第五話 白色憂鬱

 白い寝台、白い部屋、緩く簡素な服。

 そうした物に囲まれていると、何だか自分が酷い病気か怪我でもしてしまったんじゃないかって気持ちになってしまう。蓋を開けてみれば別にそんなことはちっともないんだけれども。

 遍寧祭の異変と混乱、戦闘。その全てが不可解な形ながらに収束し、一先ずの安堵を得た私を待っていたのは、念の為と用意された検査と安静だった。

 頭部の負傷は恐ろしい。

 見た目には浅く、どうってことないように見えてもその実、中身は深刻な損傷を得ていた、なんてことも決して少なくない。放って置いて大惨事になった、なんて例も実際にあるという。

 何かの悪意でまともに礫を後頭部に受けた上、小さな傷を幾つか負っていた私がそのまま放って置かれる筈もなく、総合棟に設けられた医務室に問答無用で放り込まれてしまった次第である。

 もっとも検査は問題なし、念の為、と言うか折角だしと経過観察の為に寝台の一つが提供され、遍寧祭から一夜明けた今日の夜には自室に戻れることになっているのだけれど。

 しかし、そうは言っても誰もが一安心した、という訳ではないらしい。

「なあ幸慧、本当にもう良いのかよ」

「だから、問題なしって言われたし私自身体調に問題もないから大丈夫なんだって」

「そうは言っても頭じゃねえか」

 腕を組んで、不服そうに口を一文字に閉ざす永夜。医務室に押し掛けて来るや否や、大丈夫か問題はないのか俺がついてりゃこうはならなかった本当に大丈夫なんだろうな無理してねえだろうな……云々。兎に角随分と心配していたらしく、引っ張って来られた市吾も妙に疲れた顔をしていた。

「だからよお、ゆきも大丈夫だって言ってんじゃんよ。心配し過ぎ」

「うるせえ」

 ふん、と鼻を鳴らす。

「分かってんだよ、んなことは」

 かと思ったら深々と溜め息を吐いて情けない顔で肩を竦める。前髪で隠れていない左目も、何時もの鋭さを失う。

「しっかしとんでもねえ話だぜ、禍者と交戦してる祓衆に茶々入れるなんてよ。何処の馬鹿だか知らんが」

「だよなあ。死にてえのかって話だぞ」

 そうだね、と同意しながら考える。

 あの、礫。どうやってあの場所まで、とかそうしたことは分からないけれど、でも、犯人は何となく分かっている。改史会。きっとそう。それ以外に考えられないし、それ以外がいるなんて考えたくない。

「まあ、俺らが考えたってまともな結論なんざ出ねえだろうがな。生憎と頭の出来が悪い」

「な。それこそ倉科隊長やゆきの領分だ。だから永夜よお、この話はゆきも無事だし一旦お終いで良いだろ?」

「……まあ、そうだな。これ以上は堂々巡りって奴になっちまうだろうし」

 うーん、と唸って一瞬顔を盛大に顰めた永夜。かと思えばさっきまでとは打って変わり、からりとした表情になるとあっさりと立ち上がる。多分、考えるだけ考えて満足したんだろう。纏まりの悪い、後ろで一つに結い上げられた髪が揺れた。

「悪かったな、騒いで。俺ら戻るわ。俺は常葉の野郎に無断で来てるし」

「……それは大丈夫なのかな」

「ちょっとくらい、何も言わねえよあいつは。まあ、一応な。何かあるかも知れねえしよ」

「俺も戻る。始末書返上してもらっちまったし、その分色々と頑張らねえと」

 んじゃな、と軽く手を振る二人にこっちも手を振り返して見送る。そうして息を一つ、吐き出す。ゆっくりすれば良い、なんてことも言われたけれど、こういう風に心配されると、逆に落ち着けない。やっぱり、何時も通りが一番だ。そんなことを考えながら枕元の本に手を伸ばそうとして、ふと何かが聞こえた気がした。決して煩くはないけれど、言い争いにも近い、そんな声。何だろう、なんてその声の方向、医務室の出入り口に視線を向けると、程なくして長身の二人が入ってきた。

