(4)

 青い闇に包まれるエストの村で、その建物だけが灯りをつけていた。

 広場に面した二階建ての建物。大きな入り口の横には、『見果てぬ希望亭』と書かれた看板が下がっている。

 息を切らしながら店の前に立ったラウルは、店がまだ開いていることにほっと胸を撫で下ろした。

(良かった……)

 ラウルの小屋からここまで、全力で走ってもそこそこの距離がある。その間、籠に入った卵はさっきのような大声では鳴かなくなったものの、鳴いたり止んだりを繰り返していた。

 意を決して扉に手を掛ける。両開きの扉は、すんなりと内側に開いた。

「いらっしゃい、こんな夜更けにお客さんなんて珍しい……あら、ラウルさんじゃないの?」

 奥から声を掛けてきたのは、先日会ったレオーナその人だった。その腕には赤ん坊が抱かれている。

「こんな時間にすいません」

「うちはいつも、このくらいまで開けてるから全然構わないのよ。でもどうしたの?」

 寝間着の上に外套、髪は適当に結んだだけ、そして手に抱えているのは籠に入った卵という格好のラウルを、レオーナは優しく手招きをする。暖められた店内の、一番特等席である暖炉の前までラウルを呼び寄せて、彼女はそっと、赤ん坊の眠りを妨げない程度の声で尋ねてきた。

「一体どうしたの?」

「実はその、ご相談したいことが……」

 ラウルが切り出そうとした途端、

――ビィィィィィィィィッ!!――

 思い出したかのように卵が鳴き叫ぶ。その音量に、思わず籠を取り落としそうになったラウルに、レオーナは怪訝そうな顔をした。それもそのはずだ。彼女にはこの鳴き声は聞こえていない。

「? どうしたの? 具合でも悪い?」

「い、いえ……あのですね」

 事情をかいつまんで話すと、レオーナは物珍しそうに卵を見つめた。

「それじゃ、その声はラウルさんにしか聞こえないのね?」

「そうなんです。それで……」

――ビィィィィィィィィッビィィッ!!――

 耳を押さえるラウルに、レオーナはかわいそうに、と憐憫の眼差しを向ける。はたから見れば、ラウルがそれこそ中耳炎でも起こしているようにしか見えないのだが、本人からしてみれば新手の拷問もいいところだ。

「……レ、レオーナさんには聞こえていないと思いますが、ものすごい大音量で鳴き叫んで、止まないんです」

 頭の中がキンキンするくらいの大音量だ。音を叩きつけられているような感じである。

「で、あたしに相談って?」

 きょとんとしているレオーナに、ラウルは申し訳なさそうに尋ねた。

「なぜ鳴いているのか分からないので……例えば人間の赤ん坊なら、こういう時どういう理由で泣くのだとか、どうすれば泣き止むのか、教えていただきたくて……」

「なるほど、そういうことね」

 レオーナは腕の中の赤ん坊に視線を落とす。生まれて半年ほどだろうか、赤ん坊は柔らかい毛布に包まれて、スヤスヤと眠っている。

「まあ、赤ん坊が泣く理由は大体決まってるわ。お腹が空いてるか、寒いか暑いか、オムツが濡れてるか、甘えたいか、機嫌が悪いか、体調が悪いか……そんなものよ」

「なるほど……」

 言われた言葉を自分の中で整理してみる。

 まず、卵だからオムツは関係ない。お腹が空いているというのも、まあ卵なのだからないだろう。大体腹が減ったと言われても何をやればいいのか見当もつかないし、卵の状態では何も摂取することは出来ないだろう。体調が悪いと言うのも、ちょっと考えられない。

(となれば、寒いか、甘えたいか、機嫌が悪いか……?)

