第2話 『運命』
蛇口の水を手で受け止めて、顔に浴びせる。
針で刺されるような冷たい感覚が、火照った頬には心地よかった。
ついでにカラカラに渇いた喉に水を流しこむ。
出来ればジュースでも買いたかったが、財布の中身にそんな余裕はない。
ハンドタオルで乱暴に顔を拭くと、身を投げ出すようにベンチに腰を落とした。
大きく息を吐き出しながら、深く寄りかかる。
公園の中は静まり返っていた。
時折吹き抜ける風が植木の梢をそよがせ、さざ波のような音を奏でる以外は。
もう春も終わろうとしているが、夜風はまだ肌寒い。
熱くなっていた体も徐々に冷めはじめていた。
外灯は残り火がくすぶっているかのように瞬くだけで、ほとんど役目をなしていない。
そんな見通しの悪い公園内も、月の光に照らされてよく見えた。
顔を上げると、満天の星をかき消すように、青白い月が輝いていた。
束の間の平穏に浸りながら、ぼんやりと夜空を眺める。
――俺はどこに向かっているのだろうか?
ふと、そんな疑問が湧き上がった。
毎晩必ず見てしまう悪夢が頭をよぎる。
濁流の中で揉まれながら、ただ溺れ続けるだけの夢。
溺死しようとする最後の瞬間、恐怖のあまり飛び起きてしまう。
そんな夢を何度も何度も繰り返す。
それは未来を暗示しているかのようだった。
やがて限界を越えて溺れ死ぬように、今の虚無感しかない現実のどこかで果てて消えていくのだろうか?
それが俺の運命なのだろうか?
聖人は自分の頭の中に浮かんだ言葉に眉をひそめた。
運命?
俺が一体何をした?
何故、こんな虚しい思いと苦しみを抱えていなければならないのか?
今の自身の理不尽な現状に苛立ちを覚える。
アルコール中毒でギャンブル狂いの父親は家庭を破壊し、母親はDVに耐えかねて蒸発した。
それから父親の度重なる暴力にさらされて幾度も殺されそうになった。
だから、堪忍袋の緒が切れ、反対に父親を半殺しにした。
それで少しでも楽になると思っていた。
だけど、家の中の居心地の悪さは増すばかりだった。
息苦しくて外へ飛び出したら、訳の分からない暴力に晒された。
また殺されると思って、一人、また一人と潰していった。
降りかかる火の粉を払い続ければ、いつかは苦しみから解放されると信じて。
その為には何でもした。
生き残るために、人も物も効率よく壊す方法を身に着けていった。
必死な思いで突き進んだ結果が、今だ。
どこに行っても息苦しく、居場所もなかった。
だから、どこにも留まる事が出来ず、だた彷徨い続けるしかなかった。
それが俺の運命というのか?
俺が一体何をしたって言うんだ?
もし、この世界に神がいるのなら――
あんた、俺が嫌いなのか?
思いに耽っていた聖人の耳に、誰かが地面を擦る音が聞こえてきた。
視線を落とすと、少し離れた場所で誰かが空を見上げて立っていた。
団子頭の和服姿の女の子だった。
その顔に見覚えがあった。
中学生の頃、一度だけクラスが同じだった。
人の顔など興味がなかったが、何十人といる女子の中でずば抜けて異彩を放っていたせいで記憶に残っていた。
人形のような無駄に整った顔。
陶器のような透き通るような白い肌。
カラスの羽のような黒く艶やかな髪。
等身大の人形が動いているかのような、気味の悪さすら感じてしまうほどの美少女だった。
確か、名前は――
「――神様、あなたは私が嫌いですか?」
少女は月を見上げたまま、ポツリと呟いた。
「何故、私にこんな運命を背負わせるのですか?」
宙に向かって語りかける彼女の目は涙で潤んでいた。
「私を苦しめて楽しいですか? 悲しませて嬉しいですか? 絶望させて喜んでいるのですか? 何故、私にこんな思いをさせるのですか?」
口を震わせながら、溢れ出そうな涙をこらえている。
「私は何も望みません。普通に生きたいのです。平穏に生きたいのです。どうして……どうして、それを許してくれないのですか?」
絞り出すように言葉を吐き出し、肩を抱えて泣き崩れる。
「……私は、こんな仕打ちを受けなければならないほど、呪われた存在なのですか? どうして、こんな思いをしてまで、生きていなければならないのですか? どうして……」
聖人はその姿を見入っていた。
無意識に足が動く。
ザリッと靴底が地面と擦れる音がし、彼女は弾かれるように聖人を見た。
数秒ほど、お互いの顔を見合っていた。
彼女は顔色を変えると、涙を拭って公園から走り去って行った。
「……なんだったんだ?」
聖人は立ち上がると、今まで彼女がいた場所まで歩く。
「何だこれ?」
足元に長細いカードが落ちていた。
拾い上げて見てみると、気味の悪い意味不明なイラストが目に映る。
竜と蛇がお互いの尻尾を噛んで八の字を描き、真ん中に枝と根が伸びた樹、両端に月と太陽が描かれていた。
反対側を見ると、全身ずぶ濡れの白装束を着た、地面に垂れ下がった長い髪の女性の絵。
その女性に足は無く、宙に浮いていた。
「何だこりゃ? ……趣味悪いな」
呪いが籠っていそうな気色悪さに、聖人は顔をしかめる。
余りに禍々しい雰囲気を湛えていたため、思わずゴミ箱に放り捨てようかと思った。
だが、脳裏に先ほどの彼女の顔がよぎり、思いとどまった。
「……届けてやるか。どうせ暇だし」
ポケットにカードを入れると、公園を後にした。
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