「やあ、松尾さん」

「ごめんなさいね、煩くして」

 当たり障りのない挨拶に、苦笑交じりの謝罪。まさか、というような二人だったから一瞬固まってしまって、それから慌てて頭を下げる。

「常葉隊長、甘利隊長補、お疲れ様です」

「良いのよそんなに固くならなくって! いきなり押し掛けたのはあたしたちな訳だし」

「でも、どうして医務室に?」

「君じゃなくてね、うちのが一人、浅からぬ怪我をしているんだよ」

 姿勢を崩さぬまま、にこりと笑んで常葉隊長は言う。

「まあだから、確認だね。その方が良いだろうって、甘利がさ」

「仮にも部下の一大事だもの。……まあ、当の本人はあのザマなんだけど」

 明るい赤茶の瞳が面白そうに細められながら横に滑る。そこには寝台の上で思いっ切り硬直している青龍隊の人。……完璧に虚を突かれているって感じだ。

「ほらぼさっとしないの! 調子は?」

 はあ、と大袈裟に溜め息を吐いて深弦さんはその人に歩み寄る。言葉の調子は柔らかだ。青龍隊の人もそれで少しだけ落ち着いたのか、肩の力を抜いて深弦さんの投げ掛ける質問にぽつぽつと答え始めた。

「さっきね、片河に絡まれたんだよ」

 その様子を眺めながら、唐突に常葉隊長は、そんな言葉を落とした。少しだけびっくりしながら見上げると、薄っすら青みがかっているようにすら見える瞳がこちらに向けられていた。

「何時ものことだけれどね、彼は威勢が良い。騒がしかったかな?」

「いえ……いや、ちょっとだけ」

「正直な子だ」

 ふふ、とこの上なく品の良い笑声を零して、常葉隊長は口の端を微かに吊り上げた。黒瞳は変わらずこちらに据えられている。凪いだ水面のような目。それが何だか、空恐ろしい。

「甘利と、君は仲が良かったね」

「はい」

「怖くはないのかい? ほら、彼はああだろう。中々に上背もある」

 ああ、というのは何だろう。少し考える。言葉遣いとか、所作とか、その辺りを指しているのだろうか。上背は確かに、ちょっと未だに驚く所ではあるけれど。何たって、私より頭二つ分近く大きい常葉隊長より更に頭半分程は高い。本人が柔らかな振る舞いをしているから大分緩和されてはいるけど、その上背だけで威圧感は結構なものだ。

