3 感触
タクシーの料金メーターがまた一つ回った。金額を示すところに、三千円を少し超えた金額が表示された。
普段タクシーになど乗ったことがない守は、この料金メーターというものがどうにも落ち着かない。車が進めば進むほど金額が上がっていくわけだが、その金は自分のために上條が使うのだ。少しでも安い金額で留まってほしいと、どうしても思ってしまう。上條ならば、子供はそんなことを気にしないもんだと云うだろうが、気になってしまうものは仕方がないと守は思った。
町田駅から北に三十分ほど車で行くと、緑に囲まれた閑静な住宅街が広がっていた。守も、一度だけ小学校のイベントでこちらの方に来たことがあって、そのときは園内にリスが放し飼いにされている動物公園を訪れている。あの頃はまだ足を怪我する前だったので、同級生たちと一緒にリスを追いかけて、ずいぶんと楽しい一日を過ごしたのを覚えていた。確かあの動物公園は、いま走っている道をもう少し先に行ったところにあったはずだ。
タクシーの後部座席には右に上條、中央が守で、そして左にタイチと呼ばれる男が座った。タイチは二日前に町田駅で初めて会った若者で、口数が少なく、刃物のような緊張感を身にまとった男だった。守も、そんな彼にはどことなく話しかけにくい雰囲気を感じていたが、だからといって怖いという印象は持っていない。上條と一緒に行ったあの薄暗い厨房で、確かにタイチは守をかばったのだ。話こそまだあまりできていないが、怖い人ではないのだと守は思っていた。
あの厨房で鞄を探すと云ってくれた男、確か島岡という男から連絡があったのが、今日の午前中のことだ。正確には、島岡の代理を名乗る人物から、上條の携帯電話に連絡が入った。その人物は、有田祐二という男の名前と住所を上條に告げたらしい。上條と守、それからタイチも、ここ二日間ずっと珠子さんのマンションで寝起きしていたので、この連絡が入った直後にすぐに行動に移り、タクシーに飛び乗ったというわけである。
タクシーは小さな交差点で左折し、街道筋から住宅街の方へと進路を変えた。守がかつて行ったことのあるリス園の手前である。
窓の外に、高級住宅街とまではいかないまでも、それなりに上品な造りの一軒家が建ち並んでいるのが見える。さらにしばらく進んだところで、運転手が前を見たまま上條に云った。
「このあたりですね。どうします?」
上條は窓の外に視線を配らせてから、運転手に言葉を返した。
「じゃあ、ここで止めてください。あとは足で探しますから」
運転手はすぐにウインカーを出して、道路の左側に車を停車させた。
上條が運転手に金を渡すのが見えた。四千円と少しである。守は、また申し訳ない気持ちが湧き上がってくるのを感じたが、できるだけ顔に出さないように努めた。
三人は車から降りると、あたりを見渡してアパートを探した。有田という人物の住所にはゆかり荘とあったので、一軒家やマンションではなくアパートだと思われたからだ。
しばらく三人で住宅街のなかを歩くと、タイチがそれらしい建物を見つけたらしく、上條に知らせてきた。白い外壁の木造アパートで、鉄製の外階段もすべて白い塗料で塗られている。建物自体が相当に古いらしく、瀟洒なデザインが多いこのあたりの一軒家とは微妙に不釣り合いな印象だった。一行がそのアパートに近づいてみると、確かに門扉に貼られたプレートにゆかり荘と書いてあるのが読める。
「ここだな」と上條が云った。彼はジーンズのポケットから住所をメモした紙切れを取り出し、視線を外階段の上に移した。確か、有田祐二の住所はこのアパートの二階、二○一号室だと守は記憶している。
上條が先頭に立ってアパートの二階に上がり、一番手前の部屋の前で止まる。守はドアの横に有田と書かれた表札がかかっているのを見つけた。
ドアの横にあった呼び鈴のスイッチを上條が押した。守には聞き慣れない音が鳴り響く。彼が宇木田と住んでいた家は、お世辞にも高級とは云えない古びたマンションだったが、少なくとも呼び鈴の音はもっと上品だったと守は思った。だからといって、あの家に戻りたいとはこれっぽっちも思ってはいないが。
誰かがドアに近づいてくる音が聞こえてきた。同時に、「誰だよ、まったく」という迷惑そうな男の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。太くて低い声だが、まだ若い感じもする。
タイチが上條の前に立って、自分自身を親指で指さした。上條はそれを見て首をちょっとかしげたが、すぐにタイチにニヤッと笑ったようだった。
