第10話

 夫人は座り直した。


「もちろんですとも。なんなりと」

「確認したいことは、主に笹井ささいさん、貴女あなたにです」

 興梠こおろぎは夫人に寄り添う家庭教師兼話し相手コンパニオンに視線を向ける。

「私? どうぞ、なんでもお聞きください。私でお役に立てるなら喜んでお話しいたします」

珪子けいこちゃんがいなくなった日、貴女は休日だったそうですね?」

 笹井敦子ささいあつこは顎を上げ、ピンと背筋を伸ばして、

「はい。本当は、私、お休みなんていらないほど、この御屋敷で働かせていただいて以来、毎日が幸福なんですけど。でも、奥様がせめて、最低月に1回は自分だけの自由な時間を持つべきだとおっしゃるので……」

 まっすぐに探偵の目を見つめて応える。

「その日は映画を見に行きました。横浜オデヲン座です」

「おひとりでですか? それとも、御友人、ご家族の方と?」

「私――」

 ここで突然、口籠る。うつむいた家庭教師に代わって夫人が口を開いた。

「私が申し上げてよろしいでしょうか?」

 笹井敦子ささいあつこは悲しい過去を持っていたのだった。


 敦子の父は横浜正金銀行の有能な幹部行員でフランスのリヨン支店に派遣されていた。母は華族の出である。敦子は父の赴任先のフランスで生まれた。だが、17歳の時に、交通事故で両親が急逝、1人、母国日本へ帰郷した。

 突然後ろ盾を無くした世間知らずの娘に親戚の態度は冷たかった。


「私、奥様と出会えてなかったらどうなっていたことかと今でも思います。両親と一緒でしたから日本語ことばに不自由はありませんが、この国は私にとって異国と一緒。風習も振る舞いも何ひとつわからなくて粗相をしては笑われてばかり……」


 遺産がなかったはずはないと思うのだが、その種のモノが何処でどうなったのか。瑠璃子るりこが出会った時、敦子は遠縁だという家でメイド代わりにこき使われていた。敦子の友人の友人が催したパーティでのことだ。


「私、一目見て、敦子さんの気品のある立ち居振る舞いにただのメイドさんじゃないと気づきました。そのうち、音楽の集いになって……代役でピアノを担当した、その腕前に吃驚して、そばへ呼んで理由わけを訊いたんです」

 代わって、目を輝かせて敦子が言う。

「私が事情をお話ししますと、奥様はその場で言ってくださったんです!」


 ―― 私の家へいらっしゃい。家庭教師を探していたの。貴女以外にいないわ!


「私、嬉しくて、思わず訊き返しました」


 ―― お子様はおいくつでいらっしゃいますの?


 ――0歳よ。



 そう。その時おなかにいたのが珪子だったのだ。


「私、天にも昇る心地でした……!」

 家庭教師はこぼれんばかりの笑顔で話を締め括った。

「そういうわけで、奥様には心から感謝しています」

「まあ! 感謝しているのは私の方よ。敦子さんは音楽も一流なら、外国語も、フランス語はもちろん、英語も堪能で、主人が外国のお客様を招く際は通訳の役も果たしてもらっています。もはや、我が家にはなくてはならない存在なんですの」

「奥様……」

 改めて二人の絆を知った探偵と助手だった。なるほど、ただならぬ結びつきはこういう背景故だったのか。

 興梠は先を続けた。

「今回、珪子ちゃんがいなくなる前、貴女の目から見て、邸の内外に何か変わったこと、気になることなどはなかったですか? 例えば、家を覗き込んでいる人影や停車している車など、日常とは異なる不審な事柄です」

 暫く考えてから笹井嬢はきっぱりと首を振った。

「いいえ、何も、思い当たるものはありません。私がこの御屋敷へ来て以来の、何一つ変わらない平穏な毎日でした」

「最後に一つだけ。休日に見た映画は何という映画でした?」

 敦子は即答した

「《舞踏会の手帳》です」

「《舞踏会の手帳》! あれは素晴らしい映画だよね!」

 横から叫んだのは志儀しぎ

「ジュリアン・デュヴィヴィェ監督! 主演はマリー・ベル。僕の映画研究会の友人なんか、感動のあまり14回ぶっ続けに見たってさ! ねえねえ、知ってる? あの映画に出てる――」

「ロベール・リナンでしよ? 同じくデュヴィヴィェ監督の名作、《にんじん》の主人公だった俳優さんよね」

「あ、知ってるんだ! その通りだよ。にんじん役の時の〝少年〟のイメージが印象的だったのにすっかり成長して〝大人〟になってるんで僕、吃驚したよ」

「映画にお詳しいんですね?」

 探偵の言葉に頬を染める家庭教師兼話し相手コンパニオン

「私にとって《にんじん》は特別なんです。あの映画は両親とパリで見たんですもの」

「!」

「その3日後に父と母は事故で亡くなりました。

 人生があんなに儚いものだったとは、あの映画を見てる時は、私、夢にも思わなかったわ。悲しい場面では父も母もぎゅっと私の手を握ってくれて……

 だから、私、映画が大好き! 映画館のあの暗闇に座っていると両脇に今でも父と母の気配を感じるんです」


 

 二人を送りだした後、しみじみと少年助手は言った。

「夫人も、笹井さんがいてくれて良かったね! こんなつらい状況で一人だったらとても耐えて行けなかったはずだよ」

 志儀は鼻の頭に皺を寄せると、

「それにさ、辻褄つじつまが合う。《にんじん》は、確か、封切がフランス本国で1932の春だったはず。それをパリで見て……両親を亡くし、日本に帰国。妊娠中の夫人に声を掛けられてこの邸にやって来た。珪子ちゃんが今6歳だから……年数的にはピッタリだ。何? どこか変かな、興梠さん?」

 一瞬、顔をしかめた探偵に気づいて志儀が訊く。

「いや、なんでもない。ただ――」

 何だろう? 今、何かに引っかかった……

 興梠は自問した。

 俺は、何に反応したんだろう? とても重要な単語コードだった気がする。

 銀幕? 暗がり? 《にんじん》または《舞踏会の手帖》……?

「ねえ、サイダー飲んでいい?」

「ああ、好きにしたまえ」

 だが、ここで再びノックの音。

 志儀が扉を開けるとそこに立っていたのは――




☆横浜オデヲン座……

1911年(明治44年)12月25日、横浜市賑町(現在の同市中区長者町6-104)にドイツ人貿易商のリヒァルド・ウェルデルマンが創立。日本最初の洋画専門館である。第一次世界大戦勃発のため敵国人が経営者では不都合と言うことで、1914年以降は義弟の商社社長・平尾榮太郎が経営を引き継いだ。自社平尾商会が輸入した洋画を他館に先駆けて上映し人気を呼ぶ。新作公開を意味する「封切り」は、このオデヲン劇場から生まれた言葉だとされている。




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