29話 死すべき御供か裁きの人世

 どうして裏切ったんですか。声にならなかったその言葉が頭の裏に焼き付き、痛みが滲んでくる。俺は青緑の扉の前から動かないまま手のひらの上の鍵を見つめ、その持ち手の切り抜き模様の奥に見える手相のひしめきをじっと見つめていた。

 息を吐いて鍵を握り、見てきた記憶を頭の中でまた再生しようとする。冷え切った石畳の上に流れ出す赤く黒い熱量。あの記憶の中で石畳の上に横たわり市井を見上げていた身体の持ち主、つまり俺が追体験した記憶の持ち主は、真木に違いなかった。俺はあの記憶を自分の感覚として追体験しながら、俺自身が真木と言う人間であることを当然に知っていた。

 しかし、こうしてみると、ぞっとするような事実が浮かび上がってくる。頭の中を整理しよう。市井と華屋の仲が悪いというのは、既に知っていた。奴が華屋を出禁になったってことは、奴が昔何かやらかしたのは間違いなかった。知っていた。俺だってそこまでは知っていたのだ。だが、「裏切った」などということは知らなかった。「裏切った」。俺はそこで深く息を吸い、考える。奴は元々華屋にいた人間、もとい、ひとでなしだったのか。俺は市井のことを「華屋に因縁のあるチンピラ」くらいにしか思っていなかったから、かなり混乱した。だが、市井が「奴」を裏切ったということは、やっぱり市井は華屋にいたんだってことになる。市井は昔、俺と同じようにして華屋の刀持ちだったってことなのか……? 俺は、市井が真木と肩を並べて街を闊歩する様を脳裏に思い描こうとするが、その賑やかな情景に、先ほど見たばかりのどす黒く濁った赤色がべったりと上塗りされる。仮に俺の思った通りの過程を経て今があるのだとして、市井は奴らを「裏切った」。

「まだ信じています」。真木は口の中でそう言った。恐ろしく切実で悲しい「声音」だった。気持ちの悪いほど並並ならぬ敬愛のようなものが込められた台詞だった。それだけの関係がありながら、ああして奴が市井に刺され冷たい石畳に転がるあのシーンに至るまで、あいつらの間に一体何があった?

 そこまで考えて、俺は無人の廊下でひとりかぶりを振った。いや、人様のことまで心配してる余裕なんざ、俺にはない。俺が今、このちんけな脳みそ振り絞って考えなきゃならないのは、俺自身どうやって生き残るか、ただそれだけだ。他人の諍いなんざ知ったこっちゃない。知らなくていい。どうぞご勝手に、だ。

 ふっと吐き出した息が、廊下の暗い壁紙の前景で白くたなびくのが見えた。肩で息を吐き、それからまた夜気を吸い込んだ時、喉の奥がぴりりと痛みを伴ってひりつくのを覚えた。乾いた冬の空気だ。俺はそこで、自分が生きているのを確かめようとするみたいに声を出した。

「華屋の奴らは口を割らない。皆、茜の味方だ」

 まるで事実を確認するように、状況を整理するように、手札を確かめるように、俺は、俺自身の声が廊下の天井にぶつかって跳ね返ってくるのを待っていた。俺は洋館の中の物音に耳を澄ます。指の先がびりびりと痛む。そうだ、俺の身体にはまだ、確かに熱い生き血が通っている。

「華屋の事情を知っている、けれど華屋の人間じゃない奴に、会わなくちゃならない」

 その通りだと俺はよくわかっている。それを今確かめている。相変わらず肺を締め付けるような圧迫感と、脳に酸素が足りないような閉塞感は立ち込めたままだが、俺の頭はまだ回っている。俺にはまだ、手持ちの駒がある。俺には、勝機がある。

 会いに行ってやろうじゃないか。


 ここに来て最初のとりものを味わった後、市井の住まいについて茜に尋ねたことがある。あの男は寂れた灰色の街並みの中にひっそりと住んでいるという。市井は俺にとってよく知りもしない男に過ぎなかったから、華屋の誰もがあれを警戒しているらしいというのは不可解で、謎めいていて、その上何か触れてはならない禁断の匂いがするのだった。「あの男の名前を高峯の前で口にしてはいけない」。それが華屋の暗黙の了解だ。興味を惹かれないわけがない。茜に教えられた奴の住まいがある区画を目指しながら、「あれを信用しないことよ」と言っていたときの茜の顔が思い出される。忌々しげな、嫌悪に満ちた怒りの表情。今となればあの時の茜の言動にも納得がいくわけだ。茜だけじゃない。華屋の全体が市井に対して敵意を持っている感じだ。そうすると、奴のことを「信じている」らしい真木は、華屋の中でもかなり例外的だと思っておけばいいのだろうか。ああ、よくわからない。だが、とにかく、俺もとうとう娼館に渦巻く怨恨の「核」って奴に触れちまったってわけだ。知りたくもなかった憎悪の塊に……。

 そして俺は、目下「華屋の敵」であるはずの市井そのひとに、これから会いにいく。これは飼い主への反逆に当たらないだろうか、という疑問にぶつかって、俺は腹の中が寒くなるのを覚えていた。だが俺はそもそも、華屋に反逆するどころか、俺を殺そうとしているこの世界自体に反逆しなくちゃならない。こうなったら生きるか死ぬかの問題なんだ。どこを敵に回すかなんてことはもう、取るに足らない。そんなことを気にしてる場合じゃねえんだ。