ドアが開いた瞬間、タイチがそのドアに手をかけて、勢いを付けて手前に引いた。どうやらチェーンはかかっていなかったらしく、一気に手前にドアが開く。先ほどの男がうわっと声を上げるのが聞こえた。
タイチと上條が素早く部屋のなかになだれ込んだ。守はその場であっけに取られて立ちすくむ。彼の常識では、こんなやり方で人の家に入るなんてあり得ない。守は一瞬どうすればいいのかわからなくなったが、とりあえず通路の左右を見て、誰も自分たちを見ていないのを確認した。そのあとで、すぐに上條たちに続いて部屋のなかに入り、急いで後ろ手でドアを閉めた。
「有田祐二だな?」タイチが、部屋の奥でこちらを見ている男に訊いていた。男は動揺しているらしく、部屋のなかをきょろきょろと見回している。男は二十歳ぐらいで、白のランニングシャツに短パンを履いていた。男の向こう側には、どうやら若い女性がいるらしく、驚いた顔でこちらを見ている。
「お前ら、だ、誰だよ」
「そんなことはどうでもいい。お前の名前は有田祐二だな、と訊いている。答えろ」
男はしばらく黙っていたが、やがてタイチの雰囲気に必死に呑まれないように虚勢を張りながら、大声で答えた。
「おう、俺が有田だ。だったらどうした」
「邪魔するぞ」
タイチはその場で靴を脱ぎ、部屋のなかに入っていった。上條と守も、タイチのあとに続く。
「ちょっと、あんたたち。一体何なのよ」
奥にいた女性が、大声でタイチと上條に叫んだ。彼女は毛布を躰に巻いているが、その下はどうやら服を着ていないらしい。守は、それに気づくと何となく恥ずかしい気持ちになった。
「お姉ちゃんさ。もうちょっと何か着てくれるかい? 子供の前だ」
上條が女性にそう云うと、彼女が守をちらと見て、気まずそうな表情を見せた。毛布のなかでもぞもぞと動き始めたのは、どうやら何かを着ようとしているからなのかもしれない。
いきなり室内まで入り込んできたタイチたちに、有田は落ち着きのない目を向けていた。やがてタイチが話し始めた。
「先月、お前が組に流そうとした商品の話を訊いて、ここに来た。青いスポーツバッグだが」
「組ィ? こっちゃあ磯川組の金山さんにお世話になってんだ。お前ら、知っててやってんだろうな?」
「そいつのことは知らん。興味もない。お前がさばこうとした商品のなかに、青いスポーツバッグがあったと訊いている。どうなんだ?」
「青いバッグ? ああ、あったな。あったらどうだっていうんだ」
「いま、どこにある」
有田は一瞬押し入れの方に視線をちらつかせた。
「買ってくれるんか?」
タイチはまったく表情を変えずに、素早く有田に接近した。
「俺たちは買いに来たんじゃない。受け取りに来たんだ」
「馬鹿云うな、あれは」
突然、風船が割れるような甲高い破裂音が響いた。有田の顔が、一瞬ぶれたように守には見えた。タイチが、右手で有田の頬を張ったのだ。守の頭のなかで頬を張る音が反響し、躰がすくむ。宇木田の顔を思い出した守は、自分が殴られたような錯覚を覚えた。
「おい、聞こえなかったのか。俺たちは受け取りに来ただけだ」
タイチはそのまま動きを止めることなく、有田の腹に膝をめり込ませた。有田は躰をくの字に曲げ、まったく抵抗できずに、その場で両膝をついた。毛布のなかにいた女が短い悲鳴を上げた。
有田は腹を押さえながら、何度か咳き込んでいる。その有田の頭にタイチは手を伸ばし、髪をつかんで立たせようとした。
「タイチ、その辺にしとけ。守がいるんだぞ」上條の声が聞こえた。その声を訊きながら、守はおかしいと思った。躰が自分の意思とは関係なく、痙攣するように震えている。守は必死に抑え込もうとするが、どうしても躰が云うことをきかない。
上條の声が近くで聞こえた。
「大丈夫か、守」
「はい。平気です」
守は、何とか躰の震えを抑え付けて答えた。
タイチは、有田の髪を離して守を見ていた。上條が、タイチから解放された有田に話しかける。
「なあ、有田さん。俺ら、磯川組とも話は付いてるんだよ。しかもたかだかバッグ一個だろ。あんたが意地張るようなもんじゃないし、そんな値打ちもないはずだ」
有田は口のなかを切ったらしく、唇に血が付いていた。右手でその血を拭っている。上條は話を続けた。
「俺たちも話をややこしくする気はない。もちろん、これ以上荒っぽいこともしたくない。もしその青いバッグを渡してくれるなら、すぐに帰るさ」
「祐二ィ、もう渡しちゃいなよ」
女が、有田にティッシュを渡しながら云った。有田はそのティッシュを乱暴に受け取って、口元にあてながら毒づいた。
「うるっせえな。お前は黙ってろよ」
