伊丹地獄

伊丹正章

夢鬱吐

 


 暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる君は、陳腐な人生の中で初めて出会えた燦々と輝く希望。僕の胸中で躍り狂い、歓喜と興奮を全身に循環させる恋という名を持つ細胞。留まる事を知らぬ高揚は、僕の歩を君へと誘う。透き通るような純白の肌と、腰まで伸びる漆黒の髪。彼女は無言のまま、じっと僕を見つめている。

 幻惑の世界に導くように、彼女は僕を──



「だからー、結果を出してほしいんだよね。結果をさぁ。分かる?」

 噎せ返るような暑さの中、耳障りな声が僕の鼓膜に忍び込む。彼の言葉が不快に感じるのは、暑さのせいではないだろう。むしろこの暑さも彼がいなければ清々しく感じるのかもしれない。僕は頬を伝う汗を拭くこともせず、口を開いた。

「はい、部長。申し訳ありません」

 唇を通じ汗が口内に零れ落ちる。

「金子君さ、謝って欲しいわけじゃないんだよ、営業成績を上げてほしいんだ。書類の提出もギリギリ。かと思えば誤字脱字も多いし、君は一体何が出来るの?」

 そう言うと部長は自分の席の後ろにあるホワイトボードをペンで二、三度叩いた.。部長が言うようにホワイトボードに記してある個人別の営業成績表の縦グラフの「金子伸明」の欄。つまり、僕の欄にはミミズのような短い線しか引かれていない。事実、今月の営業成績は僕が最下位。

「金子君さー社内ニートって知ってる?」

「……いえ、存じ上げません」

「君みたいな事を言うんだよー。意味は自分で考えてきな」

 そう言うと部長は肉付きのよい体を動かし「昼休憩して来るわぁ」と気怠そうに言った。もう気が済んだのだろう。僕は安堵の胸をなで下ろした。部長は僕ら社員がいる事務所から出ていく直前に先程よりも大きな声で「昼休憩して来るわー」と再度皆に声をかけたが、部長の声に返事をする者は今日も少ない。部長という存在に興味が無いという事も勿論だが、浄水器の訪問販売という戦いは、精神的にも肉体的にも疲労が募る。小さな折り返し地点でもある正午に、部長なんていうちっぽけな存在に媚を売るような連中はいない。日が落ちるまで、炎天下の中新規の訪問や既存顧客の元へと足を向け、県内中を行脚するのだ。学生時代のコネや、セールストークが立つ営業マンは週に数件の新規契約をとって来るが、両者共に欠落している僕が結果を出す事だと不可能に近い。何の取り柄もない、何の目標もないのが僕という存在なのだ。

 僕は部長が帰って来ない事を確認すると、自らの席に戻った。見慣れた机上にはパソコンと会社の資料を閉じたファイル、駅前でもらったうちわぐらいしか置かれていない、質素な机だ。それでもクーラーが壊れた蒸し暑い事務所の中で、このうちわは僕の必需品といえるだろう。しかし、今日もうちわも扇ぐ気にならない。やならければいけない物事全てが、僕の脳をすり抜けていく。部長に怒られたからでも、営業成績が悪いからでもない。

 「あの日」から、僕の心の中は彼女で埋め尽くされているから。恋煩というのだろうか?彼女の事しか考えれない。

 どんな形でもいいから、君に会いたい。

 「僕が人を殺めたあの日」目の前に現れた君に──

 僕はジャケットの右ポケットに隠してあるカッターナイフを軽く摩り、脳内で記憶を巡らせた。

 


 その日、僕はプリンセス大通りにあるうどん屋で夜食を食べようとしていた。セルフのうどんながら無添加の食材を扱っているので、一人暮らしの僕には有難い店だ。

「ぶっかけとろろそば、生卵トッピングで」

 いつもと同じメニューをレジで注文をすると、一分もしないうちにそばが出てきた。レジの隣にある天かすと青ネギをそばが隠れる程に乗せ、なるべく人がいない席に着く。時間は午後八時過ぎ。店内には僕以外に三、四組しかいないが、近くに大型のクラブがあるせいで酔っ払いが多い。下戸の僕は酒臭い人間自体好きではないので、他人となるべく離れて座る事にしているのだ。

 机上にある割り箸を丁寧に割り、天かすとネギの山を崩しつつ、一口目のそばを頬張った。口の中に広がるあっさりとした白だしの風味が実に食べやすく、二口目、三口目……最後の一口まで飽きずに食べる事ができる。どれだけ部長に罵倒されたても、この瞬間だけはストレスから解放される。しかし、至福の時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。気がつくと器の中は白だしとネギだけになっていた。

 一日の楽しみが終わってしまった。僕の頭の中では「蛍の光」が流れている。虚しくなってきた僕は、そそくさと逃げるように店外へ出た。

 月夜に照らされる街は相も変わらず熱帯夜。非常に気分が悪い。永遠と続くアスファルトが熱気を上昇させている。冷たいそばがまだ胃の中にいるにも関わらず、こうも暑いとそばを食べた満足感がすぐに胃から消えてしまう。

