セラフィムの翼

川辺 夕

第1章 彷徨Ⅰ

 成仏できない魂のように、あるいは誕生を待つ胎児のように。

 誰に届くこともなく、宙ぶらりんになった自分の気持ちを、僕はなくした気持ちと呼んだ。

 この戯曲に書いた台詞の通り、自分の気持ちは必ず誰かに届くべきものだと信じていた。

 現実には、気持ちをなくすことは当たり前のことであり、届けてはいけない気持ちも無数にあることを、いまの僕は知っている。

 産まれなかったあの子のように、僕の気持ちは産まれてはいけない。成仏できないまま、僕の周りを忘れてはいけない思い出と共に永遠にさまようのだ。

 最後のひと幕を残して未完成に終わった「セラフィムの翼」の原稿を、破れかかった茶封筒に戻し、僕はいつものように鞄の一番奥へとしまい込んだ。


 ファーストフードの店内から望む駅は、毎朝のラッシュ時の人波に押されて降りる僕の目に、いつもとは全く異なる表情を見せていた。

 普段は素通りする、壁に貼られたスキーや温泉案内のポスターに遠く目を凝らした僕は、自分自身が旅行先にいるような錯覚を覚えていた。

 見知らぬ街で見知らぬ人々の中に埋もれる自分。

 僕はどこにもいない。

 目的地のない旅行の途中で、ただただ世界を通過していくのだ。

 ノートを広げたままメールを無心で打つ学生に、読書にいそしむ初老の男性、よく通る声でパチンコの話をしている若者二人、店内には交わることのないばらばらな時間が流れ、それぞれの時間をせめてつなぎ止めようと、有線放送が平等に鳴り響く。

 僕はぼんやりと窓の外を眺め、冷めたコーヒーを口に含んだ。


 27歳までアルバイトをしていた僕がいまの建築設計事務所に就職して5年、事務所を早退したのは今日が初めてのことだった。

 この歳で資格を持っていないのは事務所で僕だけなのだが(建築関係の学校を出ていないため、あと2年の実務が必要なのだ)、この5年間、真面目に仕事をしてきたと映っていたようで、珍しく具合が悪そうに仕事へ集中できない僕の様子に、事務所の社長が気を利かせて何の疑いもなく早退を勧めてくれた。

「小此木君、無理しなくていいからね」と遠慮がちに言ってくれたのに甘えた僕は、午後一番の打ち合わせを終わらせるや否や会社をあとにした。

 別に具合が悪かったわけでもないのに、お大事にと心配してくれる同僚の声を背に、何の躊躇もなく後ろ手にドアを閉めた僕の心には一切の罪悪感は浮かばない。

 彼らの目に病気だと映る僕も本当であり、昨日の出来事に気を取られているだけの僕も本当なのだ。嘘もつき通せば本当になるように、本当の僕は自分が決めることじゃない。他人の目に映るたくさんの僕が、彼らにとっての本当の僕になるのだ。


 言われたことを迅速かつ確実にこなす。その当たり前のことを徹底するだけで、周りは真面目に仕事をしていると思ってくれる。幸いなことにこの小さな事務所では、社長である建築士の手足になることだけが唯一評価されることだった。

 僕は相手が求める自分を演じるに過ぎない。誰にも自我を見せないよう、自分自身でさえも自我を忘れるよう、微笑みを絶やさず空気のように人と接した。水たまりのような感情はいまにも蒸発しそうで、僕はどんどん影に近づき、人の目に透明になっていった。そんな肉体を維持するだけの生活は、生きることや死ぬことから僕を解放する。同じことの繰り返しは時間を止めて、僕の本当をますます曖昧にし、この世界から隠し続ける。

 墳墓の中のミイラのように、僕は誰も触れてはいけない時間を密やかに刻んでいた。

 嫌世的だと思われても仕方がないが、生きることも死ぬことも望まない止まった時間にとどまることを、僕はただ今日まで自分に対する罰として受け入れていた。


 5年前、松旗美里は僕たちの子供を堕ろした。

 彼女は僕の夢の重荷になると考え、僕は自分自身の不安定な将来に対する障害と考えた。

 僕は主催する劇団の成功を夢見ていた。彼女を始め、役者の多くも僕と同じ夢を見ていた。

 堕胎の正当性は夢を叶えることでしか証明できなかった。だが当時の僕は、自分の夢のために命を奪ってしまった罪悪感に耐えきれず、戯曲が書けなくなり、その結果、劇団を解散させてしまった。

 誰も責めなかったのにもかかわらず、仲間の夢を壊した罪悪感も加わり、僕は自分を追い込んだ。そして2度と自分の夢を追求しないよう自身を戒め、美里はそんな僕に絶望し去っていった。

 みんなの気持ちのたどり着く先を僕は潰した。

 たどり着くことなく漂う彼らの気持ちのように、産まれなかったあの子のように、僕は生きても死んでもいけなかった。


 11月も終わりの昨日の午後。2、3通のダイレクトメールに紛れていた葉書は、まるで時刻だけを伝えるように、一切のメッセージを書き記すことなく僕に届けられていた。

 葉書の裏の写真の笑顔は、かつて僕の瞳に映っていたものと何ら変わりはない。ただ隣で似た笑顔を作る見知らぬ男性が、美里と同じ喜びを共有しているとはどうにも信じられなかった。信じたくないのではなく、2人に共通の何かがあるという事実がどうにも分からないのだ。写真の左上に躍る、結婚しましたと記す飾り文字は、確かに2人の言葉なのだろうが。

 プリンターから出力されたあと自動的に配達されたように、印刷された文字以外には美里からの言葉はなかった。無言のメッセージは目に見えない気持ちに変わり、僕にたどり着こうとさまよっているようにも思えた。

 普通に考えれば葉書はただの案内であり、美里がいまさら僕に伝える気持ちなど持ち合わせていないことは分かってはいるはずだった。それでも五年前から止まったままの僕の心は、過去の記憶を掘り起こし、あのころの美里の気持ちを探そうとしていた。

 僕の罪悪感はよみがえる記憶に肉付けされて、より厳しい罰を求め始める。生きても死んでもいない僕を激しい動悸が襲った。

 目覚まし時計をあらかじめセットしていたみたいに、不意に携帯電話が鳴った。高校からの友人の児島一成からだった。年に1、2度電話があるだけだが、僕が唯一連絡を取っている当時の劇団のメンバーでもあった。

 美里の葉書が届いて連絡をくれたと思った僕は、先ほどの狼狽を悟られぬよう努めて冷静さを装い電話を受けた。

 一成は僕に気を使っているのか、美里のことには触れず、簡単な時候のあいさつと用件を端的に告げた。

 久保田晃明の公演の知らせだった。晃明は劇団がなくなったあとも演劇を諦めず、著名な劇団に入り、端役ながらも活動を続けていた。そんな晃明がついに主役を任されたとのことだった。


 時を同じくして訪れた2つの偶然は、僕の心を揺さぶるには申し分がなかった。

 あの時産まれたみんなの気持ちの亡霊が、僕に見つけられることを待っている。

 たぶん本当に、時間が来たのだ。

 目覚まし時計を連想していたのはおそらく電車の発車ベルのせいだろう。車窓に映る自分の顔を無意識に眺めながら考える。

 千葉行きの総武線の車内は空いていて、ベンチシートの端に寄りかかりながら、僕は静かに目を閉じた。

 僕は思い出をゆっくりとたどりながら、生きていたころの自分を思い出す必要を感じていた。

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