有田はしばし考え込んでから、やがてしぶしぶと押し入れを開けた。
「仕方ねえ。あんなもの、たいして値打ちもねえし」
有田は自分に云い訊かせるように呟きながら、押し入れの扉を開けた。なかには衣類やら段ボール箱やらが所狭しと入っている。守には、そこに入っているものが何なのかほとんどわからなかった。
「あれは、確か町田街道沿いで拾ったんだ。ずいぶんとパトカーが出てる夜だったっけ。そのせいか、金山の兄貴にも引き取れないって云われちまって……これだ。あったぜ」
押し入れの奥から、有田はゴミ用のビニール袋を引きずり出した。なかにはいくつか鞄らしきものが入っているようだが、彼はそのうちの一つを取り出して、守たちに見せた。
「こいつだろ。確認してくれ」
有田は、長さ六十センチほどの青いスポーツバッグを持っていた。それを上條が受け取り、守に差し出す。
「どうだ、守。本物か」
守は、上條の手からバッグを受け取った。見た瞬間からそれが自分の鞄であることに気づいていたが、実際に持ったときの手触りと重さから、遂に手元に帰ってきたという実感が沸き上がってくる。鞄を一度床に置いてから、ジッパーを開けてなかを見た。宇木田と住んでいたマンションから逃げ出すための、数日分の衣類。いまとなっては懐かしさすら覚える母親、静江の写真。
「一応云っておくけどよ。なかに入ってた現金は使っちまったぜ。それも返せとは云わねえよな」
精一杯の虚勢を張っているらしく、有田の声はどことなく上ずっていた。タイチが守に声をかけてきた。
「金はいくらだった」
「二万円でした」
小さく頷いてから、タイチは有田を見て云った。
「返せ」
「そんな、二万ぽっちだぜ」
有田は狼狽して答えたが、タイチの目に睨まれると、仕方ない様子でテーブルに置いてある、革製の長財布を手に取った。
守は、さらに鞄のなかを探してから、サイドポケットのジッパーを開けて、そこに封筒があるのを確認した。机の引き出しの奥から出てきた、静江からの手紙である。
封筒の中身を確認してから、守はもう一度サイドポケットの奥まで手を突っ込んでみた。おかしい。そこにあるべきもう一つのものがない。あれは一体どうしたのか。手のなかにすっぽり収まり、ずっしりとした感触。あれがないと困るのだ。あいつが自分を叩こうとするなら、あれで切り抜けなければならないから。あれって何だ? あれで、宇木田をどうしたっけ。
守のなかで、徐々に一つのイメージが形作られ始めた。手のなかに収まっていたあれ。鋭くて、何でも斬れる。守自身の唯一の牙。
「どうした? 守」上條の声が聞こえた。しかし守は答えない。自分のなかのイメージに集中する。いままで自分のなかで封印してきた映像が、守がかすかに覚えていた鋭いナイフの記憶で呼び覚まされようとしていた。そうだ、ナイフだ。柄の部分に、手によくなじむ木製のプレートがはめ込まれた、折り畳み式のナイフ。守の小さな手でも扱えるほどの大きさだが、その気になれば、大人にだってひどい傷を負わせることぐらいはできる心強い相棒。そのナイフに、白い鳩のイメージが重なった。闇のなかをぼんやりと光りながら、大きな翼を広げた白い鳩。守のナイフは、その白い鳩を鋭く一閃した気がした。
そのとき――唐突に宇木田高雄が現れた。顔面だけでなく躰中が血だらけで、口のなかに何か布のようなものを詰め込まれている。口の端から、血が混じった唾液の泡がかすかにふつふつとわき出ていた。
守は、かつて彼が宇木田と一緒に住んでいたマンションの居間にいた。目の前の椅子に、全身血だらけの宇木田が縛り付けられている。横にもう一人誰かいる気配がしたが、守はそちらを見ることができない。見れば、殺されることがわかっていた。
宇木田は、全身のあらゆる部分から血が吹き出していた。わずかに躰が痙攣さえしているのに、宇木田は朦朧としているような目で守を見て、そして涙を流していた。
守の横に立っていた存在が、一歩前に出た。右手には大きな金槌を持っている。彼は腕を振り上げて、その金槌を宇木田の顎に振り下ろした。鈍い音。さらに血が幾筋か流れ落ちる。それでも、守は目を離すことができない。
彼が、守に話しかけてきた。
「そろそろ、いいと思うんだ。こいつは、もう充分君と同じ目に遭った」
男は、左手に持っていたナイフを守に握らせてきた。「さあ、これで胸を一突きすれば、逝かせてやれる。君のナイフだよ。自らこれをやることで、君は真にこいつから解放される」
守は男に握らされたナイフを見て、急に我に返った。
嫌だ! 人を殺すなんて、絶対に嫌だ!
