暦物語の山
鹿爪 拓
桜吹雪 2014.弥生。21 春分の日、宛
桜吹雪
ふと日付を見て、私の高校で細々と伝わっている話を思い出した。特に何が心に引っ掛かったのかはわからない。だが、高校入学から卒業まで、ほぼ毎日を学校の図書委員として、放課後は決まって椅子にもたれて暇を持て余していたものだから、その時に聞いたこの話も、いい時間潰しだと感じた。
背の高い本棚のどこからか発され、静かな空間を飛んで私の耳に入ってきたのを覚えている。退屈しのぎにしては悪くない程度に、興味深かった。もうあれから何年もたった現在、そんな話を拾い聞きしたところで
ただの与太話だと話半分に聞き流して終わりにしているだろう。
一日目
金曜日の春分の日のことである。主人公は三年生の女子。名前を
時期は既に大学受験も終わりに近い、春も後半に入った頃のことである。後期試験に向け、勉強に最後の
だが、祐佳はどちらにも振り分けることはできなかった。図書委員として来訪の減った学校図書館の受付を毎日一人でこなしていた。
その祐佳が私の母校で過ごした、最後の春分の日。もし私の記憶が違っていなければ、それは2014年現在から逆算して12年前、つまり2002年のことである。
彼女の通っていた高校は、六大学に受かる人間も少ない癖に大学進学には熱心であり(私が通っていた4年前でもそれは変わっていなかった)、その日も「春分の日は祝日だが『金曜』である」という事で、図書館はこの3連休を正午から普段の学校の閉館時刻まで開館していた。
祐佳は自分の受験は終えていたものの、残り少ない勤めであるとして学校へ行き、書物の小城とその城主であるかのように、日が暮れ始めた閉館時刻までカウンターで
校内放送が帰宅を勧め、図書館内の人が出きったのを見届け、彼女もさあ帰ろうと荷物をまとめて校門を出た時の事だった。
校門前にはのっぺりと広がる池があった。地元では名所として知られるこの池も日が暮れ、濃い藍色が差していた。池の周りは桜を並木にした道が囲んでいる。その年は暖冬で、春も暖まるのが例年より早かったせいか、ところどころに立つ電灯の下で、その花が桃色に
祐佳はまっすぐ帰るつもりだったが、わざわざ休日に登校したのだからという考えもあったのだろう。池を一周廻ってみることにした。
ちょうど彼女がまた校門の前にたどり着こうとした時のことである。池の
祐佳が関わらずにすれ違おうと彼に近づいていくと、男子生徒が普通でない状態であることがわかってきた。男子学生が何をしていたのかというと、彼はカメラのファインダーを覗きながらもそうでない方の目も開き、何の音もなしに涙を流したまま、シャッターを切っていたのだった。
彼との距離が詰められていくほど細やかに見えてくるそれは、奇妙に見えながらも、なぜか薄闇の中では神秘的に、美しく感じられたのだった。
「そんなに感動するほど綺麗かなぁ」
と祐佳は考えるでもなく考えながらひとりごちた。彼に聞かせようという気はなかったものの、聞こえてしまったらしい。もうその時には彼とは数メートルも離れていなかったためか、男子学生はファインダーから目を離し、彼女に向けて涙を流したままで言った。
「佐藤さん、僕は別に桜が綺麗だから泣いてるんじゃない」
彼女は間近になったその顔を見て、彼が同学年の
「自分が余りにも無価値で、余りにも迷惑な存在だってことを、短い命ながらに皆に必要とされる、桜に改めて思い知らされたから泣いてるんだ」
修二の声は落ち着いていて、泣きながらに出す声とは無縁な、通常である時と何も変わったところのない調子だった。そうして棒立ちになった彼は図書館で祐佳が見ていたように骨太で、初めて彼を見た人間ならばまず間違いなく体育会系だろうと思われるような体格をしていた。
突然そんな外見の彼が泣いているところを見てしまい、歎きを聴いた祐佳は、とっさに修二を慰めようとした。ほかにどう対応しろというのか。
「そんなことない。河浜君にだって長所はあるよ」
が、彼にその言葉は通じなかった。修二は俯いて首を横に振り、祐佳に質問をした。
「佐藤さん、ここ最近僕は図書館に行ってないね?」
「……うん」
そう。修二は常に少なくとも2日に一度は必ず放課後の学校図書館に顔を出し、借りた本を返してまた別に本を借りていくのが通例になっていた。が、ここ2週間は全く図書館に来ないどころか、学校でもどこにいるのかがわからなくなってしまっていた。
「僕はね、佐藤さん。停学中なんだよ、自宅謹慎3週間。それも2回目」
「えっ」
突然のことで祐佳は驚いてしまった。そして単純に彼のことを疑問に思った。修二は制服の第一ボタンすら外さず、物静かな人間であるという印象があったからだった。それは学校の司書教諭も、よく彼を見かけているが故に、時折話題にしては彼のことを「いまどき珍しい」と言い、自分の息子と比較しては褒めちぎっていた。
「なんで? 河浜君は真面目で通ってたし、それに2回目って……なんで?」