「甘えたいというのは……?」

「赤ん坊って抱っこが大好きなのよ。まだ自分じゃ体を動かせないから、同じ体勢で寝ていると飽きるし、疲れるんだとも思うけどね。抱っこしてやると喜ぶの」

 ラウルは卵をじっと見た。

(抱っこ……)

 というより、ただ抱えているという表現にしかならなそうだ。何しろ、レオーナの抱きかかえている赤ん坊より二周り以上でかい。

「まあ、それだけ包んでるなら寒いんじゃないと思うし、抱っこしてみたら?」

 レオーナの言葉に、ラウルはしぶしぶ卵を籠から抱え上げる。

――ビィィィィ……――

 鳴き声がおさまってきたが、しかしまだぐずり続けている卵。

「こう、ちょっと揺すってあげるといいのよ」

 ぎこちない抱き方のラウルを見て、レオーナが自分の赤ん坊を軽く揺すってみせた。

「こ、こうですか……」

 見よう見まねで卵を揺らすラウル。卵はその振動に合わせてしばらくピィピィと鳴いていたが、次第に静かになっていった。

「どう? まだ泣いてる?」

「いいえ……鳴き止んだみたいです」

 たかだかこれだけのことで鳴き止むとは……。大体、揺らして欲しいだけなら、ここまで抱えて走ってきた時の振動でなぜ鳴き止まない、と納得いかない表情のラウル。その心境を察したのかレオーナは、

「そういうものじゃないのよ。人肌恋しいっていうのもあるのよ。赤ん坊はね」

 と笑う。なるほど、六人も育てているだけあって、言葉に重みがある。

「個人差もあるけど、赤ちゃんは抱っこが大好きなのよ。どうしても泣き止まない赤ちゃんや、布団に降ろすと泣く赤ちゃんだと、抱っこしたまま寝たりもするわよ」

(抱っこしたまま寝る……?)

 一瞬、卵を抱えたまま眠る自分の姿を想像して、げんなりするラウルだった。


 ひとまず鳴き声が止んでほっとしたラウルは、店内をぐるりと見渡した。

 当然といえば当然だが、店内に客はいない。それぞれの卓に置かれた小さな蝋燭の明かりが、静かに揺れているだけだ。

「なぜ、こんな夜中まで開けているんです? この時間までお客が?」

 すでに時刻は真夜中を過ぎている。都会の酒場なら朝方近くまでやっている店もあるが、こんな小さな村では夜中の客など少なかろう。

「そりゃもう、ほとんど来ないわよ」

 あっけらかんと言うレオーナ。

「でも、開店当時からの習慣でね、闇の二の刻までは店を閉めないことにしてるの。その分朝が遅くなっちゃうけどね」

 闇の二の刻といえば、真夜中ちょうどである。都会育ちのラウルにはまだ夜も半ばくらいの感覚があるが、日の出と共に起き、日暮れと共に一日を終える農村では、非常時でない限り起きることのない時刻だろう。

「遺跡探索の冒険者で賑わっていた昔は、このくらいの時間になってようやく戻ってくる客もいたらしいわ」

 そんな客の為、遅くまで店の灯りを落とさなかった習慣を、今でも守っているというのだ。

「蝋燭が勿体無いからやめようとも思うんだけど、暗闇の中で灯る光って、すごく安心するじゃない」

 そんな場所が村に一箇所くらいあってもいい。それに、何かあった時に村人が駆け込むための目印にもなる。

「……もっとも、今は鐘つき堂が壊れちゃってるから、時間はかなり適当だけどね」

 そう言って笑うレオーナ。しかし、時間が分からないから早く閉めようという考えはないらしい。

「うちだけじゃなくて、村長さんの所もそうよ。大体同じくらいまで玄関を開けてるの。何かあった時に村人がすぐ駆け込めるようにね」

 と言っても、何かあったことなんてほとんどないんだけど、と付け加えて笑ってみせるレオーナ。ラウルはそれが一番ですよ、と穏やかな笑みを返した。


「……それでは、そろそろ失礼します。突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

 卵も静かになったので、ラウルは卵をそっと籠に戻すと立ち上がった。

「とんでもない。こんなことでお役に立てたなら嬉しいわ。何かあったら、気軽に聞きに来て頂戴ね。お客さんとしても大歓迎よ」

 ちゃっかり言ってくるレオーナに礼を返して、ラウルは籠を持ち上げる。

「それじゃ、失礼します。良い夜を」

「おやすみなさい、ラウルさんに卵ちゃん」

(た、卵ちゃん……)

