第二章 影

(1)

 人は神の声を聞いた時、初めて神に仕えることを許される。

 そう、神官と呼ばれる者は全て、一度は神の声を聞いたことがあるのだ。

 例えそれが、どんな内容だとしても。


 あれは、神殿の屋根から落ちて生死の境をさまよった子供の頃。

 確かにその声は聞こえた。

 子供のような、それでいて落ち着いた声。

 遥か遠く。ぼやける視界の彼方に、黒い外套を翻して。

『起きんか、馬鹿者』

 そう。それがラウルの聞いた、初めての神の声。



「……随分いやな『神の声』ですねえ」

 じゃがいもの皮をむきながら、呆れたような声で言うマリオに、ラウルはそうだろう? と憤慨してみせる。

「普通、神からの第一声ってのはよ、『汝が道を求めよ』とか『我、汝の祈りを聞いたり』とか、そういう厳かなもんだろうと思うじゃねえか。それが……」

 馬鹿者呼ばわりである。しかもいきなり。

 そんな第一声だったものだから、てっきり何かの夢でも見たのだと思ったのだが、その声を聞いた翌日から神聖術が使えるようになっていたので、これは間違いないということになった。それからずっと、ユーク本神殿の神殿長に徹底的にしごかれてきたのだ。そう、思えば辛い日々だった……。

 回想に突入しかけたラウルを、マリオの声が引き戻す。

「うだっ……!」

「あ?」

 見れば、じゃがいもを握るマリオの手からどくどくと血が出ているではないか。どうやら包丁を持つ手が滑って指を浅く切ってしまったらしい。

「うわわわ……」

 傷の割に出血が激しく、慌てふためいているマリオに、

「馬鹿野郎、何やってんだ」

 慌ててその手から剥きかけのじゃがいもを取り上げ、てきぱきと止血をするラウル。その手際の良さにマリオが呆気に取られている間に、救急箱を持ってきてあっという間に傷の手当てを終えた。

「ほら、これでいいだろ」

「あ、ありがとうございます」

 余分な包帯を巻き直しているラウルを、感動の面持ちで見上げるマリオ。

「ラウルさん、すごい手馴れてますね。まるでお医者さんみたいですよ」

「ふん、褒めても何も出ないぞ」

 素直な賞賛に、照れくさそうに頬を掻いているラウルは、ふと気になっていたことを口にした。

「なあ、そういやここには医者なんてのはいないのか?」

「この辺りにはいませんよ」

 当たり前のことのように言ってのけるマリオ。

「それじゃ怪我や病気の時はどうするんだ?」

「簡単な傷や病気の手当てなら、うちの父さんが出来ますよ。父さんの手に負えない場合は、お医者さんやガイリア分神殿のある街まで行くしかないんです。ここから三日くらいかかるんですけど」

 聞きしにまさる辺境ぶりだ。都会では考えられない。

「そりゃまあ、難儀なことで……」

「仕方ないですよ、こんな小さな村ですもん。せめて治癒の術が使えるガイリアの神官さんが一人でもいてくれればいいんですけど、そうもいきませんもんね」

 そう言ったマリオは、ふと今の言葉で長年抱いていた疑問を思い出した。

「そう言えば、ラウルさんって何か術を使えるんですか?」

 神々に仕える者は、それぞれの神に祈ることで奇跡の力を行使することが出来る、それは仕える神によって様々で、例えば光と命の女神ガイリアならば、傷や病気を癒す治癒の術。風の女神ケルナならば、風を操る術といった具合だ。

 この村に長年住んでいるゲルク老人もラウルと同じくユーク神官だが、彼が術を行使しているところをマリオは生まれてこの方見たことがなかった。

 そんなマリオの問いに、ラウルはそうだな、と答えてくれる。

「闇を作り出す術、眠りの術、心を落ち着かせる術、あとは死者返しか。そんなもんかな」

「ふぅーん……」

 今一どんなものか想像がつかなかったが、いずれにしても普通の人間には出来ないことだ。

「神様に仕えると、そんな術が使えるようになるんですか」

「まあな。でも他の宗派ならもっと多彩だぞ。うちは地味だからなあ」

 ユーク神は死と闇を司る神であるため、神官の使う術もそれに則したものになる。術が地味なことも、ユーク神官のなり手が少ない原因とも言えよう。前述の光の女神ガイリアや炎の女神パリー、大地の女神ルースなどは、神から授けられる術が便利であることから、信者も神官も多いのが現状だ。

「そうなんですか?」

「そうなんだよ。ほら、とっととそのじゃがいも剥いちまえ」

「あ、はいっ」

 そんな話をしながら昼食の準備をする二人の横には、籠に納まった謎の卵(仮称)。

 ラウルに拾われてからすでに十日。時折揺れているものの、今のところ何の変化も見えない卵だったが、それでも毎日のようにカイトが来ては観察・測定を繰り返している。

 ひとまず暖めるということで、なるべく火のそばに置いているのだが、何しろ卵である。暑がったり寒がったりする気配がないので、これが良いことなのか悪いことなのか、判断に困っているラウルだった。

