恐くなどありませんから。―4

 なぜ修道女を志すようになったのか――。

 何も男性が苦手だったから、というだけの理由ではありません(それもたしかにあったのですが)。


 直接の原因は、何と言っても昔見た修道長アンナ様のお姿です。


 あれはわたくしがまだ十になったかならないかのときのこと。

 当時、星の巫女であったアンナ様や他の修道女の方々が、サンミリオンの孤児院を回りに来たことがありました。


 町長になる前の父は、そういった施設との連絡係をしていた時期がありましたので、そのつながりでわたくしはラケシスとともに孤児院に遊びにいっておりました。


 そのときに、アンナ様たちと偶然居合わせたのです。


 孤児にはもちろん、ただ遊びにきただけのわたくしたちにも優しく接してくださったアンナ様――。



 『人を恨まないこと。すべて自分の心ひとつ』と穏やかに子どもたちに説くその姿勢。



 はしゃいでしゃべり続ける子どもであっても、いなくなった親への思いをぽつぽつ語る子どもであっても、何ら変わることのない優しい笑顔でじっと耳を傾けていらっしゃった。そのたたずまいがわたくしの胸に、強く焼き付いて。


 そして長じるにつれ、あの振る舞いが簡単にできることではないことが分かっていくとともに、わたくしの心に大きな憧れが形となって住み着きました。


 ああいう女性になりたい――。


 まぎれもない、アンナ様がわたくしの理想。


 そしてアンナ様は、何度も星の巫女を務めたことのある方です。修道女の最高位と言ってもいい、星の巫女というお役目――。


 理想の姿を追求すれば星の巫女に行き着く。わたくしはやがて、星の巫女を目指すようになりました。

 王都に上がり修道女になってたった二年で星の巫女へ抜擢されたのは、わたくしにとって文字通り夢のような話だったのです。


 あのころはまだ、自らの託宣で自らの人生が狂うとは、思ってもみなかったから。


「わたくしは……どうしたらいいのか、ずっと悩んでいるの」


 視線を落とすと自分のてのひらが見えます。心なしか、震えている気がする自分の。


「星の巫女はもう諦めているわ。でも修道女でいたい気持ちが消えないの。この二年、本当に満たされていたから」

「……たしかに、幸せそうだったわよね。アルテナ」


 神妙な表情でシェーラがうなずきました。


「ヴァイス様と一緒にいて、幸せとも限りませんしね」


 レイリアさんのぼそりとした言葉が、さりげなくわたくしの胸に突き刺さりました。シェーラが慌ててレイリアさんの肩を小突き、


「ちょっと! そこは幸せに決まってるじゃない」

「そうですか? あんなに問題行動が多い人が夫では、大変なことの方が多いと思いますが」

「そっ、そうかもしれないけど! それを上回る幸せがあるわよ! あんなにアルテナを愛してくださっているんだし――ねえ?」


 いえ、ねえって言われてもシェーラ。わたくしのほうが返答に困る。


「あ、愛してくださっているかしらね?」


 しどろもどろにそんなことを口走ってしまうと、シェーラが「当然じゃない!」と息巻きました。


「これまでのヴァイス様を忘れたの!? 本気で好きでいてくれなくちゃ、できるわけがないじゃない!」

「……寝室に忍び込もうとしたり、修道院にイノシシを持ち込もうとしたり、夜中に他人の家に忍び込むことを勧めたり――」

「アルテナ、そこは忘れよう!」


 都合がよすぎます。


 ですが……騎士に惹かれるにつれて、そういった彼の問題行動の不愉快さがだんだん薄れていっているのも事実です。わたくしの心はなんと単純なことか。


「大体、ヴァイス様ほど行動で示そうとしてくれている人もなかなかいないわよ? ちょっと価値観がおかしいだけで」

「価値観がおかしいのは問題じゃないかしら……」

「い・い・の! 悪人じゃないんだから」

「そうでしょうか?」


 冷たい水を浴びせるように、レイリアさん。

 シェーラがはたと動きを止めました。まじまじと隣のレイリアさんを見ます。


「……なに言ってるの? ヴァイス様が悪人だとでも言うの?」

「悪人、とは少し違いますが」


 レイリアさんはシェーラを見、それからわたくしを見ました。


「お二人ともこんな噂を知りませんか。ヴァイス様は王女エリシャヴェーラ様に言い寄られていると」

「そ、それは」


 シェーラが目に見えて動揺しました。

 わたくしは驚きました。シェーラ、まさか――


「知っていたのシェーラ?」

「……まあ……」

「知っていたなら何でわたくしに教えてくれなかったの?」


 つい責めるような口調になってしまいました。だってわたくしだけ知らなかったなんて、あんまりじゃないですか。


 シェーラは少しだけ困ったような顔をしました。


「だって、言えるわけないじゃない。私はアルテナとヴァイス様にうまくいってほしかったんだもの。もしも話していたら、アルテナはますますヴァイス様から距離を取ったでしょう?」

