第1話 『キチガイと呼ばれる少年』

「――おい。お前、久澄聖人だろ」

 繁華街の裏路地を歩いていた聖人は、その声に立ち止まって振り返る。

 ぼやかしていた視界の焦点を合わせると、茶髪の少年がニヤニヤ笑っていた。

 十五、六歳ぐらいの同い年と思われる

 知らない顔だったし、誰であるかも興味が湧かなかった。

 ただ、その表情や雰囲気から歓迎されているわけではないことは十二分に伝わってくる。

 その少年は聖人の特徴的な顔を見て確信したかのように笑みを深めた。

 狼の毛並みのように逆立ったボサボサの髪。

 垂れ下がった前髪から覗く猛獣のように鋭い目と、そこに深く刻み込まれた隈。

 悪魔のような間違えようもない風貌。

「どうなんだよ? 何とか言えよ!」

 声のトーンを上げた少年の声につられるように、十人近い同類の少年達が囲いこむように姿を現す。

 またか、と心聖人は心底うんざりした。

 かつて色々とあった因縁から、聖人の悪名は街の不良達に知れ渡っていた。

 その因縁はネズミ講のように広がり、見ず知らずの不良達にまで行き渡っている。

 聖人を直接知る相手はまず絡んで来ない。

 手を出せばどんな目に合うか、嫌というほど分かっているからだ。

 彼らの間では蛇蝎の如く嫌われ、話題に上げることは暗黙の了解でタブーになっている。

 それにも関わらず因縁を吹っかける連中は、決まって宙に浮いた噂話を嗅ぎ付けて来ただけだ。

 昔の喧嘩で叩き潰した相手の顔など、聖人は欠片も覚えていない。

 そんな事には一切興味がないからだ。

 聖人にとってリベンジで来られるのも迷惑この上ないのに、又聞きで絡んでくる相手など羽虫並に鬱陶しいだけだった。

 どこの馬の骨とも分からない奴等が悪意を持って向かって来る以上、対応の仕方は決まっている。

 未だに何かぶつぶつと粋がっている少年を見据えながら、聖人は左手をポケットから抜いて頭を掻く。

 右手も自然に抜きながら、無造作に歩み寄る。

 その距離が目と鼻の先まで詰まる。

 その瞬間、聖人の右腕が鞭のように閃いた。

「――がっ!」

 少年は両目を叩かれた衝撃に、思わず悲鳴を上げた。

 間髪を入れず、下半身に重い衝撃が突き刺さる。

 視界がぼやけたまま視線を下ろすと、聖人の足が金的にめり込んでいた。

 それを認識した瞬間、衝撃は痛みに変わり、少年は思わず前かがみになる。

 聖人はガードの下がった少年の頭を両手で無造作に掴む。

 その頭を下へと引き落とすと同時に、少年の顎へ渾身の膝蹴りを躊躇うことなく打ち付けた。

 ゴン、と鈍い音が少年の仲間達の耳の奥を震わせた。

 無言で崩れ落ちた少年はピクリとも動かない。

 聖人は少年が意識を失っているかを一瞥で確認し、ゆっくりと周囲を見渡す。

 不良達は静まりかえっていた。

 その様子を気にすることなく、聖人は状況を冷静に把握していく。

 人数と配置。

 辺りの環境。

 それから、誰を狙うか。

 視線を落とすことなくベルトを外し、バックルを地面に落とす。

 それからベルトを大袈裟に振るい、アスファルトにバックルを叩き付けてワザと大きな音を立てた。

 不良達はその牽制の音にビクリと身をすくませた。

 その中で一番及び腰になっている少年へ目を付ける。

 彼を叩くことによって集団を分断させ、有利な流れへと仕向ける。

 僅かな間に方針を立てた聖人は、動揺が収まっていないチャンスを逃すことなく行動に出た。

 腰を落とすと、標的にむかって一気に踏み込む。

 ベルトを振り上げ、思いっきり叩き付ける。

 狙いはどうでもいい。

 当たれば痛いのは分かっているから、相手は逃げるか防御かのどちらかを必ず取る。

 その思惑通り、その少年は傍にいた仲間にぶつかりながら大げさな回避を取った。

 聖人は返す手でベルトを振るうと、逃げ場を失った少年は周りを巻き込んで大混乱を巻き起こす。

 とっさに両手でガードをしたが、痛みに顔を思いっきり歪めている。

 聖人は無機質な目のまま少年を見据えて、更に踏み込む。

 その目をみた少年は喉の奥で悲鳴を上げ、後ろに下がって逃げようとした。

 だが、それよりも早く追撃を仕掛けた聖人の踵が、相手の足の甲を踏み潰す。

 聖人は左手にベルトを持ち替え、少年の頭を狙って振る。

 少年は反射的に両腕を上段に上げた。

 だが、衝撃が来たのは上段と下段同時。

 予想外の攻撃に少年の顔が下に向く。

 その先にはベルトと同時に繰り出された聖人の右ストレートが股間に打ち込まれていた。

 その痛みに少年のガードが崩れる。

 その隙間へ聖人の手が素早く伸びる。

 親指と人差し指の間を首に叩き付け、滑り上げながら顎をかち上げる。

 同時に相手の両脚の裏に右足を差し込み、勢いよく腰を捻りながらアスファルトに叩き落した。

 受け身を取る間もなく後頭部から地面に激突した少年を顧みず、聖人は次の相手に襲いかかる。