必死に逃げ出そうとするが、守の足は鉛でも入っているかのようにうまく動かなかった。
「仕方ないな。僕が手伝ってあげる」
男はそう宣言すると、守のナイフを持っている手を取って、強引に宇木田の方に引っ張っていった。
お願い、それだけはやめて! 僕は、人殺しなんてしたくない!
「駄目だ。これは、君が生まれ変わるための、絶対に必要な儀式なんだ」
守の手に掴まされたナイフは、男の強引な力で、ゆっくりと宇木田の胸に近づいていった。やがて鋭い刃が、宇木田の胸にわずかに刺さる感触が守の指先に伝わって来る。
「さあ、ここから力を入れていこう。心配することはない。経験者の僕が云うんだから、間違いない」
守は必死に抵抗するが、男が力を入れる度に、ナイフが少しずつ宇木田の胸に入り込んでいく。宇木田の全身も、それに合わせて痙攣し硬直した。
突然、手に何かが入り込んで来るような感覚を守は感じた。宇木田の胸にはナイフが深々と刺さっているが、その傷口から溢れるように血液が噴き出している。次々と流れ出る血がナイフをつたって守の手にもかかり、やがて彼の右手を真っ赤に染め上げた。
男が、守の手首を掴んでいた手に一層力を入れてきた。ぐいっと、さらに数センチばかり宇木田の胸にナイフが突き刺さっていく。
守は宇木田の顔を見た。すでに原形を留めていないほど潰された宇木田の顔。その目は、さっきまで哀願するように守を見ていたが、いまは黒目がぐるんと上を向いてしまい、ほとんど白目しか見えなくなっている。手元を見ると、宇木田の命そのものといえる赤い液体が、どんどんと流れ出ていた。それは守にとっては生暖かく感じられたが、やがて血液の噴出が唐突に途切れた。そのあとで、守がこれまでに感じたことのない冷たい何かが、ナイフを伝わってやってきた。守は理解した。これこそが死の感触なのだ。自分の手のなかに、宇木田高雄の死が流れ込んでくる。その冷たい感触はあまりにもおぞましく、これまでに味わったことのない絶望感が守の全身を貫いた。
守は、絶叫した。
壁の時計から時を刻む音が響く。
普段はまったく気にならないのに、こうした重苦しい雰囲気のなかでは妙に気になるものだと上條は思った。タイチも同じ気持ちらしい。居心地が悪そうにソファに座っていて、先ほどから貧乏揺すりばかりしている。
有田祐二の家で守が気を失ってから、五時間が経過していた。青いスポーツバッグを見つけて中身を確認しているとき、突然守の様子がおかしくなったのだ。話しかけても返事をせず、まるで白昼夢でも見ているかのように目がうつろになった。一体どうしたことかと、上條が守の肩に手をやろうとした瞬間、守は胸の前で両の拳を握りしめて、振り絞るような叫び声を上げ気を失った。
その後、慌てて救急車を呼ぼうとした有田の彼女を止めつつ、失神した守をタイチと二人でアパートから担ぎ出し、タクシーで町田の珠子のマンションまで連れて帰ってきたというわけである。
守は、町田に向かうタクシーのなかで我に返った。上條は守に話しかけてみたが、彼は血走った目で上條を見るだけで、何も云わなかった。ただぽろぽろと涙を流し、両手に顔をうずめて嗚咽を漏らすだけだった。
そのとき上條は、激しく慟哭する守の姿がとても十歳の子供には見えないと感じた。大人でも、これほどの深い衝撃を受けた様を見せることはそうないだろう。
上條は、守があの夜のことを思い出してしまったのだと確信していた。宇木田高雄という男が何者かに殺された夜、守は自らの記憶を封じ込めるほどの経験をしたはずなのだ。それがあのスポーツバッグを取り戻すことで一気に記憶が蘇ってしまった。止まっていた時間が再び動き出したことで、守はその記憶に立ち向かっていかなければならない。守にいま一番必要なのは、自分自身と折り合いを付けるための時間なのかもしれないと、上條は思った。
リビングに珠子が入ってきた。手には青いスポーツバッグを持っている。彼女の表情はこわばっていて、少し青ざめていた。
「どうだ。落ち着いたか」
「うん。泣き疲れて寝ちゃったみたい」