「………」

「言わなかったのは謝るけど、でも――」

「そこはどうでもいいんですお嬢様。問題はここからです」


 言いかけたシェーラを遮って、レイリアさんはわたくしを見据えました。

 まるで、覚悟を問うような目でした。これから言うことを、聞く気があるのか、と。


「……教えて。レイリアさん」


 わたくしはそう応えました。乾ききってひりつく喉をごまかしながら。


「ヴァイス様はエリシャヴェーラ様の求婚にほとほと手を焼いているんです。何しろ相手が王女ですからね、スケールも大きいし無茶も多い」


 何だか想像がつきます。ラケシスの話では、エリシャヴェーラ様に遠慮という言葉はないそうですから。


「ある時には『この国をあげる』とまで言ったそうです。王太子があのていたらくですから、あながちはったりでもない。ヴァイス様は本気で困ってしまった」


 レイリアさんは何を言おうとしているの?


 嫌な予感が、こつ、こつと静かな足音を立てて迫り寄ってきます。


「ところがそんなある日、とある託宣が下りました。ヴァイス様はその託宣を聞いた瞬間、考えついたのです。これで王女の求婚を拒否できる――」


「―――!」


 バン! とテーブルを激しく叩く音。


 シェーラが青ざめた顔で立ち上がっていました。テーブルに叩きつけた手が震えています。


「何てことを、レイリア……!」

「ちまたでの噂です。私が言ったんじゃありません」


 レイリアさんは涼しい顔。相変わらずこたえない人です。


「……本当にそんな噂があるの?」

「ありますよ。誰かに聞いてみたらいかがですか、アルテナ様」

「………」

「た、ただの噂よ。真実じゃないわ」


 シェーラは立ったまま拳を握りました。何かを振り切ろうとするかのように頭を激しく振り、


「絶対違うわ! だって偽りであんなにしつこく迫ったりできない!」

「しつこいって認めるんですね」

「そんなことはどうでもいいのよあんたはあああっ!」


 レイリアさんの両肩をがっしと掴んでがくがく揺さぶるシェーラ。わたくしの分もお願いします。



 レイリアさんをシェーラに任せ、わたくしはただじっとしていました。動く余裕がなかったのです。

 胸が引き裂かれんばかりに痛くて、それをこらえるのに必死で。


(全部、偽り――? まさか)


 シェーラの言うとおり、とうてい信じられる噂ではありません。だってわたくしは、実際に騎士とやり合ってきたのです。彼と交わした数々のやりとりがすべて偽りだったなどと――。


 信じられない。

 信じたくない。


 でも、同時に疑問も浮かんでしまう。ずっと押し隠し、考えないようにしてきた疑問です。そもそも……


 そもそも騎士は、なぜわたくしなどを選んだのかと。


(何の取り柄もない、知り合いでもない、ただの修道女だったわたくしをどうして?)


