36話 持たざる者

 青緑の扉の奥へ踏み込むと、俺はすぐさまあの本を探した。目指すべきはそれだけだった。赤黒い革表紙、彼女の人生を綴り重ねて束ねた記憶の集積。答えがあるとしたら、この夜の街に貼り付けられる前の彼女の姿があるとしたら、あの本の中以外になかった。本当の彼女は、彼女の心は、間違いなくあそこにある。俺がそれを取りに行く。今までの誰にもできなかったそれを、今、俺だけが果たせるかも知れないんだ。ここの街の中で死を待っているだけの彼女の暗闇を、俺が、ぶち抜いてやれるかも知れないんだ。

 その時、駆けるように早足で歩く俺の視界を斜めにぶった切り、上からひらりと一頭の蝶が降りてきて、そのまま俺の目の前を飛び始めた。蝶は、まるでこちらを時々振り返るような仕草で身体を傾け、俺の様子を伺うような素振りを見せながら飛び続け、俺を先導しているのだった。慌ただしく羽を動かし、上下にじたばたと動きながら、そいつは前へ前へと進んでいく。声を発さないその生き物は、まるでこう告げているかのようだった。

 急げ。

 俺は足にめいっぱいの力を込めてその羽ばたきを追い、幾つもの書架を通り過ぎ、ランタンの光が俺の肩に降り落ちて、また遠ざかっては振り落ちるのを繰り返し、息が切れそうになったとき、視界が一気に開け、俺は戸惑いながら足を止めた。

 道道を照らしてきたのと同じランタンがいくつも吊るされたその「広場」は、林立する書架たちを切り開いたような格好になっていて、だだっ広い作業机が据えられ、いくつかの椅子が周りに散らばっていた。そして、そのだだっぴろい作業机の向こう側に、目当ての本はあった。まるで誰かがほんのさっきまでそれを読んでいたかのような格好で、赤黒い革表紙はそこに佇んでいて、俺を先導していた蝶はひらりとその表紙へ降り、こちらを向いて俺のことを急かしている。俺は止めていた足を動かし、蝶が紙束の間に滑り込んでいくのを見ながら走って行って、手前にあった椅子をどかし、本の真正面に立った。それから息を吸って、吐き、その革表紙に手を伸ばす。そして俺が瞬きをしたとき、俺の目の前には、ふたつ、ハイヒールのつま先が並んでいた。

「は」

 俺がぞっとしたまま身体の反射で仰け反り、後ろに飛び退ると、目の前にいたものの全体が見えた。首を傾げ、眼鏡の奥から俺のことを見ているそいつの前髪が揺れ、おさげに結われた花のような髪をかすかにしならせて、両足をちょこんと揃えて革表紙の上にしゃがみ込んでいる黒衣の猟犬の影が、俺の足元に伸びていた。

「ようやくお会いできましたね」

 猟犬女はそのまま茜の本の上に立ち上がり、身体の全体を傾かせて俺のことを見た。淡々として、仏頂面のあいつを思わせる冷たい声の色。

「その様子では、ここにはもう来慣れていらっしゃるのでしょう?」

 そうして感情の薄そうな顔で話しかけてくる猟犬を前にして、俺は既に逃げ道を探していた。目の前に来られるまで気づかなかった。何故だ。こいつの顔は、こんなにも殺気に満ちているのに。

 猟犬はちょっと足を動かして本から降りると、屈んでそれを手に取り、俺が見ている前でぺらぺらと中身を確認し始めた。しばらく紙面の上に目線を滑らせた後、奴はため息をつき、

「本命は彼女というわけですか」

 まあ、それはそうですよね、と言葉を続けて本を閉じると、それを持ったままの手を下げ、もう片方の手で眼鏡を押し上げて、俺の顔を見る。ほんの少し冷えた俺の脳に、当然の疑問が浮かび上がる。なぜこいつがこんなところにいる? 俺の疑問を押しつぶす冷淡な声が女の口から吐き出される。

「私から貴方への要求は、ふたつ」

 そう言いながら猟犬は手袋をはめた黒い手の指をまず一本立て、その靴の踵がくるりと回って机の天板を抉るのが見える。

「ひとつ、貴方が持っている『鍵』をこちらに寄越してください」

 俺がぎょっとしたまま無意識に内ポケットに手をやるのに動じず、

「ふたつ」

 と猟犬の口が動き、眼鏡の奥で翡翠の両目が細められる。

「ここで死んでください」

 奴がそう言った瞬間、空気がざわりと震え出し、奴が遠く背負う書架の間から、一頭、二頭と蝶の姿が溢れ出した。

「別に、鍵を奪ってしまえば、貴方はもうここには来られませんし、次第にここのことも忘れていくのでしょうけれど」

 それでは、駄目なんですよね、という奴の声に蝶たちの羽ばたきが溶け合う。

「だって、私は貴方に腹が立っているので」

 それから猟犬は揺らがないままの目を身構えたままの俺に向け、その手に持っていた茜の本をこちらに放った。

「追いかけっこをしましょう」

 俺がなんとか革表紙を受け取ったのを見届け、猟犬はかつかつと踵を天板にぶつける。その身体の横を、蝶がひらひらと飛び交い始める。

「試してみたいと思いませんか? 貴方の、『死なない』異能で、私からどこまで逃げられるか」

 奴が何を言っているのか飲み込めない。

「私という『絶対』に、抗ってみせてはくれませんか?」

 俺の戸惑いを歯牙にもかけず、猟犬女はひとりで話し続ける。奴はその両手を身体の前で合わせ、俺の顔を覗き込んで首を傾ける。奴の言っていることは自分勝手で、一方的で、高圧的で。

