もう、迷いません。―9

 せめて――

 同じ目の高さでいられないのなら、せめて。


 ――同じ想いを抱く者だと知ってほしかった。


「なんですって」


 剣呑な響きが、姫の声にとげを生みました。


「お前、何なの。たかが平民の分際で、英雄ヴァイスにつりあうと思って?」


 そんな馬鹿なことを言うのは二人目よ――エリシャヴェーラ様は吐き捨てるように言いました。


「あの、くだらない託宣を下した巫女と同じ! ヴァイスの華々しさを知っているの。そのみすぼらしい姿を自分で見たことはあるの。不相応にもほどがあってよ!」

「――身分も立場も関係ありません。わたくしは個人として彼を愛しました。姫だって、『王女だから』彼を好きになったわけではないのでしょう?」

「………」


 再び、爪を噛む仕草。視線だけで呪われてしまいそうなほど、姫の威圧感はすさまじいものでした。


 けれどそれは、姫がたしかにわたくしを見ているからで――


 姫の怒号が飛びました。広場を囲む民草の視線など、まるで意に介さずに。


「平民風情が、私と分を競おうというの。思い上がらないことね、お前になど最初からその資格もない!」


 姫様の猛烈な怒気を、


「ところが、そうでもないんですなあ……姫」


 ふいに場違いなほどにのんびりとした声が、断ち切りました。


 姫様は不機嫌に背後をにらみました。


「何なのアルベルト。何が言いたいの」


 そこにいたのは、勇者像に花輪を添えていた老兵。


「……?」


 彼の姿が、かすかにわたくしの記憶を揺り動かします。しかし、もやもやとした影ははっきりとした形になってくれません。


 アルベルトと呼ばれた老人は――老人といっても大層かくしゃくとした人物でしたが――姫君の横までやってくると、


「この女性には、姫と戦う権利があるのですよ。そうですな、アルテナ・リリーフォンス様?」

「――!?」


 わたくしは声にならない悲鳴を上げました。誰、この人はいったい――!