「そろそろエスタスさん達が来る頃かな」

 皮を剥き、適当に切ったじゃがいもを鍋に放り込みながらマリオが呟く。

 ラウルが来てからこっち、朝食後にマリオが、そして昼食前に三人組がやってきて、そのまま夕方まで小屋で過ごすという図式が定着していた。

 最初は好奇心だけで通っていたマリオも、いつの間にかラウルにすっかり懐いたらしい。まるで子犬のように目をキラキラさせてラウルに色々な話をせがんで来るマリオに、はじめは戸惑っていたラウルも、次第に慣れて適度に相手をしてやるようになっていた。

 窓の外では太陽が中天に差し掛かり、ようやく春本番となった大地を照らしている。

 すでに暦は五の月に入っていたが、北大陸ではようやく短い春が巡ってきた頃だ。そしてすぐに夏になり、秋になって、十の月頃には長い冬が到来する。

 そんな春の気配溢れる丘の小道を、マリオの読み通り、えっちらおっちら登ってくる三人組が窓から見えてきた。



「こんにちは! 今日もお邪魔します」

 扉を開けての第一声は、いつも元気なエスタスである。何やら重そうな麻袋を肩に担いでいた。

「今日も観察させてもらいますね!」

 張り切っているのはカイト。毎日さほどの変化は見られないというのに、観察にかけるその熱意は揺らぐことがないらしい。流石は知識神に仕える神官である。

「いい匂い」

 台所から立ち込めてくる昼食の匂いをかぎつけて、アイシャ。いつ見ても無表情に我が道を行く彼女だが、さすがに八日もするといい加減ラウルも慣れてきた。

「今日はお裾分け持ってきたんですよ。これ」

 エスタスが麻袋の口を開ける。中には取れたての泥付き野菜が詰め込まれていた。

「どうしたんだ、これ?」

「今、鐘つき堂の修理を手伝ってるんですけど、そこで報酬代わりにもらったんですよ」

 突風で壊れた建物のうち、ユーク分神殿の次に被害が大きかったのが鐘つき堂だ。

 ラウルも先日見てきたのだが、村で一番高い建物だった鐘つき堂は、三角屋根が崩壊し、煉瓦造りの壁も上部が半壊していた。そこに取り付けられていた鐘はものの見事に地面に落下し、しかも歪んでしまっている。

 おかげで現在、時を知らせる鐘が鳴らない為、村人の生活にも多少の影響が出ていた。

 とは言っても元々、日の出と共に起き、日の入りと共に休む暮らしであるから、さほどの影響はない。

 むしろ、村で一番困っているのはラウルかもしれなかった。

 気忙しい都会暮らしが長いラウルである。それが、こう時間の区切りのない生活に放り込まれると、何かえも言われぬ不安に駆られてしまうのは、悲しき習性だろう。

 そんな訳で一刻も早い修復をラウルも望んでいるのだが、肝心の鐘を修理するのに時間がかかるため、建物が直ったとしても、村に鐘の音が戻るには当分時間がかかりそうだ、とはカイトの談である。

 小さな村では時を知らせるのは鐘の音だが、少し大きい街になれば、時計台がその役割を果たす。ラウルが生まれ育ったラルスディーンには、毎刻ちょうどに人形が踊る仕掛けがされた時計台が広場にあり、人々の目を惹きつけていたものだ。 時計台前の広場で、仲間とつるんで女の子をひっかけていたあの頃が懐かしい。

「そう言えば、鐘の修理が終わるまで、他の鐘つき堂で余っている予備の鐘を借りるって話ですよ」

 エスタスの言葉に、ラウルの顔が綻ぶ。

「そうか、そりゃ良かった」

 これできちんとした時間にお祈りが出来る、と喜んでいると、アイシャが意外そうに片方の眉をぴくりと上げる。

「意外に真面目」

 その言葉に憤然と食って掛かるラウル。

「お前な……。俺を何だと思ってるんだ? 俺は曲がりなりにも神官だぞ。毎日の祈りだって欠かさず唱えてるし、聖典だってきちんと全編暗記してるんだ!」

 そう。ただの口の悪い女好きに見えるラウルだが、別にユークへの信仰心が薄い訳ではない。

 神の御声があまりにひどい内容であっても、彼は確かにユークの声を聞いたし、ユークに祈りを捧げることで数々の術を使うことが出来る。

 ユークの教義である「安らぎの尊厳」はラウルの信条でもあるし、死者の安らぎを妨げる墓荒らしやら、死者の肉体を操って悪事を働く死霊術士などは許し難い、と心からそう思っているのだ。

 そう力説するラウルに、

「そうか」

 とだけ答えて、さっさと台所に消えるアイシャ。

(このアマ……)