「でも、ちゃんと逃げてくださらないと駄目ですよ」

 猟犬女の服の裾が揺れ、黒衣の裏地の刺すような黄色が閃く。

「その身に貴方自身の罪の重さを思い知らせ、そして貴方が、私に、心の底から許しを乞うようになるまで──私の気分が晴れるまで、苦しんでくださらないと、いけないんです」

 何もわからない俺は、それでも、この女から逃げ仰せなくてはならないことを知っていた。俺は本を抱えたまま走り出し、それと同時に耳の後ろで、蝶たちのざわめきが爆発するのを聞いていた。一瞬振り返った俺の目に見えたのは、あたりの書架から溢れて固まり、一斉に猟犬に「襲いかかる」紙の動物たちの姿だった。そのざわめきを断ち切るような、不自然に通る猟犬の声が、遠ざかる俺の背中に確かに届く。

「やっぱり、神さまの愛って、不公平なんですね」

 俺は、ここを抜け出さないといけない。俺は、彼女を助けないといけない。

「でも」

 自己満足な奴の声の響きがまだ届く。

「私の邪魔をするのなら、世界だろうが神だろうが、この牙にかけてやる」

 俺は重い革表紙を脇に抱えてとにかく書架の間に滑り込み、木の板を蹴って走った。どうする? どうすりゃいい?

 俺の目の前に延々と続くのは、代わり映えもなく整然とした書架の無限の並びだ。こんなに規律だった空間に、俺の身ひとつを隠してくれる場所などありはしない。逃げ場はない。ならばここを出なければならない。しかし俺は、ここを出る方法を一つしか知らない。俺は脇に抱えた赤黒い表紙に目を落とす。ここを出るには、誰かの記憶に潜り込むしかない。そうしてかすみの部屋の前で目を覚ますのだ。俺にはそれしか方法がない。それに、俺が抱える問題はもうひとつある。俺は絶えず足を動かしながら、自分の上着の内側で俺の身体と一緒に跳ねる鍵のことを思い出していた。猟犬女は、この鍵を寄越せと言ってきた。これを無くせば、俺はかすみのことも忘れてしまう。俺はこの鍵も守らなくちゃならない。だから、俺に取れる選択肢はひとつだけ。

 手に持ったこの本の記憶を伝って、かすみの鍵を守ったまま茜のところに戻るんだ。できるだろうか? だが、そうする他ない。そうしないと、そうじゃないと、誰も救われない。

 そのとき、遠くない場所から爆音が聞こえ、何かが壊れる音がした。その後、土砂が崩れ落ちるようなくぐもった音が続き、次の瞬間、俺はその一連の響きが、どこかの書架が崩れ去った音だということに気づいた。間違いなく、あの猟犬の仕業だった。破壊音の後をかつかつと貫くハイヒールの音が通っていくのを聞きながら、俺は腰元の日本刀に目をやる。元々使うつもりはなかったが、使わざるを得ないかもしれない。それから俺は懐に手を入れ、そこに入っていたかすみの部屋の鍵を取り出した。その銀色の塊は、ほのかに体温を持っている。俺の熱が移ったのだろう。そのとき、

「近くにいらっしゃるんですよね」

 と、冷たい猟犬女の吠え声が空気の向こうからこちらに渡ってきた。

「私、ずうっと気になっていたんです」

 俺は俺の力が嫌でも俺に知らせる「逃げろ」という信号におとなしく従い、鍵をポケットにしまうと、足音を立てないようにして、奴の声から遠ざかる道を選ぶ。

「どうして貴方が他人の過去を遡って知ろうとするのか」

 背中に嫌な汗が滲んでいるのを覚えながら、それを振り払うように俺は歩みを進める。

「私はふたつの仮説を立てました」

 ふっと飛んできた奴の声が先ほどより大きくなったのに気づき、俺の身体は凍りついた。確かに離れる道を選んだはずなのに、奴の声は近づいている。俺は全てを投げ出しそうになる頭を振って、進路を変え、歩くスピードを速める。目の横を、数多の本が通り過ぎていく。女の声は、また、思ってもいない方から上がった。

「ひとつめ。貴方は、過去を遡ることで相手の弱みを握ろうとしているのではないか」

 淡々とした猟犬女の声は、まるで空から降ってきているかのようだ。女の声は続く。

「ふたつめ。今言ったようなエゴイスティックな理由ではなくて、貴方はただ、相手と融和したい、相手を知りたいと思っているだけなのではないか」

 その言葉が終わった時、冷淡なその声は、前方から聞こえていた。書架の合間、俺の行く手にふらりと姿を現した猟犬は、俺のことをがっかりした顔で見つめていた。

「私、貴方はどちらのためにここに来ているのか、しばらく考えました」

 俺は手に持っていた本を上着の内側に入れる。

「『ほんとうはどちらなのか』、ずうっと考えていたんです。でも、人間の『本心』なんて、自分自身にもわからないことばかりですよね」

 猟犬女は立ち止まったまま、ステレオタイプそのままの、手を口元にやる「考えるポーズ」をとってみせる。

「だから、少し考え方を変えたんです。貴方の『本心』などというものを探してもキリがない、だから、貴方は『どういうつもりでここに来ているのか』、そのことを考えることにしました」