 用心深く表通りを外して電波塔の下まで来た。薄明るく青の透ける夜空に、鉄の柱の重なりが黒くでかいそのナリを刻んでいる。真人間の追い出された朝八時の掃き溜めだ。市井だってもう眠っちまってるかもしれない。そうだ、そのあたりのことを何にも考えずここに来ちまったな。冷静じゃなかった。そう思いながら、頭の重さでぐらつく身体を支えるようにして、戻れない足を前へ前へと踏み出し続ける。刺すように冷えた夜気が上着に包まれた身体を凍えさせる。心細さに、俺は服の生地ごと鍵の入っている左胸を握りしめた。大丈夫だ、俺はまだ、この舞台の上にいる。

「俺はまだ、君をこの世につないでいる」

 そう口に出した言葉が、誰かに聞かれているとは夢にも思わなかった。

「このあたりに医者はいないぞ」

 はっと顔を上げるが、すぐに姿を認めることはできなかった。左胸を握りしめたままの俺が声の主を探していると、びたりと動かない視線が闇の中から注がれていたのに急に気が付いた。月の光の届かない、無人のアーケードの下、まるでこの世のはじめから居たかのような風情でもってじいっと立っていた市井は、俺の心の緊迫には一切動じることなく、こちらを見つめ続けている。背格好や声の聞こえで奴だとわかったが、奴の顔にはどす黒い影が落ちていて、どんな面持ちでこちらを見つめているのか、どうにも計りかねた。それでもただじっと、薄闇の中から奴の二つの目が俺のことを変わらず見つめているのだけは確かだった。月の光の下に間抜けに身を晒す俺は、自分の足の動かし方を忘れていた。

「お前、自分が今どんな顔をしているのかわからんのだろう? ひどい顔だ。今にも死にそうって感じだぜ。鏡を見た方がいい」

 そう言った市井は、まだ動かない。じっと、確かにそこに立ったまま闇の一角を占めている。黒くぼやけて見える奴の体の輪郭が、しかし確かに俺の視界の中央に泰然と居座っているのがわかるのだ。奴に俺への殺意はないらしい。殺す気は無い。その気があればこの距離になる前に俺の方が気づいていたはずだ。だが、俺は知らぬうちに奴の射程に入っていた。だから、奴に殺意はないのだ。けれど。

 奴がそこにいる、という絶対的な存在性が、その得体の知れないものの持つ妙な重々しさを俺に覚えさせていた。

 下手なことをすれば「何が起こるかわからない」、何も見えない闇の中に足を踏み出すことになりかねないという、底知れない未知への不安、掴みどころのない恐怖が俺と奴の間にぐったりと横たわっている。俺は今、慎重にならなくちゃならない。慎重に。俺がじわりと足を動かすと、靴の底を砂利がざらりと擦る微かな振動の全てが、やけに生々しく足裏に伝わってくる。

 俺は奴に気取られないように喉の奥で深く息を吸い、それから吐いて、自分の喉に声を震わせるだけの余裕を作った。

「話を、聞きに来たんだ。あんたに教えて欲しいことがある……」

「話?」

 市井の声は抑揚を持っていながら一定で、奴のいる影の中からまっすぐに繰り出される。俺は後ずさりそうになる足を頑としてその場に貼り付け、奴の顔の中にあるはずの目を探し、影の中に目を凝らす。

「話だ。あんたに聞くしか無い話がある。聞かせて欲しいんだ」

 市井の影の輪郭が僅かにに揺れるのが見えた。それは承諾の証か、それとも拒否を示す仕草なのか、俺には計りかねた。けれど、今の俺は目の前のこの不気味な闇の底のような男にかけるしかない。俺は乾きかけの口を開く。

「……あんた、昔、華屋にいたのか?」

 俺のその問いが、ぴいんと張り詰めた夜の空気の底を打ち、遠く空を劈くような鳥の声が、甲高く、軋むように鳴った。市井の肩が微かに揺れ、その影がぐらつくと、とうとう奴の姿が月の光の下に顕になった。こちらに一歩踏み出した市井は、金色の目の奥から俺のことを見つめている。俺が思わず腰の日本刀に手をかけそうになったのを気にも留めず、市井は引き結ばれた唇をじわりと開いた。

「どこで知った?」

 思わぬ問いに俺はしばし逡巡したが、自分の知っていることを馬鹿正直に開示するってことが、必ずしも得策じゃないってことは、わかっていた。書架の空間のことはまだ誰にも喋っていない。そもそも、信じてもらえるかもわからない。こいつの素性も知らない。知っていることをべらべらと売り渡すべきじゃない。きっと、口を噤んでいたほうがいいんじゃないか? 俺は奴の金色の目をじりじりと睨み返しながら、慎重に口を開いた。

「……別に、噂に聞いたってだけだ」

「噂ねえ」

 市井は目を細め、俺の顔をじろりと見た。

「それで、仮に俺があそこに居たとして、お前は何が知りたいんだ」

 市井は余裕綽々といった風情で腕を組み、日本刀を携えた俺のことを見ている。奴は確かに武器を持っていないように見える。だが、俺の奇異の力を働かせる限り、俺が今奴に斬りかかったところで勝算がないのは確かだ。俺の「感覚」からして、この予測は間違っていない。肌のぴりつき具合でわかる。俺は乾いた歯の裏側を舌で濡らしてから、また口を開く。

「茜の、ことだ」

 市井は表情を変えない。俺は言葉を続ける。

「あれがどんな女なのか、教えて欲しい」

 そこで市井はひとつ笑い声を漏らした。

「そんなもん、俺よりお前のほうが詳しいんじゃねえのか? 俺は幸いあれと寝たことがない」

「そういうことじゃない」

 奴の冗談じみたはぐらかしに肩透かしを食らいながら、俺はそれでも奴の目を睨み続けた。

「じゃあ、なんだ」

 市井は目を細め、俺のことを見つめている。腹の底に微かに苛立ちを覚えながら、俺は口を噤み頭を少し冷やすことにした。こいつがどんな奴だろうが、俺が持つ手がかりはこいつだけだ。この命綱を慎重に手繰らなきゃならない。うまく、利用しないと。