 一歩退いたわたくしのそばで、「おやおや」とアレクサンドル様が眉をつり上げました。


「よくお分かりですなアルベルト・シーラッハ殿。アルテナさんと面識がおありでしたか」

「はは、忘れていてくださったほうが嬉しいのだが。いつぞやはスライムをけしかけて申し訳なかった」


 丁重に頭を下げたその姿に、何かが重なりました。声が、耳の奥でひとつの言葉となって反響します。


『あまり簡単に人を信用してはいかんよ』


「あっ――」


 思い出した。足がさらに一歩退きました。


 スライムに襲われたあの日――酔って倒れていた老人。

 わたくしに魔物の好む匂いをまとわせた張本人。

 わたくしの顔を間近で見た人。わたくしの声を知っている人――。


「覚えておられましたか。ひどい人間だと思っておられましょう」


 アルベルト老は沈痛に眉尻を下げました。改めて見ても、あまり兵服が似合うとも思えない、本当に好々爺然とした人物です。


 けれど、彼は姫君の従者。わたくしの命をも狙った人……


「アルテナ・リリーフォンス……ですって」


 姫が瞠目どうもくしていました。まじまじとわたくしを見――「だって、顔が」うろたえた声がこぼれ落ちます。


 アルベルト老が愉快そうに肩を揺らして笑いました。


「女性というのは化粧ひとつで大変身するものですな。いやはや驚きです」


 お気持ちお察し致します――胸に手を当て、簡略な敬礼の仕草をして。


「……今のあなたのお立場。こうしてあっさりと明かしてしまったことも深謝したく思う」

「詫びれば済む話ではありませんな、アルベルト殿。彼女や友人たちの努力が台無しだ」

「分かっておる。しかし私は姫の側近ゆえ、姫に恥はかかせられぬ」


 アルベルト老はちらりと馬上の主人を見上げました。

 突然の展開にたじろいでいた姫様は、しかし側近の視線を受けてすぐに息を吹き返しました。


「そうよ! いいことを思いついたわ――アルテナ! アルテナ・リリーフォンス!」


 遊ぶようにわたくしの名を呼んだ姫は、馬上で背をそらしました。


「ラケシス・リリーフォンスはあなたの妹だそうね? ふふ、暗殺者を妹に持つだなんて立派な巫女だこと!」


 わたくしは唇を噛みました。アルベルト老が眉をひそめて、


「姫。人を蔑むような言動は慎みなされ」

「蔑む? 事実を言ったまでよ。ふふ――ねえアルテナ」


 まるで親しい友人のように呼びかけながら、姫はあくまで馬上から。

 決して、対等にはならぬ位置から。


「ヴァイスを諦めなさい。そうしたら、妹を無事に返してあげてもいいわ」


 姫は。

 無邪気な子どもの顔で、たしかにそう言ったのです――。



「あらあら。驚きの展開よ、リリ」

「まあまあ。楽しすぎる展開ね、ミミ」


 双子が手を取り合って喜んでいます。そんな彼女たちの通常営業が、何だかありがたく思えるほど……


 わたくしは凍りついていました。目に見えるものすべてが動きを止めて、固まってしまったかのよう。時間の動きが分かりません。


「姫。何と言うことを……」


 アルベルト老が額に手を当ててため息をつきました。


「あら、構わないでしょうそれくらい。私が命じればあの暗殺者の命くらいどうとでもなってよ」

「そんなわけには参りません。シュヴァルツ殿下のお命を狙った人間を解放するなど――」

「アルベルト」


 姫君は手綱を引き締め、馬首を巡らせました。ヒヒンと馬がいななき、鼻先がアルベルト老の眼前をかすめます。


「――私の命よ」


 囁くような甘い声。甘美な毒を、垂らして落とすかのような……


 老兵は口をつぐみました。苦渋の刻まれた顔にのぞくのは、経験からくる諦めのような色。

 わたくしは震えました。姫はいつもこうやって、臣下を従わせているのでしょうか。

 命ずればそれだけで。それが、王女というものでしょうか。


「―――」


 目を閉じれば妹の姿が浮かびます。ああラケシス、今ここでうなずいてしまえばあなたの命は助かるのかもしれない。でも――


「そんな取引はお断りします」


 何よりも姫の思い通りになることが。

 恐ろしいことのように思えたから。


「騎士もラケシスも、わたくしにとってかけがえのない人です。天秤になどかけられません……!」


 この大きな壁のような姫に、気持ちだけでも負けたくない。その一心で。


 馬上から嘲笑が返りました。


「つまらない女だこと」


 アルベルト、と姫は馬ごと臣下のほうへ体を向けました。


「あの暗殺者、さっさと殺してしまいなさいな。今はディアンが拘束していたしら? ディアンに命じなさい」


 声にならない悲鳴が、わたくしの喉からほとばしりました。

 アルベルト老の顔に疲労がにじみました。


「姫。しかしまだ調べることが――」

「調べたところで結果は同じよ、そうでしょう? 城に忍び入った時点であの女の処遇は決まっているのよ」


 やめて。やめて――。


 取引を拒絶したのは自分だと言うのに、狼狽ろうばいするしかなかった。ああやっぱり、ただの考えなしだった? 姫に蔑まれても当然の。


 話をうまく繋ぐことができたなら――もっといい道があったかもしれないのに。


「――やめて!」


 耳をふさいで叫びました。

 嘲弄ちょうろうの視線が、わたくしにまとわりついていました。


「いい気味ね。身の程をわきまえなさい、平民」


 ふふと艶然えんぜんとした微笑みを残して、姫君は手綱を引きました。


「さてと。アレクサンドル、すっかり忘れるところだったわ、民の不安を解消する方法を教えなさい」


 その瞬間にはもう、わたくしは姫君の世界から消えてしまった。抗おうにも、もはや声が届かない――。


 代わりに姫の注目を浴びた騎士のお父上は、ちらりとわたくしを横目で見て。


「残念ながら、姫。今回ばかりはあなたの思うようにはなりませんでしょう」


 姫君が柳眉りゅうびを寄せました。

 お父上は決して揺らがぬ表情で、静かに言を継ぎます。


「この世の全ての人間にはそれぞれの思惑がございます。それ次第では……姫の命でも、成されぬこともある」

「何の話」


 いらいらとした声が馬上から突き刺すように落ちても、お父上は平然としていました。


「なに、姫もそろそろ世間を知った方がよろしいというお話です。いや、世間というよりはむしろご家族をか――」

「だから、いったい何の話をしているの!」

「――ついでにもう一人、今回のことについては黙っておられぬ者がおります。ほら、やってきましたぞ」


 どこからか――

 馬の駆ける音が、聞こえてきました。


 広場で肩を寄せ合っていた民衆が、ひとつの方向を見て歓声を上げました。


 “見ろ、英雄だ”――


(英雄?)


 わたくしは顔を上げ、あっと声上げました。


「まあ、いいタイミング。たまには役に立つのね、リリ」

「本当に。たまにいいところを見せるのがきっとコツなのよ、ミミ」


 栗毛の馬を操りまっすぐ広場へとやってくる姿。白日の下、彼の金色の髪は神秘的なほど美しく輝いていて――

 

「騎士!」


「巫女! 無事か!」


 栗毛の馬がいななき、姫様一行の横を回り込むようにしてわたくしたちの元で止まりました。


 騎士はすぐさま馬を飛び降り、片手で手綱を、片手でわたくしの肩を持ちました。

 顔色が真っ青です。彼がそんな顔をしているのを見るのは初めてのような気がします。よほど心配してくれたのでしょうか。


「ヴァイス!」


 姫が嬉しそうな声を上げました。

 けれど騎士は、一切姫のほうを向こうとはしませんでした。


「大丈夫か? 無体むたいなことはされなかったか」

「い、いえ――」

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