 女の目は伏せられて床を見ているように見えるが、俺の身体は警戒の体制で凍りつく。俺の力が、この状況は危険だと言っている。

「そうすると、たぶんこうなのです。貴方は、『誰かのためだと思って』ここに来ているんですよね」

 猟犬の両目が床の上を滑り、そのまま上がって俺の方を見た。俺は日本刀の柄に手を添える。

「それってね、すごく醜悪なことなんですよ」

 女のその声が終わるか終わらないかといううちに、俺は奴に向かって駆け出していた。一撃、一撃浴びせるだけでいい。猟犬女は身構えもしない。そうして俺が奴の間合いぎりぎりに入った時、「予想通り」に予備動作もなく飛んできた奴の蹴りの下へと滑り込み、俺は奴の軸足を撫で上げるように切りつける、が、背中、シャツとベストの間で、ズボンの後ろ側に無理やり挟み込んだ茜の本がずれるのを感じ、身体をうまく動かせない。それでも、俺は猟犬女の手から逃れ、低い体制から立ち上がると、書架を右に折れた。

「ああ、全く、腹立たしい」

 女の声を耳の端で聞きながら、俺は刀の刃先に目を向ける。微かに血がついている。だが、大して切れなかった。これでは足止めにはならないだろう。しばらく書架の間を縫うように左右に折れながら走り、俺は息を切らして立ち止まった。猟犬の声はしない。奴の足音は、どこだ。次は、どこから来る。

 そのとき、めきめきと木が折れ割れる音がして、俺はわけもわからないまま頭の信号に従って書架の切れ目まで走った。振り返ると、今しがた俺がいたところに、書架がまるごと倒れかかり、中に収まっていた本が、轟音の中、床に降り注いでいた。その書物の雨の切れ間に、黒衣の猟犬の姿が見える。女はこちらを見たまま、

「貴方はきっとこう思っている」

 と無機質に喋った。

「相手の事情さえ知れば、親身になってあげれば、他人の気持ちになれば、そのひとのことを理解してあげれば、きっと自分はそのひとの力になれるのだと、そう思っているのでしょう?」

 俺は夢中で前へと走り出すが、こつ、こつ、と平坦な女の靴音が、ひとつ隣の通路から絶えず俺の耳に滑り込んでくる。

「『わかっている』と相手に伝えてあげれば、もっと楽しくおしゃべりができるとか。ひとりぼっちの誰かのことを、可哀想だから助けてあげたいだとか。そういったことを考えるひとなんですよね、貴方は」

 俺は女の声から逃れるように走り続け、夢中でポケットの鍵を探った。走りながらも俺の手の中で視界の中央に輝き続ける銀色の身体は、俺に切実な何かを訴えかけているようだった。俺はその輝きをじっと覗き込む。

「ああ、吐き気がします。鬱陶しい自己陶酔の隣人愛」

 すぐ隣から聞こえ続ける女の声。俺は、鍵を額に当て、それに向かって祈りを込めた。

「そうやってすぐに誰かを『愛したい』なんて思って……だから貴方たちは弱いんです」

 俺が立ち止まると、猟犬女もそこにいた。じっと佇んで、俺に嫌悪の目を向けている。俺は口の中の唾を飲み込むと、息苦しさの間で

「あんたにだって、『人を愛したい』って気持ちくらい、あるくせに」

 はっきりとそう口に出す。女が近づいてくるのを感じ、俺は一歩、二歩と後ずさった。

「誰かのことを理解したいと思ったことがあるはずだ」

 女の髪が揺れる。

「私は貴方とは違います」

 違うんです、と、はっきりと口に出した猟犬が手を真横に上げ、眼鏡の奥で柔和な形の目がぎりりと尖った瞬間、俺は駆け出していた。猟犬の手は書架に触れ、硬い破壊音とともに、一瞬前まで俺がいたところに本の土砂が降り注ぐ。

「貴方のそれはただの自己満足です。押し付けがましい善人ごっこ。気持ちが悪い。ほんとうに、気持ちが悪いですね」

 女が真っ直ぐに俺を目指してくるのを見て、俺は次の角を右に曲がった。上から次々に落ちてくる殺意の塊を間一髪避けながら、俺は死線をくぐり続ける。どれだけ隠れ、逃げ、身を翻し、走っても、奴の力が俺に追いすがってくる。異様な緊張感の中で、俺は脳の信号が命じるままに身を振り続ける。目の縁を本の角がかすりかけ、めきめきと降りかかる破壊音の中を必死に抜けていく。女の声は、淡々とした調子のまま俺のことを追ってくる。

「貴方が目指している『調和』、でしたか? そんなものは、貴方の身には一生訪れないのです」

 女の言葉選びには、知の強者としての暴力性が込もっていた。そもそもね、といたぶるような女の声が続く。

「人間には、別の人間ひとりを受け入れることなど、できない。貴方が別の誰かを受け入れることができないのと同じように、貴方のことを受け入れてくれるひとなんていない」

 いないんですよ、と断固とした口調を続け、奴は俺の目の前に不意に姿を現した。俺は両足でなんとか踏みとどまり、ぎっと奥歯を噛みしめる。猟犬の顔には、虫を踏み潰す子供が浮かべるような邪気のない微笑みが広がっている。息を整えながら、背中に収まっている本の重みを確かめ、俺は刀身を抜き出した。口を開くと、喉の奥から絞り出されたのは、唸り声のようにしわがれた音だった。

