そんなつもりはありません―7

「どうする。一緒に逃げるか? シェーラ殿」


 騎士がもう一度シェーラに問いました。


「シェーラ……」


 わたくしははらはらとしながら友人を見つめました。


 シェーラはわたくしの手を強く握りました。そして、


「――いえ、逃げません」


 決然とそう言いました。「私がお父様と話します。二人は私が呼んだのだと、そう説明します」


「シェーラ、わたくしたちのことはいいのよ」

「いいえ、責任は取らせて。元はと言えば私がろくに説明していなかったから、アルテナだって無茶をすることになったんだし」


 大丈夫よと、シェーラはわたくしを見て強くうなずきます。


「ヴァイス様のお名前を利用させてもらうわ。構わないでしょう、ヴァイス様?」

「おお構わんぞ。俺としては巫女の好感度に――もとい役に立てればそれで」

「今余計なことを言いませんでしたか?」


 騎士ははははと笑って――

 そして、ふいに寝室の外に向かって振り向きました。


「――というわけで。ここは俺の名に免じて許してはいただけないか、ブルックリン伯」

「………」


 騎士に応えるようにゆっくりと。一人の男性が――おそらくブルックリン伯爵が、寝室へと入ってきます。


 供も連れず一人きり。いかにも雨の中を急いで帰ってきたとでも言うように、髪が少し濡れているようです。シェーラと違って濃い茶の癖毛をしていました。シェーラは母親似なのでしょうか。


「とんでもないことをしてくれたな、ヴァイス殿」


 落ち着いた声が、静かに騎士を責めます。しかし騎士は平気な顔です。


「そうか? そもそもあなたの娘への態度が原因だろう」

「どんな理由であろうと年頃の娘の部屋に男が忍んでいいと思っているのか? 勇者の片腕ともあろうものが――」

「巫女がいなければ来る気はなかった俺など大人しいものだぞ。アレスならむしろ真っ先に飛び込んでくる」


 ……どうでもいいのですがこの短期間でわたくしの中でのアレス様のイメージが変わってしまいそうです。


「何でもいい。とにかく、部屋を出てもらおうか」


 ブルックリン伯はあごでわたくしたちを促しました。「シェーラはここで待っていなさい」


「いやよ、私も行くわ。話をする」


 シェーラはわたくしの手を掴んだまま、頑として放しません。

 それをお父上は苦々しい顔で見やり、「好きにしなさい」と言いました。


「お父様待って、悪いのは私なのよ、二人を責めないで」

「話は全て向こうで聞く。とにかく出なさい」


 言い捨て、ブルックリン伯爵はさっさと寝室を出て行ってしまいました。


「……あんなこと言って。どうせ話なんてろくに聞かないのよ」


 シェーラは悔しそうに唇を噛みます。「二人とも、ごめんなさい」


 謝らないでと言うつもりでした。けれどわたくしより先に、


「謝る必要はない。俺たちは好きでやっている」


 騎士が胸を張ってそう言ってしまいました。


「……ええと、わ、わたくしも同じ気持ちよ」

「巫女! ようやく心がひとつになったな」

「あああだから先に言われたくなかったのに!」


 シェーラが噴き出しました。良かった、やっと笑ってくれた――。




 騎士を先頭にして、わたくしたちは寝室を出ました。


「でもお父様、どうして帰ってきたりしたのかしら。今日は大切な商談だと言っていたのに」

「ああ。俺もそう聞いていた」

「……騎士ヴァイス。あなたはいったいどこからその情報を得たのですか?」

「家の者から」


 あっさりと騎士は言いました。


「ついでに言えば家の者の話で何が起こっているかは予想がついていた。今夜戻ってきたのは予想外だったが……たぶん俺が雇った家人が寝返ったんだろう。金のためならなんでもすると言っていた」

「そ、そんな人を雇ったんですか?」

「金のために動く人間はわかりやすい。むしろ俺は好んで雇うぞ」


 まあ今回はしてやられたが、と、歩きながら騎士はあごに手をやります。


「とにかく。伯爵は話し合う気なんかないな」

「……!? ど、どうしてそんなことを、」

「つまり」


 大扉を開け、騎士はシェーラの部屋から出ました。

 その手が、「出てくるな」とでも言いたげに、わたくしたちに向かって掌を見せました。


「――


 オオオオオオォォォォォ!!!