「俺、俺は」

 息を吸うと、喉の奥が乾いているのが分かる。肩が凍えるように震えている。俺は自分の靴の先に目を落とし、ぐっと生唾を飲み込んでから頭をもたげ、俺の言葉を待っている市井に向き直った。

「俺が、彼女に殺されるってのは、どういうことなんだ」

 空気がひりついている。遠くで金属がきしむような音がする。薄く霞んだ遠景と、黒い無人のアーケードを市井が背負っている。

「ああ、なんだ、もうそこまで知っているのか」

 俺の喉がひくりと息を吸った音を、奴の低く穏やかな声音が押しつぶした。

「それ以上、知りたいか?」

 市井の口の端から微かに白い息が漏れ出て、奴の体が俺と同様に人間の生体だということを、俺はついに思い出した。色味のない月の光の下に確かに立ち上がる男の長身は、どこか遠く見えて、けれど確かに俺と同じ地面の上で、今、俺のことだけを見ているのだ。その同じ地平の上で、市井の目が苛立ったように歪む。

「答えろ。お前は、ほんとうに『知りたいか』?」

 試すような市井の目は据わったまま俺を射抜いている。奴がこれから語る揺るぎない事実が、俺にとってあまりにも不都合なものであるということを、その目が予告し、釘を刺している。知らない方がマシなことをこれから聞かされる。間違いない。けれど、けれど俺は知らなければならない。そうしなければ、俺はこの掃き溜めで生き残れないのだ。不動の眼差しで俺の反応を待ったままの市井を正面から睨み、俺は一言、

「知りたい」

 と言った。

 かすれた声が喉の奥でなって地面に跳ね返り、確かに市井の元に届くのがわかった。市井は頭を振り、かったるそうにまた俺へと視線を戻す。

「『どんな女か』と聞いたな? 俺が知る限り、あれは『悪』そのものだ」

 市井の声が、俺の耳の横を通って背後に消えていく。

「あの女の異能は恐ろしい」

「恐ろしいのは、知ってる」

「知ってるって? 何にも知らねえからお前はここにいるんだぞ」

 市井は呆れたような顔をして頭を傾けた。

「お前、あの女の異能を緩和剤かなんかだとでも思ってんじゃねえだろうな?」

 だとしたら間違ってる、と市井は付け足し、その冷たい表情の中で一度閉じた口がじわりと開く。

「あれは女郎蜘蛛だ」

 市井は俺の耳にべたりとなすり付けるような具合に「女郎蜘蛛」の字面をなぞって低く声を出した。

「あの女はな、男を惹きつけ、捕らえ、餌をやり、自分なしでは生きられないように毒してから、ひとりずつひとりずつ、じっくりじっくりその魂を食らっていく」

 薄暗いアーケードに、市井の影が幽霊のようにぼやけて伸びている。

「あの女に毒された男は、最後は何があっても抗えない。死ぬとわかっていようが、自分の安全の欲求なんかよりも先に、『あの女を満たすため』持つもの全て、真に全てを──命までも──支払うことになる」

 市井は俺に向けていた嬲るような目線をそこでふっと落として、口から大きく息を吐いた。

「そういうことだ。お前が死ぬっていうのはな」

 それから市井は、話は終わったと言わんばかりに口を閉じ、返事をしない俺のことを目の端で見ている。俺は、今しがた聞いたばかりの市井の言葉を頭の中で繰り返し、自分の脳になんとか覚え込ませようとしていた。だが、全てを飲み込みきれない。俺が、「命までも支払うことになる」。市井はそう言った。俺の口の奥からたどたどしく言葉が漏れる。

「抗えない、っていうのは」

「文字通りだ。あの女の肉壁になって死ぬ、あの女を逃がすため、死ぬとわかっていて敵の前に置き去りにされる、枇杷が『その男を囮にしろ』と言えば茜は男にそう命じるし、どんな絶望的な戦局だとその男がわかっていようが、男の身体はそこから動かない。動けないんだ。そう言う風にあの女に殺される男の姿も、死から逃れることのできない苦悶の表情も、心臓の奥から絞り出される絶望の慟哭も、俺は何度も見たし、聞いてきた」

 市井の喉の奥から途切れることなく紡ぎ出される凄惨な事実が、俺の心臓の動きの全てに絡みついていく。市井はそこで、だが、と一度言葉を止めて、それから勿体ぶって口を開いた。

「その男の具体的な顔というのを、俺はひとつも覚えていない」

 市井の淡々とした口調が、俺の心音と重なって腹の底に落ちていった。

「……知ってる、そんなことは」

 強がった自分の声が怒りと悔しさに震えているのがわかって、俺は自分の足で真っ直ぐ立っているために、握り込んだ手のひらの内側に爪をめり込ませる。だが、市井はまだ話をやめる気は無いようだった。市井が鼻を鳴らすのが俺の耳に届き、俺はくらくらする頭を上げて奴の目を見た。全てを見通しているみたいな風情でその顔の中に据わっている、金色の双眸。

「お前、どうせ『先に』心臓を食らったんだろう?」

 奴の問いかけを解しかねて、俺の喉が不恰好に鳴る。

「『先』ってのはなんだよ」

「『名前を奪われるより先に』って意味だ」

 すぐに返答した市井は、俺が促さないうちから自分の言葉に注釈を付けだした。

「ここのひとでなしどもの多くは、揃いも揃って多大な物語というものを背負い込んでいる」

 市井がこちらに手のひらを差し出し、自らそれを見つめている。

「奴らはその人生自体が語られるに値する、生きながらの役者だ」

 市井はそこで自分の手のひらからこちらへ視線を上げる。

「だが、『そうではない者』には、物語を与えてやらねばならん。何らの大した物語も持たない者に、物語を与えねばならない」

 市井の言葉はまっすぐ届く。奴が話しかけている相手は、奴の目の前にいるこの俺に他ならない。

「お前は語るべき物語を持たない男だろう? だから物語と心臓を与えられた。お前のところの女主人は、何も持たない凡人から名前を奪い、心臓を飲ませて役者にする。かわいそうに、お前はあれに名を名乗っちまったんだな」