「あんただって、心がある人間なんだ」

 がさついた声が、警戒にこわばった俺の背骨を震わして、喉の奥で鳴っている。

「愛されたいんだよ」

 刀に手をかけたままじりじりと後退する俺のことを見つめ、ため息をついた猟犬は、

「そういう話、楽しいと思えないのですよね」

 と、だるそうに声を出した。

「だから、そろそろおしまい」

 猟犬は、かつり、と靴音を立て、次の瞬間には俺の数歩先まで距離を詰めていた。俺はそれを予期していたから、後ろに回していた左手で掴んだ本を、俺と猟犬女の間に広げ、放った。眼鏡の奥の翡翠の目が歪んだと思った時には、俺と奴の間には紙の蝶が散乱していた。俺は一種の高揚を覚えながら、煙幕のように広がった蝶たちの群れを貫くように、真っ直ぐに刀を突き出した。手の感触が、刀が肉の壁を確かに貫いたのを告げていた。荒い息の音がする。湧き出た紙の蝶たちが周囲に散っていき、その白い視界の中に胸を穿たれた黒い猟犬の姿が浮かび上がっていく。俺の刀に貫かれた蝶たちの数匹が、猟犬の右胸に、奴の血を被ってへばりついている。

 猟犬女はその足で立ってはいるものの、まるで刀に寄りかかるようにしてうなだれ、花のような薄い色の髪にどす黒い血を受けていた。俺は、敵を仕留めたという高揚感と、一寸胸に垂れ込めた安堵感に身体が揺れるのを感じながらも、目の前の惨状に敵への哀れを覚えていた。身体中に吹き出した汗の不快感の中で、俺の息は恐怖と疲労でがたつきながら続いていた。

「俺は、彼女のことを、なんとかしなきゃいけないんだ」

 伏せられた猟犬の口から、ひゅ、ひゅ、と息が漏れるのが聞こえる。両手に握った刀にかかる女一人分の重みを、俺は確かに感じていた。

「悪いな」

 そうして奴の胸から刀を抜き取ろうとしたとき、震える俺の刀の刀身に、何の前触れもなく黒手袋の右手が添えられていた。その右手は、今の今まで黒衣の胴体の横にぶら下がっていた、猟犬女そのひとの手に違いなかった。その手は、刀身をぎりりと握りしめる。

「彼女のほうは貴方のことを見てもくれないというのにですか」

 俺がぎょっとしたのもつかの間、例の信号が俺の頭の中を駆け巡った。が、疲労し、気の抜けた俺の身体はそれに追いつかなかった。刀を諦めて後ろに飛び退る前に、女の右手が刀を遡り、俺の右腕を固く握り締めていた。頭に鳴り響く警戒信号の中、俺は激痛を予期して目を瞑り、それから間を置かず右手の全体に劈くような痛みが炸裂した。

 動物の雄叫びのような悲鳴が俺の口から漏れ、奴の手を離れて床に転がった俺は、自分の右手がどす黒い血に染まりながら割かれ伸ばされ引きちぎられ、花咲くように形を変えているのに気がついた。

「わかっているのでしょう?」

 女の靴音に床の上に転がったまま振り返った俺は、胸に刀が突き立ったまま、尋常でない目をして俺に近づいてくる黒衣の女を見ていた。

「貴方がどれだけ彼女のことを知りたいと願おうと、救ってやると息巻こうと、楽にしてやろうと奔走しようと、あちらは貴方のために何事も成さないだろうということを」

 女は口の端から血を吐きながらも、淡々とした声音を変えないまま、俺に距離を詰めてくる。

「どれだけ彼女のために尽くそうと、それら全ては、ひとつも、返ってくることはないのです。自己満足の形を得ながら、自己満足にすら至ることもできない徒労……誰も、貴方自身に目を向けることはないのです。決して」

 出血に頭がぐらりと傾くような感じがする。けれど、俺はそれでも、腕の痛みに逆らって地を這って逃げる。振り返った時、女は、ああ、とようやく気付いたような風情で自分の胸に刺さった刀に目を向け、その柄に手をかけて、血に染まった刀身を引き抜いていた。そうして、赤と銀の刀身をランタンの灯りに透かし、品定めするように見つめる。それから、何も持たない方の手で、俺に刺されたばかりの胸に触れる。

「私の心とやらは、ここに詰まっていましたか?」

 そのまま近づいてくる女から後ずさりながら、俺はとめどなく血を吐き出し続ける右腕を押さえ、なんとか立ち上がって息をした。

「俺は、おれは……」

 女は刀を手にしたまま、かくりと首をかしげる。俺は、先ほどの猟犬女の言葉を思い返していた。赤い痛みと霞み始める視界。

「報われるためにやってるんじゃない……」

 女は一瞬目を見開き、それから眼鏡の奥で微かに微笑んだ。

「へえ、そうなんですか」

 俺が奴の目を睨んでいる間、奴も俺から目を逸らさなかった。

「でもね、でもね……」

 奴の声は少女のように弾み、その無邪気さが俺には不気味に思えた。

「何も返って来ないものに身を尽くし続けられるひとなんて、いないんですよ。満足を得ることのない徒労に身を捧げ続けることなど、ひとにできることではありません。神話でもあるまいし。だいいち、そんなことをすれば」