 人の物とは思えぬ咆哮が上がりました。わたくしとシェーラは揃って悲鳴を上げ、抱き合いながらしゃがみこみました。

 大扉の向こう、妙にゆっくりとした動きで見えたのは、ブルックリン伯爵が化物のように変貌して騎士ヴァイスに躍りかかる姿――


 十本の手の爪が尋常ならざるほどに伸びていました。鋭い刃となって、騎士を狙います。


「ふん」


 しかし騎士は片腕で軽く伯爵の動きをいなしました。


 同時に腰の剣を抜き放ち、伯爵の体を打ち据えます。伯爵が廊下に崩れ落ちるまで、あっという間の出来事……


 低く、独り言のように騎士はつぶやきました。――


「……その程度で俺に勝てると思うな」


 伯爵は悶絶して廊下を転がります。シェーラがもう一度悲鳴を上げて立ち上がり、部屋を飛び出しました。わたくしは慌てて後を追いました。伯爵はいったい――。


「お、お父様。お父様!」


 シェーラは立ちすくんでいました。駆け寄りたかったに違いないのに――悶絶している伯爵の動きに合わせて、長い爪があちこちに跳ねます。


 騎士が一歩進み出ました。


「爪か」


 そう言い、暴れる爪を踏みつけて、そのまま剣で爪を切り落とし始め――。


 バキン! バキン! バキン……ッ!


 それはあまりにも異様な光景でした。シェーラもわたくしも呼吸を忘れるほど緊張したまま、何もできませんでした。

 やがて――十本目の爪が切り落とされたとたん、伯爵の体が大きく跳ね上がり、


 グオオオォォォォォ!


 まるで断末魔の叫びのように伯爵の口から獣の咆哮が飛び出しました。


 やがてそれは尻すぼみになり、空気に消えていきます。


 廊下に散らばっていた爪が煙となって消えました。そしてすべての獣の気配がなくなり――


「う……」


 伯爵が身じろぎしました。

 体を幾度かけいれんさせたあと、ゆっくりと瞼が上がります。


「……な、んだ……?」

「お父様!」


 シェーラは今度こそお父上に駆け寄り、その体を抱き起こしました。「お父様、しっかり!」


「シェーラ? なぜここにいるんだ?」


 頭痛がしているのか頭に手をやっているブルックリン伯爵は、訝しそうにシェーラを見ました。


「なぜって……覚えていないの?」

「覚えて? 何をだ?」


 ますます眉間にしわを寄せて、ブルックリン伯爵は考え込むしぐさをしました。けれどすぐにつらそうに顔をしかめます。


「今は深く考えずに休んだほうがいいぞ。魔物に体を乗っ取られて平気だったやつはいない」


 騎士が軽い口調で言いました。

 伯爵は騎士を見上げ、驚きに目を見張ったようでした。


「ヴァイス殿……!? 今、何と? 私が魔物に?」

「その通り」

「……ああ、そうか。何か……うっすら覚えている気がする」


 顔を伏せて考え込んだ様子の伯爵は、やがて顔を上げ、シェーラを見ました。


「シェーラ、すまなかったな。どうやらお前をひどい目に遭わせてしまったらしい」

「お父様、そんなこと」


 無事で良かった。そう言ってシェーラはお父上に抱きつきました。

 シェーラの頬に、涙が伝っていました。


 シェーラはお父上が大好きなのでしょう。だからこそ――

 修道院にいた期間、わたくしに自分の環境について――何よりお父様について――決して愚痴を言うことはなかったのです。


 わたくしもこぼれかけた涙を拭いました。


 伯爵が魔物に操られていた。それがシェーラの結婚話にどこまで影響しているのか分かりませんが、少なくとも伯爵がご無事なのは良かった――。


「……終わりましたか」


 ふと、新しい声が割り込みました。


「………?」


 わたくしは振り返りました。いつの間にか、騎士の陰に誰かがいます。


 騎士がその誰かに、珍しく困ったような声で言いました。


「よく平気で俺の前に顔を見せられたな、レイリア」

「そりゃあ。私は雇い主の命令通りに動いているだけで、悪いことは何もしていませんので」

「レイリアさん……!?」


 わたくしは仰天しました。そこにいたのは間違いなく、修道院に新人として入ってきたあのレイリアさんだったのです。


 シェーラがはっとレイリアさんを見ます。そして、声を張り上げます。


「ちょっとレイリアあんたね、人を眠らせてさらっておいてよくものうのうと……!」

「旦那様のご命令でしたので」


 レイリアさんはこたえた様子がありません。本当に図太い――ええ遠慮なく言います、図太い人です。


 わたくしは説明を求めて騎士を見ました。

 騎士は肩をすくめました。


「こいつは昔から金で動く情報屋として有名なんだ。ブルックリン伯はシェーラ殿をさらうために雇い、俺はこの別荘の内情を知るために雇った。まあついでに出先の伯爵に俺たちが忍び込んだことまで報せたのは余計だったと思うんだが」

「旦那様のご命令でしたから」


 つまり、『お金をもらいましたから』――。


 わたくしはめいっぱい脱力しました。何だかもう、今夜は疲れた……。


「どうした巫女? 疲れたなら今夜こそ一緒に寝るか?」


 それだけは全力でお断りします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る