恋愛録
藍雨
作家と担当編集の場合
「さてさて先生、開けますよ~」
「嫌だぁ!!!!!!」
逃げ果せたと思ったのに……。
カチャリ、扉の開く音。
その音に続き、鬼の形相の担当編集が部屋に入ってきた……。
○
「やめてくれ頼む、まだ締め切りまで三時間残ってるだろ‼︎」
「嫌ですよ」
にこりと笑う口元。目が笑っていないぞ、目が‼︎
「管理人さんに伺ったんですよ、大音量の音楽が聞こえると。先生は静かな環境でしか書けませんよね?」
「少し、少しだ、息抜きにでもと……」
「しかも、バリバリのロックだそうで。先生は追い込まれたらロックに逃げますもんねぇ」
ジリジリと距離が縮む。途中でちゃっかり音楽を止められてしまった。不覚。
「落ち着け、全く書いていないというわけではないんだ、なんとかなる……」
「なりませんよ、なんですかこの書いたとはお世辞にも言えないようなテキストは」
あぁ、詰みだ……。パソコンを閉じておけばよかった、なんて後悔ももう、後の祭り。
あの管理人は、どうしてこう口が軽いんだ。さては編集に買収されたな……。
「大体、ここはすでにマーク済みですよ。馬鹿ですか」
追い打ちをかけられ、返す言葉をなくす。私の負けだな……。
「分かったよ白状するよ、全く書けてないんだよ‼︎」
「開き直っても無駄ですよ?」
「無駄だねぇ、分かってるけどねぇ」
「……先生、話の筋は決まったと言ってましたよね?」
「決まったんだけどねぇ、なんだかねぇ」
「……ご飯抜きにしますよ」
「あっ、それだけは駄目だ‼︎」
「じゃあ書いてください」
冷ややかに笑う担当編集。怖いってば……。
「手が止まっちゃうんだよ、恋愛モノは経験が少ないから。いい大人がこんな小っ恥ずかしいこと書いていいのか、とか」
「それ、俺に言っちゃう?」
口調と雰囲気と一人称が変わる。俺、に変わる時の怒り度は、もう、もう、
「ごめん悪かった‼︎私たちだって小っ恥ずかしいことするよな‼︎」
「……いやそれ、すんごい恥ずかしいからやめてよ」
はぁぁぁぁ、と深い溜息をついて、その場にしゃがみ込んだのは、もう担当編集ではなく私の彼氏だった。
「……ごめんって」
私も椅子から降りて、彼のそばにしゃがむ。
「……反省した?」
「したよ、ってか、してるから。そんな落ちるなよ」
「じゃあ書いてくださいね‼︎」
……っ、騙されたぁ!!!!!!
「ちょ、お前、さっきのアレは演技だったのか⁉︎演技派なのか⁉︎すごいけど怖いぞ‼︎」
「演技じゃないけど?」
あぁ駄目だ、そんなにころころキャラを変えられたらついて行けないじゃないか。それに……
「……可愛いなぁ。書くよ書く書く。まぁでも、締め切り伸ばしてもらえると嬉しいなぁなんて……っ⁉︎」
塞がれる。言葉を止められ、息も止まる。
「俺を子供扱いして、いい度胸してるね」
触れそうな距離で囁かれる。ごめん、と言う前にまた塞がれる。
仕事中だぞ、なんて、雰囲気を壊すようなことはさすがに言えず、大人しくしておく。
––––––––小っ恥ずかしくても、恋をしていたらいつのまにかそれすら愛しく感じる。
いい大人が、なんて言い訳を使った自分が考えるようなことではないが、そんな風に思った。
そっと離れる。書くよ、と言うと、彼は満面の笑みで待ってましたといつの間にか掴まれていた手を離した。
「じゃあ残り一時間で書いてくださいね~」
担当編集はさらっとそう言い残し、玄関の方へ歩き出した。
「分かったよ、ってちょっと待てい‼︎」
「さっきのは明らかなルール違反ですからね、それぐらいいいじゃないですか」
『仕事中は彼氏彼女みたいなことは言わないしない』
「いや先に言ったのはお前だろ‼︎」
「はて、なんのことやら。身に覚えがありませんなぁ」
「くっそ、ハメやがったな‼︎ってかなんで一時間なんだよ‼︎」
「修正やらなんやら必要でしょうし、それに、そう言った方がやる気も出るのでは?」
「……やり手だねぇ」
「光栄です。それでは一時間後に来ますからね~」
出て行った担当編集の後ろ姿をぼんやりと眺める。
付き合っていた彼がまさか自分の担当に回って来るなんて思わず。
前のベテラン編集より厳しい担当編集に、さらに惚れてしまうなんて思わず。
そんな予定外も、案外嬉しいものだなんて知らず。
「……ルールなんて、私には守れそうにないぞ」
さっきの彼の様子を思い出しながら、それを言うのはもう少し先にしよう、なんて。
ルール違反を犯す彼がどうしようもなく可愛く思えるのは、私の歳の所為か。
「……書くか」
呟きが静かになった部屋に溶け、空気が私を作家に引き戻した。
−作家と担当編集の場合 fin.
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