 女の持つ刀の切っ先が、すぐ横の書架に収まった本に引っかかる。

「相手を救うよりも前に、自分が壊れてしまう」

 その時、猟犬の胸の上に赤く染められて張り付いていた蝶が、びくり、と動いた。

「貴方も、ほんとうはわかっているのです。自分のやっていることは虚しいことであると」

 女は背表紙につっかかった切っ先を引き抜くと、腕を下ろして、刀の先を木の床板の上に引きずって近づいてくる。

「だって彼女は、こちらを振り返ることなど決してないのだから」

 そうして俺のことを見ているはずの猟犬の目は、眼鏡の奥でとうとうぼうっと不気味に据わり出した。

「貴方は、心を、身を尽くして、どれだけ身を尽くしても、その存在ごと足蹴にされるだけ──いいえ、足蹴にされることも、気を配られることもない、顧みられない方の人間なのです」

 空疎な響きの言葉が、ランタンの灯りの下に浮かび上がる一匹の女の姿をどこか遠く見せていた。

「無償の愛など注げはしません。貴方には。貴方は、聖人ではないのですから」

 そうして吐かれ終わった言葉の余韻が漂う冬の中で、俺はついに気付いてしまった。

「そうか、あんた」

 右手の痛みは確かにそこにあるのに、感情をなくしたように佇む目の前の人間の異様さに、俺の心は厄介な風に震えていた。

「あんたは」

 女は、俺の言葉が聞こえてないように虚ろな目をしたまま、距離を詰めてくる。俺は、胸の中に浮かび上がったまま、言葉を口にする。

「大事な人に愛してもらえないんだ……」

 そのとき、表情のなかった女の眼鏡の奥にかっと感情が灯り、女の足元からみしり、と床が形を変えて棘のように突き立った。俺がぎょっと身を竦ませながらも走り出そうとした時、どっと空気が揺れる音がして、別の異変が起こった。女の胸に張り付いたままでいた蝶たちが三頭、そこから舞い上がったかと思うと、赤く染め上げられた羽を広げ、女の顔に纏わりつく。そうして、女はいつしか、「白い」背景の只中にあって、俺のことを怒りの形相で睨みつけていた。

「愛、愛、愛」

 その白い背景は、重なり合って爆発的な音を伴いながら女の背中に迫ってくる。俺たちのいる通路全てを埋めつくし、溢れながらも雪崩れ込んでくるそれは、重なり合って飛ぶ、無数の紙の蝶たちだった。

「愛」

 顔をあげてそう叫ぶ猟犬女の声の向こうから、

「逃げて!」

 と誰かの声が聞こえた気がして、俺ははっとして走り出し、背中に援軍のざわめきを聞きながら夢中で走った。振り返った時にはもう、猟犬の黒い姿は白いざわめきに飲まれ、視界から全く失せてしまっていた。俺は右手の痛みを努めて感じないように念じながら走った。めちゃくちゃに足を踏み出し、視界の両側を通り過ぎる本の並びを見ながら、ここからなんとか助かる方法を考える。誰かの、何かの、短い記憶の中に飛び込む、そして逃げ出すんだ。今は、逃げなきゃいけない。逃げ伸びなきゃいけない。今、生き残らなければ、何にもならない。

 そうして俺がふっと足を止めたのは、過ぎていく視界の中に、見覚えのあるものを見つけたからだった。短く、手軽で、内容のない記憶の束。

「四二二」

 俺は引き返し、そこから「俺の記憶」が書かれた本を、未だ手の形を保っている左手で抜き出した。そうして記憶の本を左手で放り投げ、床に開いた本のページが、蝶に変わっていくのを見ながら、跪くようにしてその本のそばにしゃがみ込む。その時俺の脳裏に浮かんだのは、俺の記憶ではなくて、今も部屋で俺のことを待っているであろう、茜の涙をたたえた両目だった。そうして目を閉じたとき。

「勘違いしないでください」

 俺の額は、俺自身の本の紙面に貼り付いていた。というよりも、押し付けられていた。蝶になって飛び立とうとしていたページたちが、俺の額の下でもがいている。俺の後頭部を、尖ったハイヒールの踵が突き刺していた。その足が、俺と本を引き離すようにして、俺の頭を蹴り飛ばした。視界がようやく据わったとき、そこには、怒りに震える猟犬女が立っていた。

「私は、『あれ』を愛してなどいない」

 そうしてつかつかと歩み寄ってきた女は、起き上がろうとする俺の腹を、手に持ったままだった日本刀で刺した。声にならない声が熱い痛みに押し出され、俺は身をよじるが、俺の体は刀で床へと縫い留められていた。喉の奥から血がこみ上げ、それを吐き出した俺が天を仰いだ時、俺は自分たちが白いざわめきに覆われているのに気付いた。ざわざわと音を立てる蝶たちが、何かに隔てられた向こうから俺と猟犬女を見下ろしている。痛みの中で見上げた白い景色の中には、黒い格子が無数に張り巡らされていた。まるで虫かごのような網目の向こうから、懸命にもがいて俺に手を差し伸べようとしている、紙の怪物たち。

「貴方のそれは、『死なない力』なんですよね」

 息がぜいぜいと激しくなる。猟犬の翡翠の両目がこちらを見下ろしている。

「だったら、こんなところで死んではいけませんよね」

 猟犬は口元の血を拭い、俺の顔に影を作るようにしてしゃがみこんだ。

「抗ってください、この残酷なプロットに。貴方みたいに『愛された側』の人間ならきっと、こんな絶望的なシーンでも、起死回生、ハッピーエンドを手繰り寄せられるんでしょう?」