 できれば今日はいつも以上に至福の時間を楽しみたかった──今日は、たっぷりと部長に罵倒されたからな──

『金子君さ。君やっぱりこの仕事向いてないよ?君みたいな出来ない君初めてだよ。正直会社の足引っ張ってるよ、君』

 いつもなら二十分も続けば長い方なのだが、今日は部長の虫の居所が悪かったのか、小一時間も説教を食らってしまった。

「上等だ!辞めてやるよ!こんな会社」そんな度胸があればとっくに言っている。僕は大きな溜息を一つついてから、空を見上げた。

 腐りきった社会だ。例えるのなら人間牧場。人間が人間を家畜として扱う生臭い人間牧場。

 こんな世界消えてなくなってしまえばいいのに。

「今すぐ、消え失せればいいいんだよ……」

 僕は空を見上げたまま、ぼそりと呟いた。

 すると──

「──おい!誰に言ってんだよ!アァ!?」

 知らぬ間に目の前にいたスキンヘッドのチカーノ風の男が、僕に鬼の形相を向けていた。

「いや、別に君に言っているわけじゃなくて……」

「あぁ!?俺以外に誰がいんだよ!シャブでも喰ってんのか!?」

 今日は金曜日。そろそろクラブが混み合う時間か。よく見ると男の目は尋常じゃない程に血走っている。完全にキマっているようだ。こんな輩に構っていられない。いつもならそうしていただろう。しかし──

「……また八つ当たりか。やめてほしいよ、全く……」

 何故そんな事を口にしたのか分からない。

 部長に八つ当たりをされて苛立っていたせいか、いつも以上に蒸し暑い夜のせいか──もしくは彼女がそうさせたのか──

「──テメぇ!ナメてんだろう!?こっち来い!」

 そう言うと男は僕の顎に強烈な右フックを叩き込んだ。

 一瞬で千鳥足になってしまった僕の胸倉を強引に掴み、ボロ雑巾のように路地裏へ投げ飛ばした。

「や、やめてぇ……」

 地に這いつくばっている僕の意識は朦朧としており、口を思うように動かす事ができない。

 そんな僕を知ってか知らずか、男は馬乗りになり、僕の顔面を何度も殴る。

 何度も、何度も──

 あっという間に口の中に鉄の味が広がる。鼻の中は血が溢れ、血の海で溺れているような錯覚に陥る。

 男は僕を何度も殴る。何度も、何度も、何度も、何度も──耳元で鳴る、僕の頬骨と男の拳が重なる音。男は何かを叫びながら僕を殴り続けているが、鈍い打撃音のせいで男の声は僕にはっきりとは届かない。

 男は僕を何度も殴る。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も──

 薄れゆく意識。その中で、僕が手繰り寄せた答え──簡単な事か。至って単純明快。

 その、答えは。

「────ギィッえッえ」

 男の拳は、蛙の断末魔のような一声と共に、止んだ。次に僕の体を襲ったのは、男の首筋から流れる、真っ赤な鮮血。その血を呼び寄せたのは……他でもない僕の右手。右手には鞄の中に入っているはずの、業務用のカッターナイフが添えられていた。その鋭利な先端が、男の首筋に突き刺さっている。無意識の内に男の暴力に対して、カッターナイフで抵抗をしていたのだ。

 僕はカッターナイフが握られている右手を左手で添え、男の喉元へ深く捩じ込んだ。安物のロースステーキにフォークを入れる程度の感覚。例えるならその程度。その程度の力で、カッターナイフの先端は男の喉仏へと到達した。カッターナイフ越しにコリコリとした感覚が伝わってくる。僕はもう一度カッターナイフを深く押し込み軽く横にずらしながら、男の首筋からカッターナイフを引き離した。蛇口を捻ったように溢れ出てくる真紅が、月に照らされ艶やかに踊る。男は血飛沫が舞う中、踊るように地面へ倒れ込んだ。

 地を舐めた男。その頭部を伝う、ヒクつく血管──まだこいつは生きている。

 その事実が非常に忌まわしく思えてしまう。刃をゆっくり近づけ、こめかみの血管を切断しようとした──瞬間、僕は我に返った。

「……嘘だろ……」

 僕は震える体を必至に抑えつけながら、男の胸元で心音を聞いた。。

 勿論、鼓動は聞こえない。人を殺めた。その事実がゆっくりと、しかし確実に僕の身体を蝕み始める。

「──や、やっちまったぁ」

 血を纏ったカッターナイフをズボンの右ポケットに捻じ込み、僕はその場からすぐに走り去った。

  ──逃げるしかない。今は逃げるしかない。そう何度も心の中で呟きなら、僕は走り続けていた。罪悪感と恐怖で何度も嗚咽してしまいそうになったが、どうにか堪えて足を進める。

 もう嫌だ。何故……何故こんな事に……

 僕は最低の一日を終えるために、帰宅する事を改めて選択し、足を速めた。

 そして、僕はもう一度、強く願った。

 こんな世界消えてなくなってしまえばいいのに、と。

 

                        ※


 帰宅した僕はシャワーを浴び、返り血を洗い流した。血で汚れたワイシャツはちょうど今、洗濯機の中で踊り始めたところだ。上下セットアップの黒のスウェットに着替えた僕は、家に帰宅してからというもの只々、茫然自失としていた。一番最初に浮かんできたのは、実家にいる両親の顔。特に大きな迷惑をかけてきた事のない僕だったが嗚呼、なんて事をしてしまったのだろうか。きっと親は僕が人を殺した事を信じないだろう。

「違うんです!こんな事をする子じゃないんです!」

 そう警察に向かって嘆く母親の顔が目に浮かぶ。父親はそんな母親を横目に厳格な表情のまま新聞を見てこう呟く。

「どこで育て方を間違えたんだ……」

 新聞の見出しにはでかでかと『通り魔サラリーマン現る!』と書かれている。襲われたのは僕なのに。下らない妄想を繰り返す内に、僕はハハッと言う乾いた笑みを零していた。通りすがりの男を殺してしまったんだ。どうせすぐ捕まる。妄想なんかとんでもない、きっと僕の妄想よりも過酷な現実が待ち受けているだろう。もう自分の罪を受け入れる以外に選択肢はないのだ。平凡な僕の人生は、数時間前に終わった。自業自得だ、なんせ人を殺してしまったのだから。