 奴の言葉の全てを理解できないまま、俺の口は戦慄くように開いていた。名前。高峯に名を名乗った覚えなどない。だが。俺は高峯に取られて捨てられた自分の財布のことを思い返していた。俺の保険証が入っていた、行方知れずのあの財布──。

「名乗った名前は戻らず、お前の人生も戻ってこない。それがどんな人生だろうがな」

 俺の回想の中に市井の声が割り込んで、俺の脳はいらいらとぴりつき、口をついて脅すような声が出た。

「俺の人生に、『大した物語がない』って、あんたは言ってるわけか」

「事実だろう」

 市井の声音は淡々としている。

「だから物語を求めてこんな街に来ちまった。違うか?」

 奴の目をまともに見返すと、市井は実験動物を観察するような顔つきを変えていなかった。

「お前の人生にケチをつけてるわけじゃない。平凡な人生ってのは、そうじゃないやつが望んだって与えられるもんじゃないからな。お前はお前の平凡で平穏な人生を誇ればいい。まあ、もうそこから転げ落ちちまったんだろうが」

 市井は何の感慨もないというような口調でそう宣った。

「安心しろ、お前の席に座る奴は皆、心臓を飲まされてからひとでなしになる『凡人ども』だ」

「……なんであんたが、そんなことを知ってんだ」

 俺の言葉に微かに眉を上げ、市井は端的に返答する。

「あの女から直接聞いた。『自分が殺すのはそういう人間ばかりだ』ってな」

「茜がそう言ったのか」

「少なくとも俺は、そう聞いた」

 市井はすぐさま、あの女はな、と言葉を続ける。

「相手が死んだところでなんとも思わん。なんとも思わず殺して捨てる。相手がどんな人間だろうが、一つの漏れなくあっという間にお払い箱だ。お前も、あの女の足元に積み重なる死骸のお仲間になるために、ここで一生懸命生きてるってわけだな」

 市井はそこで、諦めたように笑った。何も言えずに立ち尽くす俺のことを眺め、奴は一言、もう十分だろう、と零して目を伏せ、間を置かず金色の眼差しを再び俺に振り向けた。

「まだ知りたいか?」

「まだ隠してることがあるのか?」

 俺の口調は噛みつくような色味を帯びていた。

「隠す? 隠れてるものを掘り出さねばならんほど、自分が博識だとでも思ってるのか? 学者先生」

 俺は発すべき言葉をひとつも見繕えないまま、頑として奴の顔を睨み続ける。そうすると、市井はひとつため息を吐き、

「立ち話を続けるには口寂しいな。お前、煙草を持っているか?」

 などと言いながら自分の上着のポケットを探って、おどけたような調子で何も持たない手を出した。俺は懐から潰れた煙草の箱を取り出し、舌打ちを噛み殺しながら奴に向かって放ってやる。市井はそれを受け取り、ひしゃげた箱をじろじろと見てから一本取り出し、口に咥え、図々しい面持ちで

「火は?」

 と俺に問うた。俺はますます苛立ちながらも、胸ポケットの一番奥に鍵と一緒にしまい込まれていた例のライターを掴んで、半ば投げつけるように市井へと放った。市井は煙草を咥えたままそれを受け取り、ライターの銀色の体躯にまじまじと目を凝らした。それから間も無く、奴の口が笑みに解けた。

「やっぱりお前もこれを使ってるんだな」

 市井は煙草を咥え直し、俺のライターでその穂先に火を点けた。

「何が言いたい」

 市井は目を伏せて煙を深く吸い込みその身にうち流してから、目を開け、煙草を手にとって煙をどっと吐き出し、月光の下にてらりと煌めくライターの面を眺めている。

「これを何だと言われて渡された」

 市井が独り言のように呟いたその問いに、俺は口の中でもごもごと答える。

「ただ、『持っていろ』と……」

「ドッグタグだ」

 俺がはっと息を吸い込み切る前に、市井はわかるか? と言葉を継いだ。

「お前が焼かれようが、粉微塵にされようが、執念深く顔を潰されようが、お前の懐からそれが出てくりゃあ『お前だ』ってわかるってわけだ」

 市井は手の中でライターをくるりと回して弄び、それから俺に投げてよこした。前に足を踏み出した俺の手に収まった銀色の塊は、不気味な重さをもってぎらぎらと輝いている。

「知恵だよ。長年かけて作り上げられた、人間のな」

 奴に吐かれた煙の向こうに、その金色の目が居座っている。

「少なくともお前より前の男たちは、『そういう風に死んできた』」

 流れ去った煙の向こうに、煙草の穂先が赤く燃えている。

「お前と同じ運命を辿った奴らはみんなそれを持っていた。お前はその『伝統』を受け継いでるってわけだ。ありがたい話だろ? その白銀の表層の一枚奥には、奴らの血が塗り固められて幾重にも歴史の層を成している」

 奴が手を下ろす動きに、白い煙がたなびきながらついていった。

「お前も近いうち、その『層』の一枚になる。そんで、お前の後の男もお前の上に重なり、その次の男も同じように重なり、それが延々と繰り返されるうち、その一級品は増して重く厚く堅くなる。なあ、どうだ? ぞくぞくするだろう? 時間の重みってやつにな」