「ま、まあまあ。そう言えば、鐘つき堂のコーネルさんが、是非ともラウルさんに会いたいって言ってましたよ」

 慌てて場を取り繕うとするエスタスに、ラウルも怒らせていた肩を下ろす。

「鐘つき堂の? ルファスの神官か。聞いた話じゃ、落ちてきた瓦礫で怪我したっていうが……」

 時を知らせるのは、時を司る神であるルファス神に仕える者の役目。鐘つき堂や時計台は、どんな小さな建物であってもルファス神殿としての役割を果たしている。

 その鐘つき堂に住み込んでいるルファス神官はあの夜、落ちてきた瓦礫の下敷きになって、足を痛めたと聞いていたのだが、

「骨が折れたわけじゃなかったらしくて、ちょっと足を引きずってますけど元気ですよ」

 そんな状態にも関わらず壁の修理をしようと梯子に登ったり煉瓦を運んだりしようとして、村人が必死に止めているという。なんとも元気な人間だ。

「この村にいる神官はその人だけか?」

「そうですね……。オレが知る限りじゃそのコーネルさんと、ゲルク様とカイトだけですね」

 都会育ちのラウルには信じられない数だが、こんな最果ての小さな村ではそれでも多い方なのだろう。

「しかしそれじゃ、子供の読み書きなんかは誰が教えてるんだ?」

 普通は、その地域にあるルース分神殿が子供を集め、読み書きや算数、歴史などを教えている。ルースは大地と知識を司る女神。その女神を奉る神殿は学問を尊び、嘘偽りない真なる歴史の編纂を使命としている。

 ラウルの問いにエスタスは、苦笑してすっと指差した。その先には台所の扉があり、開け放たれた扉の向こうには、かまどの前に置かれた卵を楽しそうに観察しているカイトの姿がある。

「あいつがぁ? そりゃ確かにルース神官だろうが……」

 とても、子供に勉強を教えられるようには見えない。しかしエスタスは、

「いや、ここは子供も少ないし、それまではフェージャ村まで通ってたってこともあって、結構重宝がられてるんですよ」

 隣村フェージャまでは子供の足では二刻ほどかかる。まして、冬になれば雪に閉ざされてしまうから通うことは出来ない。

「でも、教室が壊れたんじゃ当分無理ですね」

「教室?」

「ユーク分神殿ですよ。村で一番大きくて人が集まれる建物はあそこしかなかったですから。あの神殿は村の集会場も兼ねてましたからね」

 確かに、あのユーク分神殿は村の規模の割には立派な建物だった。こんな小さな村には不釣合いなくらいである。

 その分神殿は、動かせる物を全てこの小屋に移し、入り口前に「閉鎖中 神殿に御用の方は丘の上の小屋まで」と書かれた看板を立ててある。神殿再建資金が集まるまでの臨時処置とはいえ、いつまでこの状態が続くのか皆目見当がつかない。

(早いとこ何とかしないとなあ……)

 などと考えていたラウルは、さて、と立ち上がった。

「昼のお祈りの時間だな」

 時刻を正確に知る手段がないので、腹時計で祈りの時間を決めているラウルである。

 祈りは昼、夕方、深夜の三回。闇の神なので朝はない。ユーク神は朝が弱いので、午前中のお祈りは聞こえていないのでは、という俗説が神官の間で密かに囁かれている。それを裏付けるかのように、午前中には術の効力が弱いという報告もあるくらいだ。

「じゃ、昼食が出来たら声掛けますね」

 エスタスの言葉に片手を挙げて答えると、ラウルは書斎に向かった。



 書斎には神殿から運び出した本や書類などの他に、なんとか運び出すことの出来た神像も置かれている。少々欠けたりひびが入ってしまったりしているが、まあ仕方ない。

 ユーク神は、肩までの黒髪に青い瞳、黒い外套を羽織った少年の姿で表現される。大きな神殿なら彩色を施した豪華絢爛な神像を奉るところだが、ここでは御影石で彫られた質素な石像を奉っていた。

 神像の前に膝をつき、静かに祈りを捧げる。神聖語と呼ばれる言語で綴る祈りの文句は、安らぎを願う言葉だ。

(ユーク様、頼みますから俺に安らぎを下さい……)

 そう。今、誰よりも安らぎを欲しているのは、都会から一転飛ばされてきた挙句、妙な卵の世話をする羽目になり、そのせいか身辺もやたら騒がしいこのラウルであろう。

 一生懸命に念じていると、突如頭の中に響く声があった。

『無理だな』

 はっとして両目を開ける。キョロキョロと周りを見回すが、勿論誰もいない。

 ラウルはキッと神像を見上げた。気のせいだろうが、ユーク像がざまあみろというような表情を浮かべている気がする。

(今の……ユーク様か?)

 だとしたら、第一声に引き続き、ろくでもない神の御声を聞いたことになる。

(勘弁してくれよ……)

 頭を抱えるラウルの耳に、今度は、

「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「ひぃっ……、な、なんだぁ、これぇっ……!」

 という、けたたましい悲鳴が飛び込んできた。

 どうやら、当分安らぎとはかけ離れた生活を送らねばならないようだ。

 溜め息をつきながら、ラウルは声の聞こえてきた台所へと走っていった。

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