「でも、甘利隊長補は優しいですし」

「優しい、ね。確かに気の利く所はあるね」

「それに、ああいう風な振る舞いをしてくださってますから。私も、近付きやすいんです。何だかちょっと、変な言い方ですけど」

「……ふうん」

 深弦さんと部下の人の会話を横目に、常葉隊長はその長身を折り曲げた。こちらに整った顔が少しだけ、寄せられる。

「何を考えて甘利と距離を詰めているかはこの際置いておくけれどね」

 穏やかな口調で、でも、低く囁かれる。

「下手な真似をしないでくれと、君の隊長殿に伝えておいておくれよ」

 え、と目を瞬いて常葉隊長の顔を見詰める。何時もと同じ、穏やかそうで温度の今一つ感じられない微笑がそこにあった。その笑みは、言外にこちらの質問を封じている。

「まあ、甘利とはこれからも仲良くしてやってね。良き友人としてさ。変わり者だけど、友達としては面白いんじゃないかな」

「あら、随分と偉そうなこと言ってるじゃないの」

 おどけたような口調に被さる深弦さんの言葉。

「彼はどうだって?」

「自分で聞きなさいよ全く……あと二日もすれば訓練にも戻れるらしいわ」

「そう。じゃあ問題ないね」

「と言うかあんたね、幸慧ちゃんいじめたりしてないでしょうね」

「まさか」

 ね、と同意を求めるように向けられた視線に思わず頷いてしまう。

「どうだか……幸慧ちゃんも何か変なことされたらあたしに言いなさいね」

「は、はい」

「聞こえが悪いね、どうにも。……まあ良いさ、俺たちも戻ろう。あんまりのんびりしていたら、部下から御小言が飛んできそうだ」

 くるりと、言いたいことだけ言って満足したように常葉隊長はさっさと踵を返す。その背に溜め息を零しながら、深弦さんは苦い笑みを浮かべた。

「本当、自分勝手と言うか……ごめんね、散々騒いじゃって。今度ゆっくりお茶でもしましょ」

「はい、落ち着いたら、是非」

 にこりと笑うと、深弦さんも眦を緩める。そうして、小さく手を振ると急ぎ足で常葉隊長の後を追って医務室を出て行ってしまった。

 その様子を見送りながら、頭の中ではぼんやりと、常葉隊長の言葉が回っていた。あの人は、こちらの知らない所で、何をやっているのだろう。





 正午を過ぎて少しした頃、医務室に近付く穏やかな会話とからからという車輪の音に気付いて本の頁を捲っていた手を止めた。声は二つ。どちらもとても聞き慣れた声だったのだ。

「よォゆきちゃん、調子はどうだ?」

 そして案の定の二人は、医務室に入って来た。初鹿隊長と、土生隊長補。からからと車椅子を押して来た初鹿隊長がにかりと笑って私の顔を覗き込む。鮮やかな緑の瞳がふと、一点を見詰めて細まる。頭の白い包帯。瞳の奥には、少しだけ暗さがあった。

「痕にはならねェのか」

「はい」

「痛くはねェのかい」

「はい、もうすっかり」

「そうかい、そりゃァ、幸いだァ」

 ぎらりと、さっきまでの仄暗さを払拭して緑の瞳が心底嬉しそうに輝く。

「俺ァ、ずっと心配でなァ。俺がいながらゆきちゃんに怪我なんざさせちまって、嫁入り前の女の子に顔に傷なんか付けさせちまってさァ。本当にすまなかった」

「そんなことは」

 あれは、だって私が考えたことなのだ。ああするのが、最善とは言えずとも次善の策くらいではあった、と今でも判断している。他にも策はあったかもしれない。でも、あの場ではあの策こそが最良だと思ったし、今色々と考えたって、あの瞬間が覆ることは決してないのだ。故にこそ、私や倉科隊長には、一瞬の判断の誤りだって、本当は許されない。

「あのねぇ、幸慧」

 唐突に呆れたような声が、土生隊長補から投げ掛けられた。

「どう考えているかはこの際聞くまいさ。でもね、あんた、あんたは倉科じゃあないんだからね」

「えっと、それは」

「無茶は良くないって話さ。まだあんたは若い。あたしたちもね、あんたみたいな若い子を手放したくはないのさ。倉科自身もさ」

「でも」

 咄嗟に口に出して、閉じる。でも、何だと言うのだろう?

「幸慧、あんたは頭が良い。だから余計に思い詰めちまうのかもね。まあ、それもあんたらしさ、なのかもしれないよ」

 けどさ、と土生隊長補は自分の太腿を撫でながら視線をふっと遠くへ向けた。

「もうちっとさ、緩く考えたって良いんだよ。倉科も健在なんだしね。何ならあたしたちだっている。頑張るのは良いけど、程々にってことさ」

「分かっちゃいるんだがなァ」

 苦く笑って初鹿隊長は頬を掻く。

「ゆきちゃんだって玄武隊の隊長補だし、有能で頭も切れるってよ、分かっちゃいるんだがなァ。やっぱりよォ、人死にが増えると堪えていけねェや。歳かねェ、俺らも」

「説教臭くなっちまうよ、全く。ごめんよ幸慧」

 からからと笑って、土生隊長補の手が私の髪をぐしゃりと掻き混ぜる。緩く、普段は閉ざされている瞼が開かれて明るい茶色の瞳がきらりと瞬いた。どうして良いか分からずされるがままにしていると、満足したようにその手は離れていった。