 俺が見下ろした手の中のライターには、蓮の花の文様が彫り込まれて、俺に気味の悪い微笑を返しているようだった。この文様の凹凸をなぞったであろう誰かの手垢が、文様の凹みの再奥に今尚こびり付いているのだ。俺はその文様の中の黒ずみにぞっとし、手の内にあったそれを石畳の上に放り出した。ライターは硬い音を立てて石畳の上に転がり滑って、数歩先の凹みで止まった。

「だが、お前はどうやらその『多層ども』とは少々違うようだ」

 俺が奴の声に顔を上げると、奴とまっすぐ目が合った。

「俺がお前に教えてやったことを生かして、お前は『上手に』生きられるかもしれん。知識は時に人を惑わすが、もちろん身の助けにもなる」

 奴は、半分が燃え尽きた煙草を手のひらに乗せている。

「その『知識』にこれだけ早く辿り着いたこと、今、それだけがお前を先代の屍たちと隔てる唯一のものだ」

 奴の手のひらの上で、赤く燃える穂先がほのかに光を放っている。

「その『諸刃の剣』を扱い損ねて己の身を切るか、それともお前の生きる道を切り開くか」

 奴の手のひらの上から空へと逃げて散り散りになっていく細い白煙の色を、俺の目は自ずと追っていた。

「全てお前次第だ」

 奴はそこでいきなり、火のついたままの煙草を握り潰した。

「上手に使え」

 市井が再び開いた手の内側から、押しつぶされて火の消えた煙草の燃えかすがばらりと落ちていった。奴の言葉の終わりと同時に、俺は自分がどこにいるのかを思い出した。俺の足の裏は硬い石畳の感触を捉えている。俺は市井の顔をしばらく眺めていたが、遠く聞こえる鳥の声の響きを振り返るように、踵を返す。奴の視線が俺の背中に刺さったままなのを意識しつつ、俺は人気のない寂れた街並みを怒ったように踏みしめて進んだ。薄青い景色が両側に流れて消えていく、冷気の中。

「おい、大事に取っとけよ」

 金属が擦れるような音に俺が振り返った時、反射的に構えた俺の手中に、銀色の重みが驚くほどぴたりと収まった。市井が地面のライターを拾い、こっちに投げて寄越したのだった。

「お前を殺すのもあの女かも知れんが、お前を弔ってやれるのだってあの女だけなんだからな」

 その言葉を残して市井はあっさりと俺に背中を向け、アーケードの真っ黒な影に再び溶けて消えた。


***


「どうして、ここに」

 まもるが、私の目の前に立っている。間違いなくそこにいて、紫色のあの目で私のことを見ている。彼は、間違いなくまもるである彼は、私に「話しかけて」いた。私の喉は勝手にひゅう、と息を吸う。

「あなた、声が……」

「やっぱり」

 まもるはそこでわあっとこちらへ駆け寄って、私の両肩を掴んだ。

「君にも聞こえるんですね」

 少し掠れて鼻にかかった男の人の声が、まもるの口から鳴っている。私がびっくりしているのを見て、まもるははっとした顔で手を離し、一歩、二歩と後ずさった。

「すみません、びっくりさせました」

 でも、とすまなそうに俯いたまもるは、こちらに目を上げる。

「ここで俺がひとりで喚いている限りは、俺に聞こえる俺の声が幻聴でない保証など、どこにもありませんから」

 ですから、ほんとうに嬉しくて、とはにかんだまもるは、声を出して笑う。それからまたぱっと顔をあげて、今度は困ったような顔をしてみせた。

「普段喋れないのは、ほんとうなんですよ」

 まもるは両手をもてあますように動かしつつ、こちらに一歩踏み出した。

「普段は、そうです……喉がうまく鳴らないような、言葉が、舌の上に乗らないような感じで……だめなんです。でも、ここに来ると」

 まもるは低い石の天井を見上げて、それからまた私の顔を見た。

「喋り方を思い出すんです。でも、喋れるときはいつだってひとりきりだ。そうしたら、俺が声を出してるかどうか、そんなことを知ってる人なんて、ひとりもいないでしょう? 俺自身、確かめられないんです。確かじゃないんです」

 でも、とまもるは私の目を真っ直ぐ見る。

「これからは君が証人ですね」

 いつの間にかぽかんと口を開けていた私は、我に返って、口の奥から声が流れるのに任せてしまう。

「そんな喋り方なのね」

 私の言葉にきょとんとしたまもるの顔を見て、私はびっくりしていた心がはらりと呆気なく解けてしまったのがわかった。そうすると、可笑しくなって笑ってしまう。

「ねえ、なんだかすごく変、へんね!」

 笑い声が胸の奥からころころ鳴って、困った顔をしているまもるがおろおろしているのが見えた。

「ごめんなさい、へんなのは私のほう。でもなんだか可笑しくって」

 口を覆って笑い声を抑え、私は大きく息を吸ってまもるに向き直った。

「すみません、俺も、これがぎこちないっていうのはわかっているんです。でも、これだと間違いがないでしょう? その、君に失礼があっちゃいけませんから」

「どうして失礼じゃいけないの」

 私がそう聞くと、まもるは見るからに困った顔をして、まごつきながら

「ああ、その……うまく言えませんけど」

 と話し始める。

「人間、乱暴な言葉遣いでは信用を失いますよ……。その気がなくってもね。そういうものです。俺はただ、とても慎重なんです。人間ができているだとか、そういうのではなくって……」

 まもるの自信なさげな声はだんだんしぼんで消えていって、その顔はといえば、まだ何か話したそうなのにどう話したらいいかわからないみたいにして私の方を見ているのだった。