 僕は部屋の灯りを消し、ベッドに横たわり目を瞑った。

 先程と違い、一番最初に目に浮かんだのはチカーノ風の男の顔。

 彼が死んで、彼の仲間や親も悲しむ事だろう。確かに、サラリーマンを捕まえて暴力をふるったのはいただけない。

 しかし、そんな彼を殺した僕の方が明らかに異常だ。社会的に罰せられるべきだ。

 明日、朝一に警察が鳴らしたインターホンで起きるのだろうか。

 逮捕される心の準備は自然と出来ていた。

 ただ……何故か自首する気にはなれなかった。

 どこかで、このままバレずに生活できれば、という願望があったからだ。

 僕は自分の不均衡な気持ちを整理できないまま、睡魔に身を委ねた。


                       


 白い霧が視界を埋め尽くす中、僕は意識を手繰り寄せた。ここにいるのだが、ここにいない。僕は存在しているのだが、決して現世ではない。独特の浮遊感を持つ世界。ここは夢の中か。統一性の無い映像が永遠と続く夢という世界。

「こんにちは」

 ほら来た。夢の中の来訪者はずいぶん馬鹿げた格好をしていた。ぴっちりとしたセンター分けの髪型に黒縁眼鏡。真面目な印象を与える「頭部」だ。只、あくまでも「頭部」だけの話で、服装は七十年代のヒッピーを思わせる緑色のペイズリー柄シャツとショッキングピンクのハーフパンツに素足。よく見ると両足はトライバルタトゥーで埋め尽くされているのが分かった。何て事の無い、只の異常者だ。

 今となっては僕もこいつと同じか。

 貴方はどなたですか?

 僕は丁寧な口調で質問した。

「言っていいのかな……僕は車掌です」

 男は照れ臭そうに答えた。

 車掌?電車を運転する車掌ですか?

「はい、そうです。貴方もよく知っている車掌です」

 僕をどこかに連れていってくれるのですか?いや、連れて行って欲しいです。僕はこんな世界真っ平御免だ。

「貴方はロマンチストなんですね。そんな事は出来ないのです。なにせ電車がないので。あはは」

 僕は何となく目の前の男が気にいらなかった。

「ここは夢の中ですが、所詮現実に存在する脳が作り出した世界。ここも現実なんですよ。夢と現実を切り離している馬鹿もいますが、その考えは実に浅はかな考えと言えるでしょう」

 ……結局何が言いたいんですか?

「でもそう考えると面白いですよね。夢の中が現実であるとしたら、僕みたいな存在も貴方の脳内という現実の一部なんです。貴方が普段見ている世界の住人となんら変わりがない」 

 男は笑顔のまま淡々と言葉を吐く。

「もっと言うと貴方が人を殺した、という事実を夢の中に閉じ込める事もできるんです……あれ?そしたら、結局夢と現実を区別している事になるなぁ」

 結局何が言いたいんだ?

「人殺し」

 何だって?気がつくと霧の中で無数の人間達が僕を囲んでいた。

「化けの皮が剥がれたな、この人殺しが!」

「人殺し!」

「人殺し!糞!死んでしまえ!」

「カスが!蛆虫!」

「人殺し!人殺し!人殺し!」

 彼らは怨敵を前にしたかのように、決死の形相でシュプレヒコールを上げている。

 ああ、そうだ。人殺しだ。只、お前らに何の関係がある?

 僕の苛立ちが極限へと達した時、フワリと体が浮かんだ。

「人殺し!人殺し!人殺し!人殺し!」

 気がつくと、僕の両手は大きな斧を握りしめていた。その斧を、迷うことなくヒッピー男の首筋へと振りかざす。男は首筋と斧が触れた瞬間、満面の笑みを浮かべた。

 頭部と胴体が切り離される。不思議と血は一滴も出てこない。頭部は右肩から側転をするように地面へ転げ落ち、笑みを浮かべたまま静止した。僕に罵声を浴びせていた奴等が歓声を上げ、歓喜する。男の首の断面から大きなひまわりの花が咲く。

 ひまわりの中央に血走った眼球が浮き出てくる。

 男の頭部は言う。

「どうだ?悪くないだろう?」

 もう、何もかもどうでもよくなってきた。僕はその場で胡座をかき、無言のまま霧に包まれてみた。しばらくすると周りから人が消え、ひまわりが咲いている男の胴体も消えていた。

 夢の中に静寂が訪れる。視界いっぱいに広がる霧は、妖しくゆらゆらと揺れている。

 このままずっと霧に包まれて、目覚めなければいいのに……

 ずっと夢の中に入れればどれだけ幸せだろうか?別に人を殺したからではない。それはいつも思っていたんだ。下らない現実、罵倒される毎日から逃亡する事ができるのならどれだけ幸せか。

 苦痛からの解放。それを僕はずっと望んでいるのだ。

 僕がそんな事を考えていると、白い霧の中で、何かがフワリと舞った気がした。

 見間違いじゃない。

 きっと新たな来訪者が来たのだろう。僕はその気配を感じ、立ち上がった。

 次に来るのはサンタクロースか、宇宙人?夢の中だからどんな出会いだって有り得るんだ。

 僕は来訪者が姿を表すのを待った。

 しかし……姿を現した来訪者は僕の予想に反する姿をしていた、

 ──あなたは……誰ですか?

