(2)

「彼は、やってくるでしょうか」

 未だ不安を拭い切れないようなサイハの言葉に、巫女は眉を動かしてみせた。

「ああ、必ず奴は来る。そのために詳細を伝えてやったのじゃ」

 彼らの送り込んできた者をわざわざ選んで、言葉を届けさせた。今頃はきっと、嘲るような予告文に憤っていることだろう。

 エルドナの一件以降、エスト周辺は厳重な警戒態勢が敷かれていた。とはいえ、闇を駆ける彼らにとっては子供だましもいいところだが、それでも今、儀式の日取りが近づいているこの時に、あまり目立った動きをすることは憚られる。

 しかし彼らの儀式には竜の存在が必要不可欠。そしてその竜は今、あのラウルという神官に宿っているという。

 つまり、彼の存在がなければ、儀式は不可能。そのためにはラウルを何としても捕らえてこの場に連れてくる必要があるが、あの一件でラウル達が警戒していることは容易に想像がつく。無駄に人員を裂いてラウルを捕らえようとするよりは、その信念を見越して呼び寄せればいい。

 しばらく前から「影」へと潜入しこそこそと情報を漁っていた「鼠」がそろそろ鬱陶しくなっていたから、厄介払いを兼ねて伝令役を言いつけた。勿論、ただ言いつけたわけではない。秘密を漏洩されたそれ相応の罰は受けてもらった。

「彼らにとって我らは宿敵。なんとしても滅ぼさなくてはならない相手。与えられた機会をみすみす見逃すはずは――」

 言葉が途切れ、青白い手が胸をぐっと押さえる。まるで、そのまま心臓を抉ろうとしているかのように強く、深く爪を自らの胸に立てて、少女はしばし動きを止めた。

「巫女……」

 その苦しげな表情にサイハは表情を渋らせる。不死の体とはいえ、それは術法によって歪められた生。自然の摂理を無理に捻じ曲げた反動は大きく、彼女の華奢な体は常に苦痛に苛まれている。決して死ぬことはない、そして損壊しても時が立てば再生される体でありながら、その肉体は決して健やかなることはなく永遠の苦痛に苛まれる。

 何と皮肉な、そして何と酷い仕打ちか。

 巫女はすでに二百年の長きに渡り、その苦痛に満ちた日々を耐え抜いてきた。そして、この地に潜む「影」を導いてきたのである。

 かつては、小さな農村でごく普通に暮していたという少女。そんな彼女が、なぜ『影の神殿』と関わりをもち、そして不死の儀式を受けることになったのか、それを知るものはいない。巫女の片腕として彼女に次ぐ力を持つサイハですら、そのことを尋ねることは憚られていた。いや、そのようなことを知る必要を感じていなかった。彼女は彼らの長にして、彼らが望む完全なる世界へと導く者。そう信じて疑わなかった。

 しかし。

 巫女である彼女自身が望むのは、何であるのか。

 当然それは、彼ら『影の神殿』の悲願である「世界に死の安寧をもたらし、その死を乗り越えたものだけが集う理想世界を創造すること」であるはずだ。

(巫女の望みは……本当にそれだけなのか)

 彼らの導き手たる巫女が、同じ未来を渇望していないわけもない。頭ではそう分かっているのに、なぜかサイハは不安を捨てきれない。

 ただの思い過ごしだ。そう自分に言い聞かせてはいたが、疑問は消えない。

 なぜなら。

 巫女の口から、彼女自身の思いが紡がれたことなど、一度たりとてなかったがために。

「サイハ」

 不意に名を呼ばれて、サイハは顔を上げた。そこには、ようやく平静を取り戻した巫女が、紫の双眸を怪訝そうにひそめてこちらを見ている。

「どうしたのじゃ」

 か細い声。華奢な体。流れる白銀の髪は、かつては豊かな黒髪であったという。長い年月と絶え間なく襲い掛かる苦痛がいつしかその髪を銀に染め、その瞳を暗く翳らせた。年相応のあどけなさは消え、絶望の淵を覗いたことのあるものだけが持つ冷めた表情がその白い顔を支配した。

「い、いえ……」

「ならばよい。儀式の準備は滞りなく進んでおろうな」

「は……。儀式の日までには確実に。あとは、あの神官が……」

 何度も彼らの手を撥ね退けてきた若き闇の使い。しかも今、その身には竜が宿っているという。ラウル自身からもたらされたその言葉を、サイハは最初俄かには信じられなかったが、以前巫女から聞かされた言葉を思い出し、そして合点がいった。

 竜は、精霊でありながら血肉を備える肉体を持つ。しかしてそれは、動物のような確かな実体ではなく、かりそめのもの。彼らの本質は限りなく精神体に近い。だからこそ、何らかの方法で卵が精神体の状態でラウルに宿り、そこで孵化の時を待っているのだと理解した。

 サイハから報告を受けた巫女もすぐに同じ結論に至り、そしてそれは嬉しそうに笑ってみせたのだ。

 そのこともまた、サイハを戸惑わせる要因になっていた。

(巫女は、あの神官をやたらと買っている。その実力だけではなく、人柄や信念までもを……今までになかったことだ)