「ああ、ええと、その」

 まもるは身体を傾けて、奥へと続く石のアーチの向こうを指した。

「奥には椅子があるので、よかったら少し話していきませんか?」

 それから、まもるは私が両手に抱えたままだった荷物に手を伸ばし、持ちますと言って、私が遠慮する間もなく鞄を受け取ってしまったのだった。


 まもるに連れられてランプの灯った石積みの地下を進み、その間に吉見たちとはぐれてしまったことを話した。

「ええ、いつもそうなんです。俺がここに連れてこようとしても、皆んなどうしても途中ではぐれてしまって」

 そう話しながら私の横を歩いているまもるは、へら、と柔らかく笑った。

「なので、君の方が珍しい。例外なんですよ」

 れいがい、と口の中で繰り返した私は、自分の靴の先を見つめたまま、まもるの横を一歩、一歩と進んでいった。


 薄暗い通路の奥の木の扉を開けると、そこは読書机のあるこじんまりとした居間だった。人の家の匂いがする。まもるは小さな肘掛け椅子を私に勧めて、それから自分は石壁の凹んだところ、小さな白い像の横に腰掛けて、私が座ったのを見るなりすぐに口を開いた。

「すみません、無理に連れてきてしまって、でも、その、ひとと話すのがとても久々で……俺、舞い上がっているんですね」

 早口でそう話し終えたまもるは、照れ臭そうにはにかむから、私はううん、と首を振った。

「私、あなたと話してみたかったの」

 思い切ってそう言ってから、自分のほっぺたがぱあっと熱くなっていくのを感じていた。そんな私のことを見て、まもるは嬉しそうに本当ですか、と笑った。

「俺も、君と話してみたかったんです。ええ、そう……話して、おきたかったことが」

 それからまもるは、いいですか、と私に問うから、私はわけがわからないまま、とにかくこくりと頷いた。そうするとまもるは、自分の指を組み合わせて膝の上に置き、私の目を覗き込んだ。

「君のご両親のこと、君自身はどう思っていますか」

 きょとんとした顔の私から一度目を伏せて、まもるは

「できることならもっと早く、この話をしておきたかった」

 と、独り言のように呟いた。

「もしかしたら、俺ではない別の人にもう言われたことかもしれません。でも、何度聞いたってきっと君のためになることです」

 ですから、と、まもるは切実なまなざしを私に向けている。

「制服を着た彼に君が一体何を言われたのか、俺はその全てを知りはしませんが」

 そこでまもるはひとつ息を吐いて、瞬きをした。

「君は、自分を、自分の生まれを、そして、自分の両親について、決して恥じてはいけませんよ」

 私は、自分の胸がぎゅうっとなるのを感じていた。まもるは言葉を続ける。

「彼らはこの帝都の世論においては決して許され得ず、許されないことによって、死して尚、罪の象徴として世間に尽くすのです。彼らの死は帝都の人間たちの記憶に意味合いを持って刻まれ、民衆の倫理や道徳を形成し、補強します。彼らは一種の法律となってこの国に尽くすのです。これからも、ずっと」

 言葉の途中からランプの灯りが写り込んだ床の上に目線を落としていたまもるは、それからまた私の方を見た。

「でもね、君の方がずっとよくご存知でしょうが、彼らは公の人間であるのみでは、なかった」

 まもるの紫色の目が、私の世界の真ん中にふたつ並んでいる。私はただ、彼の声を聞いていた。

「誰しも、自分以外の誰かのことをできるだけ単純に、わかりやすく、ことによっては戯画化して見ようとします。当たり前です。世界の全てを一から十まで受け取っていては、脆い人間など破綻してしまうでしょうから。だから、それは尊い人間の知恵なのですが、恐ろしい排斥と差別に繋がる悪徳の種なのです」

 そこまで話して、私が小さく口を開けているのを見つけたまもるは、しまった、というような顔をして決まり悪そうに頭の後ろをかき、またぎこちない様子で口を開いた。

「いいえ、つまり、俺が言いたいのは」

 それから少し迷うような顔をしてから、まもるは私の心の中を探ろうとするみたいに私の目を覗き込んだ。

「君はきっと、『親としてのふたり』のことを十分にご存知でしょう……?」

 私は、肘掛に置いていた自分の手を、思わずきゅっと握っていた。何も言わない私の中の気持ちを読み取ったみたいに、まもるはすぐさまこちらに身を乗り出した。

「たとえ、彼らのしたことの一部が、誰かの命を奪うことの上に成り立つ合理主義の悪辣さの表出だったとしても、彼らがそれを悪と認めながら実行していたとしても、帝都の人間たちが彼らを正義の名の下に裁き、君の両親が多くの人間の目には極悪非道の大罪人としか映らなかったとしても!」

 まもるはそこで息をついで、目元を泣きそうに歪めた。

「君というたったひとりを守るために、彼らが一体何度世界を敵に回したことか!」

 大きく響いたまもるの声に、まもる自身が驚いて、彼はあわてて浮き上がっていた腰を壁のくぼみに戻した。まもるはそれから俯き、小さな声で

「君がもしそれをわかっていないのなら、とても不幸だと思ったんです。それじゃ、そんなのじゃ、あんまりですから」

 と続けて、居心地悪そうに口を閉じた。

「……そんなことまで知っているのね」

 私の声が石壁の部屋に澄んで響くと、まもるはぱっと顔を上げてついに立ち上がってしまい、

「すみません、勝手に他人の口から、聞きまわったりして……。そうだ、君に直接聞けばよかった。それはごもっともですね」

 と謝るのだった。そうしてまた腰掛け、

「でも、君のことが知りたくて……」

 と言うから、私はどきっとしてしまう。

「ここに来たばかりの頃、君はどうにももっと頼りなくて、今ほどご両親の死から立ち直っていなかったでしょう……? そんなひとに、俺の好奇心を満たす、たったそれだけのために根掘り葉掘り聞くというのは、憚られました。いえ、これは聞き苦しい言い訳ですね」