「子供じゃあるまいし、こんなことするのもおかしな具合だね」

 しかし、と、開かれた瞳がきろりと鋭い光を放つ。

「禍者だって新型が出て来やがって随分手こずらせてくれているってのに、今度は馬鹿な人間まで敵になるときた。全く、連中は何がやりたいんだか」

「それを言うならよォ、倉科も大概だぜ」

 銀色の髪を結い直しながら初鹿隊長は口をへの字に曲げて鼻を鳴らす。

「生き急いでんのかどうかは知らねェが、まァ随分と裏で動いてやがんぜあの野郎。正直、今回の一件にしたってあんまし驚いた風もねェ。大方、あの例の連中ならやらかすってずっと想定してたんだろうなァ……おっそろしいぜ。何、と言うか何処まで考えてやがんのかねェ」

「あの男は語らないだろうさ」

 面白そうに、皮肉そうに口の端を歪めて土生隊長補は息を吐いた。確か、この人と倉科隊長は同期だったっけ。

「そういう男さね。必要なことは話すが、不要だと断じれば何時までも口を閉ざす。取捨選択に余念がないのさ。祓衆という組織を効率的に動かせるように、あいつは動く。ある意味、非情でもあるのかね、あれは」

「前々から、そうではあるけどなァ。最近は特にそうだ。秀才は難しくっていけねェ。何のかんの、あいつは良い奴だし悪いようにはしやしねェだろうけどよォ」

 確かに、そうなのだ。

 倉科雅玄武隊隊長。あの人は、頭脳明晰が過ぎる。何手先をも見通し、あらゆる果てを想定し、己が思う最良の為に手を尽くす。秘すべきものは全て秘匿の下に伏し、良しとすれば暗躍だって躊躇わない、きっと、そういう人だ。だからこそ、様々に勘繰られる。さっきの常葉隊長や、初鹿隊長たちのように。

 でも、あの人は正義の人なのだ。

 祓衆の為にこそ、あの人は迷わない。

 誰かどう思うが、私は倉科隊長の有り様を慕い、憧れている。

「……っと、すまねェなゆきちゃん。別にお前さんとこの隊長を貶したり何だりってつもりはねェんだ。ただまァ、偶にゃァ酒の一杯でも付き合えって言っといとくれよ」

「はい、必ず」

 勿論、そうした所を察してかこうして言葉を投げてくれる初鹿隊長のことだって十二分に慕っている。誰だってそうだ。私は私なりに、この祓衆という組織に思い入れがあるし、倉科隊長のようにとは行かないまでも祓衆の為に身を捧げる覚悟はあるのだ。

 でもきっと、それは少しだけ、この二人の考えからは外れてしまうのかもしれない。





「すまなかった」

 医務室を訪れて早々に、帯鉄隊長はそう言って頭を深々と下げた。さらり。清水のように流れて行く黒髪をぼんやりと眺めて、慌てて首を振る。くすくす。帯鉄隊長と共に医務室を訪れた穂香さんが柔らかな笑声を零した。

「朱雀隊の長たる者が有事にいないなどとんだ失態だ、本当に申し訳なかった」

「御家の事情絡みだし、仕方がないって言っているのにこの様子でね」

「ただ会話しただけだ。まさかああも……いや、話すことでもない」

 眉間を揉むような仕草をして、帯鉄隊長は首を振る。

「昔からそうでな。兄とはこういう機会くらいでしか話は出来ないからと聞き入れたが……慢心だったな」

「帝の近衛隊、その長たる兄上とどういう話を?」

 帯鉄隊長の右手が微かに動くのと、穂香さんが弾けるように首を巡らせたのはほぼ同時。突然に割り込んで来た声に驚いて思わず医務室の出入り口に目を向ければ、のほほんとした笑みを浮かべて静かに倉科隊長が佇んでいた。