 思わずがくっとなるラウル。まったく、妙な呼び名がついたものだ。


* * * * *


 小屋に戻って燭台に火を灯すと、ほっと一息ついたラウルは、籠を暖炉前の定位置に戻した。火を落としてあるとはいえ、ここが小屋の中で一番暖かい。

 北大陸は寒い。五の月半ばと言えば、ラウルの故郷ではもう外套など必要ないくらいに暖かいのに、ここでは未だに必需品だ。特に今日は冷え込んでいる。寝巻きの上に外套といういでたちで外出してしまったラウルの体は、思いのほか冷え切っていた。

(上着を着て寝るか……。このままじゃ寒くて寝られやしない)

 そんなことを考えながら寝室に向かおうとするラウルに、後ろから鳴き声が呼ぶ。

――ピィィィィィ――

 今まで静かだったのに、とげんなりするラウル。しかし、先程までとは鳴き方が違うような気がする。

「もしかして、寒いのか?」

――ピィ――

 なんとなく、肯定らしい響きが返って来た。

「分かったよ。毛布持ってくるから待ってろ」

 仕方なしに寝室から毛布を取ってくる。予備のものなどないから、ラウルが掛けて寝ているものだ。

(俺が寒いじゃないか……)

 しかし、大人のラウルと違って卵はまだ体温調節など出来ない(だろう)。多少寒いのは重ね着で我慢しよう、と卵に毛布を掛けてやるラウルだったが、

――ビィィ……ビィ――

 何かまだ不満げな卵。

「何だよ」

――ビィィ……――

「まだ寒いってのか? それ以上は無理だぞ! 俺の布団がなくなっちまうじゃないか」

――ビィビィッ!――

 いやいや、とでも言いたげな卵に、ラウルは溜め息を一つついた。

 暖めてやる方法は簡単だ。これ以上布団はないのだから、レオーナが言っていたように自分の布団に入れてやるのが一番手っ取り早い。 しかし。

「……俺はお前と添い寝なんて嫌だぞ」

 卵と添い寝。なんとも異様な光景である。  寝台を共にするのは女だけで充分だ。野郎と寝るよりはマシだが、卵とだなんて……。

――ビィィ……――

 今度は悲しげな鳴き声が響く。

「嫌だっつうの」

――ビィ……ビィィィィ!――

(……仕方ないか……)

 余りにも切ない声に、とうとうラウルが折れた。

 寒いのも今のうちだけだし、これで冷え切った部屋に置き去りにして鳴き続けられるのも鬱陶しい。

「今日だけだぞ! いいな!」

 そう言って毛布ごと卵を抱え上げる。

――ピィィ……♪――

 何やら嬉しそうな卵の声に、ラウルは深く溜め息をつきながら、寝室へと向かった。

(なんて情けない……なんでこんなとこで卵の世話なんぞ……)

 しかし、村人の前で宣言してしまった以上、投げ出す訳にも行かない。

(まあ、うちで死なれても後味悪いしな……)

 寝台に卵を置き、ありったけの毛布と布団を掛ける。そして、意を決してその横に滑り込んだ。

 体温で、じんわりと温まっていく布団の中。卵もほんわりと熱を発し、心地よい温度がラウルをも包み込む。

 何気なく、卵にそっと指を伸ばしてみる。すべすべとした肌触りが心地よい。

――ピィッ!――

 暖かくなって嬉しいのか、卵が鳴いている。そんな単純な反応に、思わずラウルの頬も緩んだ。

「なんだよ、現金な奴だなあ」

――ピッ♪――

「分かったから、とっとと寝やがれ」

 傍目から見たら、なんとも微笑ましい親子像(でも卵……)であった。


 ラウル=エバスト。二十五歳の春。

 卵との奇妙な同居生活は、まだはじまったばかり……。

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