 ここにきて色めき立った不良達が、怒声を上げながら反撃に出た。

 統率の取れていない攻撃の隙間を縫って、聖人はひたすら動き続ける。

 同時にベルトの鞭を振るい続け、遠間から攻撃を浴びせ続けた。

 相手は二の足を踏んで思うように攻撃が出来ず、それが聖人にとって大きな隙となる。

 チャンスが訪れると迷わず襲いかかる聖人に、一人また一人と潰されていく。

「――ち、調子こいてんじゃねえぞ!」

 劣勢に耐えかねた不良達がナイフを抜いた。

 凶器を持った事で多少の優位を感じたのか、引きつった笑みを浮かべながら刃をちらつかせる。

 聖人は顔色一つ変えず、ベルトを握り直して相手の動きをうかがう。

 全く動じることなく、異様に落ち着いている聖人に不良達は訝った。

 今までナイフどころか、金属バットや鉄パイプ、割れたビン、違法改造したエアガン、果てはバイクや車にも襲われた事のある聖人にとって、ナイフなど必要以上に脅威を感じる得物ではなかった。

 間合いの外をゆっくりと移動しながら攻撃の隙を狙う聖人に、不良達のナイフで得ているはずの優越感が消えていく。

 血に飢えた猛獣のような気迫に圧され、手にも額にもじっとりと汗がにじむ。

 数でも、武器でも、相手に勝っているにも関わらず。

 その事に気付き、彼等の内心の苛立ちが頂点に達した。

 仲間に目で合図をすると、一斉に聖人に向かって飛び出す。

 それを見た聖人は背を向けると、全力で走り出した。

「待て、こらあああああ!」

 がなり声を上げながら、その背を追う不良達。

 しょせんはハッタリだったか。

 全力疾走で逃げていく聖人の背を見ながら、不良達は今まで胸の中にくすぶっていた不安感が怒りに転じていた。

 どうやって嬲り殺しにしてやろうかと気分が高ぶっていた。

 その聖人が突如、踵を返して先頭を走っていた不良に襲いかかった。

 ナイフを持ったその相手に勢いよく飛び込みながら、ベルトを顔面に叩き付ける。

 躱す事も防御もできないまま、先頭の不良はもろに反撃を食らう。

 よろける姿勢を戻す間もなく、ナイフを持った腕を聖人に掴まれて、背面へと捻り上げられる。

 そのまま、肩を極められた体勢のまま身体を勢いよく回され、地面に引きずり倒された。

 聖人は極まっている相手の腕を、迷うことなく稼働限界の向こう側へと押し込んだ。

 肩から響く鈍い音と、不良の絶叫が辺りにこだます。

 肩が外れた痛みと衝撃を骨を砕かれたと思い、思わず悲鳴をほとばしらせていた。

 あらぬ方向に腕が曲がったまま地に伏してもがく仲間の様子に、追いついた不良達は顔を引きつらせた。

 一方の聖人は意に介することなく、転がっていたナイフを拾い上げる。

 左手に短く持ち直したベルトと右手にナイフ。

 二つの武器を構えた直した聖人は不良達を睨みながら、ゆっくりと間合いを詰めてくる。

「……やべぇよ、あいつ。頭おかしいだろ」

「……噂通りのキチガイかよ」

「……マジで狂ってやがる」

 起伏のない表情のまま、躊躇いなく武器を振るい、淡々と攻撃をしてくる。

 何を考えているのかまるで分からない、自分たちとは異質の人種。

 好き放題に呟く不良達に、聖人は心底冷めた面持ちで見据える。

 そして、未だ脅威として存在する集団を潰すために、勢いよく飛び出した。

 遠間からベルトを振るい、ナイフを持つ相手の手に打ち込む。

 ナイフごと叩かれた手の痛みで出来た相手の隙を突き、懐に潜り込みながらナイフを持った手首を掴む。

 同時に、聖人はナイフを握った右手をスナップを効かせた裏拳で相手の顔面を叩いて視界を潰す。

 返すその手を相手の腕に振り下ろし、躊躇いなく刃先を上腕に突き立てた。

「――ぅ、わあああああああっ!」

 刺された衝撃に目を見開き、本当に刺された痛みで情けない悲鳴を上げる。

 その事に意識が向いている不良に構わず、聖人はナイフから手を離す。

 ナイフの刺さったその腕を引きながら、不良の顔面に頭突きを叩きこんだ。

 大きくのけ反る相手の首に肘を叩き付け、足払いをかける。

 不良もろとも宙に浮いた聖人は近場の壁に向かって、全体重を乗せながら勢いよく突っ込んだ。

 周囲に鈍い音が響く。

 壁に叩き付けられた不良は今にも嘔吐しそうなうめき声と泡を口からこぼしながら、ズルズルと壁を滑って崩れ落ちた。

 辺りを見回しながら立ち上がる聖人。

 すでに残された不良達の顔からは戦意が消え失せていた。

 その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。

「……やべぇ!」

 ざわめく不良達の関心がサイレンに向いているのを見て、聖人はそっと距離を取っていく。

 確か、近場に人気のない公園があったな。

 そう思い至った聖人は、人ごみに紛れながら駆け出した。

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