 冷淡な口調の奥で、奴は、完全に、俺を嘲笑していた。

「だって、貴方は私とは違うんですから」

 そうして猟犬は動けない俺に残った左手にそっと触れ、

「ねえ」

 と詰問する。次の瞬間には、右腕に受けたのと同種の痛みが、俺の左腕全体に爆発していた。

「無力な人間には、無力な人間のやり方というものがあります」

 俺の血を浴びてどろどろとした腕を払うような動作をしながら、猟犬は尚も至近から話しかけた。

「貴方はそれをもっと学ぶべきだった」

 俺が動けないことを悟ったのか、猟犬は立ち上がると俺の腹から刀を抜き取って、俺の体を蹴る。背中と床の間に俺自身の血が溜まっていて、滑る。女は襟首をつかんで俺の身体引きずり起こし、手近な書架にもたれさせた。そうして、こちらを見下ろし、品定めをするように首をかしげる。

「貴方は、自分が弱いということを、もっとちゃんとわかっておくべきでしたね」

 それから乱暴な手つきで刀を床板に突き立てる。女の足の間に、上着の裏地の黄色がちらついている。

「鍵を、渡していただけますか」

 俺は、勝手に荒くなる息の隙間、いっそ滑稽なぐらい哀れな俺自身のことを笑いながら、

「もう『持ってない』」

 と口にした。女の眉間に皺が寄るのを見ながら、痛みに痺れた感覚の濁流の中、俺はめいっぱいの悪意を込めて、

「隠したんだ。あんたじゃわからないところに……」

 と、言葉を続けるが、最後の方は吐き出された血に飲み込まれて、言葉になっていたかも確かじゃない。忌々しそうに目を細める血まみれ女の顔に、俺は言葉を吐きつけ続ける。

「絶対に見つからない場所だ」

 こみ上げる痛みと熱さの中、俺は死にかけながらも何らかの勝利を掴みたかった。ほんの少しでも、目の前のこいつに勝ちたい。ほんの、一端だけでも。

「『見つからない場所』」

 女は俺の言葉を繰り返し、それから、またあのステレオタイプな「考えるポーズ」をとった。

「私の庭であるこの書架の林立の中にあって、私にとって見つからない場所、ですか」

 そうして女は右に、左に、と靴音を鳴らして俺の前を行き来する。

「私にとっての不可知、不確定」

 かつり、かつり、と、女の思考が靴音に合わせて進んでいくのが、見えたような気がした。女は足を止め、それから俺のことを見遣って、また少女のように不自然に無垢な顔つきを傾けた。

「それはつまり、貴方のことですね」

 女はそうして、俺の方に足を向け、思わず動こうとした俺の足を踏みつけた。それからこちらにかがみ込み、黒い手袋をはめた恐ろしい手を俺の胸の上に置いた。俺が恐怖に身体を強張らせているのを、女は知っているようだった。俺にはもう、女の手を払いのける両手も、女の身体を蹴り飛ばす力もなかった。逃げ出さなければただではすまないという信号が頭をがんがんと、虚しく揺らして。

 女の指先に微かに力がこもった時、俺は、自分の体の内側、芯の部分が、みしりと音を立てるのを覚えていた。口が自然と開き、背中をのけぞらせる俺の「内部」がぐるりと変化しようとしていた。みじりと肉が動く音がし、俺の体の内側が、外側に、痛い、とても息などできない。喉から声など出ない。何が起こっているのか、わからない。けれど、俺の視界の下側、俺の胸が、腹があるあたりに、何かが、開いて。そうしているうち、女がその手を離した。

「ああ、なんて美しい彼岸の花」

 俺の視界が不確かにぼやけて捉えたのは、俺の内側から花のように開いて突き立った、肋骨の花弁たちだった。肋骨の両側ががばりと開いて、俺の着ている服を外へと押し拡げ、そこに花咲いている。息をしようとするが、筋肉を伴った身体がびくびくと跳ねるだけで、肺に酸素が入ってくるような感覚はなかった。今、俺の肺は、俺の身体は、どうなって。

「これでしょうか」

 女の手が、開かれた俺の腹のあたりを容赦なく突き刺し、痛みの海の中から赤く塗れた金属の塊を取り出した。それは、俺が飲み込んでいた、かすみの鍵に違いなかった。女は自分の上着に鍵を擦り付けて血を拭い、ゆったりとした動作でそれを懐にしまった。それから、床に倒れた俺に改めて気づいた、というようにこちらを向き、

「とても苦しそうですね」

 と、淡々と俺を描写した。何の言葉も返すことのできない俺は、その見下すような顔を睨むことさえできない。

「でも実のところ、私には、無力な人間の気持ちというのが、よくわからないのですよね」

 猟犬女は、その口元に手をやって話す。

「言葉の上ではわかっても、それが貴方にとって大きなものであると量的に示されても、それが私にとって、一体どのような重要性を持つのでしょう。私はそれを、私の手で測ったような実感的な重さとして、理解できないんです」

 そうして、女はゆっくりと俺の顔を見て、足を揃え、しゃがみ込んだ。

「だから、どうか教えていただけませんか」

 柔和な顔の中の翡翠の目が、にじり、と歪められる。

「今、どんな心持ちでここにいらっしゃるのか」

 俺の喉から微かに息が漏れ、けれどその息も続きはしなかった。女は未練もなさそうに立ち上がると、

「もう、喋れないんですね」

 と、表情のない声で言った。

「貴方とはもう、会話すらできない。言葉で理解し合うこともない」

 女は空を仰ぎ、俺たち二人を虫かごの外から見守ったままの蝶の白い囲いを眺めた。

「けれど、何も喋れなくても、貴方の苦しみを、私も少しは知っています。確か、そう、とても薄い本でしたが、貴方のことも読みました」

 それから、ああ、と思いついたような声を出し、そこに放られたままだった俺の本を拾い上げた。貧相で、誰にも見つけてもらえないような、ちゃちで地味で中身のない、俺の人生の記憶。女は、拾い上げた本を茜の本にしたのと同じようにぱらぱらとめくって中身を物色する。