 艶やかな黒い髪と、純白の肌をもった美しい女性……女性というにはどこか幼さが残るが、少女というには大人すぎる。そんな不思議な印象の白いワンピースを着た女性が、霧の中から浮かび上がってきたのだ。僕の問いかけに対し、彼女は口を閉ざしたまま。

 沈黙が続く中、僕は彼女をじっと見つめていた。

 彼女は僕に視線を合わせず俯いたり、辺りを見渡したりと、どこか挙動不審。透明感のある女性、という言葉は彼女のための言葉だろう。夢の中の霧さえも彼女を美しく見せるための演出に見えてくる。

 麗しい。彼女にどれだけ賛辞の言葉を投げかけようとも全てが安っぽく聞こえてしまう。夢の中にいるのにも関わらず僕は胸の高鳴りを全身で感じていた。

 できる事ならば彼女に触れてみたい。

 あ、あの……

 僕は彼女の事を知るために改めて開いたが、次の言葉が上手く出て来ない。

 そんな僕を見た彼女は、僕の方を見て軽く口角上げた。彼女は軽く微笑んだまま僕を見つめている。

 僕も彼女を見つめている。

 僕らはこの夢の中で二人、無言のまま見つめ合っていた。

 その事実がとても幸せで、感じたことのない充実感と安息が胸の中を支配していた。この瞬間が、ずっと続けばいいのに。

 しかし、そんな僕の思いとは裏腹に、突然、霧が彼女の姿を隠し始めた。

 ──ま、待ってくれ!君は!?

 僕は叫び、彼女へ近づこうとしたが、金縛りにあっているかのように、体の自由が効かない。

 待って!君は一体何者なんだ!?

 僕は心の中で何度も叫んだ。

 彼女に向かって何度も叫んだが、その声が夢の中で響く事はなかった。

 霧が彼女の姿を隠した瞬間、僕の視界は漆黒に包まれ、朦朧とする意識はここではないどこかへと消えていくのであった。  


 次の日、僕は仕事を休んだ。

 人を殺した罪悪感からではない。彼女の事を考えると、仕事をする事はおろか、体を動かす事もできなくなっていた。しかし、ある事を思いつき、僕は体を起こした。

 彼女と一刻も早く出会いたい。もっと長い時間を共有したい。

 そのためには──

  

                    

「全く寝付けないんです。仕事の事を考えると眠れなくて、仕事にも集中できないんです」

「……きっとストレスでしょう。自分では気づかないうちにストレスが溜まって、不眠になる事はよくあります。無理な時は無理せず仕事を休んで、リフレッシュするといいでしょう。念のために軽い睡眠薬を出しておきますね」

 白髪交じりの医者は機械的な口調でそう言うと「お大事に」と僕に声をかけた。「薬を出すから帰ってくれ」という事か。睡眠薬が欲しいだけの僕からした、むしろ好都合。睡眠薬を貰い、前回よりも深い眠りについて彼女と会えればそれでいいんだ。

 帰宅すると、生まれて初めて見る睡眠薬を机いっぱいに広げ、処方箋を読む。そこには丁寧に『一日一錠』と書かれているが、守る気などない。とりあえず僕は五錠を口に含み、ミネラルウォーターで一気に流し込んだ。これで僕はきっと彼女に会える。それも前回よりも長く……

 僕は意気揚々とベッドへ潜り込み、タオルケットを体に被せて、瞼を下ろした。

 そう、この場所ではない、夢の中に今から向かうのだ。

 誰にも邪魔はさせない。ほーら、やって来た。脳がだんだん重くなっていく感覚。

 彼女に手招きをされているようだ。

 僕は自分でも気づかない内に微笑みを浮かべていた。

 

 目の前に広がっているのは霧ではなかった。

 地面も壁も天井も、全てブラウン管型テレビで埋め尽くされた部屋。テレビは全て同じ映像を映しだしている。大自然、政治家の顔、東京タワー、格闘技の試合、モアイ、ガネーシャ、世界地図……統一性の無い映像が永遠と繰り返されている。

 そこに、彼女はいなかった。

 ねぇ!君はどこにいるんだ!?教えてくれ!ここに君はいないのかい!?

 僕がそう叫ぶと、テレビの映像が砂嵐を映し出した。 

 消音のまま砂嵐を映し出すテレビの中からゆっくりと白い霞が浮き出てきた。それは意識を持ったように凝集してゆき、あっという間に辺りは霧に包まれた。 僕はその光景を見て息を飲んだ。前回と同じ霧の中、僕は彼女を待つ。

 すると──

「こんにちは」

 僕はその声を知っている。忘れる訳がない。

 言葉を発するよりも先に、僕は声がした方に体を向けていた。

 そこにいた彼女は前回同様、白いブラウスを着て僕を見つめていた。

 ──あ……

 これもまた前回同様、彼女を前にして、僕は何を喋っていいのか分からなくなっていた。

「緊張しているんですか?」

 勿論ですよ。正直、君を前にして、冷静でいられるわけがありません。

「ふふふ。気を使わないでください。ここは伸明さんの夢の中なんですから」

 な、なんで僕の名前を知っているんですか?