 そうしてまもるは力なく笑って、それから黙ってしまう。私はまもると私の間に流れる音のない時間を聞いていた。ランプの中の火がゆらゆら揺れて、それに合わせて、床に落ちたまもるの影も揺れている。部屋の中は外よりも暖かくて、冷えていた手の先に温度が戻っていた。私は喉の奥にとどまっていた言葉を口に出す。

「父さんと母さんが、過ちを犯したのは事実よ」

 まもるの顔を見ると、まもるは驚いたように少し眉を上げていたけれど、すぐに優しい顔になって、でも、と声を出した。

「でも、その過ちだって、お二人だけの意志で成されたことではないでしょうね」

 私がまもるの目をじっと見ると、まもるはその優しい顔のまま、私が自分の言葉の全てをちゃんと聞き終えることができるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「あれには途方も無い数の人間が関わっていた。ご両親のような政府の関係者を含め、病院側の人間だってそうだ。官僚も、医者も、看護師も、あの政策について、それと知りながら黙認していた者は数え切れないほどいます。直接関わっていなくとも、もっと早く苦言を呈し悪事を止めるべき人間はいくらでもいました。けれど、皆それをしなかった。それだけの人間がそうしないでいて、自分たちの罪の全てを君のご両親に押し付けた。君の両親を人柱、生贄だと呼ばなければ、なんだということになりますか?」

 そこでまもるは息を吸い込み、私が尚も彼の顔を見つめているのを確かめる。

「数え切れない関係者の全てを全て処刑すれば、どれだけ巨大な死体の山ができることでしょうね。それらの全てが死刑に値するとも思えません。ですから、悪事の首謀者とされる君の両親の首でもって罪をあがなったわけです。合理的ですね。世間の怒りを鎮めるための生贄です。世間なんて、一体どれほどのものかもわからないのに」

 そこでまもるは何かを諦めたように少しだけ笑った。

「つまり、俺が言いたいことは……ご両親が亡くなったのは、何も正当なことではないっていうことです。あれは不当な死なんです。君は、誰かが君に説く君のご両親の死の『正当性』というものを、信じなくていい。いや、信じてはいけない」

 背中を丸めたまもるの影が、どこか物悲しそうに石畳の床に落ちている。

「ご両親が行なっていたのは、きっと悪と呼ばれる所業でしょうが、そうであるからと言って、彼らをただ『悪人』と呼ぶのは安直に過ぎます」

 そう言い切るまもるに私の胸はぐらぐらして、私は思わず、でも、と口に出した。まもるはこちらに優しそうなその顔を向けて、私が続きを喋るのを待っている。私の声は小さく震えている。

「悪事を犯したことは本当のことなのよ」

「でも、別に考えるべきです。もっと別の面からも、考えるべきなんです」

 まもるは両手を重ね直し、私に真正面から向き合った。

「彼らは死ぬべきではなかった。殺されるべきではなかった。少なくとも、彼らの人生の全てを『悪逆非道の大罪人』などというラベルで片付けてしまうのは、愚かですよ」

 まもるは辛抱強く私を見つめる。

「外の社会で生きる公の人間としての彼らと、親としての彼らは別物です」

 肘掛け椅子の中の私は、それでも彼の言葉を受け入れられないでいた。だって、それを受け入れてしまったら、私の中の何かが壊れてしまうような、そんな気がしたんだ。

「……許されない」

 私の声は怒ったように強張って、でも壊れそうに震えながら、まっすぐにまもるに届いた。

「そうでしょうか?」

 まもるは微笑んでいる。

「親が子を大切に思ってはいけませんか? 親が何よりも子を守るために身を尽くすことは悪ですか?」

 私が吸った息は喉の奥に落ちて、胸の中が澄んだ空気で満たされる感じがした。まもるに諭されるたびに私の中に染み込んでいく、胸が軽くなっていくような柔らかい感覚が、それなのに私にはこわくて、私はやっぱりまもるが言っていることを否定したかった。

「父さんと母さんは、特別だった。裁かれなくてはいけなかったの」

「いいえ、違います」

 そうゆったりとした口調で答えて、まもるは尚も微笑んだ。

「君の両親は君だけの両親ですが、彼らは親として決して特別ではありませんよ」

 まもるの言葉で、いつのまにかぐちゃぐちゃに絡まっていた胸の中の何かが、ひとつ、ひとつと解かれていくような気がする。この胸につかえていたものは、いつからこの胸の中にあったんだろう。

「親は、何物に代えても子を守ろうとする権利を持っている。法律上のそれではなくて、もっと根源的な、人間の生命というものに立ち返って立証される権利です」

 まもるは、ゆっくりとした声のままで言葉を続ける。

「多くの親がそうして生きています。なんとも不可思議で、社会通念上は不道徳にさえなりかねないことにね。君の両親もそういうひとたちだった。ほんとうに立派なひとたちです。君はおふたりに大切にされたでしょう。それは、君にだって、疑い得ないことなんじゃありませんか?」

 その言葉を否定する手立てなんて私にはなくて、私は唇を噛みながらも、小さく頷いた。まもるはそれを見て、泣きそうに微笑む。

「君は本物の愛情の元で育ったんですね。君が貰った愛情っていうのは、何にも増して誇るべき財産です。誰にも奪われ得ない、一生物の……君はそれをきちんと受け取ったんですね」

 まもるの言葉はじんわりと私の胸の中に落ちて、染み込んで、私は父さんと母さんの顔を思い出して、目の奥が勝手に熱くなって涙がこぼれそうになるのを堪えていた。まもるの言っていることはほんとうだ。だから、こんなに胸が熱くなるんだ。口元に手をやった私からそっと目を逸らしたまもるは、床を向いたまま話す。