修二は苦笑交じりに頭の後ろを掻き、ようやく顔を伝って跡になっていた涙を痒そうに袖で拭いた。
「なんでって、簡単さ。僕には取り柄がない。確かに僕自身に害はないし、人にも害は加えない。でも、無いのはそれだけじゃないんだ。小学生の時は虐められてたから、多少は誰かのストレス発散の道具として役に立てていたかもしれないけど、中学・高校は誰の役にも立てなかった。手伝ってくれと言われても人並み以上のことはできない。自分の生きがいとなるものも見出せない。
かといって、その代わりとなりそうな、独自の行動指針もない。自分の全部が無い無い尽くしで、そのうち自分の価値も希薄であることにも気付いた。気付いてしまったんだ。
だとしたら僕は何だ? ってことになるじゃないか。いろんなことを考えても、やっぱり結論は『自分自身に価値はない』ってことの一点に集中しちゃうんだよ。おまけに僕は自宅に部屋を割り当ててもらってるから、冷房も暖房も、僕の分だけ余計に費用がかさむ。ただの穀潰しよりタチが悪い。ってことで、こういうものを思いついたんだ」
そう言って話すのを中断し、修二は学生カバンの中を軽く漁って煙草の箱を出し、1本を引き抜いた。
「河浜君って、不良だったの?」
祐佳はそう切り出すのがやっとだった。修二の話の意味が分からなかったからではない。むしろその逆であり、全て自分も経験したことのある心が痛む要素であり、彼女には修二のそこかしこでその要素が癒着して悪化の一途をたどっているように見えた。文系の自分は耐えられているのに、外見こそ強く見える彼の心は案外に弱かったのだろうか?
「さあね、僕は自分のことは無い無い尽くしってことの他はよくわからないから、なんて言ったらいいかわからないや。
ただ、僕が生きていると、誰にだって迷惑をかけてしまう。ゆるやかな自殺くらいしか、取れる対処が無い。……これも『無い』だね」
そう彼が言ったとき、校舎の方から車のエンジン音が聞こえだした。
「あ、河浜君、停学中ならとりあえず帰らないと」
言ったときには既に修二は煙草の箱をしまいこみ、小走りで遠ざかりつつあった。彼は街道に続く沿線への道とは逆まわりに迂回するつもりらしい。彼は振り返って祐佳にぎりぎり聞こえるほどの音量で彼女に声をかけた。
「変なところ見せた上に、話まで付き合ってくれてありがとう」
そう言ってまた姿勢を戻して、修二は迂回した方向にある里山に入る細い坂道に入り、消えていった。山の裏手には自然公園や墓地があり、入り組んだ山道をたどればつながる道路には十分な選択肢もある。自転車や、禁止されている自動二輪などの乗り物を隠すのには絶好の場所なのは、学生の間では常識だった。
祐佳は彼の姿が見えなくなるまで目で追い、自分はもう少し桜を見てから帰ろうと思い立った。そして修二が写真を撮っていたあたりに移動して、彼と同じように桜を見ようとすると、上を見たときに立ちくらみを起こしてしまった。立っていると倒れそうなほどに視界が揺らぎ、そのまま目を閉じてしゃがみ、十分な時間を待つことにした。
頭を垂れたままにして十数秒は経っただろうか、目を開けるとちょうど両つま先の間に先ほど修二が箱から抜いた1本の煙草がそのままの形で落ちていた。祐佳はそれを拾い上げ、いったい何を思ったか、制服の胸ポケットにティッシュで包んで持ち帰ることにしたのだった。
二日目
同様に放課後までの時間は過ぎることとなった。しかし祐佳は日常的にこなす全てにおいて緊張していた。理由は言うまでもない、胸のポケットに入れたままにしてしまった煙草のことである。
幸いポケットは深さがあったため、そう簡単に落ちることもなく、ただ椅子に座って返却された本を元の棚に戻したり、貸し出しの作業でカードに学校の判を
そういうわけで特に支障があることもなく終業のチャイムが鳴り、図書館を閉めたときのことだった。後ろから突然手が伸び、制服ブレザーの胸ポケットからティッシュが引き抜かれた。
「ゴミくらいさっさと捨てればよかろう」
後ろを振り向くと、見知らぬ女の教師が立っていた。そして、ティッシュから煙草が滑り落ち、床を叩いた。教師はそれに気づいて煙草を拾い上げ、
「職員室へ」
と、言うなり彼女を引きずるようにして大股で無人の廊下を進んでいった。祐佳は何も考えることはできなくなっていた。ただ「どうしよう」という単語が頭の中で
ここまでが、少女祐佳にまつわる話である。ここから物語は少年修二に物語の主軸は移る。そしてスピードを増して一気にエンディングへと転がり込む。
それの30分ほど過ぎた時間に、またカメラを持って桜の木を一本ずつ回っては、何かの役に立つものに奉仕しているつもりで写真を撮り続けている修二の姿があった。
前日に祐佳と会ったあたりで、カメラを持って桜を観察していると、怒鳴り声が彼の耳に入ってきた。
「これだけ綺麗な煙草が落ちてたなんて嘘が通るか! 誰からもらった! ……河浜か!」