「ここは貴方の夢の中なんですよ?伸明さんの脳内の出来事なんですから、私が伸明さんの事を知らない訳がないじゃないですか」

 彼女はそう言うと、手を口に当てクスクスと笑った。

 彼女の動作の全てが、劇映画のワンシーンのように様に見える。そんな彼女が下らない僕の名前を呼んでくれた。それだけで僕は幸せだった。

 しかし、それだけではダメだ。

 あ、あの……君は一体、何者なんですか?

「私ですか?私は……この世界の住人です。伸明さんの一部です」

 君が、僕の……一部?

「はい。ですから、伸明さんが本当に私と夢の中で会いたいと思えば、会える事ができます。この夢の世界は現実世界にある伸明さんの『脳』という一部が作り出した妄想ではありますが、限りなく現実から近い場所にあると考えています。この場所をどういった場所にするか、いかにコントロールするかは、伸明さん次第ともいえるでしょう……」

 君は、夢をコントロールする事ができると言っているのかい?

「はい。でも枕の下に何かを入れたり、睡眠の前に見たい夢の内容をずっと考えたり……なんて事をしても全く意味がありません」

 じゃあ!どうすれば!?どうすれば君に会えるんだい!?

 僕は無意識の内に大声を発していた。

 彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔をこちらに向けてくれた。

「それは私にも分かりません。ただ……」

 ただ……なんだい?

「伸明さんはすぐにそれを見つけ出す事ができると思います……それはいたってシンプルな事。それをすれば、私に会えると……思いますよ。あ……」

 彼女の戸惑いの声と共に、霧が彼女を覆い始めた。

 いけない。夢が終わってしまう。

 ──待って!待ってくれ!まだ!まだ君といたい!僕はそう願っている!願っているから!覚めないでくれ!

「伸明さん。願うだけでは意味がないんです」

 分からない!君の言っている事が全く分からない!

「すぐに分かります……何故なら伸明さんにとって私は希望なのだから──」

 そこまで言って、彼女の姿は霧に覆い隠され消えていってしまった。

 もう、彼女の姿はおろか、声すらも聞こえない。


 僕は彼女の言葉の意味が分からないまま、目を覚ました。

 窓から僕を照らしている夕日が、いつも以上に眩しく見えた。

 僕は体を起こす事すらせず、只々ぼんやりと夕日を見つめていた。

 そして、彼女の事を思い出し、涙した。                    


                         ※


 目の前でウッドベースを持ったキノコ頭の青年が茶色のアンティークチェアに腰掛けている。

 彼はウッドベースを弾こうとしない。彼には指がないのだ。付け加えるなら彼には顔もない。頭部はあるのだが、目も鼻も、口もないのだ。何故か分からないが耳だけがある。気に入らない。

 一番気に入らないのは、口がない癖に僕と彼を挟む机にはティーカップに入った飲みかけの紅茶が置いてある事だ。

 黙っている僕を見かねたのか、キノコ頭が言葉を発した。

「そう言うなよ。もうくされ縁じゃないか。君と僕が会うのは何回目だ?」

 三十四回目。その内お前がペットだと主張している三ツ目の梟「ベーコン」が出てきたのは五回。お前が坊主だったのが三回だ。

「君はどうでもいい事を記憶する能力に長けているようだね。まー残念ながら君が思っているようにこの場所はハズレの場所なんだけどね。残念でした」

 嫌味ったらしくそう言うキノコ頭に対し、僕は表情を変えない。

 只、無言で立ち上がり、両手で抱えたチェーンソーのスイッチを入れ、耳を劈く轟音と共にキノコ頭の右肩に刃を入れる。血飛沫が上がった瞬間、キノコ頭は壊れた玩具のように空っぽな笑い声を上げた。茶色のレンガ作りの部屋が瞬く間に真っ赤に染まる。

「──君の記憶に付け加えといてくれ、三十四回の悪夢の中で、僕を傷つけたのは回数は四十九回だ。全く異常だね君は。異常な君だからこそ、こんな夢を見るんだよ?あ、あ?」

 異常。確かに僕は異常だろう。

 ブラウン管の部屋で出会ったのを最後に、彼女は現れなくなってしまった。睡眠薬の過剰摂取を続け、彼女と出会う事を願い続けているにも関わらず、彼女は姿を見せない。

『枕の下に何かを入れたり、睡眠の前に見たい夢の内容をずっと考えたり……なんて事をしても全く意味がありません』

 彼女が口にしていたように、睡眠薬を飲み続けても、一回の睡眠で何度も夢を見るだけ。現れるのはキノコ頭や喋る人面犬。天狐に殺される夢も見たし、青い狸のロボットに犯される夢も見た。小学校の頃、好きだった娘も出てきたが、彼女の事を考えたら、逆に腹立たしくなってきて鈍器で殴り殺してしまった。

 そんな僕の私生活はと言うと、勿論、荒れに荒れていた。

 無断欠勤は当たり前で、あの部長ですら「有給消化をして長期休暇をとったほうがいいんじゃないか?」「まー仕事には合う合わないがあるから、ここらが潮時かもね」と言ってくる程だ。

 まーいいさ。奴の思い通り、あんな会社いつだって辞めてやる。

「相も変わらず異常だね君は。いい加減愛しの彼女に会う方法を見つけたらどうだい?」

 男の胴体は真っ二つに分かれており、たえず血が流れている。

 そんなキノコ頭の股間が隆起しているのを見た時、僕の苛立ちは極限に達した。

 そうさ、僕だってこんなおかしい夢を見たい訳じゃない。

 彼女に会いたいんだ。ただ、それだけ。

 それだけなのに──

「嗚呼!それだけなのに!それだけなのに彼女に会えない!なんて悲しい気狂いロミオ!ジュリエットは早く見つけて欲しいのに!」

 キノコ頭はまたもケタケタと笑い始めた。

 僕ではなく、彼女も馬鹿にされた気分になった僕は再度チェーンソーの電源を入れ、震える刃をキノコ頭の股間に近づけた。

       