「この本の最後のページには、貴方が私に敗北したことが書かれるのですね」

 心臓の音がする。痛みが全身に渡って肥大化して、それが痛みなのかもわからない。

「押さえつけられて、押し付けられて、締め付けられて、苦しいだけの人生でしたね」

 ぼうっと重たくなってきた瞼を無理やり押し上げ、俺は聞きたくもないのに必死に猟犬女の声を聞こうとしていた。

「素敵なご家族のために自分を殺して、殺すことが美徳だと思って、苦しむことが糧になると思って、自分の大事な人生を『人に苦しめられた』と思って生きて」

 女は俺の本に書かれた文面を流し読みしながら話し続ける。そうして紙面から顔を上げ、こちらを向いて、

「とても可哀想でしたね」

 と、心の底から同情しきったという具合の声を出した。

「でも」

 女は本を俺の血溜まりに放って捨て、またこちらに近寄ってきた。

「貴方の全てはここで終わるのです。貴方はここから先、歓喜も祝福もない代わりに、苦悶も悲壮もない暗闇に、落ちていくだけ」

 女は床に突き立ったままだった刀を引き抜き、俺との間にある最後の距離を詰める。俺、死ぬんだ。そう思った瞬間、俺の喉が、まだ息をしようとのたうつ。胸の中に意志の流れが湧き上がる。動け、動いてくれ、嫌だ、駄目だ、こんなのは。駄目なんだ。

「ですから」

 ぼやける視界の中に、朱色の明滅が信号のように灯っているように思えて、俺の身体を動かそうとする。

「もう、何ものも、恐れる必要はないのです」

 だめだ、だめだ、だめだ、俺はまだ、まだ、この舞台を、降りるわけにはいかないんだ。

 そのとき、不意にぐらり、と黒い影が空から落ちてきて、それが猟犬の頭にぶつかるのが見えた。女は不確かな視界の中で意表をつかれた顔をしているように見えた。奴は屈んで床に落ちたそれを取り上げ、見つめる。それは、何かの本であるように思われた。女は

「ああ、ほんとうに、腹立たしい」

 と悪態を付くと、それをそばに落として、俺の愛用の日本刀を俺の心臓に向かって構えた。死ぬんだと思うと、視界はやがて何を見ているのかもわからなくなって、痛みはどこかに流れていき、頭の中にありとあらゆる記憶がぽつぽつと浮かんでは消えた。その記憶の合間を縫うように、やけに冷静な思考が通っていく。

 これからしばらくしたら、茜はきっと、あの引き出しを開けて俺の鍵をその額に掲げることだろう。俺が残した何か、儚く消えた記憶の集大成から排出されたその断片に、俺の苦しみを、痛みを、嘆きを見るのだろう。ただし、「彼女が殺した人間たち」のひとり、つまりは、彼女の苦しみ、罪の記憶のひとつとしてだ。俺という個人としてじゃない。そうしたら俺は、彼女が繰り返してきた、そしてこれからも延々と繰り返すであろう「あの」最低の計算式に並ぶ一つの「−1」になるのだ。俺は彼女にとって、数え上げられる罪の一つ、成し遂げられた復讐のひとつでしかない。

 猟犬女の声が遠く、

「さよなら、貧しき人よ」

 と、俺の耳に届く。俺の思考はそれでも俺を先へと連れて行った。

 俺は多分ずっと、誰かにとって調和をもたらすような、決定的な人間になりたくて、でも、そんなものには到底なれないような気がしていて。そういう不足感が、彼女の感情の渦に揺られて、深い沈黙の底から起き上がって、俺の意識の表層へと浮かび上がってきたのだ。彼女を助けられるのは俺だけだと知って、もしかしたら俺は彼女にとって決定的な人間になれるのかもしれないのだと、夢を見た。そう思い念ずるほどに、彼女を支配するこの惨状をなんとかしてやらねばと心は燃えるようだった。あのとき、部屋に入った瞬間、俺のことを待ち構えていた彼女の、不安と怯えに満ちた瞳の据わり方を見た時、感情はとうとう耐えられなくなった。ああそうだ、恐ろしくエゴイスティックで自慰に似た、醜悪な自己愛でもって、俺は彼女のことを、俺のことを確定してくれる決定的な要素として見出し、彼女に対して耐えられなかったのだ。

 でも、彼女のためなら死んでもいいと、報われなくてもいいからなんとかしてやりたいと、俺は彼女のためにここにいるのだと思えたあのきちがいじみた衝動というのは──俺自身のためには死ぬことのできなかった俺が、死んでもいいからなんとかしてやりたいと思ったこの向こう見ずさは──「愛」じゃなかったのだろうか。俺の精神を恐ろしく高尚にし、力強くそして無謀にした、この誤りのないおそろしく澄み切った意志が、愛というものなのではないのだろうか。俺は、俺の心の奥深く、きっと生まれた頃から持っていたに違いない、その聖なる素質をとうとう自ら腹の底から抽出し、手に入れたように思われた。そうに違いないという感覚に酔っていた。けれど。

