僕が彼女に伝えたかったこと

春田康吏

第1話

「こんにちはー」やっと来た。

枕元に置いてある時計を見ると、午前11時だった。

僕はドアを開けて彼女を中に入れた。

入ってくるなり彼女は、

「さむっ。ここ、クーラー効き過ぎだよ」と言った。

でも、消せとか温度設定を低くしろとかは言わなかったので僕はそのままにしておいた。

奥の方まで歩いて行って部屋の隅っこにある小さな緑色のソファーに腰掛けると彼女は、にこっと笑って言った。

「今日はデートも断って来たんだからね。ちゃんと良い物、読ませてよ」

「彼氏なんていないくせに」僕が言い返すと、

「男だけがデートじゃないの」とわけが分からないことを言って両手を差し出した。

僕は、黙ってパソコンの側にある印刷されたばかりのかすかにインクの匂いがする紙束を取って、彼女に手渡した。

「重っ」その白い華奢な手は紙束を持った瞬間、その重みで少し下がった。

しかしそんな事は気にする様子もなく、表紙に書いてある数個の文字を見つめると、「ふーん」と言って一枚めくった。

彼女のそのいつもの仕草を確認すると

僕は、すぐそこにある青い回転イスに腰掛けて、目の前にあるパソコンの電源を入れた。

横を見ると、うつむいて真剣に文章を読む彼女の姿が見えた。

僕の視線にも気づかないくらいの真剣な彼女がそこにはいる。

もうこんな動作を何回続けてきたのだろうか。


「二度あることは三度ある」

「三度目の正直」


そんな言葉も忘れるくらい僕は書いて、彼女は読んでくれた。

こんなにまで付き合ってくれた彼女に感謝したいくらいだ。

恋人でもないのに…

パソコンの画面がスクリーンセーバーになり始めた頃、

僕は考え事をやめてメールや大学の論文やらを書く事にした。

部屋の中は、僕が打つキーボードの音、彼女がめくる紙のこすれる音、

エアコンの音ぐらいだった。

今、この部屋の中に二人も人間がいるのに声という音はなかった。

そのまま時が経ち、そろそろお昼近くになってきたので、

僕は二人分の昼食を作る事にした。

彼女は相変わらず、うつむいて僕が書いた小説を読んでいる。

ときおり目の前にかかる長い髪の毛をかきわけながら…

「いつものでいい?」僕が聞くと、

「うん…」と短く言った。

熱中しているわりにはよく聞こえるようだ。

少し前、女の人は物事を二つ同時に脳の中で処理が出来るというような話を聞いたことがある。例えば、テレビを見ながらおしゃべりをするとか電話をしながら料理をするとか…

そう思いながら僕は台所に行って、いつものパスタを作ることにした。

熱々のさっぱりとした味付けで麺の硬さもちょうど良いいつものパスタが出来上がった。

これは何かの番組で見て以来、パスタと言えばいつもこれを作っている。

皿の横にフォークとスプーンを置くと僕は彼女を呼びに行った。

「出来たよ。お昼にしよう」さっきは一回で聞こえたのに、

彼女は視線を落としたまま返事をしなかった。

もう一つか二つ音量を上げて彼女を呼ぶと、やっと聞こえたようだ。

ゆっくり立ち上がると、テーブルにちょこんと座って黙々と食べ始めた。

パスタを食べている時もフォークに麺を巻いている時も視線は下に落としたままだった。

まるでロダンの考える人がパスタを食べているような…

午後になっても彼女はソファーに座って、数分おきに紙をめくるという動作を繰り返してくれた。

かなり前だったかまだ途中なのに、「疲れた」とだけ言って帰ってしまったことがある。

僕は、分けが分からず何様のつもりなんだ。とその晩は、ずっと一人で怒っていた。

あとで聞いたところによると、

読むに耐えずこのまま読んでいると死ぬかもしれないと思ったかららしい。

怒りから哀しみに変わった。

そんな事も今は、もう思い出になろうとしている。

空を見上げると、雲行きが怪しくなってきたようだった。

向こうの方から真っ黒な雲が近づいてくる。

雨が降ってくる前に洗濯物を取り込んでおこうと思い、

「ちょっと洗濯物、取り込んでくるわ」と彼女に声をかけた。

しかし数秒も待たないうちに突然、

「いちいち私に言わなくてもいい!」と大きな声で言い返された。

思ってもみなかった反応に僕は一瞬たじろぎ、

はい…すいません。と言ってベランダに出た。

彼女が怒った顔を見たのは久しぶりだと思った。

そんなに作品に夢中になっていたのか、それとも作品がすごくつまらないのか

今の僕には分からない。

ただ分かることと言えば残りの紙の量の感じで、

もう終盤に差し掛かっているなと分かっただけだった。

案の定、洗濯物を入れ終わって畳みかけたとき空は急に真っ暗になり、

ひどい雨が降ってきた。

窓ガラスをムチで叩くようなバチバチとした音がしたかと思ったら、

雷鳴もとどろき始めた。

彼女は相変わらず視線を落としたまま何も話さない。

もしかすると雨が降ってきたことにも気がついていないのかもしれない。

女の子だったら、少しくらいビビれよ。と思ったりもするが、

彼女はそんなタイプでもなさそうだ。

僕は、明かりを点けてぼーっと視線は窓の外に向けたまま正座をして洗濯物を畳み始めた。