                        ※


 僕はキノコ頭の言うとおり未だ彼女と出会う方法を見つけられないままでいた。

 何か少しでも手がかりが見つかれば、と今日は彼女と初めて出会った日と同じ一日を過ごす事に決めた。

 数日ぶりに出勤した会社は特に何も変わらず、各々が各々の仕事を淡々とこなしているいつも通りの淡白な職場であった。部長以外は僕に声をかけてこず、パソコンと睨み合っている。僕も彼らと同じようにパソコンのディスプレイに視線を向けた。

 真っ黒なディスプレイに映っているのは僕の顔。異常者の顔。ろくに食事もとらず睡眠薬を毎日摂取しているだけの生活なので、頬がこけ、麻薬中毒者のような顔になっている。目もどこか虚ろで、無精髭も生えているせいか、いかにも犯罪者予備軍といったところか……いや、忘れていたが、僕も立派な犯罪者。それも殺人犯。この見た目で殺人犯か。僕が第三者でこの顔がニュース番組で流れてきたら、思わず吹き出してしまうだろう。

 そんな事を何時間も考えていたら、会社での一日が終わろうとしていた。

 仕事は無かったのだが、自分の席についたまま、残業をしたあの日と同じ時刻に会社を出た。

 そして、あの日と同じ道から、行きつけ「だった」うどん屋へと向かう。

「──ぶっかけとろろそば、生卵トッピングで……」

 いつものメニューを頼み席に着く。正直食欲など無いので食べたくなかったのだが、今日はあの日を再現しなくてはいけない。同じ席で同じように箸を入れ同じように頬張る。

 美味いのか?正直、味の感覚が分からない。薄味のだし味が塩水のようにしか感じられないし、生卵は鼻水をすすっているようだ。只々、無味のそばが胃へと流れていく。

 久々の食事のせいか、睡眠薬の過剰摂取の副作用のせいかは分からないが、吐き気を催してきた。しかし、食べなければいけないのだ。もしかしたら、この食事が彼女が現れるきっかけかもしれない。そう自分に言い聞かせ、一気にそばをかきこんだ。

 何度もえづきながら、そばをたいらげた。

 よし、これで……もしかしたら彼女に会えるかもしれない。

 そう心の中で呟いた瞬間、食道を通じ胃酸が逆流してくるのを全感じた。

 嘔吐する。その事を察知した僕は咄嗟に両手で口を塞いだのだが、無駄だった。両手から溢れ出した吐瀉物は勢い良く机の上に広がった。

 緑色の吐瀉物に混じっている蕎麦を見た僕は、再度嘔吐してしまった。

 心配そうに店員が駆け寄ってきたが、気分が悪すぎて、店員の言葉が聞き取れない。僕は店員を押しのけ、店の外に出た。

「──ハァ……ハァ……」

 店の外はあの日と同じように蒸し暑い。唯一違うのは僕の身体的異変。

 とりあえず今日はもう家に帰って寝よう。睡眠薬を飲み、眠りにつくんだ。

 寝れば夢が見れる。もしかしたら今日、夢の中でまた彼女に出会えるかもしれない。

 気怠い体をどうにか動かし、僕は足を進め始めた。

 すると、どこからか聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「いやー大将、本当大変なんだよー僕の気持ち分かるかなー」

 誰の声か気づく前に、不快感が僕を襲っていた。

 こんな気持ちにさせるのは世の中を探しても一人しかいない。部長だ。

 僕は声がした方に目をやると、赤提灯がかかっているカウンターだけの居酒屋で部長が座っているのが見えた。入口は開かれており、カウンターの会話は外に丸聞こえ。

 僕は無意識の内に足を止め部長の会話に耳を傾けていた。

「それがさー、ただでさえ使えないやつなのにさー馬鹿みたいに休むんだよー」

 その会話の内容が僕の事だと言う事はすぐに分かった。

「あれね。絶対ヤクやってるわ。じゃないとあんな痩せ方しないもん」

 僕は心の中で軽く部長を嘲笑った。残念ながら合法の範囲だ。彼女に出会えないのなら、睡眠薬なんてすぐに辞めてやる。

「もしかしたら、女ができたりしたんじゃないですか?色惚けは男を狂わせますからねー」

 大将は包丁を叩きながら、面倒くさそうに部長に返事をした。僕はその言葉を聞いて一瞬ドキリとしたのだが、彼が僕の事を知っているはずがない。僕が困惑していると部長は大声で笑い飛ばした。

「ないない。有り得ないよ、あんなカスみたいな男に女なんてできる訳ない。第一──」

 部長は握り締めていたビールを一気に飲み干してから、こう言った。

「第一、あんな男の女なんて絶対ロクでもないよ。アイツに似た下品な女に決まってる」

 部長の言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが吹き飛んだ。理性、道徳、常識、秩序。人間が当たり前に備えている物が、吹き飛んだ。僕だけならまだしも彼女を馬鹿にするなんて絶対に許せない。