 微かに残っている視界の中に、まっすぐこちらを向いた銀色の直線が降りている。

 そんなものが何だっていうんだろう。それは、実のところ彼女から求められてもいなかったし、そもそもとして、彼女が俺にとって決定的であろうと、彼女にとって俺はそうではなかったのだ。俺が独りで正義だとか愛だとかそういう名をつけた一種の錯乱に、自分で崇高な美しさを見出し、魅せられ、酔っていただけで。俺の世界は徹頭徹尾閉じていた。閉じた世界の中でなら幾らでも心地よくなれる。でも、ひとりで空想に耽っていただけで、そこに内実はなかった。俺と彼女の間に、心の交わりなんてものは、実際のところ、ありはしなかったのだ。俺がただ、独りで熱くなっていただけで、彼女も内心目障りだったんだろう。ほんとうは、俺に食い下がられて、一時の気の迷いで心のうちを明かしたのだ。それなのに、俺はそうとは思わないで狂ったように喜んで、涙が出るほど彼女を哀れんで、助けてやりたいなんて喚いた。ああ、ひどい勘違いだ。馬鹿みたいだ。思い上がりだった。俺は彼女のことも救えなかったし、俺自身のことも救えなかった。俺ってのは、ほんとうに。

「貴方は、幸いです」

 俺の目は苦痛にぼうっと見開かれて、何もできないまま、目の前の光景を眺めていた。女の手に握られた刀の先、銀の色が、落ちていく。

「笑止千万な人生ですこと」


***


 猟犬が立ち去った後、床に広がった血だまりは、彼女が踏み荒らしていった時に蹴散らされた形のままそこにあり、その中央で、彼は書架にもたれかかるようにして倒れていた。開かれた腹から突き出た赤い骨は星の降り注ぐ空に開かれて、彼が求めて止まなかった光を今尚探し求めているかのようだった。けれど、その心臓には彼自身が携えていた美しい銀色の刃が突き立っていて、必死に口を開けたまま固まった顔をしている彼の息の根を確かに止めている。自身の血で粘ついた前髪の下で彼の目は虚ろな悲しみに凍りつき、その頰には涙の跡が貼り付いていて、その顔は未だ、目の前にいた敵の影を見つめ続けているのだった。


***


 彼女は弾かれたように顔を上げ、その朱色の両目で部屋の中を見回した。いつもの自分の部屋だった。膝を抱えていた腕を解いて、そのままベッドの端まで身体をにじらせて進むと、音を立てないように床へとつま先を下ろし、無意識にドアのほうを見た。廊下からは何の音もしなかった。そうしてドアをまっすぐ見据えるように立ちながら、彼女は自分が今まで何をしていたのかを忘れてしまっていた。この部屋の中にじっと潜んで、私は何を「待っていた」のだろう。そう、まるで、何かを待っていたかのような、奇妙な空白の感覚が、彼女の内臓の詰まった腹の辺りをたしかにきしきしと痛ませているのだった。けれど、彼女は何者も待っていないのだった。人々の立ち去った、閑散とした街の中にある、人のいない寝室でのことだった。彼女は横目にストーブの火を見て、静かにそれを消した。それからベッドに戻って、布団を身体にかけ、眠ろうと努めた。けれど、例の内臓の痛みが、悲しみの実態も持たないのに止むことなく彼女の身体中をむしばみ続け、涙は出ないまでも苦しくて、彼女はとうとう眠ることができなかった。

 彼女はベッドの上に起き上がってため息をつくと、化粧道具を入れた箱の横で置物になっていたランプの中の蝋燭に火をつけ、寝間着の上に外套を羽織って部屋を飛び出した。仲間連中も皆揃って寝静まった館の中を歩き回り、彼女は、自分の心を埋めずにいる何か「欠けたもの」を探して、音のない夜の中を歩いた。いつも上り下りする階段、しばらく立ち入っていなかった食堂、いつもの洋間、女主人の部屋へと続く廊下──見慣れた景色の中を、頼りないランプの灯りで照らしながら目を凝らし、くまなく歩き回った。けれど、その「欠けたもの」はいつまで経っても見つからない。

 彼女は何か大きな理りのようなものに突き放された気分で、ふらふらと月光の差す中庭に躍り出ると、要らなくなったランプをそばの地面に置いてしまい、ため息をついて庭中を眺めやった。夜の間に庭師が入ったばかりの庭園は美しく整えられ、そこには冬の持つ美しさの全てが揃い尽くし、並べ上げられているようだった。そのときふと、遠く椿や柊の茂みの奥に、何かがいるように思われた。そして、彼女には、その何かが、ちょうど自分が探していたもののような気がするのだった。彼女の足は自然と前に進み出し、敷石の上を渡っていき、その耳には草花の震える音のひとつひとつが聞こえていた。胸騒ぎが彼女の歩を急がせ、彼女は前のめりになって茂みの前までやってくると、思い切ってその奥を覗き込んだ。けれどそこには、何もなかった。薄暗い影の中に、葉の隙間から刺した月の光がぽつぽつと落ちているだけだった。彼女の心はひどい喪失感に満たされて、しばらくの間両足は動かなかった。彼女の頭の上をちぎれた雲がいくつも通り過ぎ、月の光が和らいではまた降り注ぐのを何度も繰り返したが、結局、彼女には、自分に何が欠けているのかわからなかった。何かがきっと足りないような気がするのに、それが一体何なのか、そしてそれは本当に欠けているのかも定かではないという虚しさが彼女の胸にぐったりと垂れ込めた。そして、得体が知れないが故に、決して埋まることのない不可知の寂しさに耐えきれず、彼女はそのまま月の光から隠れるように茂みの中にしゃがみ込み、顔を覆って泣いた。

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