 ……エリシャヴェーラ様から逃げるために、都合よく下った託宣を利用した……


 それなら、わたくしを選んだ理由は説明がついてしまいます。むしろそれ以外に理由などないような気さえしてくるのです。


「違う」


 声に出してつぶやいてみました。

 何とも空虚で風に溶けてしまいそうな声でした。


 ――胸が痛いのは、噂を信じてしまいそうだから。


 どうしたって、「そんなわけないわ」と笑い飛ばすことができない。できない――。


「ヴァ、ヴァイス様に聞いてみれば」


 シェーラの声も震えていました。レイリアさんがすかさず応えます。


「本当のことを言うとでも?」

「……ねえあんた、それで人生楽しい?」

「楽しいですよ。お金さえあれば」


 わたくしはうつむいていました。シェーラの言葉もレイリアさんの言葉も、右から左へ抜けていきます。


 と――


「迎えに来たぞ!」


 遠くから駆けてくる人影――大きな声。

 わたくしははっと空を見上げました。雨雲はもうじき頭上へとやってきそうです。

 すっかり忘れていたのか、シェーラが飛び上がるほど驚きました。


「あ――」

「ん? どうした辛気くさい顔をして」


 四阿あずまやまでやってきた騎士は、ふしぎそうにわたくしたちの顔を見渡しました。


「喧嘩でもしたのか? 珍しいな。仲裁は必要か?」

「ち、違いますよヴァイス様」


 シェーラが無理やり笑みを貼り付けるのが分かります。本当に、この親友には面倒をかけてばかりです。


「大丈夫です、何もありません。ね、アルテナ?」

「……ええ」


 わたくしはやっとの思いでそれだけを告げました。


 さすがの騎士も、わたくしの様子がおかしいことに気づいたようです。顔を覗き込み、怪訝そうに首をかしげました。


「どうした? 気分が悪いのか?」

「いいえ」


 ああ、たったこれだけの言葉を発するのが何と難しいことでしょう。


 やがて声を出すことを諦めたわたくしは、騎士に向かって顔を上げ、あいまいに微笑みました。


「……本当に調子が悪そうだな」


 勘違いしたのでしょうか、騎士は真顔になりました。「早く建物に入ろう。じきに寒さも強くなる」


「………」


「シェーラ殿、悪いがもうお開きにさせてくれ。またじきに連絡するようにするから」

「手紙は届くのでしょうか」


 レイリアさんの問いに、「大丈夫だ」と騎士は軽く笑います。


「今日の連中によっく言い聞かせておいたからな。俺からの手紙なら大丈夫だ」

「まあ、元々勇者一行と喧嘩したいわけじゃありませんしね、王宮も」


 納得したように言って、レイリアさんが腰を上げました。「いきましょうシェーラお嬢様」


「うん……」


 シェーラは立ったまま、じっとわたくしを見ていました。

 わたくしはシェーラを見返しました。


 二人の間に、二年という、共に過ごした時間の深さが横たわっていました。ただ見つめ合うだけで相手を労る、そんなことも可能なほどに。


 やがてシェーラはテーブルを回り、わたくしを強く抱きしめました。


「アルテナ。幸せになって」

「シェーラ……」


 シェーラはわたくしを抱きしめたまま、ギン! と騎士をにらみつけました。


「……アルテナを、く・れ・ぐ・れ・も! よろしくお願いします、ヴァイス様!」

「んんん?」


 目を白黒させる騎士。わたくしはぷっとふき出しました。


 ようやく自然にこぼれた笑顔。わたくしたちはそれを贈り合うように顔を見合わせ、笑い合って――。


 そして、どちらからともなく手を放しました。再び会えることを、無言の中に約束して。




 シェーラがレイリアさんを連れて修道院の方向へ帰っていきます。

 それを見送っていると、ふいに道の両側から二人の男性が姿を現し、こちらを一瞥するとシェーラたちの後を追っていきました。


 騎士が一度捕まえたはずの彼ら。たぶん騎士は必要に応じて彼らを解放したのでしょう。


 わたくしは騎士に尋ねました。


「シェーラはなぜつけられていたのですか? わたくしに会うから?」

「正確には俺に会うからだな。手紙には遠回しにしか巫女が来ることを書かなかったし――。というか、つけているというよりは、一種の護衛のつもりなんだろう」

「護衛?」

「大切な星の巫女だからなあ」


 騎士は腕を組み、うんうんとうなずきました。「あとは、それを利用するやつらが近づかないように、という護衛だな」


「利用するやつらというと……」

「今のシェーラ殿は、反逆者どもが頭にいただくにはもってこいだ」

「………」


 わたくしはため息をつきました。「では、シェーラたちの後を追ったあの二人は必ずしも悪ではないのですね?」


「悪じゃない。王宮の手の者ってだけでな」

「………」


 湿っぽい風が吹き、四阿あずまやに寄り添う林がガサガサと鳴りました。


「おっと。早く移動しなくては雨に降られるな――巫女、行こう」


 騎士が手を差し出しました。

 わたくしは何気なく手を出し返して――それから、はっと気づきました。


「え、あの」

「よし。急ぐぞ!」


 騎士はわたくしの手を握ったまま意気揚々と歩き出します。急ぐぞと言いながら、その足取りに急いだ様子はありません。


 手が――大きな騎士の手に包まれて、熱く火照っていきます。


 力強いのに、その手に本気の力は入っていません。わたくしが振り払おうと思えば振り払えてしまえそうな……


「………」


 わたくしは逃げようとはしませんでした。

 そっと彼の手に掴まるようにして指に力をこめ――そうして彼についていきました。


 彼の、導くままに。


(……すべて、偽り)


 心の中でレイリアさんから聞いた噂を思い返せば、胸が焼け付くように痛みます。

 やっぱり、「そんな噂、間違いよ」と言えない。


 それでも――


 繋いだ手の温かさは、実際に触れ合った者だけに分かるもの。わたくしだって、騎士のことを少しは知っている。


 以前「この気持ちだけは否定しないでくれ」と囁いた、あの声の寂しそうな響きを、この胸に覚えている。


(……知らない人の噂などで、目の前の人を疑いたくない)


 それは情に流された誤りなのかもしれない。裏切られるかもしれない。だとしても――


 『人を恨まず。すべては己の心ひとつ』。


 先を行く騎士の背中を見つめながら、わたくしは心の中に誓いました。騎士の口から聞くまでは、自分からこの人の気持ちを疑ったりしない。決して――。

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