 彼女という存在は部長のような下等な生き物が口にするのも恐れ多い存在なんだ。

 僕の脳内で様々な言葉が飛び交う中、奴の声が聞こえてくる。

『君はやっぱり異常だよ。その場所にはチェーンソーはないけど、粛清する事はできる。ジュリエットを汚されたんだ、やる事は一つだろう?』

 部長が会計を済ませ、店の外に出て来た。僕は物陰に隠れながら部長の背後に忍び寄る。

『簡単さ。やり方は知っているだろう?違う違う、夢の話じゃない。君は数日前に軽々とやってのけたじゃないか』

 人がいない路地裏。奴の背後を追う僕の右手にはカッターナイフが握り締められている。

『──良かったね。やっとジュリエットと会える方法を見つけ出したじゃないか』

 あの日と同じように、こうすれば彼女と会えるのか──

 僕は高鳴る鼓動を抑えつつ、カッターナイフを持っていない左手で部長の肩を二度叩いた。

 勿論、高鳴る鼓動は人を殺せる喜びからじゃない。

 今日、彼女に会える。

 その事が嬉しくて、嬉しくて。たまらないのだ。

 振り向いた部長の眼球に向けられた僕のカッターナイフは、一寸もずれる事なく硬膜まで突き刺さった。


 その日の彼女はいつも以上に美しかった。

 霧一つない真っ黒な部屋の中で、彼女はいつものように白いブラウスを着ている。

 ──やっと君に会えた……

「やっと、貴方に会えた……」

 どちらが先にかは分からない。そんな事はどうでもいい。僕らは抱きしめ合っていた。

 初めて触れる彼女の肌は、とても柔らかく、慈愛と共に僕は彼女に包まれていた。

 もっと、もっと君が欲しい。もっと、もっと。

 そう願った瞬間、彼女は僕の唇に自らの唇を重ねた。

 彼女の唇の感覚が、現実のキスよりも鮮明に伝わり、僕は感動のあまり涙を流していた。

 ぐちゃぐちゃに顔を歪める僕を見て、彼女は爽やかに笑ってから、僕の頭を撫でた。

 僕はもう一度彼女を強く抱きしめた。



 その日から僕は躊躇いもなく、人を殺め続けた。

 三人目の男子中学生を殺した日も、四人目の女子大生を殺した日も、彼女は現れた。

 人を殺し、より深い眠りにつくために今までよりも強い睡眠薬を過剰摂取し、夢の世界に傾倒していった僕は、一日の大半を睡眠で費やし、起きている時間は人を殺し、薬を飲むだけの生活を過ごしていた。腐敗した社会の住人ではなく、自分の脳の中に存在する夢という世界の住人へと変わっていったのだ。

 社会的に言えば立派なシリアルキラーとなった僕は、今日も人を殺すためにカッターナイフを持ち、外へ繰り出そうとしていた。


                        ※


 夕闇が街を包んでいる。きっとシリアルキラーなら僕のための美しい舞台だ──とでも感じるのだろうか。勿論、僕は快楽殺人者などではないので、殺す場所は、目立たなければ白昼の大須商店街でも通勤ラッシュの地下鉄名城線でも構わない。人を殺すという事に関して、全く美学を持ち合わせていない。只、彼女と出会うための方法でしかない

 今日の標的にした、目の前にいる女子高生もただの障害に過ぎない。下校中の女子高生を選んだ理由は単純に「殺しやすいから」。今までで殺すのに一番手こずったのは他でもない部長。両目を潰して、喉を切り裂いたのにも関わらず心臓が動いていたので、何度も首を切り裂いた後に、やっと絶命したのだ。

 どうせ殺すなら手間がかからない女が楽だ。僕はそう心の中で呟きながら、女子高生の元へと忍び足で近づく。女子高生が一歩、歩を進める度に彼女の肩にかけてあるラケットケースが軽く揺れる。きっと部活帰りなのだろう。今日はそのまま自宅に帰り、下らないクイズ番組でも見るのだろうか。下らない。それなら僕と彼女が出会う架け橋になった方がいい。

 忍び足のまま近づくチャンスを伺っていると、女子高生が高架下のトンネルの中に入ろうとしていた──今しかない。

 僕は胸ポケットからカッターナイフを取り出し、矛先を彼女の首元へと合わせた。

 右手の親指を使いジリジリと刃を露出させる。さぁ、僕と彼女の架け橋になってくれ。

 僕は足を止め、歩を速めた。

 女子高生が足音に気づき、振り向こうとしている。どうせ叫び声を上げても、その喉元はすぐに切断されるんだ。こうやって──

 僕が刃を突きつけようと右手を伸ばした、正にその瞬間。

「──え?」

 僕は女子高生の首元に触れる直前で右手を止めた。

「き、君は……」

 僕の震える口は次の言葉を発しようとはしない。

 現実を上手く理解できず、僕の思考は完全に止まっていた。目の前にいる「彼女」を見た僕は、茫然と立ち尽くす事したできなかった。目の前にいるのは他でもない、夢の中にいるはずの僕が愛する「彼女」そのものだったのだから──