 巫女がかつてこれほどまで他人に、しかも宿敵であるユークの使いに興味を抱いたことがあったか。巫女の側に仕えて十年以上、最初はただの入信者でしかなかったものの、実力をつけ腕を上げて彼女の右腕にまで登りつめたサイハ。今、巫女に集う信者達の中で一番の古株ともいえる彼だからこそ気づいた、そんな事実。

「……巫女。お聞きしてよろしいですか」

 これ以上、黙っていることは出来ない。そんな思いでサイハは口を開いた。

「なんじゃ」

「……なぜ、あのラウルという男をそれほどまで……」

 全ての言葉を紡ぐことは出来なかった。自分でも、なんと訪ねればいいのか分からなかった。尻すぼみになった問いかけに、巫女は不思議なものを見るような顔でサイハをじっと見つめていたが、ふと小さく息を吐く。

「私の言葉が信用出来ぬか」

「い、いえ、そのような……」

「あの男は、ただ真面目なだけの神官ではない。それは、お前が一番よく知っていることであろ」

「はい」

「それでも、ユークへの信仰は本物だ。しかも打算のない、な……夏祭のあの夜、あやつは私のために術を使った。私を、少しでも苦しみから解放するためにと……」

「巫女……」

 そうだ。あの男は、あの暗く冷たい地下牢の中でも尚、自らを救うためではなく、影に囚われた者達の為に祈りの言葉を紡いでいた。

「正体を知らなかったとしても、見ず知らずの人間のために祈りを捧げることの出来るその信仰は、深く強い。恐らくは世のユーク信者の中でも、あれほどユークの魂に近しいものはいないやもしれぬ」

 どこか嬉しそうな響きの巫女の言葉。彼女は位でいえば大司祭、つまりはユーク本神殿長に匹敵するほどの力を持っている。その彼女をして、「ユークの魂に近しいもの」と云わしめる男、ラウル。

「あやつは必ず我らを倒しにやってくる。その時こそ、我らの悲願が叶う時。ゆめゆめ準備を怠るな」

「はっ……失礼します」

 かしこまり、足音もなく部屋を去っていくサイハ。独りきりになった部屋で、巫女は寝台の上に膝を抱え、顔を埋めた。

「……同じ神を崇めているというのに、なぜ我らはこんなにも違う道を歩んでいるのだろうか……」

 まるで、自分へと問いかけるように呟く。もちろん、答えは返ってこない。

「我が悲願……叶えられるか、若きユークの御使いよ」

 少女の傍らには、一冊の古びた本。

 玩ぶ様に頁を繰る。そしてあるところでその指が止まり、そこに記された文字をそっと追う。

 それは邪法。破滅の儀式。大いなるものと小さき命。それらを代償に叶えられる滅びの祈り。今、彼女の命により、荒野の片隅で進められている儀式の準備。世界に死の安寧を。そしてその後に訪れる完全なる静寂の世界に思いを馳せて、信者達は一心に準備に取り組んでいることだろう。

「大いなる力、小さき命と影をもて、全き闇に捧げ祈らん。嘆きの声、三重の螺旋と五重の陣。大地を覆い、空を埋め、世界に完全なる静寂をもたらさん」

 くすり、と少女は微笑を漏らす。

「小さき命……か」

 そっと、頁を撫でる。その白く細い指先に触れた文字が、ぐにゃりと歪み、形を変えていく。

 そこに現れたのは、並びの変わった文字の連なり。目を細め、まるで恋文でも読んでいるかのように瞳を輝かせて、少女はそれを見つめ続けていた。



 巫女の部屋を辞したサイハは、その足である部屋を訪れていた。

「サイハ様、いかがなさいました」

 部屋にて彼を出迎えたのは、妙齢の女性。しかし彼女の豊満な体は黒い装束に一部の隙もなく包まれ、その首から下げられた聖印は、司祭しか持つことを許されない意匠が刻まれている。

「メヴィエズ司祭の処分は」

「すでに」

 言葉短く答える女性に、サイハは満足そうに頷いた。メヴィエズは先日までエルドナの分神殿を任せていたあの司祭だ。大失態をやらかした彼には、それなりの処分が言い渡された。それを任されたのが、サイハの信頼厚いこのライーザだ。彼女は『影の神殿』の中でも選りすぐりの精鋭部隊を率いる立場にあった。

「ライーザよ。手の者を連れて、かの神官をここへ連れてまいれ」

 巫女の命令にはないその指示に、しかし女性は畏まって承諾の意を示す。

「……承知しました。しかし、それは巫女のご命令とは……」

「勿論、私の独断だ。巫女の言葉を疑うわけではないが、念には念をと言う。しかと、言いつけたぞ」

「はっ……」

 畏まるライーザを見下ろしながら、サイハは心の中で小さく溜め息をつく。

(何故……こんなに心が騒ぐ……あの、神官のせいか……)

 ラウル=エバスト。その存在は苛烈で鮮明な印象をサイハの心に残している。あれほどまでに濃い闇を抱え、そしてその闇に捕らわれることなく、また闇の中で自分を見失うことなく、ただひたすらに力強く歩み続ける彼の、その強さが。

 羨ましく、そして憎かった。

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