赤い山脈 蒼の王国
木葉
第1章
暴君と王妃候補 1
いつもは思い切り無視をしている終業のベルがなるやいなや、私は荷物をまとめて、同僚に挨拶をして軽い足取りで執務室を出た。やったー、残業なし!
フェディオン王国王宮女官の私は、王宮の西側に位置する省庁に勤務している。早くも五年が経ち、それなりに役に立っているかなというところ。執務室は三階なんだけど、王都自体が高台に立っているので遠くまでよく見渡せる。回廊の窓から見える山々は暗闇に侵食されつつも、山の端は茜色に輝いて感動的だった。
今日は早く帰って、ゆっくりお風呂に入ろうとルンルン気分で歩いていると、反対側から中年女性が小走りに駆け寄ってきた。
「シャイラ・ミランドさんね? お時間よろしいですか?」
女性は名簿のようなものを抱えて、私の顔と名簿を見比べながら訊いた。
「え、はい、そうですが。何か……?」
「あなたの上司には了解をもらってるから。一緒に来てください。大事な、大事なお話があります」
えー、ちょっと待ってよ、私の大事な休息時間が……。文句を言いたかったが、なんとなくただごとではないような雰囲気を感じ取った私は渋々、女性の後をついていった。
「私は筆頭侍女のサランと申します」
個室に連れて行かれ、二人とも席につくと女性はようやく名乗った。筆頭侍女というのは、国王の私生活を管理する重要な役職で、それなりに力を持っている。私は女官だけど、国の政策という公的な仕事にしか関与していないから、実は侍女たちとの関わりはほとんどない。
怪訝な顔をしていると、サランは呼吸を整えてから切り出した。
「単刀直入に言います。五日後、あなたには国王の夜のお相手を務めていただきます」
「…………。…………。はっ? い、今、何て?」
とんでもない言葉を耳にした気がするけど、気のせいだろうか。混乱しながらサランを見つめ返すと、サランは優しく微笑んでもう一度同じ言葉を告げた。
「どういう罰ですか!? 私、勤務態度は悪くありません! 何か問題があるなら、地方に左遷するなりしてください。酷いですよ、夜の相手だなんて! だって、相手はあの、あの――」
「暴君と噂される御方ではありますが、もう、頼りになるのはあなたしかいないのですよ、シャイラさん。陛下とは年もそれほど離れていないでしょう?」
今度はサランが懇願するような目で私を見てくる。私は蒼白になって項垂れた。
我が国王カルダーン三世は、半年前に崩御した先王の第四子だ。先王がなぜ長子たちを後継者に指名しなかったのかはよくわからない。私たち臣下も国民も、てっきり長子が即位されるのだと思っていた。
国王の第四子なんて誰もそんなに気にしていなかったから、カルダーン三世がどういう人物なのか、きちんと知っている閣僚はいないし、ましてや私たち臣下には噂しか入ってこない。で、その噂が暴君である。
例えば、即位して数ヶ月で評判の良かった国土整備大臣を解任し、無名の学者を就任させている。そういえば、近衛隊の指揮にも口を出して、隊長と喧嘩をしたらしい。それから、聞いた話によると、夜の相手として送り込まれる貴族の娘たちを、何が気に入らないのかことごとく追い払い、今まで朝まで共に過ごした相手がいないということだ。ある娘なんか、夜中に泣きながら国王の寝室から出てきたそうだ。
こんな調子なので、一向に王妃候補が見つからない。そこで、私に白羽の矢が立ったらしい。
「これまで、国でも屈指の美女たちを送り込んだのに、ダメだったんですよね? だったら、ただの女官の私なんて、尚更、分が悪いですよ!」
私は抵抗した。常日頃から王妃の座を狙って、女を磨くことに余念がなかった貴族の娘たちと比べたら、私など足元にも及ばない。私が専念してきたのはどちらかと言うと、学問や実用的な生活技術で、時々、残業で徹夜することもあるし、化粧や身なりはもはや最低限にしか整えられていない。
「貴族の娘が有効でないなら、女官の中で美しい者を、ということにしました。ちなみに、国王は男色を否定しておられます」
サランは最後の言葉で私の逃げ道を塞ぎ、名誉なことじゃないですか、選ばれたくても選ばれない女官はたくさんいます、ととどめを刺してきた。
なんだかだんだん腹が立ってきた私は、国王に気に入られる筋合いはないから、ぎゃふんと言わせてやると思うようになり、サランに引き受けるための条件を言ってみた。
「とりあえず、引き受けるための報酬を約束してください。それから、もし万が一、国王が私を気に入ったら、ミランド家の格を上げてください。それくらいは親孝行したいですから」
「まあまあ、随分と挑戦的なお嬢さんだこと。でも、仕方ありません。大仕事の対価は払われなければね」
サランは呆れていたけれど、私の心情を酌んで条件を受け入れてくれた。
それからの数日間は目まぐるしかった。ろくに肌の手入れなんかしてなかったものだから、これはマズいということになり、勤務時間を短縮して、全身の手入れや衣装選びに一日の大半が費やされた。
宮廷の美容の専門家たちが、数人がかりで私を俄仕立ての美女に仕上げていく。
「ほらぁ、ちゃんとお手入れすると、あなたもこんなに綺麗になるのよぉ」
男か女か判別できない中性的な専門家が私の髪の毛に海藻のクリームを塗りたくって、微笑んだ。まぁ、確かにこうやって綺麗にしてもらうのは気持ちいいな。でも、暴君のためだなんて、最悪。
サランからは、夜に侍ることの意味をとくとくと説かれた。
残念ながら、私はまともに付き合ったことのある男性はいない。何人か交際を申し込んできた人はいたけど、仕事が忙しいとかくだらない理由でお断りしたり、逃げていた。今となっては、ちょっとくらい経験しておけばよかったと後悔している。
「そういうことなら、黙って国王のなすがままにされなさい」
私の恋愛経験値がほぼゼロということを知ったサランが、そう言った。
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