「盗み聞きとは、玄武隊隊長は悪趣味ね」

「ううん、ごめんねぇ。両手が塞がっててさ。どうにか扉は開けられたんだけれどもさ」

 ほら、と両手で抱えていた木箱を掲げて困ったように眉を下げる倉科隊長。

「そしたら君たちの話が聞こえてねぇ、ちょっと気になったからつい聞いちゃった。驚かせてごめんね」

「何、大したことは話してないさ」

 驚いた風もなく帯鉄隊長は息を吐いて口元を笑みの形にする。とっくに気付いていたのかもしれない。

「家に戻れ、組織を離れろ……そういう、家庭的な話だけだ。極めて家庭的な、ね」

 何でもないことのように、肩を竦めて帯鉄隊長は言う。仄かに俯かせた顔の横を黒髪が滑って行く。

「我々はそういう、下らない話をしていただけだよ。だからこそ、すまなかった。もっと早く切り上げて戻るべきだった」

「たらればは君らしくないねぇ。今後気を付ける、で良いのでは?」

「返す言葉もない」

 ふ、ふふ、と皮肉そうに笑って、帯鉄隊長は少し首を傾げた。珍しい所作だった。

「変な話をしてすまなかったな。兎も角、今後はないようにする。それと、そうだ、市吾は始末書なしだと一応言っておこうとな。護衛役を全うしたのに始末書を書かせる道理はない。その二点を伝えに来た次第だ」

「まあ、ちょっと思わぬ事態もあったけどもね。貴方、驚くことは止めて頂戴よ」

「それはごめんよぉ」

 あははとのんびりと笑う倉科隊長の隣を、帯鉄隊長と穂香さんは悠々と歩いて行く。

「ともあれ、我々の用は済んだ。これで失礼させてもらおう」

「大丈夫だと思うけれど、御大事にね。今度のんびり何処かでお茶でもしましょ」

「は、はい!」

 ひらり。最後に片手を閃かせて穂香さんと帯鉄隊長は医務室を後にした。

「いやぁ、ひやっとしたねぇ」

 ふう、なんて大仰に息を吐いて倉科隊長は二人の出て行った扉にすいと視線を投げる。ぼすり。腕に抱えていた木箱が寝台に置かれた。

「ちょっとくらい平気かと思ったけど、流石に駄目だったなぁ。見たかい幸慧君、帯鉄隊長なんて一瞬だけど抜きかけてたよ」

「……やっぱり、あれそうだったんですね」

 反射、なのだろうけれどぞっとしない。それを一瞬で抑え込んだ判断力も含めて。

「実力者相手はもっと慎重にってことだねぇ、良い勉強だ。藪蛇も突かない。うん、僕はこういう所が駄目なんだよねぇ」

「常葉隊長にも色々言われてましたよ。隊長、一体何をしているんですか?」

「禍者と改史会の調査だよ。それだけ」

「……そう、ですか」

 部屋の隅に置かれていた椅子を引っ張り出して優雅に腰掛ける倉科隊長は、ともすればぞっとするくらいに何時も通り。この人は、何時だってそうだ。だって、それが最善だから。

「僕はねぇ、この組織の為にこそと思っているよ。でも難しいねぇ。理解者は要らないって思っていたけれど、かと言って訝しがられるのが平気な訳ではないからさ」

 そんなことを、やっぱり何時もと変わらぬ調子で言うのだ。

「信頼されない頭脳に意味はないよ、やっぱりねぇ」

「隊長は、御自身が信用されていないと、そう、思っているのですか」

「まさか」

 その返答は、少しだけ予想外だった。

「信用はされているだろうと、僕はこれでも自覚しているよ。怪しまれたって、それが僕であるとされているのなら、大丈夫。ただねぇ、その立ち位置を維持しながら色々としようとすると難しいってだけ」

 その点、幸慧君は僕よりも優秀だよねぇ。ふふ、とやんわり微笑いながら倉科隊長は言う。

「君は良くも悪くも善人に見えるよねぇ。良い子。自然と信頼を寄せられるような、そんな人間だ。だから君が、打算や謀略を覚えればきっと、僕よりも有能な頭脳となるだろうとねぇ、僕は期待しているんだよ。これまで内緒にしていたけれどさ」

