新妻社長秘書 あやか

ちなみ

第1話 それは、火花みたいな恋で


ねっとりと自分の汗が身体に絡みつくのを感じる。

つつーと、着慣れぬスーツの中を汗がつたる音が聞こえる気すらした。

まだ空調を入れていない社内は、夜の空気を残したままに静謐でそして蒸し暑い。

ガーッガーッガーッと無機質なシュレッダーの音だけが響き渡る。

今日から私は社長秘書になったのだ。


 あやかはこの会社には中途採用で入ったばかりであった。

もちろん、秘書として入ったわけではない。簡単なアシスタント業務をする、という名目で入った。

しかし、人事異動のPDFをクリックすると自分の名前の肩書には「社長秘書」とあったのだ。

「広義にはアシスタント業務だから」「秘書といっても簡単な仕事だよ」「シュレッダーをかけるのと電気をつけるだけだよ」

などと言われ、社長秘書になることを不承不承了解した。


ひたすら書類をシュレッダーにかけながら、ふぅと息をついてシュレッダーのスタートボタンを押す自分の指をあやかは見つめた。

左手の薬指、もらったばかりの指輪が光る。


あやかは結婚したばかりの相手を想った。

「良介…今何してるかな…」


あやかの結婚相手、良介は高校の先生をしている。部活の顧問もしているため、朝は早く帰りはとても遅い。

良介からプロポーズされた時は世界で1番幸せだったし、2人で住み始めたらもっと良介と一緒に過ごせると思っていた。

けれども実際は、良介は平日は朝早く夜遅い。たまに早く帰ってもプリントの作成や研究授業の準備などをしていて、あやかが想像していた新婚ならではの甘やかな時間を過ごすことはなかった。

正直、不満がないと言えば嘘になる。

けれども、この指輪を見つめている間はそんな不満などないかのように幸せな気持ちになれるのだ。

エタンセル ドゥ カルティエーーー

『エタンセルは、フランス語で「火花」の意味だよ、俺たちも火花みたいな恋をずっとしていこう』

そう良介が言ってくれたのをまるで昨日のようにいつでも思い出せる。

こんなにすれ違いの日々でも、良介はいまも火花みたいな恋だと思っているのかしら…ふとあやか自身によぎる不吉な想いを振り払おうとした時ちょうど声がかけられた。


「おはよう、あやかちゃん!今日も早いね!」

「おはようございます、絵麻さん」

絵麻さんはあやかに秘書業務を教えてくれる先輩社員だ。子持ちで、あやかに優しく何でも教えてくれる。慣れない秘書業務で緊張しっぱなしの日々の中で、絵麻さんと過ごす時間がホッとする時間だった。

「ついに今日社長と会えるね!」

絵麻さんがニッコリ笑う。

そうなのだ。

社長秘書と言いながら、社長自身が忙しくあやかはまだ社長と会えていなかった。勿論、写真では見たことがあるが、どれも形式ばっていて嘘くさいものだった。


「社長もそろそろ出社すると思うから、あやかちゃん、悪いんだけどシュレッダー終わったら社長のコーヒーを入れてくれる?豆の場所はこの前教えたからわかるよね?」

「はい。まかせてください、絵麻さん」


コーヒーはお気に入りの豆をハンドドリップでしか飲まない社長のために、あやかはバルミューダの電気ケトルのスイッチを入れに、給湯室に向かった。

スイッチを入れたその時だった。

「ちょうどよかった。俺の分のコーヒーもいれてくれるかな?」

涼やかな声が、あやかの頭上から降ってきたーーー

振り返るとそこにいたのは社長だったのだーーー

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