「人間の悪の面だけを見てその人を裁いてはなりませんよ。人を裁くのは簡単なことです。けれど、簡単なことだけをするのは、愚か者のやることです」

 淡々とした言葉を終えて、まもるはまたこちらを向いた。

「君が与えられたような類の愛というのは、誰にでも与えられるものじゃありません。だから、どうか、大切にしてください」

「私」

 私が口を開いたので、まもるはひとつ首を傾げて、私の言葉を待っている。

「私、父さんと母さんを、愛していていいの……?」

 まもるの目が見開かれる。そうだ、私、ずっと不安だった。私は父さんと母さんと愛している。けれど、それがほんとうに良いことなのか、私はそんなことをしていいのか、わからなくなっていた。そして、罪を犯した父さんと母さんと愛して、それから父さんと母さんの子供である私自身のことを私が愛して良いのかも、私にはもう、よくわからなくなっていたんだ。まもるは少しの間びっくりした様子で固まっていたけれど、やがて、その顔に泣きそうな笑顔をいっぱいに浮かべた。

「ええ、是非そうしてください。そうすればご両親も浮かばれる。愛している、ということを相手に伝え、相手がそれを真正面から受け取ってくれたなら、ひとが生きた理由っていうものの大半は果たされるものです。いつだって。君の両親が生きた理由の大半は、君がそうしておふたりを愛し返すことで、果たされるんです。君は今、おふたりのことを救っているんですよ」

 まもるは嬉しそうに笑って、それから、その目にじわりと涙が滲むのが私には見えた。

「君は彼らの愛を覚えておかなくちゃいけません。他の誰が覚えていなくたっていいんです。君が覚えていれば、それで、それだけで」

 まもるの泣き顔を見ながら、私はもうはらはらと泣いてしまっていた。私の涙に曇った視界の中にランタンの光が黄色く滲んで、きらきらと光の粒が散らばっている。その煌めきの中央にまもるが座って、私に向かって微笑んでいる。

「その愛さえあれば、君はどこまでだって行けます。どこまででも。そう、ほんとうに、どこまででもね」


***


 そっと忍び込んだ華屋の中庭を突っ切り、俺は例の洋館を目指していた。頭はじんと痛んで重く、亜や市井の言葉がぐるぐると脳を巡って、耳から聞こえる音と、記憶の中の奴らの声が混ざり合い区別もつかなくなりそうだ。くそ、くそ、クソ野郎。俺は口の中で悪態をつきながら洋館の入り口にたどり着き、早足でロビーを抜け、階段を駆け上がる。廊下を迷わず右に折れて、自分の足音の間で自分の腹づもりを口に出し、なんとか頭の中を秩序立てようと試みる。

「俺は、ひとりで戦わないといけない。あの女と」

 頭の中にぼうっと浮かび上がる一対の朱色の瞳。俺に緩和剤を打ち続ける魔性の宝石。俺は、お前に使い古される馬鹿な犬なんかじゃない、俺はそうはならない。お前のために死んでなんか、やらない。

「俺には、『知識』がある……」

 上手に使え、と言った市井の声音を思い出す。狂いのない、澄み切った心を映した金の視線。ああ、使ってやる。誰よりも上手に、俺は「知識」を使ってやるさ。

 敵を殺すには、敵のことを知らなければ。

 俺は胸ポケットから取り出した鍵で、目の前の青緑色の扉を迷いなく開ける。


***


 宵の口、街に再び夜の帳が下りた頃。かの透明な人物は独り、そびえる黒屋根の上から市街を眺めていた。風の吹きすさぶ地上二十メートル。誰にも見つからないその場所から見えるのは、まるで落ちた星々のように瞬く、眼下の電灯の群れ。それら全てを生命の証と受け取って、彼とも彼女とも言い難いその人物は、街の灯りの中にしきりと何かを探しているようだった。

 何かが自分の元からなくなった。幾度覚えたかも知れぬそのぽっかりと捉えどころのない虚無感に慣れてしまう、ということが不幸にしてその人にはないのだった。きっと自分の元から誰かがいなくなった。けれど、この感覚もほんの数日で消えるものに違いない。消えてしまえば、この胸を騒がす喪失感も最初からなかったと同じだ。彼は飴玉のような目を遠方の景色に向けて、そのようなことを考えていた。形のない悲しみの水底にゆったりと沈み込み、漂い続ける余韻の波に意識を泳がせる。そんな彼のたった一人のセンチメンタルな舞台に、土足で踏み入る影が一つ。

「何の用かな? 『猟犬さん』」

 黒いコートのはためきがその目に入るや否や、枇杷は望まぬ来訪者を牽制する。くらりと立ち上がる彼の目線を真正面から受け止めて、裁判所の執行人は黒衣を揺らして瓦屋根にしっかと立ち、眼鏡の奥の両目は据わったまま、顔色も変えない。

「こんなところを女性一人でふらついちゃ危ない。送って差し上げましょうか? あなたの犬小屋まで」

 枇杷は眼前の猟犬じみた女、華をせせら笑い、それから目の端で退路を探す。彼がそれを見出し切らぬうちに、引き結ばれていた華の唇が不意に解ける。

「いいえ、結構。ご心配にはおよびません。自分の身を守る術は知っています」

 社交辞令のようなその文句で枇杷を睨みつける華を、枇杷は真っ直ぐ射抜き返した。

「そう……それじゃ、改めて問おうか。君は、僕に何の用がある?」

 枇杷がいつでも動き出せるようにつ、と微かに足を引いた。不気味に据わったままの華の瞳が、攻撃性を帯び始めた枇杷の顔を視線で殺そうとする。

「何の、用か」

 瓦の乾いた音が猟犬の足元で鳴るのを、枇杷の耳が拾う。風を受けて、華の花弁のような髪がはらりと揺れ、夜の空の手前でたなびいた。

「貴方が誰よりご存知なのではありませんか? ……私などより、ずっと」

 機械音のように正確な華の声が、感傷の空気の余韻を一つ残らずかき消した。

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