修二は教師という人種を毛嫌いしていた。存在する意味のない自分を、さらに無意味な人間にしようとしているように彼の目には見えたからだ。そして、それよりも許せなく思っていたのが、意味のある人間を、意味のない人間へと作り変えるのが教師の重要な役目であると信じて疑わなかったからだった。
そして、今しがた聞こえた怒号で誰が教師から被害を被っているのかを彼は理解してしまった。そしてすぐに前日の行動を振り返り、カバンの中にある煙草の本数を確認して、奇数本残っていることを4度も数え直して受け入れた。彼の喫煙は偶数本と決めていたので、彼は祐佳が自分の落とした未着火の煙草によって教師に虐げられているというもまた察した。
「今日が僕の死ぬ日でしたか、そうですか」
修二はため息交じりにそんなことを言い、いつも鞄に忍ばせていた折りたたみのナイフをズボンのポケットに入れると、自分も受けた精神的拷問の屈辱をも晴らすべく、3階にある会議室へと土足のまま足を駆った。
学年主任や担任など、暇があり関わりのある教師の会議室に激しいノック音が響いた。
ひとりの教師が誰なのか確認するためにドアへ到達するよりもはるかに早く蹴破られ、鬼の形相をした河浜修二が入ってきた。住んでいる世界が違うような空気さえ漂わせて、入り口に最も近い席に座り、祐佳と話していた生徒指導担当を睨み、しかし素通りして会議室の中央で仁王立ちになった。
誰の声を待つこともなく、豹変した修二はまずこう言った。
「その煙草は僕が無理やり持たせた」
そしてその言葉を生徒指導・体育教師は信用したらしく、息を合わせて修二にとびかかろうとした。が、そこで修二はポケットに入ったサバイバルナイフを取り、刃を起こした。どこからか声が聞こえた。誰が言ったかは彼にとってどうでもよかった。
「そんなことをしたところで何になる? 河浜」
そして修二は即答し、そのまま続けた。
「何にもならない。価値ある人間、佐藤祐佳を解放しろ」
教師は言われるまでもなく、危険な対象から祐佳を引き離すため会議室の外へ連れ出していた。
「僕は教師が嫌いだ。そしてそれ以上に役立たずの自分が嫌いだ。僕がこうしたことは、精神鑑定の職に就く人と、僕の考えを聞いた佐藤祐佳に任せ、僕はここで散る。僕の目的はただ一つ。ここで死に、お前たち教師に『大人しい生徒ほど注意しろ・生徒を理解しないと、その不満は必ず爆発する・本物の教師は賢者・学者・適度に変人である者以外はなることができない』という教示を強いインパクトを持って伝える。それができれば十分だ」
そう言い切るとナイフの刃を縦に持って、ナイフを持たない腕を振り下ろし手首の下あたりに刃を貫通させ、そのまま切り下せるところまで一気に切り下ろし、前腕の肉をほぼ二分した形にした。残った片方の腕でナイフを引き抜き、机の外側に刃がせり出すように置いた。持ち柄を踏み、同じように腕をナイフの先めがけて押し込んで貫通させ、前腕を縦に分断した。
そうして血の流れる腕を作り出した修二は狂って走り回り、腕を振り回し四方八方に己の血を飛ばし、元からそうであったかのような赤黒い水玉模様を桜吹雪のように壁中にペイントした。そして壁と同じ水玉に染まった生徒指導・体育教師・クラス担任・その他数名の教師を精神病棟に送る運命をその血と共に塗り付けた。
パトカーと救急車が来ても修二は猛興奮状態であり、やっとのことで乗せられた。しかし最短距離の病院でさえも時間は間に合わず、鎮静剤を打たれた後は失血であっけなくこの世を去った。ひとつ「これで役に立てたのかもしれない」と遺言を残して。
この可哀想な、精神が崩壊してしまった男の話を、時折思い出す。そして、この話には付け合わせがある。
不思議なことにその件以降、時折目がつりあがり、眉間の皺が何重にもなった幽霊だか妖怪だかが春になると人の前に姿を現すという。そして現れては何もせず、ただうろつきまわって消える。という怪現象が深夜の地元・近隣市町村の高校の界隈で出現する。という話がお決まりの怪談のようにになっており、目撃者や撮影された写真も絶えないという事である。未だ被害者はゼロであるどころか、近づいて触れることができた者や会話にせいこうした者は成績が少なからず上がるという話もあり、それならば是非出会ってその恩恵にあずかりたいとさえ思ってしまう。
※出会える範囲は年々広がってきているそうで、条件としては人気が少ないこと・桜吹雪が起きるような風の強い日であること・街灯があり、新月の夜であることだそう。
祐佳については言い伝えが錯綜しており、医者になった・錯乱して自殺した・教師になった等々と諸説どころの騒ぎではなくなっており、ここは読者の皆様に何を信じるも新しい推察をするもお任せすることとさせていただきます。
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