珠子の顔にも、よく見れば涙のあとがついていた。珠子も苦しんでいる守を見るのは、相当辛かったのだろう。
「これ」珠子は上條にバッグを渡した。
「寝るまでずっと抱えてたよ。起きる前に戻しておかないと」
「そうだな」上條はバッグを受け取ると、ジッパーを開けて中身を見た。
「いいの、そんなことして」
上條は珠子の問いには答えず、スポーツバッグのなかに手を入れて、何が入っているのかを確認した。ほとんど衣類だったが、女の写真を一枚見つけた。これが守の母親、高遠静江だろう。
サイドポケットには一通の手紙が入っていた。守が母親からもらった手紙。ここに書いてある住所に、静江が住んでいるはずなのだ。上條は、手紙のなかに書いてあった住所を、メモ帳に書き写しながら云った。
「そろそろ帰るか? タイチ。これで仕事は終わったんだろう」
タイチは、守の寝ている部屋の方を見ていた。少し間を開けてから、上條を見ずに云った。
「これからどうする?」彼は相変わらずの無表情に見えたが、何かを気にしているようでもある。
上條はメモを終えると、手紙を封筒に戻して、バッグのなかにしまった。
「お前、守のことはどれぐらいわかった」
「殺しの現場から逃げた子だ」
「まあ、磯川組の島岡もそう云ってたしな。あいつは児童相談所から脱走して、母親を探してるんだ。俺はその手助けをしている」
「そうか」
「今後は、そうだな。守の母親に会いに行くだろうな」
「では、俺も行く」タイチは、当たり前のような口調で云った。
「お前も?」
「仕事のあと、どこに行こうと俺の勝手だ」
大まじめで云っているらしく、タイチの顔は真剣そのものだった。上條はタイチがどの程度本気なのかを探ろうとしたが、言葉を出しかけてからやめた。まあ、いいだろうと思う。こいつもきりのいいところまでは見届けたいのだろう。
「じゃあまあ、勝手にしろ。珠子、これ戻しといてやってくれ」
上條がスポーツバッグを珠子に手渡そうとした――と、そのとき。スポーツバッグに付いている肩かけベルトに、上條は染みのようなものを発見した。青いベルトの真ん中あたりに、黒っぽい染みが帯状に三本ついている。
珠子が、急に動きを止めた上條に気づいて近づいてきた。
「どうしたの?」
上條は、三本の帯になっている染みに、自分の指を合わせてみた。帯の部分が指の太さとぴったり合う。大人がベルトの部分を握りしめるように掴めば、こういう痕がつくようだ。ただし、血のようなものが付いた手で握れば、だが。
上條はしばし考え込んでから、珠子に云った。
「珠子、明日守を連れて児童相談所に行け」
「ええ? どうして?」
「どうしてもだ。守には俺から話す」
「でも、あんな状態だから」
「あんな状態だからこそだ。俺たちでは手に負えないかもしれない。守には医者が必要だと思う」
珠子は、それを訊いて黙ってしまった。目に険悪な光がのぞいているところを見ると、決して納得はしていないようだ。
「いいか、守にはいつでも会える。寂しいのはわかるが、俺たちの感情より、あいつのこれからのことを考えてやれ。ここにいても、あいつのためにはならないぞ」
上條の言葉を訊いて「でも」と云いかけた珠子は、一瞬タイチを見てため息をついた。何故かタイチがニヤッと笑ったようだった。
「確かにね。こんなのがうろうろしてるようじゃ、将来が心配になるわ。わかった。じゃあ今日はゆっくり休ませてあげて」
上條は、珠子のその言葉に頷くと、スポーツバッグのベルトに付いている染みを見つめながら思った。これは、おそらく徳島の仕事に関係しているはずだ。彼にこのことを伝えなければと思う反面、心配にもなる。いま目の前にあるスポーツバッグが警察に渡れば、徳島の捜査は大きく前進するかもしれない。しかし、果たしてそれが守にとって最良の未来につながるのであろうか。
わからない、と上條は思った。彼は、せめて今晩だけは守が安らかに眠れるようにと心から祈った。
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