天命の書板2

佐伯庸介

第1話 プロローグ


 神は眠りが好きである。


 朝――というにはもう遅い。太陽は高く上り、あと1時間もすれば頂点に達するかというような頃合いである。

「ぐう……ぷすー……」

 豪奢な天蓋付きベッドの上で、一人の青年が寝息を立てている。

 火のように赤い髪を垂らした青年である。気品も窺えるが、線が細いわけではなく端正というよりは精悍な顔つきだ。……大口を開けて涎を垂らしてさえいなければ。

「……む」

 青年がうっすらと目を開けた。窓から差し込む日の光で時刻を推定する。

「まだ――行けぷわっ」

「いけません」

 その顔へ数枚の衣類が投げつけられた。

「主上。今日は朝から動くとあんなに仰っていたでしょう。いい加減起きてください。あなたの言葉が撤回されることの無いように」

 青年はのっそりと身を起こして声の主を見る。

 美しい銀髪が一際目立つ、洗濯かごを持ちメイド服を着た女性である。年の頃は20そこそこか。目を細めて青年を見ている。――もっとも、その理由は慈しみなどではなく呆れであるようだが。

「――シルシュよ」

 もそもそと服を着込みながら、主上と呼ばれた青年は問いかける。

「何というか汝な、己の主に対する尊敬が足らぬのではないかな?」

「この上ないほど尊敬致しておりますよ。そうでなければとうの昔に主上を置いて荷物まとめて郷里に帰っております」

「ぐむう……」

 黙り込んで、青年は諦めたのかベッドから這い出る。

「まだ午前中だし……嘘じゃないし……」

「あと40分もすれば嘘になりますよ。とっとと顔洗ってきてくださいまし」

 ち、と舌打ちして青年が立ち上がり、背筋を伸ばす。

 立派な体格である。背丈は190cmはあるだろうか。シルシュと呼ばれた女性も背は高い方だが、流石に彼と比較すると頭1つ分違う。

 足を踏み出せば、彼の周囲の風が揺らいだ。口の端から漏れる力強い吐息には、炎がちらつくようにすら見えた。

「では、腹ごしらえをしたら向かうとするか」

 東の方角に設えられた窓から顔を出し、彼方を見やる。その目には、はるか数千kmの彼方にあるものまで見えているかのようだ。

「日本なる極東の国、深き霧の名を冠する島。我らが母がおわす、あの島へ」

「は。委細準備は出来ております――」

 頭を下げ、道を開けながらシルシュが答える。そして、

「光り輝く偉大なる天命の主。マルドゥク様」

 噛みしめるように、己が主の聖名を口にした。

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