「なんでここに……」

 間違いない。彼女が制服を着て、こちらを向いている。美しい白い肌と黒く長い髪。

 彼女が夢の中以外で存在していたのだ。しかし、夢の中と決定的に違う所がある。

 ──それは、恐怖に満ちた、瞳。

「いやあああああああああああああ!」

 彼女はカッターナイフを握りしめている僕を確認するや否や、耳を劈くような悲鳴を上げ、腰を抜かしてしまった。

「やめて!殺さないで!お願いだから!殺さないでぇ!」

 彼女は瞳に涙を浮かべながら僕に向かって命乞いをしている。

 違う、僕は君を殺したいんじゃない。

「何を言っているんだ!僕だよ!?昨日も夢の中で一緒にいたじゃないか!?」

 すぐにでも誤解を解きたい僕は早口で弁明をしたのだが、彼女は恐怖に顔を顰めるばかりだ。

「おかしい!貴方おかしいわ!貴方なんて知らない!異常よ!」

「君は、何を……」

「いやぁ!来ないで!異常者!誰か助けて!」

 僕は彼女の言っている事が理解できず混乱し、憤怒していた。

 愛しいはずの彼女に芽生えた怒りの感情が、戸惑いという名の嵐となり僕の中で渦巻いている。

「君は……君は僕の一部じゃなかったのか!?」

 僕は何かに操られているかのように彼女に襲いかかった。

 振りかざした刃は喉元から外れ、彼女の眉間から左頬までを切り裂いた。

「ぎゃあああああああ!」

 美しいはずの彼女が汚い声を上げている。僕はその事に失望していた。恐怖と激痛にのたうち回る彼女に、もう一度刃を突き立てれば確実に彼女は死ぬだろう。しかし、憔悴しきった体は言う事を聞いてくれない。

 僕を否定する彼女、現実に存在していた彼女、汚い叫び声を上げる彼女。

 夢と現実との差異が、彼女という存在の崩壊が、僕を混沌に陥れていた。

「──おい!何やっているんだ!」

 突如、背後から聞こえてきたのは男の声。

 振り向くとそこには制服を着た警察官がパトカーから飛び出そうとしていた

 僕は反抗するそぶりも見せず、激情する警察官に取り押さえられた。

 悲鳴を上げる彼女。咆哮する警察官。

 そして、彼女を見て、微笑んでいる僕。 


 一体、ここはどこだ?夢か、現実か?

 僕は悪い夢をずっと見ているのか?。

 出来ればこの憂鬱な夢から覚めて、いつもの平穏な日々に戻りたい。

 ただ、その日々に彼女はいない。

 じゃあ駄目だ。でも彼女は今目の前にいる──僕はどうしたいんだ?

 堂々巡りの僕の脳内が導き出した答えは、深い眠りへと堕ちる事であった。

 

                        ※

 

 二度ノックしてからスライド式の扉を開けると、個室の中央に置かれた大きなベッドの上に、一人の男性患者が横たわっていた。男は身に纏っている入院患者用の一番小さいサイズの寝巻が緩々になるほど痩せ細っており、肌も死人のように青白い。

 点滴や心電計を外して葬儀場に持っていけば焼却処理をしてくれそうだ──そんな新人看護婦の不謹慎な妄想を実際に口にしたところで、他人に強く咎められる事はないだろう。

 誰だって犯罪者の、よりによって殺人犯の看護なんてしなくない。

 きっと今部屋に入ってきた白髪交じりのベテラン男性医師も同じ事を思いながら嫌々定期診療をしに来たに違いない。医師は彼女に軽く会釈をすると、白衣のポケットからペンライトを取り出し、患者の両目をこじ開けて、弧を描きながら照らした。

 ふんふん、とわざとらしく頷いた男性医は、ペンライトをポケットに戻し、ベットから少し離れた場所に置かれた丸椅子に腰かけた。

「それにしても不思議だねぇ……」

 医師はそう言うと、ばつが悪そうに人差し指でこめかみを掻いた。

「この患者さん……確かに過剰服薬や栄養失調も重なって目を覚まさないんだろうけど……」

 看護婦は除菌シートを取り出し患者の体を拭きながら「はい、はい」と相槌を打っている。

「植物状態って訳ではないんだよね。君は新人だから分からないかもしれないけど、こんな事って滅多にないんだ。病気や障害による昏睡状態じゃないみたいなんだよ……実際今、この瞬間に目を覚ましたって不思議じゃない」

 医師の言葉を聞いた看護婦は思わず手を止めてしまった。目を覚まして、途端に暴れ始めるかもしれない──そんな想像が一瞬、脳裏をかすめる。

「そう……なんですか……」

 本当に寝ているかどうかも分からない。

 もしかしたら、目の前の犯罪者が鋭い眼光で私の事を睨み付けいてるかもしれない。

 そんな事ある訳が無いと思いながらも、恐る恐る患者の顔を見てみると、患者の瞳は薄黒い瞼によって閉ざされており、安堵の胸を撫で下ろした。

「うん、ずっと寝ているだけの状態だね。もしかしたら殺人を犯した事への罪悪感によるストレスで本能的に目を覚ます事を拒んでいるのかもしれないね。実際にあるんだよ。現実に起きた事がショックで、ストレスに感じてもう目覚めたくなくなる、みたいな。怯えているんだろうね。目覚めて罰を受ける事を……」

 その時、看護婦は男にある異変が起きている事に気付いた。

 男の顔を見た看護婦は医師が自信ありげに呟いたその定説が、誤っている事を確信した。

「でも……この患者さん何か──」

 ──とても、幸せそうですよ

 しかし、看護婦は口にしようとした言葉を思わず飲み込んでしまった。

 男の屍のような顔には、誰が見ても分かる恍惚に満ちた笑みが、不気味に浮かび上がっていたからだ。

「……どうしたんだい?」

「いえ、すみません、何でもないんです。きっと目覚めたくないんでしょうね」

 看護婦の言葉を聞いた医師は、呆れた様子で「まったく」と呟いてからこう続けた。

「正当防衛で人一人殺しただけだから死刑にもならないのに……早く起きて罪を償えばいいのにねぇ」

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