まだ激しい雨が降り続いている。

時計の針は、3時を指していた。

子どもの頃だったら、おやつの時間。今は、すっかり食べなくなってしまった。

ふと彼女の方に目をやると、何と最後の一枚を読んでいる最中だった。

僕の方も洗濯物とは言え、最後の一枚だった。

そして僕は、そのまま彼女の最後の一枚を読み終えるのを見届けてしまった。

彼女は、目の前にある小さなテーブルに紙束をドサッと置くと

両手で目を押さえて黙ってしまった。

沈黙…

ふいに胸騒ぎがした。

いつもと違うということに気づき始めていたからだ。

いつもなら読み終われば、すぐにベラベラと話し始めて、

さも自分は選考委員にでもなったかのようなつもりでいるのに…

思えば、僕が一言声をかけて怒らせたあたりからおかしかったのかもしれない。

彼女は一度ため息をつくと、

「悪くは、ないよ」と言った。

「えっ?」僕は、思わず聞き返してしまった。

「悪くはないっていうか、今まで読んできた中で一番良いと私は思う」

声のトーンは、すごく暗かった。

でもその言葉の意味は、僕が今までの中で初めて聞いた彼女の前向きな感想だった。

「ただ、何か引っ掛かるのよね」首をかしげながら考える素振りをする。

そして目の前にある今、読み終えたばかりの紙束をもう一度、手に取って話し始めた。

「主人公は、何てことのない普通の男子大学生。でも小説を書く事が好きで、文学賞に応募するため、書いた小説を同じクラスの女の子に何度も読ませる」

「うん…」僕は、うなずく。

「でもその女の子は、いつもその小説をけなしてばかりで何ら良いことは言わない。何、これ、私たちのこと?エッセイですかあ?」

いきなり間の抜けた答えが返ってきた。

でも僕は黙っていた。

彼女が気づき始めていたから…

そんな様子の僕に彼女も気づいたのか少し気まずい雰囲気の中、

また今読んだばかりの物語のあらすじを話し始めた。

「だけど、ある時いつものように男の子が書いた小説を読んでいて女の子は驚く。その物語の中身が、実際の二人の関係やそれまで二人が歩んできたことにすごく似ていたから。そしてそのまま彼女が読み進めていくと、その物語の終盤で作者である男の子が自分に好きだということをその小説の中で告白しているということに気がつく」

まだいろんな要素や出来事を書いたのに、

彼女は的確にまとめて簡潔に、その部分だけを話してくれた。

「読んでくれてありがとう」それはとてもシンプルな表現だったけれど、素直な言葉が出た。

「珍しいじゃない。誠人がそんなこと言うなんて。確かに最初は、何これ現実世界のパクリでエッセイじゃんと思ったけど良かったと思うよ」

そう言って彼女は、大きなあくびをしながら背伸びをした。

そんな彼女のいつもの仕草にさっきまでの想いは消えていった。

まあ、これでいいんだ…。心の中でそう思い始めていたときだった。

帰る仕度をしていた彼女がポツリと一滴のしずくを落とすかのように言ったのを

僕は聞き逃さなかった。

「でも、ちゃんとラストまで書いてほしかったな。このあと二人がどうなったのか…」

ハッと胸を突かれたような言葉だった。

それを聞いて、僕は決心した。

「ラストは今、決まるよ。恵美、もう薄々気づいてると思うけど俺、恵美のことが好きだ…」

名前のところが違うだけで、小説と同じ文句だった。

「はあ?」また、間の抜けた返事が返ってきた。

「いや、だから…」

「分かってるわよ。でも、これ気づかなかったらどうするつもりだったのよ」

「その時はその時で…」

「もう!紛らわしいことするんだから。男だったらもっとストレートに……ごめん」

「ご、ごめんって、俺じゃ駄目ってこと?」

「ううん、そうじゃなくて私、ちょっと気が強いとこあるから、つい」

「で、返事は?」

「いいわよ」

「ほんと?」

「うん」

「ほんとに本当?」

「何、子どもみたいなこと言ってるのよ。いいって言ったじゃない」

「ありがとう」

そう言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。

今日、会ってから初めての笑顔だった。

いや、もしかするとこんなとびっきりの彼女の笑顔を

僕は一度も見たことなかったかもしれない。

それに気を良くした僕は、

「これから、ご飯食べにいこうよ」と誘ってみた。

「もう、調子に乗って……。いいよ」

最初のデートだ。と思った。

空はすっかり晴れ上がり、夕焼けのオレンジ色に染まっていた。

窓から差し込むオレンジ色の光が、

ほのかに彼女の顔に当たってより一層その面影を美しくさせていた。

僕はそれを見て安心すると、エアコンを消し電気を消し、

すべてを消すと玄関に向かった。

靴を履きながら、またこれからも小説を書こうと思った。

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僕が彼女に伝えたかったこと 春田康吏 @8luta

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