「……御褒めに預かり、恐縮です」

 憧れの人に褒められて嬉しくない筈がない。ぎゅっと布団を握り、俯き俯き声を絞り出した。擽ったくて、気恥ずかしい。

「君は今まで通りに、君らしく、動けば良いよ。僕はそう思う。――さて」

 好々爺のように細められている瞳にちらりと怜悧な光が灯った。

「君はあの時、面白いものを見たんだってねぇ」

 あの時――遍寧祭のあの騒動。禍者の跋扈。すっと頭が冷え、かちりと切り替わった。顎に指を添えながら、あの日の記憶を引っ張り出す。

「禍者の出現は、これまで観測されたことはなかった。そうですよね?」

「うん。現れたところに我々が駆け付けたり、もしくはどこからかやって来たり、だねぇ。気付いたらいた。そう言えば良いのかなぁ?」

「私はあの日、禍者の産まれるところを見ました」

「――へぇ?」

 ほんの僅か、硬質な声。

「生えてくる……と言えば良いんでしょうか。植物が芽を出して茎を伸ばし、葉や花を茂らせるみたいに、地面から産まれたんです。私には、そう見えました」

「前触れなんかは、あったかい?」

「気配がした。それくらいです。私たちでなければ、きっと気付けなかった」

「成る程ねぇ……そりゃ、白虎隊でも事前の発見が難しい訳だ。だって、いないんだもの」

 気配以外の前触れなく現れ、ただ人のみを襲う不定形のモノ。

「全く、我々の敵は手強いったらありゃしないよ」

 こつり、こつりと寝台の横の机を白い手袋で包まれた指で叩きながら思案に耽る倉科隊長。口元に笑みはあるけれど、その眼差しは冷たい。

「それと」

「ん?」

「禍者が、私たちの前で、消えました」

「消えた……? 倒しもせずに、かい?」

「ええ」

 振り仰いだ鐘楼。告げていた時刻。

「本来ならば遍寧祭の終わる時刻。その瞬間に、禍者は消えました。崩れるみたいに。私と、市吾……圓井が見ました。あんまりにおかしなことだったから、良く覚えています」

「そんなことが……」

 さしもの倉科隊長も、瞠目して頭を振る。

「いよいよ、本当に面倒なことだねぇ……やらなくてはならないことばかり増えていく。君にも色々頼みごとをしていかないといけないかもねぇ」

「その時は謹んで御受けします」

 隊長補なのだ、これでも。まだ出来ることは少ないけれど、それでも何も出来ない訳じゃない。隊長に頼られるのは嬉しいし。

「ごめんねぇ、幸慧君」

「はい?」

「君には、色々と苦労をさせているとねぇ、分かっているんだよ。今回だってねぇ……」

 視線を彷徨わせて、困ったように眉根を下げて倉科隊長は笑った。ちょっとだけ情けなくも見える、珍しい表情だった。

「何て言えば良いのか分からなくなっちゃった」

「分からなく?」

「うん」

 あ、そうだ、なんて唐突に言葉が放られる。かたり、と此処まで持って来ていた木箱が倉科隊長の膝に置かれ、開かれる。果たしてそこには、布に包まれた何かが横たわっていた。ほら、と促されるままに布を払うと、その中には装飾も簡素な一振りの刀が収められていた。

「これ……」

「今回、刀を駄目にしてしまったろう? だから、繋ぎにね」

「ありがとうございます……繋ぎ?」

 確かに無名刀ではあるけれど、決して粗末な物ではない。実用には十二分に足る品物、に私には見えた。

「君だって隊長補だからねぇ、そろそろもう少し良い物を佩いても良いんじゃないかと思うんだよ。だから、今度時間のある時に一緒に見繕いに行こうねぇ。ついでに買い物だってしても良い」

「時間、ありますかね……」

「何、ちょっとくらいなら捻出出来るよ、多分ねぇ。それに、きっとこれから大変なことになるような気がするんだ。だからちょっとくらい、許されるよ」

 皆多分、なんだけれどねぇ、なんて倉科隊長は朗らかに笑った。

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