第一章-01
「俊樹! 俊樹起きなさい!?」
俺の住んでいるアパートのドアの外、聞き慣れた甲高い声が響き渡る。毎度おなじみとなってしまった島津沙耶の、かなりはた迷惑なモーニングコールだ。
ああ… そういや、もう朝になってしまったのか。
昨夜は… そうだ。提出用の課題と、〆切間際の請負原稿を仕上げていて…。
「俊樹ったら! …もう、強硬手段に出るんだからね!」
ドアの向こう側からガチャガチャと鍵を開ける音。
あれ?いつの間に合鍵なんて作ったんだ? てか、鍵はついこの間取り替えたばっかりなのに、なんでもう複製ができてるんだよ? お前、それ犯罪だぞ?
バタン!とドアを開ける大きな音が2LDKの部屋に響き渡る。
「と~し~き~…」
まるで笑みを浮かべたような…いや、浮かべてるんだろうな。そんな声が廊下を踏む足音とともに近付いてくる。
しかし、申し訳ない。俺は今、眠いんだ。
「またパソコンの前で寝てたの? 健康に悪いぞ!」
んあ?
いつものように、その声の方を見上げてみる。見慣れた茶色いボブカット。つり目がちで大きな瞳に整った顔立ち。贔屓目に見なくても十分に『美少女』の部類に入るのだろう。トップスには無地の黒のコンビネーションワンピース、そのスカートからは健康的な太ももが見え隠れしている。絶対領域とはいえないまでも、膝丈のソックスが非常に魅力的だ。俺、古川俊樹だってそう思う。
ただ、この”自称”幼馴染は何かと干渉してくる。やれ食事がどうだの生活パターンがああだの、とかく干渉してくる。
ある意味、ある人種にはとても恵まれた環境かもしれない。しかし、考えてもみてほしい。中学にあがる前には既に両親もなく、独学でパソコンで生活の糧を得る手段を覚えた。その上で、スキルアップと安定した収入を得るために在学もしているのだ。勿論、単位と出席日数はギリギリである。計算した上での、時間の割り振りである。
故に、今は睡眠を取るべき時間なのだ。
「沙耶、いい加減にしてくれないか? 今この時間は睡眠時間なんだ。あの富野教授は俺に甘いから、決まった時間に研究室にさえ出ていれば単位はなんとかなるんだよ」
「そういう態度が気に入らないのよ。いつだってフォローするのはあたしの仕事じゃない。確かに俊樹は優秀だわ。二回生で既に研究室にはいっているくらいだものね。卒業までの単位だって十分すぎるほど取ってる。でもどうなのよ、食事もあたしが管理してないとマトモに取ってない、不規則だし不健康だわ。だから、あたしがこうやって来ているんじゃないの!」
繰り返すようになるが、おそらく、いや多分この島津沙耶という”幼馴染”は一般的にいうところの『綺麗な女性』のカテゴリに入るのだろう。それだけに、怒ったときの形相は凄まじい。故に、あまり目を合わさないようにしているのだ。それが益々気に入らないらしい。まぁ、当たり前の話ではあるのだが。
「とにかく!」
沙耶は手に下げたバッグからランチジャーを取り出す。
「朝ごはんよ! 食べて!」
「…今は欲しくない」
「食・べ・る・の!」
ニッコリとした沙耶の顔が、俺の顔を覗き込む。
正直なところ、沙耶がどうしてここまで世話を焼くのか、俺には全く理解できない。そういうフラグを立てた覚えもないし、俺自身決して見栄えのいい方ではないからだ。たったひとつだけ自慢できることがあるとしたら、両親を失ってからこっち、自分の力でここまで来たことくらい。いや、それすらいろんな人の助力も受けてきたから一人で、とはいい難い。故に。沙耶から世話を焼かれる、そんな思い当たるフシがないのだ。
俺は家族を一度に失った際に、それ以前の記憶を失っている。聞いた話によると、大きな事故だったそうだ。たった一人生き残った俺にできることと言えば、誰よりも早く大人になることだった。孤児院にいた頃から新聞を配達をし、その際に経済欄を読むことを覚え、何がお金になるかを知った。孤児院の院長にお金を借り、個人用のパソコンを買った。インターネットを通じて、ありとあらゆる勉強もした。必要なら、子供の身ながらコッソリと様々な講義にも参加した。
そして、今の俺がいる。
残念ながら、当時の俺は誰からも見捨てられたらしい。
親戚筋に当たる人物は俺の管財人を名乗り、その金を持ってトンズラこきやがった。
件の沙耶の家族とも疎遠になっている。
たった一人、沙耶を除いては。
そんな訳で、気付いた頃に側にいたのが沙耶だった。彼女の話によると、オレと彼女とは家族ぐるみでの付き合いがあったらしい。俺が記憶を失ってからも、何かと世話を焼いてくれる。想像するに、それだけ仲が良かったのだろう。
だが、考えてもみてほしい。
理由もわからず世話を焼かれるのに抵抗感はないか?
二次元やドラマの世界ならまだしも、”ただそこにいる”だけで世話を焼かれる。
然るべき理由もわからず、だ。何かしらフラグを立てていて沙耶が好意に似た想いを寄せているのなら、それも理解できよう。
しかし、しかしである。アガペー… 無償の愛など、両親からですら受けられない子供がここにいるというのに、赤の他人からそれを受けられるものだろうか?
ま、いっか。考えても仕方ない。
このまま負のスパイラルの中に思考が閉じ込められるのは精神健康上よくない。
…デイジー デイジー ハイと言ってよ…
「なにそれ?」
沙耶が問いかける。
「ああ、最近よく夢に見る女性が唄っている歌なんだ。聞き覚えはないか?」
「いいえ? 聞いたこともないわ。いつ頃の歌なの?」
「さて…。遠い昔に聞いただけだから、いつ頃の曲なのかはわからない。だいたい曲名すらわからんからな」
「デイジー デイジー… ね。古臭そうなメロディだから、きっと相当昔の曲よ。…それでも気になる?」
「気になる。わからないから余計に、だ。沙耶、お前にもそういうことはないか?」
「わかりました。調べておきましょう。…だから食べてもらえるかしら? これは交換条件よ。いい?」
ニッコリと微笑む沙耶。こういう時は逆らわないのが世の常だ。
「…わかった。いただきます」
「よろしい!」
勝利の美酒を浴びたかのような満面の笑みを浮かべながら、沙耶はランチジャーの容器を並べだしたのだった。
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