由は分かりませんが、本能的に――とでも言うのでしょうか。


 ですが、今のヨーハン様は、かつて魔物講座を開いてくれた彼と同じだと、わたくしには分かりました。ヴァイス様を助けるために必要な知識を持つ、たったひとりの人。


 わたくしはうなずきました。


「はい。何でもお聞きします」


 ヨーハン様は泣きそうな顔で言いました。ありがとうございますと――。


「それではお話しします。これがうまくいけばヴァイス様だけではなく、今町に蔓延しているすべての憑依型魔物に苦しんでいる人々を、救うことができるかもしれません」


 アルテナ様にある場所へとおもむいていただきたい――

 ヨーハン様はそう言いました。


「どこへだ? ヨーハン」


 アレス様がわたくしに肩を貸したまま、苦い顔をして言います。きっと彼は、わたくしにこれ以上のことをさせたくないのでしょう。


 ヨーハン様は迷わず答えました。


「西のヴェルジュ山へ」

「……聖水の源の山じゃないか。そんなところへ何をしに……」


 ヴェルジュ山ならわたくしもよく知っています。アレス様のおっしゃる通り、聖水――つまり禊ぎの間の水源である山です。


 ただ、あの山は最近魔物が出るようになったとかで、入るのには討伐者ハンターの手が必要だったはずですが……


「アルテナ様と、僕と。もう一人か二人誰か、護衛についてきてもらえますか。僕一人ではアルテナ様をお守りすることができないので」

「僕が行きます!」


 真っ先に声を上げたのはカイ様。


 迷ったのはアレス様で、ちらとベッドのヴァイス様をみやります。


「……万が一ヴァイスが暴れ出したら、クラリス一人では相手は無理だ。私は行けない」

「じゃあ僕一人で行きます。ヴェルジュ山くらいなら、きっと大丈夫です」


 ではカイ、お願いします――とヨーハン様はありがたそうに頭を下げました。


「アルテナ様がもう少し体力を回復なさってから。三人で行きましょう、ヴェルジュ山に」

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